我等何をなすべきか
         − 青年の為に −

 我等何を為すべきかといふ疑問は、ひとり青年だけの疑問ではない。既に世に出てゐる壮年者も中年者も、今日共に皆悩んでゐる疑問である。しかし就中、それが最も痛切に青年を悩ますのは、今日の時代が青年の受難時代であるからである。
 青年の生命は、高遠な理想と純潔な恋愛だと言はれて居る。然るに現代の青年は、その二つの物を、共に持ち得ないのである。かつて明治時代の学生たちは、天下の総理大臣になることを理想とした。大正時代の学生たちは、財界の巨人になることを理想にした。ところで今日の学生たちは、小会社の重役になることさへも夢想しない。夢想しないのではなく、現実の社会事情が、夢想することを許さないのである。彼等の悲しい願望は、とにかくにも学校を卒業して、食ひはぐれのない仕事にありつき、平凡無為の一生を終りたいといふ一事である。かつて昔の学生たちは、天下の豪傑を以て自ら任じ、牛肉屋の二階に国家の経営を論じて痛飲した。今日の卒業を経えた学生たちは、喫茶店の一隅に小さくかたまり、如何にして持参金付の妻をもらふべきか、いかにしてサラリーマンの一椅子を買ふべきかを相談してゐる。理想が奪はれるどころではない。理想といふ言葉自身が、空虚なナンセンスになつてるのである。今日天下の豪傑を以て任ずる男は、今の学生の仲間からは、応援団長的ユーモアの喜劇人物として嘲笑される。青年にとつて、これほど悲惨な時代がどこにあるか。
 ヤングライフから理想を除けば、後に残る生命は恋愛だけだ。しかもその恋愛すらが、今の青年には無所有なのだ。何よりも不幸なことには、今の若い娘自身が、青年を対手にしないのである。かつて昔は、大学生がすべての娘たちの恋人だつた。明治の小説「金色夜叉」では、第一高等学校の生徒でさへが娘たちの恋人として表象されてゐる。所で今の若い女には、その小説が不思議でたまらないのだ。大学生でさへも、彼等は子供扱ひにして対手にしない。況んや中学生に毛の生えた一高の生徒なんかチヤンチヤラ可笑くつてと、彼等はその芝居を見ながら座席でゲラゲラ笑ひこける。それが皆女学校を出たばかりの小娘なのだ。青年にとつて、これほど悲惨な時代がどこにあるか。
 今の青年に、もし何かの理想することがあるとすれば、重役の娘を妻にもらひ、郊外の小さな借家に住み、蓄音機の一台でも買ひ、そして絶えず新妻の御機嫌をとり、持参金付の尻の下にしかれて満悦しながら、エロチックな性的遊戯をして平凡無事に暮したいのだ。雑誌「主婦之友」の口絵に描く田中比佐良のエロ漫画は、かうした現代青年の悲しい理想を現実して居り、それによつて学生の読者を多分に収得してゐるのである。そして町に唄ふ流行歌は、
 「あなたと呼べば、あなたと答へる。山のこだまの楽しさよ。あなた。何だい。後は言へない、二人は若い。」
 と、「主婦之友」口絵のエロ漫画を、そつくりその音楽で唄ふことで、理想を持たない青年の悲しい腋の下を擽つて居る。制服をきた学生たちが、町にこの唄を唄ふのを聴く時ほど、今の世が情なくなる時はない。青年は何所に居るのだ。高邁な理想も持たず、純潔な恋愛も知らず、功利的打算によつて結婚し、女房の尻にしかれてデレデレしながら、「あなた!」「何だい」と答へるやうな青年が、しかも自ら「二人は若い」と誇らしげに言ふのを聞いては、げに浅ましさを通り越して、人類の猿猴的堕落といふ思ひがする。
 まことに今日の日本は、青年といふ言葉がそのイデーを失ひ、単に「二人は若い」の猿猴的思春期を意味する言語に変つてしまつた。しかし社会の実相といふものは、常にいかなる場合に於ても、互に矛盾する二つの反流が交叉してゐるのである。青年をかかる悲境のどん底に陥入れた現代社会は、今や一方で青年を声高く呼び求め、すべての希望を若者の奮起にかけてゐるのだ。「青年」といふ言葉、「青年的」といふ言葉が、今日の如く諸方で呼ばれ、時代の熱情的詩語となつてゐる時代はない。例へば僕等の文壇に於てさへも、今日最もパッショネートの刺戟を与へてゐる文藝思潮は、青年の純潔性とロマンチシズムとを同復しようとしてゐるところの、日本浪曼派等の運動であり、そしてこの同じ日本浪曼派は、今日の日本のあらゆる社会 ― 政界にも、財界にも、教育界にも、宗教界にも ― 至るところに呼びあげられ、潮流されてゐる傾向なのだ。
 今や青年の時代は来た。すくなくとも時代と文化が、それを熱意し、呼び求めて居るのである。そして人心の求めるものは必ず現実に実質さるべき筈である。物究まれば此所に通ず。失意の谷底に突き落され、その純真性もヒューマニチイも、共にその青春から奪略された青年等が、今や時代と文化に要求されて、社会の第一線に奮起すべき秋は来た。遂に昨日の失意者は明日の大得意者になるであらう。青年の受難日は既に終つた。よろしく諸君の憂愁を捨て、欣舞して盃をあぐべきである。
 しかしながら人々の求めるものは只今有る如き「現実の青年」ではない。なぜならその現実の青年、「主婦之友」のエロ漫画を見てヨダレを垂らし、持参金付の嫁探しに夢中となり、煩悶もなく猜疑もなく、無神経の動物的安易さを楽しんでる如き若者は単なる年齢上の若者である以上、真の意味での「青年」でないからである。時代と文化が求めてるものは、生活上の青年でなくして、イデーとしての青年なのだ。即ち言へば、青年の特色とすべき諸性情 ― 純潔性や、情熱性や、ロマンチシズムや、高邁な理想や ― を持つてるところゐ青年なのだ。
 我等何を為すべきか? といふ青年への提案は、此所に至つて明白である。即ち今日の失意した青年が、明日の希望ある青年として生きる為には、現に今日の彼等が生活してゐるところの、一切の悪しき環境、習俗、流行、輿論、常識等に反抗し、かかる者から一人孤立して新生せねばならないのである。例へば諸君の友人と、諸君の常識と、諸君の環境とは、今旦最速な理想を語つたり、純潔な恋愛を説いたりする男を見て、仲間中の物笑ひにし、時代遅れの馬鹿者として嘲笑する。そして諸君が、かかるグループの一員に居り、かかる輿論の環境に住んでる限り、諸君は永久に「堕落した青年」であり、永久に没落の谷底から浮べないのだ。なぜなら今日の文化と社会が呼んでゐるものは、諸君が「馬鹿者」として嘲笑するところの、真の純潔性や高い理念を持つた青年、即ち真の青年らしき青年、イデーとしての青年であるからである。即ち言へば、諸君はその自ら嘲笑愚弄する者の側へ、諸君自身を逆に転進させ、認識価値のコペルニクス的転回をせねばならないのだ。