風俗壊乱取締り法の原理


 白昼、公衆の前で醜褻な行為をするものは、法律によつて罰せられる。だらしのない不作法な服装をして、市中を尻まくりで歩くやうなものも、また法律によつて禁じられる。これは各国共に同法である。しかし公園であひびきする男女を捕へ、美術品の裸女を罰し、舞台におけるエロチックな所作を特にやかましく言ふ如きは、世界中に日本だけである。すくなくとも日本の警察は外国に比してこの点が変つてゐる。その筋の言葉で言へば取締りが厳にすぎるのである。
 毎年繰返される美術展覧会の紛擾は、いつもこの問題を我々に提出する。何故に或る裸体画は、公衆から撤回せねばならないのか? 当局の答によれば、性的実感を挑発するからである。もちろん美術家の側では、これに対して「否」を主張する。彼等は言ふのである。否、美術品は趣味の鑑賞に訴へる。断じて実感に関はらないと。ここに於てか吾人は、さらに「実感とは何ぞや」の新しき疑問を提出し、これを美術家と警察官との双方に問ひたいのだ。
 原理として最初に掲げておきたいのは、あらゆる法律が民意によつて制定されるといふことである。すくなくとも法律は、民衆の意志を代表し、国民多数の生活に立脚したものでなければならない。換言すれば、民衆が「欲する」ものを許し、「欲しないもの」を禁止する。倫理的には、民衆の「善」とする所を認めて、その「悪」として憎む所を抑圧する。これによつて法律は、多数の人の安寧と平和を保護し得る。もし法律が、多数民衆の意志に反するものならば、そは存在自体としての悪である。しかるに民衆の意志や倫理観は、時世と共に変化して行くのに、前時代の法律は、常に空文として後に残る。そして法律の執行官は、常に文字の規約にのみ忠実であり、その法の精神たる哲学を見ないからして、ここに所謂「取締りの没常識」が生ずるのである。
 思ふに風紀上の取締り法案は、文明国に於ける最もデリケートな法案である。吾人は一口に之れを法律といふ。しかしこの法案だけは、他の多くの法律と根本的に情操がちがつてゐる。他のすべての法律、たとへば盗む勿れ、姦通する勿れ、殺す勿れ、詐欺する勿れ、治安を妨害する勿れ、等の取締りは、その細則に於てこそ異なるが、法の原則そのものでは、ずつと昔から不変である。思ふに此等の法律は、人類の社会が生じ、一の権威ある政府が成立した時から、早く既に制定されて居たのである。しかるに風紀上の法律だけは、ずつとこれに遅れて、社会が可成りの文明を有するやうになつてから、始めてこれが制定された。人類の野蛮時代には、決してかくの如き法律はない。今日の野蛮人や未開人も、彼等が一の部落を作り、協同生活をしてゐる限り、単純ながらも一通りの法律を有してゐて、いつさいの犯罪が処罰されてる。しかしただ彼等は、風紀上の法律だけは持つてゐない。彼等の社会では、どんな醜悪な猥褻行為も、それが人倫にもとらぬ限り、法によつて処分されるといふことはない。
 文明国に於てのみ、この法律は存してゐる。そしてより文明の程度が高い国家に於てほど、風紀上の取締りはやかましい。我々の日本に於ては、少し以前まで、半裸体で市中を横行することが平気であつた。しかるに西洋の文明国では、早くからそれが禁じられた。また日本では、つい最近まで種々の淫靡な見世物や女風俗が許されてゐた。たとへばニハカと称する喜劇があつて、淫猥聞くにたへない言語を、平気で舞台にしやべつてゐた。そして或る種の下等淫売婦等は、だらしのない醜劣の衣服をきて、故意に肌着をのぞかせ乍ら歩いてゐた。これが西洋人の経営する植民地で、きびしく法によつて処罰された。

