危機の藝術
現代は世界的の大動乱時代である。道徳、宗教、畢蜃、思想、蜃術、文学等のすぺての文化は、かうした動
乱の嵐と渦巻に巻き込まれて、舵機と羅針盤を失費し、あてもなく自信もなく、荒天の日の海洋上を漂泊して
ゐる0その意味に於て現代は、正に文化の「難航時代」といふことができるだらう。しかもさうした目前の現
象から、或る一部の人の思惟するやうに、現代を文化の「危機」と考へるのは、誇張に過ぎた思ひすごしで、
正しい見識ではないと思ふ。
文化や奉術やが、音の危機に迫つてゐるといふことは、さうしたすぺての物が、根こそぎ完全に破壊され、
近い未来に於てさへも、容易に新しい芽を出し得ないほど、無惨な致命的傷害を受ける状態を言ふのである。
だが私の見る所によれば、現代は畢に文化の過渡期に過ぎない。即ち過去の古い美挙や、古い世界観による文
化が亡びて、新しい物がこれに代り、新陳代謝をしようとしてゐる時期なのである。もつとも今日のやうな非
常時、世界の国家や民族やが、何れも生死存亡の死闘を績け、食ふか食はれj袖の緊張以外、全く他を顧みる
鎗地がないやうな時代に於ては、直接書生活に関係なく、何の生産の足しにもならず、何の軍備の代用品にも
ならないやうな奉術文撃の顆は、一時無用の有術事として、不必要に冷遇されることは言ふ迄もない。今日の
やうな時局に際して、一部の文化が犠牲にされることは止むを得ないと、開戦昔時にヒットラアも公言してる
し、数が其軍部官局者もまた、今のやうな時代に於ては、国家奉公の忠誠を蓋す以外に、文化も彗術も存在し
▲得な掛ヤこ▲告熟して居る袖
だがしかし、さうした為政者たちの言葉は、すべて国家存亡の危撥を目前にした、非常時といふ特殊な期間
にだけ、非常語として告げられてることを知らねばならない。たしかにその非常時の期間だけは、文化や蓼衝
は衰亡する。だがそれは一時の短かい瞬間であり、永遠的の衰亡ではない。却つてその非常時がすぎた戦後に
於て、蜃術文化の目ざましい磯展を示すことは、過去の多くの歴史に照らして明らかである。人顆の歴史が、
今日文化の危機に臨んで居るといふやうなことは、世界的にも日本的にも、私は断じて考へられない0思ふに
さうした悲観説を抱く人々は、過去に悌蘭西文化を崇拝し、それのみを唯一最善のものと信じて居たことから、
最近悌蘭西の敗北によつて、この世の終りが来た如く、紹望悲歎の念に坤吟してゐる人々であらう0だが最近
の悌蘭西文化、特に二十世紀大戦以来の新しい彿蘭西奉術は、既にその生気と達しさとを失ひ、皮相にアメリ
ヵ化した虚脱者の蜃術に顆して居る。比較的竪賓なジイドやヴアレリイの文学さへ、一部の知識階級者から、
「世界最高の智慧」と許されるにもかかはらず、賓はその文畢的エスプリに於て、老衰者の虚脱症を徽供して
ゐるものであつた。生物畢の自然法則から推理しても、官然かうした彿蘭西文化は、早晩他の若く達しい種族
によつて、生命の新陳代謝をされる以外に、生存の意義を持ち得ないものであつた。さうした文化人であつた
彿蘭西人が、若く澄刺たる濁逸人に敗れたことも首然だつた。
しかし過去の歴史上には、人類の文化や蜃衝やが、本官に危機に瀕したこともあつた0それは賓際の野攣人
が、文明人を僧服させた時であつた。たとへば西羅馬帝国の末期−史家の所謂民族大移動の時代1−に、ゴ
ート人や、ヴアンダル人や、フランク人やの野攣人が、交々羅馬に侵入して、希腺以来の俸統をついだ絢爛た
る西欧文化を、跡形もなく破壊し蓋した時であつた。その為二宮年もの長い間、欧羅巴は荒蓼たる砂漠に化し
て、文化や肇術の花は根絶やしになつてしまつた。だが東西南洋の世界を合はせて、我等の文化や蜃術がもつ
ブタ0
j夕J 随筆
と無漑の目にあはされたのは、成吉思汗による蒙盲人の世界侵略であつた0成育思汗の名は、今日の日本に於
