詩人と小説家

 私に小説を書けとすすめる人がある。私も書きたいと思ふ。しかし自分の無能を反省するとき、いつでもが
っかりしてあきらめてしまふ。私はT私自身を公平に考へて−詩人としては相官の天分があるやうに思ふ0
しかし小説家としての天分は悲しいかな本質的に映けてゐるやうだ。
 小説家としての天分! それは第一に想像力の豊富であり、第二に観察の精緻である。所がこれは、二つと
も私の所有しない財産だ。特に第一の條件は、全く私を紹望させてしまふ。私がいつも小説を讃むたびに、特
に外国人のすぐれた小説を讃む毎に、心から驚嘆させられるのは、その杢想のいかにも豊富で雄大であること
だ。たとへばトルストイの「戦争と平和」や、ドストイエフスキイの「罪と罰」の如き、あれだけの大規模な
物語−それが全部皆小説、即ち杢想の構成物である−が、よくも出来るものかなとひたすら驚き入るばか
りだ。しかもその茎想の物語が、さも現賓にあつた事賓の如く、如資に、生々と描為されてゐる−それが小
説であることを讃者に忘れさせてしまふ−のには、むしろ全くその蜃術的魔法の不思議さに幻惑されてしま
ふばかりだ。ああ小説家−・いかなれば彼等は、どこからその不思議な魔力を授かつたのだらう0我々詩人の
眼からみて、異に不思議にして羨望に耐へないのは彼等の特種な拳術的天分である〇
一般に考へられる如くば、詩人の別名は杢想家である。すべての詩人は、それ自ら異常な杢想家である如く
思惟されてゐる。何となれば詩の本質は杢想であるから。しかしながらこの場合の「詩」は、むしろ肇術一般
∫J7 文学論

を指すところの詩!即ち廣義の意味での詩1と辞したい。拳衝、及び奉術家の本質が、表に峯想的なも
のであることは言ふまでもない○しかし狭義の意味での詩、及び詩人1即ち精確にいへば所謂「抒情詩の詩
人」1が、濁り杢想家の代表例と考へられるのは、むしろ時としては奇異の感に打たれる。何となれば、眞
に想像的な天分を有するもの、またそれを以て唯忘本質とするのは、むしろ所謂詩人でなくして小説家であ
るから。
我々は詩人と呼ばれる0けれども我々の仲間は、想像的天分に於てまことに貧窮であるやうに思はれる。我
我の仲間の最も異教な人でさへが、逆さに立つても「戦争と平和」のプロセスを構想することは不可能だらう。
ああいふ自由で豊富な杢想は、生来の小説家でなければできないのだ。我々のょく為し得ることは1我々に
してもし小説を書くとすれば1わづかに我々自身の過去の経験、自ら親しく饉感した事貨や生活しか書くこ
とができない0即ち単に自叙俸しか作り得ないだらう0しかも白銀俸は小説でない。眞の奉術的創作でない。
おょそ自叙侍−饅験した事害そのままの記1ならばだれにも書ける0あへて奉術の天分を要しない仕事で
            ● ●         ● ● ● ● ● ●
ある○拳術の拳術たる所以は、その創作1過去の断片的な饅験を杢想によつて人格的に統一すること、それ
ぶ創作である。1にある。
 かく考へてくると、我々詩人の拳衝的天分は、一般に小説家よりも地位が低いやうに思はれる。しかしなが
ら両者の地位は杢想といふ言葉の概念を別にすることによつて封立的に考へられる。明らさまに言へば、我々
                                                                               −叱「
詩人のもつ室想の観念は、小説家のそれと少しく本質がちがふのである。詩人の詩想たる杢想は、厳重に言つ
て姦想と名づくぺきものでないかも知れぬ0我々の詩想たるや、むしろ杢想でなくして≦∽岩ヨである。私は
思ふ0詩と小説との内容的な直別が、正しく此所にあるのではないかと。
 安藤1小説的な峯想!は、一つの内容ある、説明され得べき、概念で充質されたものである。「私はい
∫∫∂

