頼朝の髑髏
                          されかうべ
 鎌倉の或る挿寺に、少し以前まで、∴頼朝公三歳の時の濁渡」が、賓物として陳列してあつたことは有名な
話である。五十何歳かで死んだ頼朝の濁牒と、三歳の時の頼朝の濁礁とは、哲畢上から言へば別個の賓在であ
るから、それが二つあつたところで不思議はないが、賓際の現象として、たしかに一つしかないのだから妙で
ぁる。賓見した人の講によれば、何だか非常に小さな物で、おそらく人間の鰐髄ではなく、猿か何かの頭蓋骨
だらうといふことであつた。
 その珍らしい「賓物」は、古く江戸時代から飾られてぁった物だが、昔は「三歳の時」といふ註蒋がなく、
おそらく畢に「頼朝公の濁壌」として認めてあつたのだらう。或る時その見物人の一人が不審を抱き、「頼朝
j∂∫ 随筆

公は有名な頁頭であつたといふのに、これはあまりに小さすぎる0」と質問した。すると和伶は即座にぬから
ず「さればでござる0これは頼朝公三歳の時のlかシ†でござる。」と答へた。それ以来無邪気な案内小僧
が、「三歳の時の御a打かいごを反詞したといふのが、おそらくその賓物の縁起であらう。
人間死せば木石に化す0蓋世の英雄も猿準も、紹世の美人も牛馬も、ひとしくこれ皆言の濁壌にすぎない。
生者必滅、禽者常離、無明長夜の夢から醒めて、早く悟造に入るが好いといふ、押の幽玄な機微を教へるため
しやうじやひつめつ ゑ しやじやうり むみやうちやうや
に、わざと猿の頭蓋骨などを陳列して、皮肉に頼朝の骨などと言つたのだらう。それで辞磯のわからぬ俗物の
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見物人から、野暮な質問を受けた時、諒まがひの頓智によつて、三歳の時のされかうべで御座ると、胸の透
                                   し っ
くやうに痛快なイロニイを答挿したのだ0もしその見物人が、もつと執念ツこい鰐らずやで、更らにその不合
理を難詰したら、「喝」と和尚から響叱され、濁健と議に数珠でなぐられたにちがひない。そこで考へて見
ると、「洒落」や「通」を好んだ昔の江戸人の心境には、どこかその本質鮎で縛や併敦の機微に通じてゐるも
のがある0市井的に巷話北された蒜頓智物語は、所詮彼等によつて市民化された彿敦であり、逆にまた併敦
は、江戸ツ子によつて卑俗的にユーモア化され、その趣味生活の中に入り込んだ0「大いたち」といふ看板で、
戸板に血を塗つた物を見せるインチキの見世物を、大悦びで怒りもせずに見物した江戸人等は、頼朝公三歳の
されかうべを見物すぺく、わざわざ鎌倉へ旗行したほど、物好きで洒落ツ気の多い人種であつた。
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 江戸ツ子の誇りとする「通」とか「粋」とかいふことも、色に遊んで色に溺れず、情痴の世界に遊楽して、
しかも情痴に達観するところの、一種の縛的倍道心境を意味してゐた。
 しかし元来、洒落とか通とかいふことは、あへて江戸ツ子に限らず、文化の爛熟した政令に於ては、都合人
                                                    バ リT
の普遍的趣味性となるものである0それが極端になる場合は、江戸末期の頚廃的杜合の如く、或は現代巴里ジ
 ャンの代表する併蘭西の如く、遂には杜合的、国家的の崩壊を招くことになつて来る。由来、観家融合の強健
                    フ ラ ノ ス
∫古6
な精神は、洒落を理解しない野暮な田舎者によつて支持される0だが現代日本の過渡期文他山軸瀾瀾あまりに野暮
臭く、洒落を知らないことに寂しさがある。小学校の教師に引率された、修寧波行の生徒みたいな圃醍客が、
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京都の古刹や鎌倉の名所見物に来て、洒落も風流も解らぬ兵隊理窟を言ふ世の中では、いきほひ頼朝公のされ
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かうべも、江戸前の洒落と一所に、時世から隠遁せねばならなくなつた。