 さてふたたび、始めにかへつて論じたい。何故にある美術品や文藝品が、風俗壊乱の名で罰されるか? 検察官は、それが性的実感を挑発すると言ふ。しかしてこの官憲は、同時に風俗壊乱の名で、或る種の夫人の醜劣な服装を禁止する。かつて東京の或る動物園に飼つてゐた狒々が、通行の婦人を見て淫猥な行為をするといふ所から、同様にこれがまた風俗壊乱で公覧を禁止された。白昼の公園で行はれる夫婦の性交は、人倫上の罪は無くとも、ひとしく風俗壊乱罪で処分される。すべて此等の場合に於て、吾人が警察官に問ひたいのは、果してそれが真に「実感」を挑発するか如何といふのである。美術品や文藝品の場合は暫らく別とし、動物園の檻の中における狒々の醜劣行為を見て、実に色情を催す如き人間がどこに居よう。我々は色情を起さずして、却つて不快陰惨なる醜感を起し、それから顔を背けて逃げようとする。
 我々の色情は、決してかくの如き場合にはきざさない。もし犬の性交を見て、実に色情を起すものがありとせば、そは犬の如く下等で野卑な人間である。すくなくとも今日文明国における、普通の教育ある人間は、それからして反対に顔を背け、陰惨なる一種の倫理的不快を感ずるだらう。我々はだれも思ふ。かくの如き醜悪な印象は、白昼、紳士淑女の通行する市街から禁じなければならない。それは社会の善良な風俗を害するものだと。他の場合が皆これと同様である。即ち公園のベンチで、不潔な性的行為をする夫婦や、胸をはだけて淫猥な身振りで歩く淫売婦やは、同様に我々の色情の対象とならずして、反対に醜悪陰惨な気分をあたへ、風紀上における正義の観念と違反する。我々の趣味はこれを嫌ひ、我々の良心はこれに法律を要求する。
 それ故に解るであらう。風俗壊乱罪の精神は、それが色情を催させるからでなく、実は反対に、人の性的美感に不快をあたへ、社会の善良な風俗に違反するといふ所の、一の倫理的公憤に原理を殺してゐることが。そして思ふに、またすべての警察官の心理もさうであらう。吾人は断言する。決して如何なる警察官も、それによつて、性感を挑発された故に罰するのでなく、全く反対の動機である風紀の社会的公憤によるのである。もしさうでなく、性感の故に法を行ふとせば、世に法律の権威ほど笑ふべきものはない。しかして執行官の、この心理上における僅かの相違が、法の精神そのものを根本から変動するのである。
 さらば実に「色情を挑発する」といふべきは、どんな種類の事件であらうか? ここには人間心理の最もデリケートな問題がひそんでゐる。白昼、公衆の目前で行はれる不潔な行為は、吾人の道義心に逆らふ故に、嫌悪と不義の悪感を、人にあたへる。しかしながら同じ行為が、もし密室で行はれ、人の羞恥心を傷ける恐れのない場合には、もとより何等の風紀的反感も起り得ない。即ちこの場合にあつては、それが実に色情を挑発するのである。しかしてかくの如き密室での性行為は、もちろん法律が禁じて居ない。
 或る下等な淫売婦のだらしのない風俗は、多少教養ある文明国の紳士等には、見るに忍びない醜態であり、風紀上許しがたい感をあたへる。しかし淫売婦が、もつと下品な趣味をもつて、よりコケチツシユの嬌態で市中を闊歩してゐるならば、決して彼等はそれをとがめない。多くの植民地に於て、日本の下等な淫売が外出を禁止され、西洋人の淫売婦が公然と歩いてゐるのも、全くこの事情のために外ならない。しかもこの場合に於て、どつちの淫売婦が果して「色情を挑発する」か? いやしくも人に不快の感をあたへ、醜劣の嫌厭を抱かせる如き婦人が、どうして性の実感を誘惑しよう。すべて人間の色情は、美の感覚なしに挑発されない。何等かの点で、対象に美を感ずるに非ざるよりは、いかなる肉慾も誘惑されない。より美しい化粧、よりコケチッシユの服装ほど、実際に人の色情をそそのかす。しかるにかくの如き風俗は、決して罰されることがない。法律が淫猥として罰するものは、常に醜劣無慚の風俗である。それは人の趣味性を傷害し、却つて色情から反感させる。
