文章語以前の詩壇
        − 露西亜と日本 −
「小説−文畢の中に於ける最も卑俗の形式−が、不思議にも我が国では、帝国に響き渡る指導者の地位を
取るに至つた。」と、ドルーヂニンが怪しんで言つてる如く、貰際近代の露西亜に於ては、小説が常に文壇の
思潮を支配し、文寧の第一線に立つて活躍して居た。その上にもまた、賓際に小説だけが、露西亜では特別に
秀れて居た。近代に於ける世界的の大小説家は、殆んどその年数以上を、露西亜の作家が濁占したほど、それ
ほど特別に秀れて居た。之れに反して詩−文学の中に於ける最旦烏貴な形式−は、露西亜に於て全く振は
ない事態にあつた。プーシキン以後、露西亜には殆んど世界的の大詩人が生れて居ない。畢に詩人が居ないば
かりでなく、詩そのものの文壇地位が、却つて常に小説から蹴落されて居た。そしてかういふことは、濁逸や
彿蘭西等の西欧諸国で、見ることのできない現象だつた。
何故に露西亜に於て、しかく詩が不振の情態にあつたのだらうか↑ この鮎について、我々は二重の疑問を
抱くのである。なぜならば露西正人は、本来音楽や舞踏を好み、韻律的奉術への、最も深い愛を持つてる人種
であるから。その上にも伶彼等は、民族的にロマンチックな夢想家であり、レアリスチックな散文家であるよ
りは、むしろ主観的な詩人として天質してゐる。そして筒音際にも、露西亜は民詰の描藍地であり、この方面
の歌諮としては、世界の最も秀れた者を産出してゐる。しかも蜃術的な詩に於て、遠く餞達が他に遅れ、自国
J古ア 文寧論

に於ても小説に歴倒されて居るといふのは、一憶どういふわけなのだらうか。
一つの決定的な原因は、近代の露西亜に於て、文章語の磯達が他国に遅れた為であつた。濁逸、彿蘭西、英
青利等の西欧諸園で、早く国語が統一され、それの蜃術的訓練が出来た時に、蕗西亜は伶文化的に混沌として
ゐた0近代初頭に至る迄、露西亜には伶文章語(肇術語)の完成がなく、文学それ自慣が卑俗な日常語で書か
れねばならなかつた。そしてその日常語は、実のデリケートな情操を表現すべく、あまりに生硬粗雑な非番術
的言語であつた。それは厳重の意味で言はれる正しい「文学」の表現に適しなかつた。しかも況んや、到底
「詩」の創造に耐へ得なかつた。なぜなら詩は文畢の中の文季であり、言葉それ自饅が内容を意味してゐるか
ら0世界の何所の園に於ても、詩は決して言文一致では書けないのである。詩は文章語(奉術語)によつての
み、始めて書くことができるのである。
 かうした一つの事情から、露西亜に於ては詩が生れなかつた。漸く他に遅れながら、文章語が饅育した時に
さへも、小説が文学の主要地位を占領して居た。なぜならその文章語は未熟であつて、漸く小説等の散文にの
み邁應してゐた。それが詩の創作に耐へ得る迄は、筒ずつと多くの美的訓練が故障してゐた。(一方俳蘭西に
於て、近代の詩が著しい敬展をしたのは、丁度その同じ時期に、彼等の囲語が奉術的洗煉の完美に達し.てゐた
からである。)それからして露西亜に於ては小説が一切の文寧を代用した。賓にメレヂコフスキイの言つてる
如く、露西亜に於て「文学」と呼ばれる者は、それ自ら小説を意味して居り、そしてまた小説が、詩の書くぺ
きすぺての事を書き義した。世界の如何なる文学も、決して露西亜の小説ほどに詩的であり、詩的精神の強く
書かれた文拳はない0つまり言へば露西亜に於ては、散文の形式が詩を代用し、そして小説家が詩人に代り、
▲詩人の仕事をしたのである。
 虜西亜に於けるこの事情が、丁度我々の日本に於ても符節して居る。明治以来、我々は古来の洗壊された文
∫の
渕亀山
薫を捨ててしヰ野肌那伽常てしかも、新絹文章語は未だ生れ和国語は嘉滅裂の状態朋湖郡“
我々の文学者等は、かうした猥雑粗野の言語によつて、辛うじて小説−もしくは小説らしきものTを書き
綴つてゐる。おそらくそれは、厳重の意味で言はれる文学に属すべく、あまりに非番術的な試作品にすぎない
