藝術の娯楽化時代


 音楽の演奏と皿廻しの曲蜃とは共に磨い意味での「肇」であり、廣義の奉術に属するだらう。だが我.々は、
普通に宰術といふ言葉を、もつと狭い意味に解繹し、何か崇高の感で考へてゐる。すくなくとも我々は、べ−
トーペンを拳術と言ふ意味で、皿廻しを奉術と呼ばないのである。皿廻しのやうな演戯は、狭い嚢術に封する
語として、普通に「娯楽演拳」と言はれて居る。そこで問題は、我々の所謂「嚢術」と所謂「娯楽演宰」とが、
どこでちがふかの考察に移つて行く。
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 奉術と娯楽演拳  例へば音楽と皿廻しなど  の相違は本質に於ける精神的な要素の有無にかかつてゐる。
すぺての娯楽演蓼は − 皿廻しでも、手品でも道化身振でも、曲馬や見世物の顆であつても  始めから感覚
的の興味を圭とし、その場だけの面白さで、一時を楽しましむるやうに出来上つてゐる。之に反して音欒等の
蓼術はさうした感覚的の刺戟の外に、何か或る別種のものがあり、意味が精神の方に訴へられる。だから音契
Fr
等の萌奏は、単にそれを聴いてる問の悦びでなく、後までも心に意味を残すやうな、ノ種の精神感的の魅力が
ぁるのに、皿鞄しなどの曲蜃では、畢に武豊に於で楽しまされる、純粋に感覚的の快楽しかない0す息その
「精神的なもの」は音楽や美術や、文学やの、我々の所謂蜃衝にのみ専有されてるものである0そしてこの難
から、一般に娯楽と肇術とが差別される。
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 蜃術と娯楽に於ける、この一つの分水線はど、はつきりとして解り易いものはない0茸に我々は、この;
の定規からして、過去に蜃術と娯楽とを識別し、セクスピアの劇場と猿芝居の見世物とを直別して来た0おょ
そ我々が、高級の意味で「奉術」と栴するものは、たとへ如何ほど感覚的手法の高調されたものであつても、
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表現の本質は必ず何かの精神的なものであつた。一方に娯楽的演肇の本質は畢純に感覚的のものであり、感覚
以上の精神感を持たないのである。故に或る種の娯楽演嚢 例へば濁柴廻しの曲蜃 などが、名人によつ
ての絶技からして、時に娯楽以上と言はれ蜃術の域に入つてると許されるのは、技蜃が畢なる感覚でなく、を
れ以上に何等か精神的の意味をさへ、深く感じさせる場合である絹本常には肇術でなくむしろ曲馬囲の娯欒演
季と目さるべき造化芝居のチヤツプリン等がしばしば大奉術家として許されるのも、その道他が単なる感覚の
興味以外に、別種の精神的な領域を示すために外ならない○すべての演蜃物は、それが精神的な要素を持つに
したがひ、次第に拳術としての許償を買はれる。反対に精神的な要素がすくなく畢純な感覚の方に下つて行く
時、益ヒ純一の意味での娯楽と見られる。
 かくの如くして過去に長く久しい間、我々は「宰衝」を「見世物」から直別して来た0そしてもちろんこの
一つの直別の上に、我々奉術家の誇があり、それらの曲奉師や見世物師と、同種属の「奉人」でないといふと
ころに、吾人の傷つけられない自尊心があつたのである。
 だが世界の償俺は願倒して来た。驚くぺきことには、今日もはやこの直別が、地球のどこかで失はれようと
JβJ文明論・杜合風俗時評

して居るのだ。何となれば今日世界の拳術は、次第にアメリカ主義によつて風靡され、そしてそのアメリカ主
義は、蜃術に於けるすぺての「精神的なもの」を完全に亡ぼし義さうして居るからだ。質にアメリカ人は、音
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楽をジャヅバンドの見世物的曲蓼にしてしまつた。彼等は拳術の崇高なる表現を、太鼓のバチのあやつりでふ
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ざけた太神楽に茶化してしまつた。そしてそのジャヅ音楽は、どこにも精神的な意味を持たないところの、単
純に耳の感覚だけを悦ばせる、一時的の娯楽演奉を代表して居る。
∫βイ