」l、1まか蚤物語を書か一計仙1こ思ふせと小観象は常捉音ふ。彼等ほその杢想の寵述飽な雑書考宮吾ができ習H∃一
 る。然るに<HSI02はさうでない。我々詩人の茎想、即ち<−∽l02は、正しい日本語に於て「思ひ」と辞され
 る所のものである。(≦S−02を幻想と辞すのは誤つてゐる。)詩人はむしろ「杢想」を書かない。彼等はその
 「思ひ」を書く。思ひ1 それは一つの直感的なもの、主観的なものである。思ひはまた漠然たる心の表象で
 ある。且つ情緒であり、気分でもある。故に思ひ、即ち<−SH02は概念の判然性を軟いてゐる。詩人の情想は
 記述することができない。小説家のやうに、我々は前以て物語の筋を考へ、仕組をつくり、そして終始一貫せ
 る「峯想の判然たる連鎖」を幻覚することができない。もつと内容が漠然として、その代りに情熱の高い、あ
  ● ● ● ● ●
 るカを込めてつかまうとする思慕の幻燈。それが詩人の室想<HSH02の本憶であるだらう。
 それ故に<−∽l02は、言はば「内容のない杢想」である。もつと適切に言へば「心像のない思想」「概念の
               ● ●                           ● ● ● ●
 ない創作」である。即ち小説家の創作は、前言ふ通り個々の断片的な饉験を綜合して、これを一つの統一ある
 ● ●              ● ●
 物語にまで構成するにある。詩人の創作もまたその本質に於ては之れと同じだけれども、ただ異なる所は、そ
 の「統一ある物語」が「統一ある思ひ」と縛ずることである。統一ある思ひ! けだしそれは最も純粋な直感
 の心象、即ち人格の最高単位を示す創作でなけれぼならない。そして詩の小説にまさり高償な所以がこれであ
 る0
 この「杢想」と≦SHOZとの差異は、内省的に考へるとき最も判然としてくる。かつて或る人が、私の「軍
隊」といふ詩をよんでかう言つた。「君は軍隊生活をしたことがないから、もちろんこれは想像でせうが、よ
       ● ● ● ● ● ● ● ●
くこんなに旨く杢想で書けますね。」その時私は、この「杢想で書く」といふ言葉が甚だ妙に思はれた。なぜ
といつて私の詩は、私の直感的な思ひ−情緒や気分−をそのまま表現したものである。あの飢餓と疲労に
悩みながら行進する軍隊は、それ自ら私の現在する生活感情である。そしてあの歴迫する重たい歩調! ばた
j∫夕 文学論

り、ばたりといふ靴音は、賓に私自身の息苦しい憂鬱な気分に外ならない0つまり言へばあの行進する軍隊は、
              ● ●        ● ●
私自身の心象賓景である0即ち私の直感的な思ひである0私はその直接な思ひを訴へた。そしてそれ以外には
何にも想像したおぼえがないのだ。
だからこの場合に、杢想といふ言葉は少しあてはまらない0杢憩といふ以上には、或る意識的に構成された
            ● ●
概念がなければならない0私が此所に居る0そして私の脳髄が何事かの情景を措いてゐるのだ。即ち私といふ
主観が、或る客観の心像を思惟してゐる○かく壷と客観との封立的に考へられるものが所謂「憲」である。
しかるに我々の場合はさうでない0私の生活感情としてのリズムが、それ自らバタリ、バタリといふ靴音の調
子である0私の憂鬱に感ずる黄色い気分が、それ自ら軍隊の醜い服装である○故にこの場合では圭警客観と
の封立的関係がない0私がそれ自ら情景であり、情景がそれ自ら私である○かくすぺての≦∽I021詩の構
想1といふものは、主客の封立なき純言直感である○即ち通俗の言葉でいふ「思ひ」である。詩人はただ
                                            ● ● ● ● ●
彼等の思ひのみを書く○そしてそれ以外のどんな想像を塞かないのだ0香、正しく言へば菅得ないのであ
        ● ●


