詩歌は悠久 新体制と藝術
新膿制と詩歌といふ題で執筆をたのまれたが、政事の方針が少しぐらゐ欒つたところで、文学が急にどうな
j∫∫ 随筆
るといふわけのものでもない。文学といふものは、本質的に悠久なものであつて、猫の日のやうに攣る政攣な
どとは、初から温交渉のものなのである。しかし文学者、特になかんづく、詩人などといふ連中は、性格的に
極めて神経質の人種であり、外界の環境に封して、甚だ過敏な反應をする人種であるから、その生活する敢合
の環境が、政事によつて陰鬱になつたりしてる場合は、作品のモチーグもまた白から陰鬱になつて来るし、特
にそれが甚だしい場合は、全然創作的の感興を失費して、完全なスランプに陥つてしまふ場合もある。今日の
場合では、詩歌人を初め一般日本の文学者が、さうしたスランプに泣い状態に陥つてることも事資である。
新膿制といふのは、どういふ内容のものかよく解らないが、おそらくかうした暗い陰気の社合を、も少し明
るく陽快にしてくれるものだと思ふ。それだつたら僕等の文撃と文聾者も、自然に浮び上つてくるわけである。
とりわけ詩人の立場でそれをいふのは、元来、詩といふ文筆が主観的の文学であり、作者の生活する感情や
気分の昂揚によつてのみ、表現忌慾を持つからである。日清、日露の戦争の時には、国民の気風が薄利として、
政令の情操が明るく積極的であつたので、日本の詩歌人も大に茶々しい活躍をしたが、今度の場合は、融合が
その反封になつてゐるので、詩歌人もまた沈み切つてるといふわけである。特にまた詩歌の中でも、他の和歌、
俳句等に比較し、僕等の自由詩が最も沈滞を極めて居る。(そのくせ詩集はよく要れるのである。)
このことの理由については、前にも一度他に書いたが、自由主義や個人主義が排斥されてゐる今日の社合に
ぉいては、本来デモクラシイの牡合に磯達し、自由主義の精神に立脚して、フ類ルムやスタイルの個性態揮を
本領とする自由詩が、本質上において時代の政事方針と合はない為である。そこへ行くと和歌や俳句の報文は、
餞達史的にも封建時代のものであり、一定の公式化された韻律形慣によつてるもので、言はば全慣主義的精神
の詩であるから、時局下の時勢においても、相官に元気の好い活躍を示してゐる。
しかしそれかと言つて、或る政事状態の下に、或る文学が亡びるといふやうなことは、寧軍上にも道理上に
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」瀾瀾瀾讃。二
、
も考へられない。前にも言ふ通り、文学は悠久なものであつて、政事は一時的の現象である.本一貫肋叩のhヌ畢と
文学者は、常にジャーナリズムを他所眼に見てゐる。詩人が政事に関心をもつのは好い。だが政事に蓼術の節
を要るのは、決して讃めるべきことではない。