映画随想

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文蓼映真について
 拳へ肇映重度承前餅鰍軒塾て皆退屈で語義かつ池のは、▼原作を忠質に馬すことを主眼にし/」ゐたか
らである。勿論「原作を忠賓に馬す」といふことは、原理的には異義のないイデーであり、最も良心的の悪因
であるけれども、その方法として、映毒を文学に隷鹿させたのがまちがつてたのだ。言ふ迄もなく、映董は映
董であつて文学ではない。文季の表現するテクニックと、映真のカメラワークがするテクニックとは、本来全
く異質的のものなのである。然るに昔の文蜃映董は、自家の本質たるカメラワークを、文学のために致属させ
て、映真の映重たる償俺を自滅しひとへにただ「映董の文拳化」を悪因してゐた0つまり彼等のやつたことは、
初期の日本の活動馬眞が、ひとへに舞董劇の模倣をし、映童の演劇化をイデーしてゐたのと同じく、根本に於
ける認識不足があつたのである。
 映董が、それ自身の償俺に於て、異に文肇映重たる為には、原作に於ける一切の文学的表撃で、カメラワー
クのテクニックに翻案化せねばなちぬ。たとへば原作が、合議の妙味や文章の旨みで光彩を放つ場合は、映蓋
上でこれを他の全く別な風物印象のムーグイに代へ、表現上の完全な翻案化をせねばならぬ0更らにまた一歩
進んでは、原作のストーリイそのものすらも、必要に應じて大腸に攣更し映董化するために自由の翻案をせね
ばならぬ。つまり必要のことは、原作の文筆から、そのモチーヴのエスプリだけを糖取して、他の一切の「文
学」と「文字」とを、完全に映重から排除してしまふことなのである0勿論それをする為には、映董製作者に
秀れた二つの頭脳が要求される。一つは原作のエスプリを完全に理解する文学的頭脳であり、一つはこれを映
蓋化する篤の監督者的(翻案者的)頭脳である。そしてこの前者の為には、原作に忠貰であるほどよく、この
後者の為には、大腸不鴇であるほど好い。そこで文拳映量の書き製作者とは、原作に忠賓であらうとする文筆
良心と、逆にこれを自由に翻案改造しょうとする、大胸奔縦のカメラマン的飛躍性と二つの矛盾した両面を一
個に所有してゐる人なのである。
∫∫∫ 随筆

それ故眞の文蜃映董とは、要するに「映董の蛋化」を理念するものでなくして、逆に「文学の映董化」を
理念するものでなければならない○ところで霊の文蜃映董は、昔の蒙昧時代を既に況して、今や益ヒこの正
しい傾向に向つて進んで来てゐる0たとへば「大地」の如き、「どん底」の如き、或は日本物で「伊豆の雪」
や「若い人」の如き、原作の小説とは、スTリイそのものから異つて居り、殆んどこれを完全に映苦し、
カメラワークによつて異質化したものである0しかも此等の映董の償値は、その原作とちがふところの、別の
異質化した創作上の鮎に存するのである。
しかし文学的理静のない映董人にょつて、気まま璧丁に翻案化されたこの種の悪文蓼映董ほど、僕等にとつ
て腹立しく感じられるものはない0昔の蒙昧時代の文拳映董は、たしかに退屈千萬のものではあつたが、原作
に賽であらうとする意囲の↓では、むしろ同情を感じさせるものがあつた0しかし俗塵低級な趣味によつて、
立汲な文蓼作品を勝手に鰐繹づけ、これを異質的なものに活動責化してしまふのは、正しく原作に封する冒
涜!恵むぺき嘉卜と言はねばならぬ0僕の見た少数の映董中にも、この種の要季映董がすくなくなか
つた0その最も極端な扁として、やや古いアメリカ物から、ボオの小菅映董化した「黒猫」などが指摘さ
れ得る0この映童の如きは、タイトルにもし「アラン・ポオ原作・黒猫」といふ字が出なかつたら初めから絡
まで、全然別の映董として是へてしまふやうなものであつた0単にストーリイが攣つてるばかりでなく、ボ
オの神秘的な拳術精神が何所にもなく、全くヤンキイ式赤本趣味の通俗探偵小説として翻案誉れてゐるので
あつた。
 霊見た物では、武蒋野館で↓演した「自狼」などがその例である0これはジャック・ロンドンの「ホワイ
ト●ファング」を映童化したものださうで、スタリンにもわざわざ原作の小説本を出し、原作の書き出しをそ
づくり字幕代りに俊つ去るが、映董↓には少し晶作の精神がなく、似ても似つかないものであつた。前に