 されば法律の精神が、いかに通俗の常識と反対するかを知るであらう。俗見は考へる。我々の法律では、公衆の色情感を挑発するものを、その風紀の故に取締ると。しかるに事実は反対である。法律が禁ずるものは、実に色情を誘発させるものでなくして、逆に性的嫌厭の情を起させ、文明社会の高雅な趣と風俗とに、非倫な傷害をあたへるものに外ならない。しかして「風紀」といふ法律の用語の、厳然たる社会的意義がここにある。即ちそれは、公衆の「善良な趣味」「善良な倫理」「善良な風俗」の保安と維持を含蓄してゐる。しばしば或る種の文藝品が、その強姦や獣姦やの内容で禁止される事情もここにある。それは俗見の思惟する如く、性感を挑発するからでなく、それが公衆の倫理観と関連して、不潔醜悪なる性的嫌厭の悪感を、一般の読者にあたへるから、即ち社会の善良なる風俗を乱すからである。
 美術品としての裸体画を、日本の官憲が取締る事情も、また勿論ここになければならないだらう。我が国の風俗習慣は、この点で西洋とちがつてゐる。西洋諸国では、風俗上、習慣上、早くから裸体画の人像美術を創作してゐた。一般公衆はこれに慣れ、始めから藝術品として鑑賞してゐる。しかるに我が国では、それが重く見慣れないため、一般の公衆は奇異の念をもつてこれに接する。日本の民衆に観念されてる、一般の風俗、一般の趣味性から見るならば、身に一糸をまとはぬ裸体の像は、美術品としても醜怪であり、社会の善良な風紀を害し、教養ある紳士をして、その前に顔を赤らめさせ、不快な性的嫌厭を感じさせるものでなければならない。丁度、檻の中における狒々の醜劣行為を、一般公衆の眠から遮断する如く、かかる美術品もまた、公衆から撤回せねばならないだらう。
 日本の官憲が、この種の美術品に対する態度、及びその取締りの精神は、必ずここに無ければならない。もしさうでなく、俗間伝へられる如く、それが「性感を挑発する」理由のためであるならは、断じて我が国の法律が誤つてゐることを指摘し得る。何となれば西洋諸国の公衆ですら、かかる美術品に接して色情を誘発されてゐるのは事実であるから。もちろん西洋人は、始めからそれに非倫的反感を抱くことなく、美術に対する趣味性がまたこれを認めてゐるから、もちろん何等の性的嫌厭を感じない。いかなる紳士淑女も、決してその前で頻を赤らめるやうなことはない。社会はこれに風紀上の健全性を認めてゐる。しかしながらそれ故に、彼等が色情を挑発されないと思つてゐるか? 否、否、その美を認め、その裸体に魅惑を感ずる故にこそ、多数の公衆はそれに対して擬似性慾を感じてゐるのだ
その最も甚だしき例としては、公園等におけるヴイナスの裸体石像などが、しばしば青年の接吻や抱擁によつて汚されてゐるのである。しかもかかる性感を誘惑することが、何故に法律上の悪であるか? 西洋諸国の法律が之れを禁ぜずして、独り日本の官憲がこれを悪とする理由がどこにあるか。
 美術品に対して、実に色情を誘発される如き人物は、すくなくとも、或る程度まで、その美術を賞し得た人物である。何となれば吾人の色情は、ただ美を感ずることによつてのみ誘惑される。いかなる人も、裸体像に美を感ずることなく、その裸体像を抱擁したいとは思はない。醜に対しては人の色情が凍えてしまふ。故にもし官憲が或る美術品に対して彼の色情を起したとせば、その官憲はすくなくとも、或る程度まで作品の美を理解したのである。反対に、もし彼が美を感じ得なかつたとせば、かかる裸婦の作品は、甚だしく嫌忌すべきものに思はれる。特に局部を露出せる如きものは、醜の醜であり、彼等の趣味性と倫理観から、最もひどい性的嫌厭を感じさせるにちがひない。故にここでも、また俗見の常識が、いかに事実と反対せるかを知るであらう。常識は言ふ。作品が検閲官の性感を挑発教する故に、それが撤回されるのであると。しかるに事実は反対であり、却つて彼等の性的反感を買ふ故に、それが猥褻と認められる。しかしてこの事情は、すべての文藝品に於ても同様である。
