初夏の詩情
 日本の季節の中では、初夏と晩秋がいちばん楽しく、絶好の季節のやうに思はれる。特に桐の筏の吹く五月
頃の季節、即ち所謂「初夏新緑」の候は、妙に杢気が甘ずつばく、杢が透明に青くすんで、萬物の色が明るく
鮮明に冴え、日本董的であるよりも、むしろ洋量的風物を思はせる。物の匂ひや肌ざはりやが、最も鋭敏に感
じられ、官能の窓が一時に開放されるのもこの頃である。僕はその頃になると、不思議にロマンチックの詩情
に駆られ、何所かの知らない遠い所へ、ひそかに旗をしてみたいやうな、夢見心の郷愁に誘はれる。何がなし
初夏の季節は、不思議に浪漫的の季節であり、他の日本的な四季とちがつて、例外的に西洋臭い情緒をもつた
季節である。そのためか知らないが、昔の日本の詩歌人たちは、かうした初夏の季節や風物やを、趣味的にあ
まり好まなかつたやうに思はれる。昔の日本の風雅人等は、春と秋とを専ら好んで、夏と冬とを好かなかつた。
特に就中、彼等が春を愛したことは、古今集以下の勅撰歌集に於て、春の部の歌が最も多いことによつて明ら
 かである。
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 しかし春といふ季節は、僕自身の主観に於ては、決してそんなに好蝉拳節で鎌轡倹ネ妙柁ぎ褒朝鮮くむく
むくして、生理的に不健康な感じがするし、賓際にまた頭痛や目まひがする。特に東京地方の春と爽ては、挨
がひどく立ちのぼるので、一面に物が汚れて薄ぎたなく、萬象が不透明に霞んで見える。さうした挨つぽい客
気の中で、初めから既に禎色して、自づちやけた色をしてゐる櫻の花を見る毎に、僕はいつも不快な性病をさ
へも聯想する。昔から多くの人々が、何でこんな櫻なんて汚ない花を、1そんなにも多くの詩歌に詠んで愛した
のか。そもそもまた春なんて詰らぬ季節を、どうしてそんなにも嘆美したのか。僕には長い間このわけが疑問
であつた。
 ところが往年の春、一度京都に遊んで以来、初めてこの庚問が氷解した。京都の春は賓に美しい。第一、東
京のやうに挨がなく、風が吹かないで静かな上に、水蒸気が多いため、在来がしつとりとして濡れて唐り、萬
象の風物が色を含んで、′艶に腺購と霞んで見える。特に夕景の美しさは格別で、山際かけて地平線の茎に薄い
腋脂色の春霞がたなびき、錦檜の杢にそつくりである。さうした景象の中で、櫻の荏が美女のやうに艶めかし
く咲いてるのである。東京の櫻を見て「性病」を聯想した僕は、京都の櫻を見て「懸」を聯想し、初めて「衣」
といふ日本語の意味がわかつた。(花といふ日本語は、普通に櫻の花を意味し、併せて艶めかしいこと、色め
いたこせを意味する。)
 昔の日本の詩歌人たち、特に王朝時代の歌人たちが、そんなにも春を愛し、春の歌を無数に詠んだといふわ
                                          く はり き ひん
けも、京都へ来て初めて僕に合鮎された。そ.の頃の歌人たちは、たいてい皆殿上人の公卿貴嬢で、その殆んど
全部が京都に住んで居たのである。そして同時にさうした彼等の歌の意味も、初めて現質感として理解された0
見わたせば山もと饅む水鶴瀬川夕ぺは秋せ何おるひけむ
(後鳥羽院)
j∫ア 随筆

霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の杢
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の杢
大在は梅の匂ひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月
(藤原家隆)
(藤原定家)
 (藤原定家)
ガβ
 花は散りその色となく眺むればむなしき杢に春雨ぞふる (式子内親王)

かうした昔の歌をよんで、以前の僕には何の面白味もなく、何の現貴慮もイメーヂに浮ばなかつた。むしろ
さうした歌人たちが、言語を遊戯的に修節季化して、いたづらに美鮮麗句を址ぺることの態度に封して反感し
た0それが京都の春を見てから、自分のまちがひであることがすつかり鰐つた。「腱ろにかすむ」とか「霞に
暮るる」とかの言葉の詩趣は、東京に住んでる人たちは、単なる美鮮麗句として以外、絶封に鰐らないことで
あるが、京都の春を知る人には、それが異に文字通りの馬生であり、現音感であることが解るのである。同時
にまたさうした春の歌や櫻の歌が、畢なる風物の叙景以外、歌の心の奥深く、ひそかに幽玄に匂はせてるとこ
ろの、色めきたる懸心の種を知ることも出来るのである。
しかし現賓東京に住み、長く関東地方で育つた僕は、年々歳々、自つちやけた櫻を眺め、挨つぽい春の季節
ばかりを経験して居るO「花は散りその色となく眺むればむなしき杢に春雨ぞふる」といふやうな色めいた歌
の情趣は、現在東京に住んでる僕の場合、容易にイメーヂに浮んで来ない。僕の環境にあつて、常に最もよく
イメーヂに浮んで来るのは、やはり前言つた「初夏新緑」の季節である○つまり言つて見れば、東京及び関東
地方に於ては、この頃の季節が最も美しく楽しいのである0だが日本の文化は、昔から奈良の都を中心として、
関西地方のみで紫柴した0さうして武家は関東に集囲し、詩人とインテリゲンチェアの風流人とは、多く皆関
西に生活しで居た0そのため日本の詩歌にあつては、初夏を歌つたものが極めてすくなく、殆んど稀有の故に
すぎない。まれにそれを歌つたものも、僕等の詩情する季節感とは、大いに趣きが異つて居る。即ちたとへば、

