キリスト教の秘密
「お父さんなぜお酒を飲むの↑」
と、いつも晩酌の時に子供が言ふ。この女の鬼は、生れつき少し痴呆で、低能鬼の居る特殊畢枚に入園し、メ
ソヂストのキリスト教を信仰してゐる。それで酒を飲むことが、紳の敦に背いた悪事だと教へられてる。子供
は泣きながら私の手から盃を奪つて言ふ。
「お父さん。なぜお酒を飲むの?」
エ,夕 随筆

 心の中で泣きながら、私もそれに答へて言ふ。
「それはね。僕にはいろいろな悩みがあるからさ。」
「ではなぜお祈りをしないの。マリア様にお所りなさいね。お父さん!」
 この子供の言葉を聞く毎に、私はキリスト教といふ不思議な宗教の、眞の秘密なエスプリに解れた思ひがす
る。大道の救世軍が、太鼓を叩いて禁酒運動の説教をするのを開いて、私はいつもキリスト教といふ宗教が、
いかに馬鹿馬鹿しいものかといふことを考へる。酒を飲むといふことが、何故紳の道に背いた悪事なのか、い
かにしても私の理性には了解できないことなのである。だがその同じ言葉が、白痴の子供のロから出る時、初
めてょく了解されたやうに思ふ。
 キリスト教といふ宗教は、ヒユーマニチイの最も純潔なイデーを求めて、絶えず所藤し績けてる宗教なのだ。
それは白百合の潔白さにも、童貞の美しさにも、虞女の純潔さにも誓へられる。だがもつと本願的に秘奥のも
のは、白痴の子供に聖塞されてるエスプリなのだ。ドストイエフスキイもそれを書いたし、辻野久憲もそれを
言つたし、山岸外史もそれを見たし、ヱルレーヌやボードレエルも、抒情詩の報律でそれを歌つた。
 キリスト教に封此して、私はいつも係数のことを考へる。教理の深遠さから言へば、この二つの宗教は比較
にならない。ショーペンハゥエルが椰輸したやうに、キリスト教でもつて悌敦の教理に官らうと考へるのは、
卵を岩石に投げるやうなものである。新井白石が、葡萄牙人の俸道師に面接し、初めてキリスト教の概念を聞
いた時、その紳話の荒唐無稽さと、その教理の非論理極まる馬鹿馬鹿しさに唖然とし、これがかの大智識と大
科挙を所有するところの、地球第一の理性人たる西欧人の宗教とは、いかにしても考へることができないと言
つて不思議がつた。俳教の教理は、すくなくとも或る本質の鮎に於て、今日最高の饅達をした科畢や哲学と矛
盾なくして対抗し得る。だが今日の常識から見ても、キリスト教は素朴な子供臭いお伽謡にしかすぎないので
朗り
 ある0
 だがそれにもかかはらず、キリスト教には不思議に深遠秘密なエスプリがある。それは大乗俳教の全官学系
統を以てしても、解決のできないユニイタの不思議である。たしかにキリスト教は、宗教の本質鮎に於て係数
とちがつて居る。だれにも直覚的に解ることは、係数が「苦労人の宗教」なのに封し、キリスト教が無垢な
「青年の宗教」だといふことである。人生の多くの経験と苦労を味ひ、煩悩地獄と業火を経た中年者に取つて、
稗迦の教はこの上もない救ひを輿へる。だがキリスト教は、童貞魔女の純潔さを持つた無垢の青年にのみ、眞
資の信仰が合得される。そこでキリスト教の純のイデーは、結局ムイシユキン公欝や、ヱルレーヌのやうな人
人、魂の蕊から無垢で、全然世俗の常識を軟いた白痴(永遠の子供)に蹄するといふことになeのだらう0反
封に彿敦の堕落した象徴は、苦労人の世俗的な功利性になるかも知れない。キリスト教徒の純潔さに此して、
彿敦の墜落した僧侶等が、著るしく卑俗的に見えるのも官然である0マルチン・ルエアルの宗教革命は、羅馬
教合の僧侶たちが、功利的に世俗化し、あまりに苦労人化したことに対する反撃だつた0そしてその時には、
事貨上にキリスト教が彿教化してゐたのである。日本に来たヂエスイツト渡のカトリック敦は、その為に或る
時期まで、巧みに俳敦としてカモフラーヂし得た。
J4∫ 随筆