 文挙がまた、同様にアメリカ主義セジャヅ化して居る。欧羅巴の文明圃たる悌蘭西さへが、今日もはやその
「眞面目な文学」を失つちやつた。今日流行する文学は、菊の利いた機智で駄洒落と軽口をこね廻し、文学上
の太神楽をする文寧である。或はさうでなかつたならば、大衆にセンセイショナルな興味をあたへて、一時の
目先を感覚的に面白くする文学である。そして此等の文筆には本質的に精神的な要素が殆んどない。香さうし
た「精神的のもの」は今日に於て既に古く、時代遅れの文学原質とさへ考へられてる。資に世界の蓼衝は今日
活動馬眞の大衆的興味性とその畢一なる感覚要素の表現から全部を決定されてゐるのである。何物も、今日活
動馬眞ほどに新しく時代を表象してゐる拳術はない。そして活動馬眞の大衆的興味はその殆んど精神要素を持
たないところの、畢なる感覚刺戟の連績にある。同じ一つの理由によつて、畢鈍感覚の興味のみを本位とする
裸女のレビューの。類が、演蓼物の世界的絶決算になつて居るのだ。
 しかしながら今日、我々の中の 「古風なる自尊心」が、伶且尊大して垂術家の地位を高調して居る。我々は
 ノ般.の活動馬眞′や、寄席演蓼のレビューの顆を、今筒「蜃衝」 の外に白眼して、より低級なる 「娯架疎放撃」と
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考へてゐる。・今日八呵多くの自尊心を有する音楽家は、寄席に出て太鼓のバチをあやつりながら、盤丁曲蓼のジャ
ヅバンドをする連中等を、自分等の奉術意識から直別してゐる。彼等は今でもかう考へてる。「あの好等は番
人であり、自分たちは肇術家だ」と。
 だがこの事人と蜃術家、娯楽演蜃と蜃術との判別は、今日全く困難のもの忙なつてしまつた。あらゆる季術
は、今日その精神的な要素を失ひ、単に末梢神経の感覚上で、その場限りの快感と興味をあたへる、寄席演拳
的な大衆娯楽物にならうとしてゐる。音楽も、文学も、舞踊も、演劇も、資に一切の蜃衝がさうであり、世界
思潮のアメリカチハイに風靡されてる。今日言はれる「新しい蜃術家」とは箕に寄席の曲事師であり、視滴り
のダンサアであり、渡談と地口のうまい落語家である。そしてあの「眞面目腐つた」「季術家らしき蛮術家」
は、既にその古風の故に時代遅れで、十九世紀の情操感に姻されてしまふのだ。
 かうした新時代の可香について自分は善悪の批判を持たない。しかしながらとにかく自分は一つの事賓をよ
く知つてる。それはあらゆる拳術の傾向が、今日の坂を下りる如く、次第に娯楽演季の方に近く、接近して来
ると言ふことである。音楽と皿廻しの曲蜃とは、それほど昔に於てちがつたものであつたけれども、今日の新
しいジャヅバンドで、如何にそれが混同して来たかを考へてみょ。娯楽演拳といふ言語すらが、今日もはや奉
術の封照でなく、それと同質無差別のものにならうとしてゐる。ただ娯楽演季の部類の中でも、比較的低級な
大衆に悦ばれる、趣味の下等な部類のものと、より高級な趣味性に向くものとの、程度上での差別は有り得る
だらう。そこで奉術に於ける高級償値と低級償俺とは、ただこの鮎の比較でのみ、未来の等級を持つにすぎな
 ヽ 0
ヽhY
 しかしながら果して、これが拳術の正しく行くべき道だらうか? そもそも蜃術の高い意義は、畢に感覚的
であり、意味が感覚上の一時的快楽に止まるやうな娯楽演蜃の顆にすぎないことで、異に満足さるぺきものだ
jβ∫ 文明論・敢曾風俗時評

らうか? もし眞にさうだつたら、我々は今日でも屑く蜃衝家の誇を捨て、寄席蛮人の軽業師にでも樽業しょ
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う。だが我々は疑問を持つてる。確信して言ひ得ることは、今日の世界が季術の呼び醒まされた過渡期であり、
肯き俸統の破壊されて、新しき創造の生れょうとするところの新時代の黎明であるといふことである。
 それ故に我々は、むしろこの段落する者を蹴つて、より益ヒ下に段落させることを主張する。言ひ代へれば
我々は、この次第に娯楽文奉仕し、次第に寄席演蓼化しっつある蛮術の時代思潮を、一面に於て腹立たしく不
義に感じながら同時にまた一方で、他の別種の感情がそれを悦び、時代と共に手を打つて喝宋しっつ見物する
のだ。
∫∂∂