 しかしここには、尚「美感」と「実感」との差別における、美学上のやかましい議論が提出されることを恐れてゐる。なぜならば今日多くの美術家等は、その問題を反駁するため、飽くまで美術の趣味であつて、所謂「いやしき実感」でないことを抗弁してゐるから。しかしながら反省せよ。いかなる高潔の美術家が、全く性感なくして婦人の肉体を描いてゐるか? ロダンの彫刻を見るものは、いかにあの巨匠の性慾が旺盛であり、あらゆる婦人の彫像が、いかに艶めかしき色情の吐息によつて製作されてゐるかを知るであらう。真にロダンの偉大な美を愛するものは、実にその色情のエロチックな誘惑に溺れてゐるので、その性感なしには、何人もロダンの美を理解し得ない。しかして概ねの美術品がまたさうであらう。純粋に趣味だけの藝術品といふものは、この種の作品では想像されない。けれども吾人は、かかる美学上の議論に就いては、ここに深入りすることを避けるであらう。ただ始めに掲げた疑問「実感とは何ぞや」を、さらに進んで解決しよう。
 要するに、今日我が国の官憲によつて使用されてる「実感」といふ語の意味は、美を感じさせずして醜を感じさせるもの、色情を誘惑せずして逆に性的悪感を抱かせるものを指すのでなければならない。もし真に検閲官が美を感ずれば、どんなポーズの裸体画も、決して猥褻と認められる筈がない。これを猥褻と認めるのは、美を感ぜずして醜を感ずるからである。しかして醜を感ずる以上には、もちろん色情は誘発されず、却つて陰惨非倫なる性的嫌厭の情が起るだらう。これ即ち言ふ所の「実感」の意味ではないか。故に「実感を挑発する」とは、色情を挑発するとの意味でなく、実は「性的厭嫌を感じさせる」の意味に外ならぬ。(「猥褻」とか「淫猥」とかいふ言葉が、それ自体に於て性的厭嫌の内容をもつてゐることに注意せよ。人がこの種の言語を使ふ時は、既にそれを悪み憎んでゐるのである。)
 故に「風俗壊乱」なる法律の精神は、何等特殊の条件をもつものでなく、ずつと広義の内容を包括する「風紀取締り法案」の項目に属してゐて、それの立法精神たる、同じ倫理原則に立脚することがわかるであらう。たとへば文明国の法律は、男女共裸体で市中を往来することを禁じてゐる。この場合の適法は、所謂風俗壊乱でない。何となれば男の裸体は、性感の問題と別であるから。吾人は男の裸体に対して、別に性的嫌厭を感じない。しかしながら他の意味で、人々はそれを嫌厭する。即ち公衆の礼儀正しき風俗は、かかる野蛮を排斥し、文明のデリケートな情操が、これを嫌厭するからである。しかして多数公衆の悪む所は、法律が之れを禁ぜねばならないだらう。
 所謂「風俗壊乱」が、その倫理上の精神で、全くこれと同一である。即ち一般公衆が、醜として嫌厭し、無作法として、非倫として、それから顔を背ける如きもの、社会の善良なる風俗を害する類のものを禁止する。