る0
 之れに反して小説家の構想は、純粋に杢想と言ふぺき顆のものである○もちろん徹底的に言へば、小説も詩
も奉術たる本質に於て同妄あるからして、小説と錐晶詮は作者自身の人格を表現するものに外ならない。
たとへばトルストイの書いたクリミヤ戦争は、その苧〜ストイ自身の生活感情を再現したものであり、モー
パツサンの書く色慾の貰は、全く彼自身の慾情や趣味を訴へたものに外なら告。故に廣い是でいへば、
小説牢また作家の直感的な思ひを訴へるもので、廣義の≦∽I02といふ事ができる。
               ● ●
 しかしながら小説家の構想は、詩人のそれに比して甚だしく概念的、記述的であり、したがつてまた非直感
的、輩観的である0すくなくとも小説家の構想は、或る程度まで自我の感情を離れたものである。詩人にあ
∫20
                                                   ■−1


頂ては、心像がそれ自ら自我であ払、対象のリズムがそれ自ら自我の菊分であるけれども「小説家にあつては、
この関係がそれほど必然的に密接でない。すべての小説家は、明らかに封象を封象として、事件を事件として
客観的に思惟することができる。即ち自我と、自我の思惟の封象とが、相互に封立的な関係を示すのである0
それ故に小説の構想には、所謂「杢想」もしくは「想像」といふ言葉が最も適切にあてはまる○したがつてま
た小説は、この鮎に於て詩よりも非人格的である。純粋に人格的な蜃術−自我の完全な表現−といふもの
は、文学にあつては詩より外にない。詩が音楽と共に、拳術中の純蜃術と言はれるのはこのためである0
 かうしたわけであるから、詩人と小説家とは、全くその肇術的天分の本質がちがつてゐる0印ち詩人は≦・
∽H02に秀で、小説家は峯想にすぐれてゐる。この二つの似て非なる天分は、ちよつと交換することが困難の
ゃぅに思はれる。尤も小説家の中には、詩人から成育した所の、所謂「詩人的な小説家」がゐる0さういふ人
        ● ● ● ●  ● ● ● ●
たち−たとへば佐藤春夫氏や室生犀星氏のやうな−は、一人でこの二つの天分を兼ねてゐるやうに思はれ
る。けれどもその人々の作物を讃んでみると、矢張詩的であつて小説的でない0即ち≦∽HOZとして非常にす
ぐれてゐるけれども、想像としては甚だ貧弱で未熟のものにすぎないやうだ0小説的意匠、即ち杢想の構成に
ぁっては、或る程度まで自我の感情を押へることが必要である。然らざればその想像は構想の範囲が狭く、小
規模にして畢調一律のものとなつてしまふ。所謂「詩人的な小説家」の映鮎は資にこれである0彼等は純粋に
客観的になりきらないからして、その作物は常に千篇一律であつて構想の規模が甚だ狭い0それは≦S−02と
しての魅力をもつ。しかも杢想としてはしばしば退屈を感じさせる顆のものだ0概ね詩人的小説家の作品は、
その生活上に於ける賓際経験の記述−即ち自叙俸風のものT以外に出ない0以て如何に彼等の杢想的天分
が貧弱であるかが解る。
j2ノ 文筆論

厳重の意味で言はれる小説は、思ふにさうした≦∽I02的のものと差別される。<≡○宅的なものは、正し
くは小説でなくして散文詩である0けだし内容の本質からみて、それは詩の範囲に属すぺきである。いやしく
          ● ● ●
も≦∽lOZ的なものがある限り、それは未だ詩であつて小説になりきらない。吾人の≦∽岩宅即ち漠然たる
                                ● ● ● ● ●
統議な思ひを分析して、これを一層概念的な思想に整理し、ある現質的なる観照の批判に照らし出さないも
のは、所詮小説として未熟なものにすぎないだらう0そしてこの「現賓的なる」といふ意味は、つまり「散文
                              ● ● ● ● ●
的なる」といふ意味に同じである0しかるに吾人が散文的に傾いてくるときは、それ自ら吾人が詩を離れかか
                                              ● ● ●
つた時である0それ故にこのヂレンマがある0吾人はいかにしても、よき詩人であつて同時によき小説家であ
り得ない0この二つを共に得んとするものは、その二つを共に失つてしまふ。