だらう。しかしながら日本に於ては、それが唯一の「文学」であり、他に如何なる者も存在し得ない。露西亜
に於けると同じく、日本に於てもまた、小説が文学の一切である。我々の事態に於て、詩は到底餞育すること
が不可能である。今日もし「詩」といふ文挙があるとすれば、古典の文章語で書かれた者(即ち和歌・俳句
等)の外、すべて皆文学以前の雑文である。それには何の韻律もなく、何の詩らしい特色もない。そして全く
美的完成を持たないところの、雑駁粗野な非拳術品に過ぎないのである。文壇的にも大衆的にもおそらく今日
の所謂「詩」ほど、日本に於て、一般から退屈硯され、意味がなく、文学としての本饅から、不可解に怪まれ
てゐる存在はないであらう。
 詩は日本に於て磯育し得ない。すくなくとも我々の園語が統一し、今少し蜃術的な表現に耐へ得るほど、文
章語としての完成に達するまで、我々の詩人は休業である。我々は仕事を持たない。仕事を持つことが出来な
いのである。しかしながら我等の詩人は、伶この不幸な時期に耐へ、少しでも希望ある未来に達するため、殉
教者としての覚悟に於て、一の批判と創作とを支持して行く。日本に若し拳術的な国語がなければ、我々詩人
の努力によつて、無理にも国語を創造し、文化の新しい統一を指導しょう。たとへ創作が無益であつても、伶
且つ我々の詩人たちは、批判家としての精神から、文化の完成を指導してゐる。詩人の存在は無意義でない。
∫∂タ 文畢論

文学の観念病とその治療
最近の文壇は、バルザツタが流行し、アンドレ・ジイドが流行し、ドストイエフスキイが再吟味され、ボー
ドレエルが騎ぎ立てられ、ニイチエが呼び起され、ツルゲネフやチエホフまでが引出されてる。これを見て或
る許家は「十九世紀への懐古」と呼び、復古主義の文壇と許して居るが、僕は決してさう思はない。今日の文
奉思潮は、畢に懐古主義のノスタルヂアに基因して居るのでなく、もつと他に必然な文学的事情、祀合的事情
を持つてるのである。
 過去の日本に\かうした十九世紀末の西欧文肇が入つて来たのは、日露戦萱糾後の時代で、日本の国運が盛
大態展を極めた頃であつた。常時日本の経済は急激に膨脹し、圃民の元気は旺盛で、街上を歩く民衆さへも、
希望と光明に充ちた蘇をして居た0思潮界の方もまた、青年の若々しい勇気を以て、外国の新しい文拳思潮を
取り入れ、すぺてに於て張りとカのある新興勇躍の時代であつた。ところで常時の輸入した十九世紀文学とい
ふものは、欧洲資本主義文化の熟爛期をすぎて、あらゆる方面に行き詰りを感じた厭世顧廃の文畢であつた。
人々は既に生活の意義を失ひ、希望もなく未来もなく、暗澹とした懐疑の中に、虚無の幻影を抱いて幽壷のや
うに排相して居た。
 かうした世紀末の西欧文蓼と、常時の意気軒昂たる日本の杜禽とは、驚くべき反封のコントラストであつた。
日本は正に伸びょうとする出磯への黎明時代で、西洋は正に終らうとする世紀末の薄暮である。常時の日本人
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                                                                                                                                                                               召[。ヨコnH.1・
と、日本の融合とが求めたものは、ゲーテやパイロンの行進曲であつたとしても、世紀末のインチサが歌ふレ
タレエムでは無かつた筈だ。しかも日本の文壇は、かうした時代のかうした環境に濁立して、勝手に西洋の新
しい文蛮を輸入した。もちろん日本の一般民衆は、自分等の文化や環境と縁がないところの、そんな世紀末的
