宿命について
世界一の奇術師と言はれる大マヂーニが、その後准者の名取弟子を探すために、世界漫遊の途次、先日、日
本の素人手品組合部へ来てかういふ意味のことを言つた。私の一つの悲みは、未だに伶、私の跡を准ぐべき弟
子が見官らないといふことである。私の一人の息子は、技術の修業に熱心であり、相常には手品をする。しか
し到底私の後贈者たるぺき人材ではない。なぜなら手品といふものは、技術の練習によつて上達すべきもので
なく、全く生れ付の天才を要するからと。流石に一事に秀でた名人の言葉は、ちがふものだと思つて感心した。
このマヂーニの言葉は、もちろん手品ばかりでなく、すぺての技拳、奉術に共通して、本質上の哲拳的眞理を
語つてる。資際僕等の詩や文学にしても、本質上の財産は天分であつて、後天的の修業や経験なんてものは、
殆んど僅かしか役に立たない。「年期を入れて叩き込む」といふやうな職人言葉が、一しきり日本の文壇で流
行したが、いかに年期を入れて修業しても、生得の凡庸作家が、一流の天才になることはできないだらう。
今日の学者の定説では、教育の効果が甚だ低く限定されてる。なぜなら或る特殊の学課や技術に対する、或
る子供等の才能といふものは、殆んど全く先天的に決定されてるものであつて、後天的の教育によつて、それ
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を多大に餞育させることもできなければ、それを故意に抑歴することもできない(天才はどんな境遇にあつて
も天才である)、といふのが、近代寧界の定説となつてるからである。そこで今日では、教育よりむしろ優生
畢の方が、杜合上の先決問題となつてる程で、僕等の思想傾向も、強制的に宿命論の方へ導かれて来る。眞箕
の哲理をいへば、人生に於て、宿命以外に何物もないかも知れないのである。
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