小説家に必要なる、他の一つの天分は観照の才である0多くのすぐれた小説に就いて、吾人の驚嘆に耐へな
いのは、その事物に封する観察の鋭き眼光である0たとへばゾラの酒場や市場に於ける景物観察、ドストイエ
フスキイの心理観察の如き、その外界、内界の封象に封する彼等の観照の天才は、これまた殆んど魔術的の驚
嘆を感じさせる。
 しかしながらこの鮎では、前に述ぺた他のもの1杢想の天才!ほどには、僕等を根本的に絶望させない。
峯想力、想像力の天才は、僕等にとつて全く絶望的のものである0(たれか言ふ。詩人澄仝想は天馬杢を行く
と0天馬峯を行く如きものは、それ故に≦∽IO宅であつて杢想でない0)しかるにこの観照の才能は、僕等と
                ● ● ● ●
雄も本質的には所有してゐる0ただ僕等はそれを練習しない、或は級習の方法がちがふだけである。詩や小説
に限らず、すぺて蓼術の創作は一種の理性1直感的理性iの作動にょらねばならぬ。この特異な理性を名
づけて番人は「智薯」もしくは「観照」と呼んでゐる0けだしすべての蛮術は、外界、内界に於ける封象の眞
∫22
                                              _■■
瑚朝劇淵瑚畑潤潤瑚潤瑚瀾[潤畑凋贈澗柑凋州凋柑柑凋渦謂M渕調悶朋町鋼
ひとへに吾人の蜃術的智慧であり、所謂「観照の才」に外ならぬ。
 それ故にこの才能は、濁り小説家に限らず、あらゆる種類の宰術家が必然的に所有するものである。ただそ
の形式に於て見れば、音楽家の智慧と文学者の智慧、詩人の観照と小説家の観照とは少しく趣を異にする。我
我詩人の観照は、景物に封しても、心象に封しても、常にその綜合されたる全景的の気分を直感する。たとへ
ば或る室内に於て多人数の人々が合合してゐるとき、僕等はその室内全慣の気分、合合それ自身のユニークな
色調を全局的に統一して直感する。個々の人物の動作や、個々の場合の合謡等に就いては1一々の部分的な
者に就いては − あへて観察しょうと思はない。そしてこれが僕等の「詩人的な観照」なのである。これに反
して小説家は、事物を全く部分的に、分析的に細かく観察する。彼等の注意する所は.、その室内全澄の統一さ
れた気分でなくして、むしろ個々の人物の動作、個々の人々の合議である。
 それ故に小説家は、事物の景象を最も詳細に、念入りに細かく描為することができる。反封に我々詩人は、
さうした何等の説明や記述をすることができない。我々の表現し得ることは、全景的に「この感じは赤であ
る」とか「紫である」とか言ひ得るにすぎない。仝懐から見れば、詩人の観察はよく封象の賓相を把へてゐる。
しかし部分的に見れば、小説家の観察は逢かに精緻である。つまりこの両者の差は、馬賓的な密室と象徴的な
粗童との差でみる。その蛮術的償値に於て何れを優れりとすべきか0そは讃者の判断に任かせおかう0
 かくの如く、詩人の智慧は「綜合的な観照」であり、小説家の智悪は「分析的な観照」である。然るに綜合
と分析とは、互に反封の方向に働らく智憲であるから、ここに於てもまた詩と小説との一致できない矛盾があ
る。しかしながら綜合から分析に移るのは、<−SH02から杢想に攣へるほど、それはど本質的に困難な仕事で
ない。僕等の詩人的な習慣は、常に事物を全局的に直観するに慣れてゐる。しかし僕等にして、もしただこの

∫エ,文拳論

習慣を攣へさへすれば1そしてそれを攣へるのは造作もないことである1容易にまた僕等も小説家になる
ことができる0それ故に僕等は、賓際すぐれた小説の精緻な観察に驚かされるとはいへ、その驚きはむしろ根
本的の恐怖でない0言はば昔の日本董家が、初めて西洋童の精緻な馬賓をみて驚嘆した顆のものである。つま
り我々は小説の技巧に驚嘆するのである0より本質的な問題はそこにない0詩人と小説家とを直別する第一義
        ● ●

