随筆の革命
世界に顆なき形態
日本の「随筆」といふ文革は、世界に顆のない特殊的な文学である。外国には「エッセイ」といふ文学があ
るが、日本の随筆に相首する文季はない。エッセイといふの月、作者の主観的な思想や人生観、即ちエゴの主
張する哲畢を中心命題として、これを生活情操の気分やパッションに慣感させ、詩文風なレトリックで美しく
書いた文学であり、つまり所謂「散文詩」といふ顆のものである。日本にも昔は、この顆の散文詩が無いこと
はなかつた。即ち例へば清少納言の枕草子、条好法師の徒然革といつたやうなものであり、此等は先づ西洋の
エッセイに相官する文学であつた。もつとも日本のそれは季節的の感覚本位で、エゴの主張する強い曹寧を持
たないことで、やつぱり西洋のエッセイとちがつてゐる。エッセイには今少し論文的の要素が入つてるのだが、
日本風な解稗ロロロロロとにかく「散文詩」と稀すぺき文畢だつた。
然るに現代の日本には、かうした日本流のエッセイや散文詩も無くなつてしまつた。今の文壇で、「随筆」
と構して居るものは、日常茶飯の身連記事を、極めて調子の低い卑俗な言葉で、漫談風にだらだら書いた文学
であり、言はば文学の茶呑謡(お茶受け文畢)と言つたやうなものである。つまり日本の随筆といふやつは、
今の文壇を代表する心境小説の崩れたものである。心境小説といふ文学は、世界に顆のない卑俗的、俳句趣味
的の老人文学であるが、これを更に一層卑俗的、日常茶飯的にした老人文学が、即ち所謂随筆なのである。
だから日本では、随筆は老人の書くものと極つて居る。賓際また老人の書くほど随筆は面白く味があるので、
若い人の書いた随筆にはコクがない。随筆の妙味といふやつは、つまり苦労人の講の面白みで、言はば「年齢
の錆」と「経験の垢」を嘗める味覚なのだ。(これは心境小説についても同様である。)菊池克氏の言ふやうに、
かうした文学は日本の世界的特産物で、ユニイクな償値を高く誇るぺきものであるか知れない。しかし現代日
本の進歩的ゼネレーションは、かうした文畢に自足できない澄刺とした希望を持つてる。新日本の若々しい情
操は、老人文学の支配する文壇以外に、彼等自らの青春を歌はうとする意志の坂逆を抱いて居る。近頃文壇に
輿つたすべての運動、即ち日本浪費淡や、行動主義や、偶然主義の文学論やは、すべて皆この革命の新橋紳を
jア∫ 文争論
表象して居る。
かうした新機運の文壇に於て、何よりもよく具膿化して目に付くものは、古い型の随筆に封して革命する所
の、新しい随筆と随筆家の勃興である。どの同人雑誌を見ても、最近では随筆家(エッセイスト)が最も若々
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しく元気で澄刺として居り、新文壇の希望を一人で背負つてる観がある。私の知つてる範囲だけでも、保田輿
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重郎、神保光太郎、辻野久憲等の若い諸君が、詩趣に富んだ美しい文章で、盛んに新しい「青年の随筆」を書
いてる。そしてこの「青年の随筆」こそ、それ自ら日本の文壇を革命し、新時代の第一線を劃する最初の新し
い文学である。かつて私はかうした日本文化と文畢の新指導を、私の仲間内の詩人に求めた。(詩人が文化を
指導するのは官然である。)しかし今では、私は詩人たちに失望して、むしろ上述の如き新文壇の新しいエッ
セイストに期待してゐる。「詩」といふ文学は、日本で崎形的な饅達をした。眞の正統的な詩精神は、むしろ
最近の新しい文学であるところの、若い人々の随筆、即ち「散文詩」から、始めて興るべきものか知れないの
である。
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