青年時代の交友

 僕の少青年時代は、所謂蒲柳の貿で饅がひ弱く、年中病気ばかり患ひ績けて居た。その上性衆の神経質で、
子供の時は物におびえてばかり居たし、青年期に入つてからは、慢性的の神経衰弱症にかかつて居たので、自
然に陰鬱な孤濁病者になつてしまつて、友人との交際もなく、青春時代の快楽といふやうなものも、殆んど知
らずに過ごしてしまつた。小中寧の時代を通じて、僕は生徒中での「除け物」であり、いつも仲間から一人離
れて、孤濁に峯想を楽んでるやうな攣り物だつた。つまり一口に言へば、宿命的に文聾者になるやうな性格を、
素因的に気質してゐる男であつた。
 しかしさうした孤濁の僕にも、二三の友人がないではなかつた。今から考へると、さうした僕の友人たちが、
何れも多少蛮衝家肌の人物であり、美衝や音楽や文寧やに、特別な趣味愛好をもつてゐた人々であつた。小学
時代に、僕の唯一の友人であつた子供は、後に輿謝野晶子先生の門下に入り、現に雑誌「冬柏」を主宰してゐ
る歌人眞下喜三郎氏であつたし、中学時代に唯一の親友であつた生徒は新日本書架の泰斗であつて、先にJO
AKの演拳部長をしてゐた町田嘉章氏であつた。そして更に先年物故した歌人石井直三郎氏は、岡山六高時代
の友人だつた。
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しかしさうした畢校時代の友人たちは、後に杜曾に出て別れてからは、殆ど全く逢ふ横合がなく、稀に活字
で名を見る毎に、懐嘗の情をそそられる位のものであつた○眞に僕の知己友人として、長く親しい交際を績け
た人は、やはり同じ餅屋仲間の詩人であつた。
僕は中学生の時代から、下手な和歌や新饅詩のやうなものを作つて居たが、文畢で身を立てょうといふやう
な意識1いはゆる文壇意識1がなかつたので、こツそりノートに書いてるだけで、どこにも投書したり、
蜃表したりするやうなことがなかつた0その為詩竣に出るのが甚だ遅く、虞女詩集「月に吠える」の出た時は、
既に三十歳を越えて居た0常時の文学者は一饅に皆早熟であり、特に詩人は神童的に早熟だつた。
たとへば北原白秋氏は十八歳にして天才の名を謳はれ、三木露風氏は十七歳にして虞女詩集を出して居た。
さうした早熟時代に、三十徐歳にもなつて漸く詩壇に出た僕は、例外的に年遅れの詩人であつたか知れない。
(もつとも僕以後の詩人は、だんだん出世の年齢が遅くなつた0室生犀星君の如きも、ほぼ僕と同年代に虞女
詩集を出版して居る。)
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僕の青年時代は森鴎外と上田敏に最も深く私淑して居たが、詩では北原白秋氏が竺の崇拝する大家であつ
た0それで白秋氏の雑誌「ザムボア」を愛讃して居たが、到頭思ひ切つてその雑誌に詩を投書した。これが僕
の詩を投書した最初であつたが、その詩は翌月競の「ザムボア」に掲載され、且白秋氏から激励の手紙をもら
つた。その手紙の言葉に日く。
 君何年若く、前途春秋に富む。それょく勤めょやと。
瀾淵m野毛d
                                                                               芸つミノ】セ瀾題−■
湖題硝憎淵題周白秋氏と僕と鳩椅僅か三つか四つしか年齢がちがはないのである、Tそれに「君何年若く、前途春秋に官む。」
  は可笑しかつたと、後に白秋氏が僕と逢ふ毎に笑つて話されるが、僕の投書した字や文章やが、あまり子供ら
  しく稚拙であつたので、賓際白秋氏は、僕を十六歳位の少年と思つたらしい。
   だが常時の無名詩人であつた僕の眼からは、天下に名筆を馳せてる大白秋の玉膿が、自分とは比較にならな
  いほど偉大に見えたので、そんな手紙をもらつても一向に可笑しくなく、官然大人の前に出た子供のやうな思
  ひであつた。
   その後長い間、白秋氏とは、親しい交情を績けて来た。或る時は二人で土耳古帽を被つて漫革に行き、人力
  車犬から南洋人とまちがはれて、鉄分の酒代をねだられたり、或る時は洋酒に酵つて、電信柱の登りつこをし
   たりなどした。
 室生犀星君と友人になつたのも、やはりその白秋氏の同じ雑誌を通してだつた。常時室生君は、早くからそ
の雑誌に詩を書いて居たし、他の雑誌「スバル」にも作品をのせ、僕よりも一足早く詩壇に出て、相官一部の
人々に名を知られて居た。その頃室生君の書いてた小曲風の抒情詩は、二十年を経た今讃んでも、昔に攣らず
懐しく魅力の深い絶品だが、常時の僕は全くそれに魅了され、日夜に愛吟して殆ど全部を暗諦したほどであつ
た。それで遽に思ひ切つて、金澤に居る室生君の所へ手紙を書いた。その時の僕の心理状態は、丁度まだ見ぬ
椿人の許へ、思ひに耐へかねてラグレタアを迭るやうな菊もちであつた。
 それから間もなく、室生君が前橋へ僕を訪ねて来たりして、二人の交情は兄弟以上に親密のものになつた。
 僕の青年時代を通じて、眞の親友といふぺきものは、おそらく唯一の室生君だけであつた。そして命今日で
も、同年輩の友人としては、室生君以外に殆どない。その他には佐藤惣之助君と、妹との親緑関係から、特別
に親しい交情を績けてる外、同年輩の友人といふものを、僕は他に全く持つて居ないのである。しかもその室
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生君や佐藤君とも、最近は殆ど稀にしか逢ふ轡曾がなく、たいていは年代の逢かに若い詩人や畢生たちとばか
り、一所になるチャンスが多いのである。
息ふに文孝者の友情といふものは、文学する主慣の意識観念(作家の人生観や奉術観)と、不離に表して
るもののやうに息はれる0それ故同人雑誌の無名文士が、眞の親交を績けるのはその若い無名文士の時だけで
あり、後に各ヒ妄を為すやうになつてからは、単に習性としての交際以外に、眞の熱情的なる「文学的友
情」といふぺきものは、自然滑滅になるのであらう0また賓際のことをいつて、文聾者の生活はそれで好いの
だ0なぜなら文畢は、常に永遠に孤濁の造を行くものだから。
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