の問題は、どうしても≦SI02と茎想との天性的特質にあると思ふ。

 最後に、この問題と離れて、私は我が国の文学の根本的映陥を指摘したい。日本の文学者、特に小説家は、
天性的に一大故障をもつてゐるやうに思はれる0だれも知る如く、西洋の一流の小説と、日本の一流の小説と
は、拳術晶として格段的に償値がちがつてゐる〇一般的に言つて、日本の小説は甚だ退屈である。単調である。
無刺観である0僕等は西洋の小説にこそ↓述の如き驚嘆を感ずるが、日本人の小説からは殆んど無感覚である
ことが多い。
 この悲しむぺきことの原因は、もちろん我が国民の低級な生活や、天性的の温情熱等に多く基因するであら
うが、それらの動機説を除外して考へれば、主としてその宰術的天分の故障にあることが推察される。いま東
西の文学を比較するとき、だれにも明白に気のつくことは、西洋人の杢想の豊富にして雄大なことと、日本人
の杢想の全く貧窮でみすぼらしいことである0ゾラ、モーパツサン、トルストイ、ストリンドベルヒ、クープ
リン、その他すぺて外国の表作家の小説をよんだ人は、その憲的構想のいがにも澄刺として、自由に、良心
富に、且つ壮大なことを感ぜずには居られない0これに反して現代日本人の小説が如何に貧弱で、かじかまつ
た、単調でみすぼらしい杢想しか持つてゐないことか0もしよく両者を比較考察すれば、この封照は驚くべき
 ものであるだらう。
j24
婆−
彗周月瀾濁ヨ頂周絹aョョ.竃≡Jメ既に遽ぺた如く丸小説家の必有的天分は 「茎想」と「観照」の才である弁、d汐かしてJ般日本の作家は、観一照
         の智慧に於ては著るしい天分を持つてゐる。また彼等自身も、その鮎に関しては自ら大に得意として誇つてゐ
         る。日く「我々の小説は、今や世界的に優秀な償値をもつてゐる」と。然り、畢にその鮎だけで言ふならば、
         たしかに我々の作品は外国に押し出して恥ぢないだらう。元来、日本人は先天的に観照 − 直感的理性1に
         天分をもつた国民である。外国人のお世鮮に、日本人を蜃術的国民と言ふのはこのためである。そして賓際、
         日本人の小説はこの鮎ですぐれてゐる。事物の眞相を把握し、描馬の妙を極めることにかけては、近代日本の
         小説は著るしく進歩した。この鮎で我々は、決して西洋人に劣るとは考へない。
          しかしながら蜃術の償値は、畢に描馬や技巧の一面に限られない。たとへ吾人の直感が、或る心象の本質を
         把握し得た所で、その心象そのものが無償値であつたら仕方がない。拳術の一面的償値が、全局の構想にある
         ことは勿論だ。しかも今日の日本の小説家は、決してその鮎に考へ及ばない。もし彼等がそれを考へたならば、
         上述の如き安償な自惚れに対して自ら恥入つてしまふであらう。明白なる事賓は蓋ふことができない。我々の
         小説の病癖は、茸にその構想の貧乏にある。語を換へて言へば小説的意匠に於ける想像力の映乏、茎想の不自
          由、これである。
          所謂「詩人的な小説家」が、この天分に於て著るしい映陥をもつことは前に述べた通りである。しかし彼等
         は、想像力の最も原始的なもの、即ち<HSH02を所有してゐる。<lSH02は想像とちがふけれども、しかも本
                                                       ● ● ● ●
         質的には想像と同じものである。すくなくとも彼等の作品は、その<H∽HOZの詩的償値に於て、小説としての
        悪評を回復することができる。これに反して他の一般的な小説家は、何等の名著を快復すべき特鮎をもたない。
         しかも彼等の想像力の貧窮なことは、概ね却つて詩人以下でさへある。何と憐れむぺきではないか。小説家に
         して小説家の天分を快くならば、いつたい何が彼等の身上であるのだ。試みに彼等の作品を見よ。その多くは
∫2∫ 文畢論