文寧に用がなく、てんで頭から見向きもしないで澄して居た。その輸入された文学は、自然主義の小説といふ
名前で、文学者の狭いグループだけで讃まれて居た。その自然主義の文学者等は、だれもかれも蒼白く、憂鬱
さうな顔をして居た。彼等の語る所をきけば、人生は救ひのない無限の地獄で、何の意義もなく希望もなく、
生活それ自慣が無意味なのである。
 だが彼等の資生活を見て居ると、意外に呑気で洒々して居り、深酷な苦悶なんてものは何所にも無かつた。
そしてまた、それが首然の話である。なぜといつて、常時の日本の牡合や文化が、本質的に西洋の十九世紀末
とちがつて居り、どこにも似たところが全く無かつた。(常時の日本に、一人のデカダンでも居たらそれこそ
奇蹟だ。)然るにただ文士だけが、そんな環境と政令の中で、孤立的に西洋人の世紀末的苦悩を饅験し得る道
理がない。もしその苦悶があるとすれば、それは文士自身が、彼等の頭脳の中で無理にイメーヂした幻影であ
り、文学的インテリの観念で作つた製造品に外ならない。そして正に、彼等がその通りなのであつた。言はば
彼等は、自分で幽塞の檜を壁に張りつけ、前に坐つて、「恐ろしい。恐ろしい。」と叫んで居る人間だつた。し
かもその賓、内心では少しも恐ろしくないのであるが、それが一つの文学的見得なので、常時の新しい文拳的
新思潮家を気取る為には、ウソにもさうした芝居をせねばならなかつた。そこで彼等は、無理に泣面作つて苦
い顔をし、人の見てゐる前では、紹封に楽しさうな顔をすまいと決心した。
 だが既に芝居は経つた。幕がしまつてしまへば、楽屋へ這入つて思ひきり笑ふばかりだ。あの馬鹿馬鹿しい
道化芝居、愁ひの騎士ドン・キホーテの自然主義文壇は終つた。ところが最近の日本の事情は、偶然にまた西
∫〃 文寧論

洋の十九世紀末と顆似して来た。印ち人心は蹄所を失ひ、経済は萎縮し、思想は動揺し、人々は全く生活の意
義と希望を無くしてしまつた0今日の如く、一般に信仰が強く求められてる時代はなく、そして信仰はどこに
も無いのだ0江戸時代の末期と、昭和の現代ほど心中が盛んに流行する時代はない。人々はだれでも、心ひそ
かに皆自殺の方法を考へて居る0かうした日本現代の祀合に於て、自然的にどんな文学が優生するかは、考へ
る迄もなく明らかである。
 大衆は眈に早く、かうした今日の時代に於ける、彼等の要求する肇術を所有して居る。即ち流行唄の「酒は
涙か嘆息か」である0「どうせやくざの行く道二つ」「未は三原の煙となる」である。通俗小説と映董では、大
菩薩峠の机寵之助が至るところに攣貌して活躍して居る。そして机寵之助の本質はデカダンであり、l言リス
トであり、世紀末的攣質者である。
 奉術的小説(この攣な名前で呼ばれるものが、日本ではいつも敢合の現賓から遊離して居る。)だけが、か
うした時代と混交渉に、長く濁りよがりの楽屋落的ジャーナリズムを繰返して居た。だが今や、流石世間知ら
ずの文畢者等も、時代と環境の息苦しい客気に接解して来た。そして文士自身が、一般民衆と共にニヒリスチ
ックになり、生活の意義を失ひ、懐疑に疲れ、酒場に酔つて「未は三原の煙となる」を歌ふやうになつて来た。
そして嘗然、此虞に西欧十九世紀の苦悩に充ちた文学が要求され、ドストイエフスキイやボードレエルの再吟
味となつたのである。
 この意味に於て見る時、日本の文壇と文畢とは、今や漸く正しい健全の方向だ目醒めたと言はねばならない。
なぜなら過去の文壇は、自己の現賓に生活してゐる日本の祀合や文化と遊離し、火星の住民たる外国のニュー
スにあこがれ、場所と事情の特殊的差別を無現して、西洋のアップ・ツー・デートを直ちに直詳輸入すること
にのみ熱心であつた0それ故に日本の文学は、いつでも現賓生活の質感性に映乏し、畢にインテリの頭脳で製
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作された観念のイマ≠ネーシ計ンに過ぎず、