 演劇その他の公開場で、あまりに惨酷非道な場面を演ずるのを、法律によつて禁ずるのも、またこれと同じ理由による。西洋の文明国に於ては、白昼公衆の見る街上では、野犬の撲殺などを禁じてる。かかる惨酷な印象は、人々に陰惨不快の念をあたへ、文明のデリケートな神経を傷つけるからである。法律が演劇から、かく惨酷な場面の公演を禁ずるのは、決して一部の俗見が思惟する如き浅薄な理由からではないのである。その俗見の思惟によれば、劇が人の惨忍性を刺激して、犯罪行為の動機を作るからといふのである。もし果してさうならば、何故昔の為政家はそれを禁じなかつたらうか。我が国に於ても、つい近い頃までは、可成り惨酷悲惨な場面が、至る所の劇場や見世物に演じられてゐた。もし実にそれが犯罪の動機となるならば、昔の為政家と雖も、決してこれに気のつかない筈はなく、したがつてまたそれを禁止しない理由はない。且つまたさうであるならば、その禁断は流血的兇暴の惨忍行為に限られる。しかるに文明国の演劇では、しばしば同一の規則によつて「人情的惨酷」が禁じられる。人情的惨酷とは、あまりに陰惨な貧苦の生活や、子役を使つてする所の、あまりに酸鼻な肉親愛の悲劇等で、今日西洋の文明国では、たいていかくの如き劇は禁じられてる。何となればそれは、血なまぐさい怪談などと同じく、あまりに陰惨から人の神経を不快に傷つけ、一般観衆をして舞台から顔を背けさせるはど、不快な人情的惨酷を感じさせるものであるから。(今日の我が国に、あの人情的惨酷の代表ともいふべき黙阿弥などの戯曲が公演されてゐるのは、明白に奇怪な時代錯誤であり、あはせて、我が国の文明が極めて低いことを証明してゐる。)
 かく流血的惨酷と人情的惨虐とは、全く表面の性質を別にするにかかはらず、その観客にあたへる陰惨不快の情操は同じであるから、ひとしく風紀上の立法精神から、同一条令の下に之れを取締るのである。しかもこの取締りは、ただ文明国に於てのみ、最も礼儀正しき習俗と、最もデリケートな神経を有してゐる、近代文明人の社会に於てのみ要求される。人間が尚粗野であり、教育が低く、神経が遅鈍であつた昔の未開社会では、もちろんこんな取締りは全くなかつた。何となれば彼等は、流血的惨酷に対しても、何等嫌厭不快の念をもつことなく、むしろ却つてそれを悦んでゐたからである。西洋でも日本でも、昔は風紀上の取締りに関して、法律が極めてルーズであつた。換言すれば、一般民衆がそれを要求しなかつたのである。
 同一の理由から、またあまりに醜悪畸形の観覧物が、公衆の展覧を禁じられる。たとへば一見嘔吐を催す如や汚穢物、甚だしく醜怪なる畸形児の見世物等は、公衆に不快な非倫感を抱かせる故、政府は常に之れを禁じ、または街上から撤回する。先年仏蘭西の巴里に於ては、料理店の店頭に飾るところの、蝋細工の模型料理をさへ、往々人に醜悪の嫌厭をあたへる理由で、きびしく禁断したといふことである。少し以前には、薬種店の飾店にある蛇や胎児の瓶詰を、各国の政府が皆殆んど一所に禁止した。その法律の名目は、言ふまでもなく「風紀上有害と認む」であつた。我が国でも、先年有田ドラッグ商会が、白昼公衆の通行する街路に、最も醜怪酸鼻を極めた蝋人形を陳列したので一時風紀上の問題をひき起し、これが公判にまでなつたことがある。

 かくの如く、すべて風紀に関する法律の精神は、公衆の倫理観と趣味観との、最もデリケートで、神経質の情操に属してゐる。思ふに法律哲学の、最も深遠にして興味ある題目がこれであり、多くの法理学者の尽きない論争が、またこの一条にあると考へられる。何となればこの議論の究極は、美学と倫理学と、それから一般文化史の方面に亙らなければならないから。
 それはとにかく、要するに風紀取締りの精神は、公衆の文化的情操に立脚するものであり、我が国の所謂風俗壊乱 ― 何たる猥褻の言語ぞ ― も、またその同一な精神に立脚する、風紀取締り法の一ヶ条に内属するものに外ならぬ。即ちその法の拠つて立つ原則は、惨酷や、醜態や、非倫や、無作法やを、公衆の眼から禁ずる所の、同じ一の文化的、風教的の精神にある。詳説すれば、その目的が「色情の挑発」を禁ずるのでなく、逆に性的醜穢を感じさせ、或は非倫的嫌厭を感じさせる所の、即ち一括すれば、公衆の美的情操に不快をあたへ、また倫理的情操に牴触するものを禁ずるにある。