岩佐君の詩文寧
岩佐君といふ人は、雑誌や書物の装鳩について、すぐれた書い趣味をもつてる人である。「文肇汎論」の詩
や散文の組み方も、すつきりと抜け目がないので、同じ詩でも、この雑誌で活字にされると、他の雑誌に載る
よりも表秀れて見えるほどだが、今度の詩集「春秋」なども、とりわけ装鳩が高雅である。表紙も破くて美
しいが、内容の紙質や活字がきれいで、いかにも見た目に美しく爽やかである。
∴≡華。`題穎
:岩佐君の詩は、その随筆と同じやうに、榛めて明朗爽快であり、何かし毎増人生を奨しく▲葡盛一一−ゐ山を本質
してゐる。君は時々道徳的の義憤をするがその義憤さへも明朗で快速であり、世の所謂「悌慨家」や「悲憤
家」にありがちのタイブである、世にすねた人のヒステリカルの暗影がない。君の詩をよむと、朝の食卓に汝
んだトマトや、果樹園の花樹の匂ひを聯想する。しかもそれが、ふしぎに何かしらの鮎で家庭生活と関聯して
ゐる。朝の日常りの好い搭室の中で、牛乳のやうにシャボンの泡を溶かしながら、大馨で歌をうたつたり、新
婚の妻を呼んだりしてゐる彼の姿は、永遠に詩人岩佐君の印象を記念づける。彼は赤ん坊のやうに元気がよく、
いつも手足をぴんぴんさせて、生命力の抑度し切れない旺盛を楽しんで居る。だから、あくまで明朗快活であ
り、そんな卑俗な小市民根性を軽蔑して、新時代への執爽たる建設的意志を鼓吹してゐる。さケした彼の明朗
な国民意識は、都新聞にも「詩人美談」として掲載されたが、おそらくその意識の本懐となつてるものは、観
念上のものょりは、むしろ肉饅の健康と生命力とに基因してゐるのであらう。果してもし然らば、これほど羨
望に耐へざる詩人は滅多にない。今日僕等が岩佐君の詩や文章を讃むとき、生理的に明るい愉悦の情をおぼえ、
一種の解放感に似た特殊の魅力を感ずる所以も思ふに此所に存するのだらう。