淵瀾瀾周
うちしめり菖蒲ぞかをる時鳥なくや五月の雨の夕ぐれ
時烏鳴くや五月のあやめ革あやめも知らぬ懸もするかな
 といふ風に、梅雨時のじめじめした暗鬱な季節感を詠んだもので、あの洋量的の明るい風物や、浪漫的の郷
愁感をそそるところの、眞の初夏新緑の季節を歌つた詩歌は、殆んど中世以後の日本にない。ただ上古の詞葉
集であつた常葉集に、珍らしくさうした浪漫的の初夏の歌が散在するのは、昔時唐を経て間接に俸来した西欧
の文化が、奈良朝歌人に何かの影響を輿へたものか。もしくはその所謂「詠み人知らず」の庶民たちが、全国
の諸地方に散乱して居た為かであらう。
 しかし此虞に最も奇蹟的な存在は、音に輿謝蕪村の俳句である。日本の俳人は歌人と同じく、芭蕉以来系譜
的に春秋の二季を愛し、その季に属する作品が多いのに反して、初夏を詠じたものは甚だすくなく、素堂の名
句「目に青葉山ほととぎす初鰹」の如きも、むしろ異例的な作にすぎない。然るに蘇村の俳句には、さうした
初夏の明朗感や郷愁感を歌つたものが、量に於て相常に多いばかりでなく、貿に於ても極めて秀れて居るので
ある。・試みに次の蘇村の俳句を見よ。
愁ひつつ丘に登れば花茨
紹頂の城たのもしき若葉かな
鮒鮮や彦根の城に雲かかる
j∫タ 随筆

更衣野路の人はつかに白し
花茨故郷の道に似たるかな
jの
 此等の俳句が詠じてゐるものは、すぺて初夏新緑の頃の季節が特色してゐるところの、明るく爽やかな洋室
的風光であ映、∵そしてその詩情の本質を流れてるものは、同じその季節が誘ふところの、一種の度紗たるロマ
ンチックな郷愁である。「在家」の句に於て1いかにその浪漫的郷愁の詩情が、強く高調的に歌はれて古かを
見よ。そして「更衣」の句や「絶頂の城」の句が、いかに洋室風の明るい色彩と客気を措いてるかを見よ。さ
らにまた「鮒鮮」の旬が、その詩情の本質に於て、島崎藤村氏の名詩「千曲川旗情の歌」と共通して居り、浪
漫的抒情の高い調ぺに富んでるかを見よ。帝村の生きてた天明年間は、十九世紀の初頭に嘗り、西欧の文壇で
は、浪漫主義が全盛に栄えて居た時であつた。しかし同時代の鎖国してゐた島国日本に、さうした西欧文化の
渡来して来るわけがないから、蘇村の新らしさと浪漫性とは、全く日本で孤濁に芽生えた攣り種で、しかも後
に根をつぐものなく、一代限りで亡びてしまつた花であつた。しかも蘇村の生涯は、大部分を京都に暮らして
居たことを考へるとき、いょいょ以てその拳衝の偶然性と、天才の偶然性ハ天才の出生は、科挙上にも蓋然律
の方則でしか澄明されず、全く偶然のものである。)が考へられる。
 明治以後になつてから、西欧詩の影響の下に、俸統的な日本詩歌のマンネリ驚ムを脱却して、新しい季節感
を歌つた詩歌人はすくなくないが、その最も優なるものは北原白秋氏であつた。特に氏の魔女歌集「桐の花」
は、その書物の題名が示す如く、集中の歌の大部分が初夏新緑の頃の明るく官能的な風物を歌つたもので、そ
のりリシズムの本質には、少年の日のやるせない哀傷感が、一種の淡いノスタルヂアとなつて、桐の花の責粉
のやうに漂づて居る。
1題謂
 最後にこの鵜誌の讃者のために、僕の青年時代に作つた初期の詩から、さうした季節感を歌づた作品ノ欝を
載せてみょう。
   放上

     ゆ    おも
ふらんすへ行きたしと思へども
          とほ
ふらんすはあまりに達し
    あたら せ ぴろ
せめては新しき背廣をきて
き    たび い
気ままなる故に出でてみむ
き しや やまみち ゆ
汽車が山道を行くとき
孔づいろ まど よ
水色の窓に寄りかかりて
わ        うれ         おも
我れひとり嬉しきことを思はむ。
き つき あさ しののめ
五月の朝の東雲
    わかぐさ
こころ
うら若革のもゆる心まかせに。