実際にもまた、西洋諸国で行はれてゐる取締りの実績は、この原理に立脚し、よくその目的に適つてゐるやうに思はれる。即ちかの国々では、表に風紀の取締りが極めて厳重であるけれども、演劇その他の娯楽場では、醜穢に亙らない限り、自由にエロチックな所作が許されてゐる。たとへば欧州の都市の旗亭では、ずゐぶん色情挑発的な裸踊りが、いつでも自由に公演されてる。ただもちろん、それは文明的に洗練された、優美に垢ぬけした趣味で演ぜられる。多少なりとも醜悪の感を伴ふもの、不潔な淫猥を感じさせる類のものは、もちろん厳重に禁止される。文藝の作品、美術品の風紀上における取締りも、またこれと同様な精神で行はれてゐる。即ちその作物が、観者に性的嫌忌をあたへ、趣味的または倫理的に、社会の風教から反感して、一般に甚だしき醜穢を感じさせる類の者に限つて禁止する。而も其の醜感なしに、単に色情的であるといふ理由だけでは、決して発売を禁止しない

 然るに独り我が国では、この風紀取締りの精神が、全く外国とちがつてゐる。我が国の官憲は、この法の適用に関して、殆んど原理の哲学をもたず、殆んど無方針で盲動するやうに思はれる。かつて或る文学者が、禁止範囲の対象を確かむべく、当局の係官に問うたに対して、官憲は明らかに「色情的のもの」と答へたさうである。もしこれが事実とすれば、実に法の精神を知らざる所の、言語道断のものと言ふべきである。思ふに我が国の当局者は、明治以来西洋の社会制度を直輸入し、その法律の如きも、単に外面の形式のみを模倣して、それが拠つて立つ実の哲学を知らないのである。彼等は外国の形式だけを学んでゐる。外国では惨酷な演藝を禁止する。故に彼等もまたそれを禁止する。しかもその「何故?」を質問すれば、単に「文明的でないから」と答へるのみで、何等本質の原理を説明し得ない。上述の場合で言へば、何故に色情的な作品は禁止せねばならないか? ここにまた「何故?」を出して質問せよ。おそらくは単に「風紀を乱すから」と返答するのみであらう。しかも「風紀」そのものの意味すら、概ねの官憲は知らないのだ。
 この法律的無智からして、恐るべき非法の取締りが行はれる。たとへば公園で逢曳して、楽しい会議にふけつてゐる恋人の男女を捕へ、不法にもこれを猥褻罪で罰する如き、世界に類なき奇怪事である。もちろん白昼の公園で、淫猥な性的行為をするもの等は、風紀上罰しなければならないだらうが、夜間、人目なき樹蔭をさまよひ、単に恋の情を語つてゐる純潔な青年少女を、盗賊の如く駆り出して捕へるといふに至つては、実に法の精神の理解に苦しむのである。もし皮肉に解すれば、官憲にあるまじき嫉妬の動機さへ窺はれる。
 しかし此所では他事をおいて、専ら美術に関する風紀上の問題を解決し、以てこの論文の局を結ばう。我が国の官憲が、しばしば裸体画や裸体像の公展を禁ずるのは、前に既に述べた如く、この種の藝術が舶来のものであり、それに慣れない民衆にまで、非美術的の対象となる所から、一種の醜態なる実感を呼び起して、非倫理的に反感を抱かせることに事情する。この限りに於て、官憲が之れの公覧を禁ずるのは至当である。この点では、西洋と日本は事情が異なり、これを同一視することができない故、それで官憲を責めるのは誤つてゐる。
 風紀上の法令は、民衆の趣味性と倫理牲、即ち「風俗」と称する文化的情操に基づくのに、その風俗は国民によつて異なるから、その法の原理は一であつても、これが細則は、多少国によつて差別される。しかし美術家は、之れに対して尚常に抗議をする。曰く、何故にこれが醜であるか。何故に悪であるか。我々にとつてみれば、何等実感的のものでなくして、純粋に美的の作品であると。然り!藝述家にとつてみればさうである。しかし想像せよ。かくの如き高級なる趣味の所有者、即ち美術家なるものは、数に於て国民の何千分の一に過ぎないかを。そして実に大多数の公衆が、美の観賞における赤児にすぎないことを。