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朝周月周周項づ、苧ぞ.、
映葦化された同じ作者の姉妹第「野性の叫び」は見なかつたが、今度の「自狼」の映垂化は、単に失敗といふ
以上に原作に封する冒漬でさへある。第一に原作では、自狼の狼犬が主になつてるのに、この映董では人間の
生活が主になつてる。しかもその人間生活の扱ひ方が、アメリカ式マンネリズムの通俗人情本式であり、あの
ジャック・ロンドンの文畢に本質してゐるところの、強く逗ましい野性的の抗争熱情や、文明の悪と偽善に封
する、正義人の高邁な憤怒やが、映董のモチーヴから全く抹殺されてゐるのである。
 しかしかうした恋文蛮映董は、多く皆アメリカ馬眞に限つてゐる。流石に濁逸や俳蘭西の欧洲映真には、こ
んな無良心のものは見られない。日本馬眞でさへも、最近の文蜃映董は、他の物に比して一般に出来条えがょ
く、すくなくともアメリカ馬眞に此して、逢かに宰術的、文寧的の良心に富んでゐる。
トーキイについて
 トーキイになつてから、映董はたしかに立饉感を深くした。だが同時に、無筆映董時代の世界的普遍性を無
くしたことは、幾度繰返しても寂しく悲しいことである。特に世界の特殊園語人である僕等の日本人にとつて、
一層この悲しみの感が深いのである。だれでも映童館に入り、銀幕の檜を見る前に、先づ耳に入つてくる異人
 なんばんげきぜつご
の南轡駄舌語を聞き、あの鳥の鳴馨のやうに噂づる、紅毛男女の意味のわからぬチンプンカンを耳にする時、
一種理由のわからぬ不思議な反感が、むらむらと起つて来るのを禁じ得ないであらう。僕の老母の如きは、そ
の不快な反感からだけでも、紹封に西洋映童を見ないと言つてる。今日インテリ以外の一般大衆が、洋室に封し
て漠然たる嫌厭と反感を抱いてるのも、おそらくその同じ理由であらう。畢に日本ばかりの事ではない。濁逸、
悌蘭西等の諸国でも、外国語のトーキイ映真には全く大衆が寄り付かないので、殆んど興行償値がなく、稀れ
∫∫∫ 随筆

にしか上演されない′といふことである。外国語のトーキイ映童が公然と興行償俺をもつて上演されるのは、世
界で濁り日本だけださうである。(この日本人の不可思議な特殊性は、今日欧米人の研究問題となつてゐる。)
 西洋映塞がトーキイにならない前は、ずつと大衆との関係が親密だつた。無筆映董時代の洋室は、主として
洩草六直を中心として上演され、そのファンの大部分は、熊さん八さんの大衆的市井人であつた。所でトーキ
イになつてからは、この連中が全く西洋物に寄り付かないのである。賓際あのトーキイでしやぺる英語や欧洲
語の解る人は、日本人の中に殆んど幾人も居ないであらう。そのため御丁寧にも「日本語版」といふ通粁を、
董面の一端に日本文字で現はしてるが、あんなものを讃まされる事自身が、眈に不自然で腹が立つのだ。第一、
一方で董面を見ながら、一方で通辞の文字を讃み、二つの作業を同時にすることから不自然であり、疲労が非
常に甚だしく、保健上にも甚だ有著である。特に横智的の洒落や合議で持つてる映違になると、字幕を讃んで
る間に董面がどんどん撃つてくるので、殆んど董面を見る隙がなく、始から絡まで、まるで字幕を讃みに活動
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館へ入つたやうなものである。これほど馬鹿馬鹿しく腹の立つことはない。僕は公理としてかく断言する。自
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国語の映童はトーキイに限り、外国語の映董はサイレントに限る。(但し合議以外の音響は別である。)
 トーキイが無饗映董を駆逐して以来、僕等にとつて就中最も悲しいことは、喜劇が亡びてしまつたことであ
る。今日の息苦しい時代に於て、何よりも人々の求めてるものは、腹の底から饗を出して、ゲラゲラと馬鹿笑
ひをさせるところの喜劇である。賓際にまた昔から、大衆は常に最も喜劇映董を歓迎した。そこで古くは新馬
鹿大将やマツタスがあり、近くはキートン、チヤツプリン、ロイド等があつた。然るにトーキイになつてから、
殆んどかうしたすぺてのスタアが、映董の銀幕から滑えてしまひ、同時に僕等は一切の愉快な「笑ひ」を奪は
れてしまつた。ただ今日では僅かに一人のチヤツプリンが、時々亡壷のやうに生き現はれて、僕等の長く忘れ