I とにかくにも此の傾向は、我々自身の内部に於てさへ、可成避けがたく必然的に要求されてゐるではないか。
正直なところを言つて、今日我々の文学者それ自身が、すぺての蛮術的蜃術品に退屈してゐる。多くの過去の
女寧や音楽やはもはや我々にとつて興味がなく、時代感の強い刺戟を無くしてしまつた。むしろそんなべ−ト
1nより我々にはジャヅバンドの方が面白く、刺戟が生きて響いてくる0そしてトルストイやツルゲネフの
文学よりは」剣戟物の活動馬眞を見て居る方が、ずつと逢に現音感の興味があるのだ。」.屠もつと邁切に告白
すれば、我々の時代の蓼術家その人々が、心底から拳術その滝のを退屈して居り、どんな立汲な作品よりも、
見世物の済拳や曲馬囲や、それからレビューの裸踊りなどを見る方に、ずつと熱心な興味を寄せて居るのであ
る。
 それ故にこの時代は、段落によつてのみ救はれ得るのだ。拳術をアメリカ人の馬鹿ばやしで、最後の谷軒竹に
r町
 まで突き落して行け.おそらくはその底から、次の時代の委術精神を創立すぺき、何かの光輝ある者が生れる
だらう。その時我々は救はれる。だが此虞で救はれないのは、今日の情けない現状にある、中途年端な文学者
 及び一般に蜃術家等 である。彼等は段落して行く時勢を感じ、その傾斜に立つて居ながら、一方では
その侍統の「神聖な蜃術意識」を、どうしても思ひ切つて棄て得ないのだ。そこで彼等の詩や小説やは、純粋
の娯楽文奉としても徹底し得ず、蕾来の巣高な文学にもなれないところの、無償値にして中途年端なガラクタ
畢術にまごついてゐる。今日言はれる「新しい文褒」の大部分が、活動馬眞や洒落本ほどの興味もなく、と言
って精神的な崇高の刺戟もなく、いたづらに文字上の感覚的磯智を弄した、中途年端の退屈極まる作品になつ
てるのは、貰に蜃術上の二律管則で悩まされてる、悲しき矛盾のために外ならない。
 そこで結論は一つしかない。今日の文壇人等が行くぺき道は、その背中にかついだやつかいの盲荷物−肇
                                                     ● ● ● ●
術の遺俸的華南感Tを棄ててしまつて、自ら梅坊主や安来節の一座に入り、娯楽演拳の蜃人としてまつしぐ

らに坂道を騒け下るか。もしくはまた、若しそれが厭やだつたら、断然たる蜃術の正義主義を高唱して、勇ま
しく時代の外道に反動するのだ。そしてもちろん、彼等の勇敢なる反動思潮は、世界に於ける同志を呼び集め
るに充分だらう。すべての聴明な人物等は、いつのどんな時代に於ても、偉大なる反動家であることにのみ、
正しい名著を知つてゐるから。(今日の時代に於けるプロレタリヤ文学の存在も、明白に一の反動思潮にすぎ
ない。なぜならそれは、文学に於て現に失はれつつあるところの、高い精神的な本質を求めて居り、その侍統
の者を固執してゐる.から。)
 おお新時代・・新時代! とにかくともこの世紀は、睾術を亡ぼさうと意慾してゐる。蜃衝は亡びるだらう0
或は既に、現に亡びつつあるのだらう。そして蛮衝の失はれ精神の無くなつてしまふことで、今の世紀のモダ
ーンと考へられてる。あらゆるすべてのモダンボーイは、拳術を持たないのを特色にする。「肇術的なもの」
jβア 文明論・批合風俗時評

は、今日の新しい言語に於て、それ自ら「古風なもの」を意味してゐる。賓に不思議な時代の矛盾は、拳衝家
その人自身が、季術的であることに卑屈を感じ、すぺての肇術的気質や精神を持たないことで、新時代の新し
さを誇つて居る0それならば諸君! 時代の新しい奉術家とは、奇怪にも「拳術を持たない嚢術家」の謂ひで
はないか○そして何人も、かうした言語の矛盾を考へられない。新時代は謎に充たされてゐる。そして賓に
「拳術」は、その墓場を掘ることにのみ、彼自身の存在する意義を持つてるのだ。やがて何物かの新しい牙が、
その死骸の下から萌出づるまで。
jββ
詩壇時評・論争

は、今日の新しい言語に於て、それ自ら「古風なもの」を意味してゐる。賓に不思議な時代の矛盾は、拳衝家
その人自身が、季術的であることに卑屈を感じ、すぺての肇術的気質や精神を持たないことで、新時代の新し
さを誇つて居る0それならば諸君! 時代の新しい奉術家とは、奇怪にも「拳術を持たない嚢術家」の謂ひで
はないか○そして何人も、かうした言語の矛盾を考へられない。新時代は謎に充たされてゐる。そして賓に
「拳術」は、その墓場を掘ることにのみ、彼自身の存在する意義を持つてるのだ。やがて何物かの新しい牙が、
その死骸の下から萌出づるまで。
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詩壇時評・論争

は、今日の新しい言語に於て、それ自ら「古風なもの」を意味してゐる0賓に不思議な時代の矛盾は、奉術家
その人自身が、蓼術的であることに卑屈を感じ、すべての奉術的気質や精神を持たないことで、新時代の新し
さを誇つて居る0それならば諸君! 時代の新しい奉術家とは、奇怪にも「拳術を持たない拳術家」の謂ひで
はないか○そして何人も、かうした言語の矛盾を考へられない○新時代は謎に充たされてゐる。そして賓に
「蜃術」は、その墓場を掘ることに町み、彼自身の存在する意義を持つてるのだ。やがて何物かの新しい牙が、
その死骸の下から萌出づるまで。
∫ββ
 ノ1■用
1一て一一.nつ ハ州一一
詩壇時評・論争