 元来言へば美の鑑賞性、即ち趣味の程度は一人一人にちがつてゐる。故にその理性を言ふならば、風紀取締り法則も、個人の趣味の程度に応じて、各個に異ならねばならないだらう。たとへば前に述べた如き、淫猥醜劣な下等売春婦の風俗は、少しく教養あり典雅な趣味をもつ人々には、見るに耐へない陰惨事であり、嫌穢の醜感をそそるばかりであるだらうが、人品卑しくして教育なき粗野の輩にとつてみれば、反対にそれが艶めかしく、下劣な趣味に訴へて美と感じられる故、したがつてその色情を挑発されるにちがひない。即ちこの場合にあつては、同じ一つの対象が、一方では「醜悪の実感」となり、一方では「艶めかしき美」として感じられる。故に前者の立場からは、これを風俗壊乱として処罰し得るも、後者の立場からは意味をなさない。(文明国と未開国とが、この点で差別のあること、前に述べた如くである。けだし未開国の公衆は、未だ趣味の程度が低いからして、文明人が醜悪の嫌忌を感ずるものにも、平然として美や色情を感じてゐる。故に文明国で風紀上禁じられる如き風俗も、未開国では公然として行はれてゐる。)
 かく人の文化的情操は、時代と文明の相違によつて変化するのみならず、個人的にもまた一人一人にちがつてゐる。単に趣味の点ばかりでなく、倫理上の観念もさうであり、同様にまたこれと関聯する。たとへば吾人の認めて、普通に美とする如きものも、厳格な道学者や宗教家は、道徳上の情操から之れを嫌厭して、しばしば醜劣見るに耐へないものとする。したがつて彼等の意志は、これに風紀上の処罰を要求する。それ故に社会が、もし個人の意志を対象とするならば、実に法令無きに等しくなる。法令の標準は、少数の特殊者を犠牲として、国民大多数の公衆情操、即ち所謂「常識」を基礎とするより仕方がない。少数の美術家や宗教家が、たとへ何と言はうとも、政府としては国民多数の常識を標準として、いやしくも常識の醜猥とするものを禁止し、常識の公認するものを許可せねばならないのだ。
 以上述べた所によつて、一応の理をつくすまで、吾人は官憲の立場を擁護してきた。しかしながら、それは過去のことであり、今日ではもはや時代がちがつてゐる。我々の時代の日本人は、もはやよほどにまで西洋の文物に慣れ、美術の裸体画等に対しても、もはや醜怪の感じをもつことなく、平然として鑑賞し得るやうになつてきた。すくなくとも都会地における一般の公衆はさうであり、道徳的にも趣味的にも、嫌厭の情を抱いてゐない。即ち公衆の「常識」が、之れを認可してゐるのである。しかるに当局者たる官憲は、今日尚過去の事情をもつて此等に対し、ややもすれば没常識な取締りを行はうとする。つい最近まで、店頭の裸体像に腰巻をまかせた官憲は、同様に今でも或る種の美術を取り扱つてゐる。聞く所によれば、昨年出品の帝展絵画に対して、或る局部を書き直すべく、政府が命令したといふことである。今日の一般公衆は、少く共かかる政府より進んでゐる。常識は官憲を嘲笑し、其の没常識に呆れてゐる。もし政府が「常識の上に」立つとき、其の失政は寧ろ徳でつぐのはれる。然し誤つて「常識の下に立つ」ならば、いかにしても失政を償ひ得ない。それは国民文化の健全な発達を妨げるから。

 最後に言ふ。我が国民の情操は、西洋先進国に比して尚甚だしく低級の度にあるのを免がれない。倫理的にも、趣味的にも、我々の情操はラフであつて、実に文明国民が有する如き、デリケートな神経を有してゐない。じつさい我が国では、服装居住のすべてに亙り、今日尚ひどい無作法や醜態が平然として行はれ、或は白昼の街路に犬殺しが血を流し、惨虐が行はれ、醜怪が陳列され、しかも人々は之れを笑つて眺むるのみ、何等神経に感ずる所がないやうである。我が国民は、実に尚一の未開国人であり、世界の田舎者にすぎない。之れを欧米の教養ある紳士淑女に対すれば、猿公の如く礼に習はない野人である。