賓際的経験の記録にすぎず、他のすぺてのものは、想像のかじかまつた無能を暴露してゐる。如何に我々が、
                              ● ● ● ● ●
我が園の小説家によつて退屈にされるか0彼等は年とつたおしやぺり婆さんの如く、その低劣にして貧弱な日
常生活の無駄話を、隅から隅まで掘り出して話さなければ菊がすまないのだ。しかも塘手の迷惑と退屈とにか
                                ● ● ● ● ● ●
かはらず、自ら尊大して日く、これらはすぺて私の音感である、鰹験したものであると。1(おお、いかに。
              ● ● ● ● ● ●
無能なる慣験よ。忠賓なる事賓の筆記者よ。汝の名は小説家なり。)
 日本の小説家に封する上述の非難は、しかしながら同時にまた僕等自身、即ち日本の詩人にも邁應さるぺき
であらう○世界も知る如く、日本人は直感的叡智に長けた人種であるのに、更らにその中での直感的種廣たる
我々詩人は、恐らくこの鮎で萬園無比の名著を有するであらう。賓際、我々の詩歌は、その観照の鋭どく徹底
せることに於て、逢かに西洋のものを凌駕してゐる。特に芭蕉の俳句や、人麿の和歌の如き、前者は自然の賓
相的本質を直硯することで、後者は感情生活の心象をリズム化したことで、観照的智慧の神韻を究めたものと
さへ考へられる0正直に言つて、我々は小説家以上の自負と尊大を世界に公言し得るのである。
 しかしながら日本の小説家の故障は、同時にまた日本の詩人の映陥である。かくの如く、我々は観照の天分
に於てすぐれてゐるにもかかはらず、その詩歌の慧に於て驚くぺき無能を曝してゐる。人も知る如く、我々
の囲の詩歌の構想たるや、資に単調にして杢虚である○芭蕉の俳句と人麿の和歌は、そもそも何の思想を語る
ものか0また如何にその情想が千第一律にして単調を極めたものか。概ね人麿の歌は椿愛の畢純な詠嘆にすぎ
ず、芭蕉の俳句は自然の成る狭い鮎景の描馬にすぎない。試みに之れを西洋の代表的な詩人、ゲーテや、パイ
ロンや、キイツや、ホイツーマンや、ボドレエルやの作物と比較せょ。その詩想の豊富と充賓とに放て、彼我
 の差は到煙同日の談でない。
                               山y 川y ツ タ
 日本現代の新しい辞ハそれは西洋の所謂「叙情詩」の形式を輸入したものである)は、たださすが一、増結H
                    臣
∫2古
な詩歌
嘗由宴ユー碑
喝柑頂
想の豊富なことで、我々の過去の詩人を驚かすに足る。その過去の詩人ド歌人や俳人1は、今日の小説家
の或る者等と同じく、彼等の貧弱な日常生活に於ける賓情質景しか歌ふことができなかつた。故に彼等の詩歌
の構想たるや、僅かに懸愛、友情、告別、及び小旗行の茸景的スケッチに過ぎず、その詩想の貧窮で単調なこ
とから、全く吾人を退屈させるものであつた。これに比較するとき、今日我々の新しき詩壇は、正に一新世界
                                                    ヽ ヽ ヽ
の観がある。(しかし今日の新しい詩は、観照の智慧に於て昔の詩よりずつと劣つてゐる。景象や心象やの直
情を捉へ、事物の重心的貰相を邁確に透成する鮎に於て、芭蕉、人膚の智悪は逢かに現代詩人にまさつてゐる。
最も正直に考へて、我々は伶「我々の詩語」をこなしてゐない。我々の詩は、一つの生硬にして未完成の嚢術
にすぎない。つまり我々は、構想に於ての後見を、逆に観照に於て失つたわけである。この損失は互に相殺す
る。)
 かくの如き教展にもかかはらず、伶我々の新しい詩は、西洋のそれに此して構想上の故障を多く持つてゐる。
この蓋ふことのできない事茸は、近代悌蘭西、濁逸、露西亜等の作家の詩と、我が国現在詩人の作品とを比較
してみるとき明らかである。日本語の生硬な輌詳を通して、単に概念的の文字として見てすら、西洋の詩の著
るしく思想的に充質してゐることが解る。その反映として、日本の詩の多くが殆んど無内容で、情想の貧しく
杢虚にちかいことが感じられる。況んや現在の所謂「新しい和歌」「新しい俳句」の顆に至つては、千年一日
                    ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲
の如く単調卑近な生活小景1−彼等の所謂質感賓景 − を赦してゐるにすぎない。
 詩の構想上に於ける、かうした日本詩人の無能は、言ふまでもなくその詩的想像力 − 厳重に言へば<l∽H02
Iの映乏を澄明してゐる。詩人も小説家も、この天分の映陥に於ては全く軌を一にする。
 香、単に詩と小説ばかりでない。いつたいに日本の蜃術は皆さうである。たとへば音楽がさうである。日本
j2ア 文争論