ジソギスカソ
て、ヒロイズムの山頂に高く仰がれ、或る意味での流行名詞にさへもなつてる○尿ひもなく彼は、世界的英雄
中の英雄であつた0しかし彼の為した事業は、破壊と侵略と殺教との外、何物の建設でもなかつた。彼の率ゐ
た蒙盲人等は、世界のどんな野攣人より、もつとひどい狩猛兇意の野蟹人であつた。彼等の軍隊が通つた跡で
は、老弱男女の別を問はず、すぺての敵国の人民等が、一人残らず虐殺された0単に人間ばかりではなく、馬
も草木も、蒜の生物が食ひつくされ、野に全く生色を留めなかつた○見嘗り次第に、彼等は建築物を叩きこ
はし、美術を破壊し、過去に人類が辛苦して作りあげた一切の貴重な宰術文化を破壊し蓋した。その恐るぺき
惨昔の後は、あだかも蛙の大群囲によつて襲撃され、野に言の青色も留めなくなつてしまつた、惨々たる農
園のやうな観を呈した。
この恐るぺき侵略者は、西洋に於てょりも、むしろ東洋に於て、その用捨なき惨晋の手をほしいままにした。
なぜなら西洋の文化は、常時まだあまり高級な物ではなく、僅かに、キリスト教の教化の下に、多くの無知の
未開人等が、漸く多少文化の何物たるかを知つた程度のものであつた0之に反して東洋では、その同じ十三世
紀の頃、支那に絢爛たる文化の華が満開して居た○特に漢人の王朝たる宋の文化は、大唐の衣鉢をついで、世
ク.ビ ラ イ
界に冠たるものであつた0成青息汗と忽必烈とは、かうした中華の文化に封して、思ふがままに、その兇暴な
破壊本能を満足させた0周、漢、唐、宋以来、歴朝何千年の文化を俸統した中華文化は、この時蒙古人の馬蹄
によつて蹟蹄され、過去のあらゆる文化的遺産を破壊され蓋した0そして再度もはや、過去の光柴ある日を復
活する雀みもなく、今日見る如き憐れな攣貌を止めて居る。
成背思汗のやうな英雄が、再度もはや地球↓に現れないほど、人類にとつて望ましく幸福なことはない。な
ぜなら彼の事業は、暴力による破壊と殺教と、単なる領土的侵略以外に、何の意味もないものであつたからで
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丁レキサソ〆− 。。窮d確−題W毒
ぁる。之に反して、ナポレオンや歴山大王の事業は、人顆文化史上に大きな意義を持づものだつ水那印度
とベルシアと、世界の大牛を征服した歴山大王は、その深く愛敬した希脱文化を、東方諸国へ俸達することに
熱心だつた。ナポレオンは悌蘭西革命後の新世界を、欧羅巴の政治上に資現して、政令組織の大革新を行はう
とした。専制君主と、貴族と、偲侶とによつて支配された蕾鰹制の保守的国家は、唯一の露西亜を除くの外、
ナポレオン戦争によつて近代史から滑滅した。今日ではヒットラアが、資本主義末期の欧洲を改造するため、
新しい意味でのナポレオン戦争を絶績して居る。
前に述べた通り、園家がその興亡を賭して戦つてる非常時には、一時文化や蛮術が衰退するのは止むを得な
い。したがつてその戦争が長期に亙り、相互に敵の侵略を受けたりした場合は、自然、文化の蒙る惨害が甚だ
しい。百年戦争と三十年戦争とは、欧羅巴の拳術文化を荒廃させた。しかし近代に於ける武器の進歩と経済組
織は、そんなにひどい長期戦は宿命的に不可能にした。
前欧洲大戦では、勝つた側も負けた側も、共に経済的に破滅した為、結局共倒れとなつて惨憺たる結果に終
った。有年戦争などといふことは、二十世紀の歴史上で紹封に有り得ないのである。
それ故に今日では、長期戦による文化の荒廃とか、蛮術の危機とかいふ憂ひは、殆んど全く無いのである0
その上今日は、民衆の意志輿論が政治を支配して居る時代である。この鮎では、ナチスやファッショの如き全
鰹主義囲も同じであり、結局その濁裁者は、国民大多数との意志や感情やを、一人のイデーに表象して居るも