 それ故に我が国では、真の意味での風紀法令といふものは、実には無いと言つて好いのである。我々の公衆は、かかる取締りの法律を要求する程実際にはそれほど文化的に進んでゐない。我が国の風紀法令は、社会の実の要求から生じたのでなく、単に外国に対するミエ張りから、野蛮国としての軽蔑を外国人から防ぐために、政府が強制したものにすぎないのだ。昔、英国が蛮地を征服したとき、土人に法律して衣服を着けさせた。然るに土人は怪んで曰く、何故に官吏は裸体を罰するのか? 何故に人は衣服を着る必要があるか? と、丁度これと同じ事情がしばしば我が国にもあつたのである。
 かくの如き社会、かくの如き未開の国家に於て、実に必要から ― 外国へのミエからでなく ― 風紀上の法令を定めようとするならば、そは極めて寛大に、大ざつぱのものでなければならない。そしてまた実際に、日本の取締りは寛大である。西洋の文明国では、ずゐぶんやかましく言はれてる不行儀や醜態などが、別に処罰されることもなく、どこでも寛容に見すごされてる。然るに、ここで不思議なのは、独り性に関する風紀だけが、むしろ苛酷にすぎるほど、過度に神経質に取締られてゐることである。この点だけに関して言へば、日本の官憲は世界無比に厳格である。西洋の文明国、風紀について最も過敏な神経を有してゐる、西洋文明国の当局でさへも、無難と認めてゐる小説等の出版物を、日本の官憲だけは猥褻として禁止する。西洋でさへも、平気で公開を許されてる活動写真を、独り日本の官憲だけはカットする。そして公園に逢曳の恋人を追ひ廻し、劇場の男女席を別け、曲馬団の娘に肉襦袢をきせて、さらにその上にチヤンチヤンコをかけさせる。
 かくの如き風紀的神経過敏は、常識から考へても、決して健全なものでなく、むしろ病的なヒステリイー ― それは禁慾僧等にしばしば見る一種の性病である ― に類してゐる。実に吾人の風紀的情操は、かかる官憲自身の態度に、不快な「猥褻」を感ぜずに居られない。官憲が好んで使ふ、かの「実感」なる言語が、それ自ら猥褻の意味を含む如く、官憲の検閲における態度が、正しく実感的であり、それ自体で既に風俗を壊乱してゐる。
 我が国の取締りに見るこの特殊な事情は、思ふに一には当局為政者の頑迷な思想による。今日の政府当局者は、たいてい明治初年に生れた老人であり、支那の儒教によつて教育されてゐた。その儒教たるや、七歳の小児に対して男女の席を厳別し、異性間のあらゆる情交を不道徳として擯斥するほど、それほど病的な風紀観を有してゐる。しかしてこの頑迷な権力者の精神は、しぜんに政府に伝統して、比較的年少の警官や検閲官やが、同様にその官僚の気分に同化してゐるのである。けれども一層根本的な原因は、当局者たる官憲が、法律のよつて立つ原理を知らず、却つて恐るべき誤解からして、不法な取締りを行ふにある。法の原理を曲解して、法の条例を執行するほど、危険にして恐るべきものはないであらう。
 ふたたび最後に約言しよう。「風紀」といふことの約した意味は、実に「礼節」といふ概念につきるのである。故に風紀法令の精神は、社会の礼節を保持すること、即ち無作法、醜態、淫猥、野卑、惨酷、露骨、非倫等、苟も文明人の優雅な情操を傷つけ、又は性感的に猥褻、醜穢を感じさせる類の事物や行為を、一般公衆の眼から禁ずるにある。必しも「艶(なま)めかしき色情」を呼ぶものを、民衆の生活から奪ふことを意味してゐない。