でゐた「笑ひ」を再生させてくれるだけだが……しかもそのチヤツアリンは、敢然としてトーキイに反封し、
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世界の流行にh抗しで孤濁に無筆映董を守つてゐるのだ。
 今日のトーキイ時代になつてからも、別の喜劇といふものがないことはない。だがその所謂「新しい型の喜
劇」といふのは、アメリカ式西洋漫才の顆であつて、主として合話の洒落や磯智によつて、壊覚から人を笑は
せる類の者である。したがつてそれが僕等に一向面白くないこと、外国人にとつて日本の掛け合漫才が、退屈
以上の何物でもないのと同じである。だがチヤツプリンがトーキイに反封するのは、かうした世界的普遍性の
問題以上に、もつと奉術上の本質的な根接があるのだらう。賓際あの「笑はぬキートン」「むんずり屋のキー
トン」が、柄にもなくべラべラとしやべり出したのを聞いた時、僕等はその出演を強ひた合祀や監督の愚を恰
む以上に、もつと深刻な問題をトーキイの音劇について考へさせられた。喜劇映壷といふものが、将来もし何
かの新しい別の形式(今の愚劣な西洋漫才ではなく)を蜃見して、チヤツプリン式の曲馬道化的パントマイム
に代ることができない以上、今日の問題として、トーキイの採用は紹封に不可であり、むしろ愚劣事であるこ
とを断言し得る。しかしこの「聴明」を持して、一世の「愚劣な流行」と抗争を績けてゐるのは、世界にただ
一人の英雄チヤツプリンがあるのみである。しかも孤軍奮闘、世界全映重合牡の大資本を敵に廻して、彼の立
場は時に甚だ偶然として寒げに見える。僕等の映重大衆は、その「失はれた笑ひ」を同復する為にすらも、こ
のナポレオン的映董人を支持すぺきであらう。
jjア 随筆

 日本海海戦に於ける東郷大将の信競「皇国の興廃この一戦にあり」は、だれも知る通りの文学的名文だが、
同じ日露戦争で、奉天戦に於けるクロバトキンの電報「われ包囲されたり」も、前者に劣らない文学的名文で
あり、短かい言葉の中に、悲痛な敗賭の心理をよく蓋してゐる。しかし小学校の教科書では、東郷大将のこと
は載せても、クロバトキンの電報を、文学的名文の規範としては載せて居ない。それは文学としてすぐれてゐ
ても、修身の題材にならないからだ。
 先年新聞の記事によると、或る蕾家の未亡人が、先租俸衆の家賓として、土蔵に一杯貯めてあつた江戸錦檜
を、子供の教育上に有事だといふ理由で、全部囲書館に寄贈したさうである。或る一讃者は、投書欄でその未
亡人の拳術的無理解を非難したが、子女の教育といふ立場から見れば、たしかに未亡人のやり方は賢明である。
駄麿や春信のエロチックな性感挑撥檜は、拳術的に最高級なものにちがひないが、子供の教育上に悪影響を輿
へることはまちがひない0同じやうに江戸文化の大部分は、教育上に殆んど皆有晋のものばかりであり、文部
省の禁止課目に属して居る0最近源氏物語の上演が禁止になつたのも、つまり掛より高級な意味に於ける、囲
民教育上の弊害をおそれたからだ。
 そこで教育と蓼術の相対といふことが、いつの時代でも問題になる。垂術は美の創造を目的とし、人間性の
傍らない累質を赤裸々に表現する。然るに教育は、国家の富強を計る為に、国民をその健全の目的に邁ふやう
に、、吏イデーの功利意識を掲げてゐるから、かかる瀞田為にそはないものは、たとへ‥突であつても感興であづで
も、有筈邪悪として排斥される。特に今日の如く、世界的大動乱の非常時にあつては、政府の国策教育上から、
蜃術が一居座制されるのは止むを得ない。最も極端の場合には、政府が文化統制によつて蓼術を取り締り、こ
れを一定の国策イデーによつて、同一鋳型のルツボに入れることさへあるのである。
 かかる時代に生れた蜃衝家は、言ふ迄もなく不幸である。だが一方から考へれば、肇術家もまた国家の一員
であり、国家の興亡に対して責任を負ふものであるから、かかる非常時に際しては、暫らく自らペンを捨てて、
他の方面に国民としての奉仕をするかもしくはさらに勇躍して、自ら進んで国策にそひ、非常時国民の士気を
鼓舞するために、陣頭に立つて軍歌を歌ひ、文畢者としてのペン奉仕をすべきであらう。とにかく今日の場合、
文筆者の道は一つしかない。ペンを捨てて引退するか、逆にペンを取つて囲策線上に進むかである。