のに外ならない。民衆の意志や輿論と関係なく、畢なる園王の領土的野心や、貴族、官僚等の濁断的主観によ
って、上からの強制による戦争や法律やを、強ひて園民に課するといふやうなことは、事賓上に於て不可能で
ぁる。つまり現代にあつては、或る種の「濁裁者」は居ても「専制者」は居ないのである。
したがつて成育思汗は勿論のこと、ナポレオンや、歴山大王や、チヤールス十二世や、ニコラス一世のやう
j9j 随筆
な英雄や専制者も、その原型のままのタイブでは、現代に生存し得ない事情にある。
要するに「奉術の危機」といふやうな観念は、本質↓の見地からは杷憂にすぎない。しかし或る特殊の季術
が、或る時代に繁柴して、或る時に衰退するといふことはある0例へば西洋の古代、及び支那の唐宋時代に最
高の態育を逢げた詩文挙が、近代に於て散文寧に歴倒され、世界的に衰退の運命をたどつて居るといふやうな
革質がある0また内容よりも形式の美を重んじ、作者の特殊的な個性よりも、民族全髄の理想を表現すること
に重きを置いた、ギリシア的全準王義の古典蛮術が、自由主義や個人主義の柴えた近代商業時代に入つてから、
自然に厳つて凋落したといふ如き事賓もある0ところで今日のせ界は、逆にまた資本主義的な個人主義から、
全準王義に辟らうとする縛廻期であるから、近い清爽の文化や蜃術は、必然に自由主義から形式主義へ、近代
主義から古典主義へ同蹄することは明らかである0そこで十九世紀的教養を受けた奉衝家や羞丁者の中には、
現代を悲観的に考へる人もあるだらうが、それは決して奉術の危機ではなく、彼等の偶執する先入見の危機に
すぎない0しかもその杷憂さへ、賓には取り越し苦労にすぎないのである0なぜなら奉術や文寧のやうに、人
心の情操に深く根ざしたものは、政治や国債の攣化のやうに、一朝にして白から黒への急廻棒をすることがな
いからである0日本の文拳や奉術は、維新の政治的大革新にもかかはらず、伶明治中葉に至る革も、依然とし
て江戸俸統の血肱を俸へて居た0今日のソビエート露西亜で、拳術らしい奉衝を創作してゐる人々は、チヤイ
コフスキイやツルゲネフの流れを汲んでゐる音楽家や文畢者である0スターリンの共産政府が、赤の国家的授
賞を輿へるやうな奉術家や文学者に、一人としてロクな作家は居やしない。
かつて十八、九世紀の頃、今日とは全く別の妙な事情で、西洋に蜃術の危機が叫ばれたことがある。それは
科学の進歩が、蓼術を亡ぼすといふのであつた0(菊池寛氏も、いつかそれに似たやうなことを言はれた。)
ダゲールが姶めて馬眞器を凌明した時、多くの美術家は悲観していつた0給養の時代は眈に経つた。馬雲小
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題点
‖七重¶j=一淵
」」れに代るであらうと。草陰その頃の西洋の檜は、自然のデテールを克明に馬質することを能Lかし、ミ全く霹靂
と同じやうなもの −馬眞を表現の理想としたやうなもの − であつたから、かうした美術家たちの杷憂にも
一理があつた。活動馬眞が饅明された時にも、或る俳優たちは悲観して、劇の無用時代が来たといつた0さら
に最近、精巧な自動ピアノが俊明された時、ピアニスト不用論を碍へる人々が現はれた。
政治の欒革や戦争やが、奉術を本質的な危機に陥れるといふやうな考へも、要するに「科学が肇術を亡ぼ
す」といふ説に同じく、むしろ滑稽に近い杷憂である。
ただ前に遽ぺた如く、今日のやうな世界的動乱の大渦中に於て、垂術家が自ら廃すべき生活の航路を失ひ、
蛮術が絶域と羅針盤を失費して、大洋上にあてのない漂流を績けるといふこと、したがつて一時文寧奉衝が不
振となり、甚だしく不利の状態に陥れられるといふことだけは、尿ひもない革質である。