結局一種のインテリ的虚栄心の見得にすぎない感があつた。
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り正直な話は、民衆と全く交渉がなく、別世界に孤立して居たことの澄左であつた。
 今や自覚した文壇は、何よりも第一に、その「新しがり」の軽薄さと、気障なダンヂイズムの気取りを止め
て、眞面目に正直に、自己の現資から出磯すぺきだ。文学はサロンの流行衣裳屋ではない。アラモードの新柄
をきて二十世紀の新人を気取るよりも、汝の現音生活が必要とする、賓の欲情する食物を取るべきである。
 俳蘭西では、モーパツサンの小説を下宿の女中が讃んでるし、露西亜ではトルストイの小説を、田舎の百姓
たちが讃んでゐるといふ話である。ところで日本の文壇小説といふものは、いつたい何虞の民衆が讃んで居る
のだ。インテリ階級だけならまだ好いのだが、その知識人種の中での、特に文学に興味をもつてる特秩の青年、
即ち所謂「文学青年」だけに限られてる。この文学青年といふ連中は、自分で作家になつたり、文壇に出よう
としたりする野心をもつてる連中で、その小説を讃む目的は、文学を眞にエンヂヨイするためでなくして、む
しろ意識的に勉強する為なのである。ところで勉強のために讃む文畢なんかに、眞の本質的な文学精神が無い
ことは解つてる。文畢及び一般拳術の眞精神が、鑑賞の心理に於て畢尭エンヂヨイ(楽しみをもつ悦び)に存
してゐる事は明白なのだから。
 要するに日本の文壇的文学といふものは、特殊な楽屋落ちの文学であつて、公衆の生活と全く関係がない。
文士自身に言はせると、この現状は民衆の文化教養が低いことに原因してゐる。即ち日本の宿屋の女中は、俳
蘭西のホテルの女中より無智であり、日本の田舎の百姓は、露西亜の農夫より非文化的だといふのである。だ
が民衆の方から言はせると、この罪の貴任は文学自身の側に存してゐる。カントもなく、ショペンハゥエルも
なく、資本主義文化の爛熟した世紀末もなかつた明治末期の日本で、欧洲自然主義の十九世紀文寧を眞似た小
説などが、一鰹民衆とどんな関係を持つて居るのだ。民衆がそんな文学を讃まないのは官然である。
∫アj 文寧論

蕗西亜や悌蘭西などの外国では、日本の代表的な国民小説として、徳冨氏の「不如辟」がょく知られてるさ
うである0これを開いた或る文士が、いつか新聞で日本の国辱だと言つて憤慨して居たが、何故に憤慨するの
か少しも鰐らぬ。私の見る所で、「不如蹄」は中々よく書けた小説である。あの小説には一種のピューリタン
的モラルが一貫し、可成強い精神が盛られて居るし、第一ああした家族制度の不合理に原因する悲劇は、今日
現在の日本に於ても至るところに賓在して居る。小説「不如蹄」は、今日過渡期の文明が災ひしてゐる日本人
の現賓生活とその悲劇とを、直接リアルの牡脅から取つて書いたものであり、したがつてまた日本の民衆の馨
を代表してゐる0それが廣く公衆に讃まれるのは首然であり、丁度露西亜に於て、トルストイの小説が農夫の
墓所にまで讃まれて居るのと同じ関係である。
 文壇の文寧と、民衆の文学とが、日本のやうに判然分立して居る園は世界にない。柳澤健氏が、日本の文壇
に輿へた公開状にも、多分にこの鮎の主意を述べてたやうに思ふが、柳澤氏の如く、多年外国に居て西洋の文
                                      ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
寧事情に通じてる人の言ふことは、すくなくともこの鮎で観察にまちがひがない。日本の文学を文学青年の手
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から解放せょ1 これが最後に言ふ言葉である。
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