【北
の国粋的な音楽は、そのリズムの自由と複雑から、技巧的には可成の長所を持つてゐるが、楽想の畢調で千篇
一律なこと、その音楽的<−∽l02の貧弱にして無内容なことは、むしろ驚嘆に償する。日本の檜董がまたさう
である。日本の建築がまたさうである。そして要するに、日本の拳術一般が皆さうである。我々の拳術には豊
富な<HS−02がない。自由な想像力がない。
 惟ふにかうした天分の映陥は、我々の民族の人種的素因に基づくのであらう。紳は同時に二つの財を人にあ
たへない。日本人のすぐれた直感的叡智は、その想像力の著るしい映陥と相殺して、我々の文化を償俺低きも
のにしてしまふ。元来、想像力は創造力である。心理学の敦へる如く、吾人の生活上に於ける一切の経験は、
表象・記憶・想像等の形式によつて再生する。此等の中、表象・記憶等は、過去の慣験をそれ自身の原形で再
現するにすぎないから、観念の最も単純なものにすぎない。それは何等の創造的なものでない。濁り想像はこ
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れとちがつて、過去の断片的な饅験を綜合し、これに自己の意匠を加へ、以て一つの新しい心像を現出するも
のである。それ故に、想像力は即ち創造力である。(尤も人間の想像は、いかにしても自己の饅験以外に出る
ことができない。過去の饅験を離れて、全然新しいものを想像することは、人間の力の及びがたいことである。
もしそれが出来たら、我々は全く生れ攣つた新世界を創造することができるだらう。しかし我々の茎想する火
星人は、我々が地球上で経験した事物の陳腐な組み合せにすぎないのだ。故に厳重に言へば、我々の創造し得
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るものは、新しき事物でなくして、新しき意匠にすぎないのだ。)
                                                                                       、uヽ
 人間の心理的償値に於ける優劣は、全く想像力ー ここでは≦SH02をも合妙て言ふ − の強弱によつて決′
定する。すべての優秀な文化を所有する民族は、先天的に想像力の態達した民族である。ただ不幸にして日本
人は此所に紋陥をもつてゐる。したがつて日本の文化には眞の創造がない。我々はその先天的な直感によつて
外国の文明を理辞する。しかし我々自身の創造1新しき意匠!を持たない。学術に於ても、蜃術に放ても、
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明の軋Wrに軟けて
この態明の才能が、それ自ら優秀な想像力を、意味するこ
とは言ふまでもない。
 想像力の映乏は、また老年の讃左と見られてゐる。人は若い時ほど想像のカが強く、老年になるにしたがつ
てそれが衰へてくる。故にこの事賓は、日本人の一般に早老であることを心理的に説明する。日本の思想界に
於て、ロマンチシズムが磯育しないのもこのためである。老人は杢想を失ひ、想像力を持たない故に、その思
想は常に現質的で資質主義である。しかして日本の文壇に勢力あるものは、常に現賓主義的な思想・自然主義
的な思想に限られる。この病理学者の所謂早老痴呆性的な民族を、私は決して天才的な種展とは考へない。況
んや彼等の思想や蜃術が、世界的優秀の償値あるものとは思惟されない。
 それはとにかくとして、要するに我々の囲の詩人と小説家とは − 他の一般の蛮衝家もさうであるが − 我
我自身の著るしい天分の映陥を自覚せねばならぬ。この如何ともしがたきものは、茸に想像力の映乏である。
小説家にあつては杢想、詩人にあつては<H∽H02と呼ばれる廣義の想像力の先天的貧血性である。我々はこの
病気を知る。今やその困難なる治療について考へる時である。心理的に、おそらくはより生理的に、我々の腎
師の療法を待つであらう。