日本の民族性と日本文化の特質
日本に於ける西洋的なもの
中河与一氏は、万葉ギリシャといふことをよく言はれるが、万葉集の歌の精神に、古代ギリシャと通つたも
のがあることは事実である。単に歌ばかりでなく、絵画や建築等の美術方面にも、飛鳥、奈良時代の日本文化
に、ギリシャの影響が著しいのは、多くの識者の説く所である。当時日本と全く交通のなかつた西域ギリシャ
の文化が、雲煙万里を距てた日本に渡来したことは不思議であるが、これは支那が中間に立つて媒介したので
ある。当時の支那は所謂「大唐」の時代であつて、その領土は地球の大半に及び、その文化は全世界の山頂に
輝いて居た。東方諸国は勿論のこと、当時西域と呼ばれたペルシア、アラビア等の地方からも、使節が列を作
つて参集し、続々として唐の都に集つて来た。すべての道はローマに通ずといはれてゐるが、それよりも早い
以前に、すべての道は大唐に通じて居た。それ故に唐の文化は、古代に於ける世界文化へのカクテルだといは
れて居るが、就中、西域地方を経て間接に入つて来たへレネ人のギリシャ文化が、アリアン人の印度文化J共
に移植され、唐に於て特別の大輪咲をした。そしてこの牢前絶後の大文明が、唐を経てまた日本に俸来して来
たのであつた。
それ故に飛鳥、奈良時代の日本文化に、半ば唐風化したギリシャが入つてゐることは不思議でない。その古
イの 文明論・杜合風俗時評
代耳化の讃跡は、常葉集等の文献の外に、法隆寺等の美術品に保存されてる0法隆寺の俳像は、後世のそれと
大に風姿を異にし、支那的であるよりも、むしろギリシャ的だといはれて居るが、現に僕の秘寂してゐる法隆
寺併像(観音菩薩)の横馬の如きは、容貌といひ姿態といひ、全くへレネ人のギリシャタイブで、印度の諸俳
を表象するより、むしろオリムボスの女紳を表象してる如く思はれる。
唐の都長安は、多分に西域風の設計を取り入れたといはれて居るが、街路を幾何畢的に直分したり、歩道に
橘花等の街路樹を植ゑ、日光の直射を防いだりしたのは、おそらくギリシャ等の西洋都市から、間接に啓示さ
たちはな
れたものであらう0さうした唐の都市株式は、直ちにまた日本に輸入され、奈良、平安等の都滞建設に模倣さ
れた。
たちはな ちまた いも
橘の影ふむ道の八巷に物をぞ思ふ妹に逢はずして
といふ如き常葉集の歌を詠む時、僕等の直覚的なイメーヂは、街路に撤撹茂る古代アテネの町を聯想して、
何となく西洋臭い思ひがするが、賓際にまたそれは、唐を経て倦来した「日本の西洋」であつたのだ。すぺて
に於て、奈良朝時代の上古文化は、後世の日本的なる文化に此して逢かに多く西洋に接近して居た。唐が崩壊
してから以後支那は轡族のために荒廃されすぺての貴重なる文化的賓物を無くしてしまつた。支那に於ける
「西洋的なるもの」も、この奪略にょつて費失され、以後の文化に跡を留めることがなかつた。そして日本は、
その時以来退席使を止め、留畢生を廃し、支那との交通を絶やしてしまつた0同時に国粋主義の運動が起り、
由貫之等の古今集歌人が先達して、日本文寧に於ける全ての支那的のもの、西洋的なものを、抽出排除するこ
とに努めた0ハニの意味に於て、古今集は常葉集の反動であり、奈良朝文化のきびしい香定を意味してゐる。)
支那に於けると同じやうに、その時以来日本に於ても、西洋的なる文化の種が攣ろてしまつた。
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ことは、日本文化史上の一不思議であつた。だが窯舶の来航から、再度また西洋に接近し、直接にその西域文
化を革んだ日本は、過去二千年に亙る長い歴史を杢自成して、一躍上古の開明時代に復辟した。明治以来の歌
人が古今集以後の多くの詞華集を白眼現して却つて上古の常葉集に心ひかれたのも官然だし、新時代の教育を
受けた青年等が、奈良文他に憧憬するのも官然であつた。明治以後の現代日本は、正に「新しき奈良朝時代」
であり、中河氏の所謂「常葉ギリシャ」の時代でもある。
日本人とへレネ人
しかし常葉集に於けるギリシャ的のものは、必しも唐からの侍来でなく、大和民族本来の情操中に、偶然に
も古代へレネ人と符節を合するものがあつたと見る方が、むしろより正統な歴史観であるかも知れない。賓際
に日本人とギリシャ人とは、民族情操の本質鮎で、極めてょく似た部分がある。たとへば気質が楽天的で、明
朗快活であること、常識が固満に態達してゐること、武勇の気性に富んでること、美を愛する心の深いこと、
民族的凝結心の強いこと。特にその宗教に於て、人間的なる八百万の紳々を祭り、且つその紳々の性格が、す
ぺて明朗で現賓的であり、俳敦や基督敦に於ける如き、超人間的な神秘性や、陰鬱で苛虐的なる罪罰観念を持
たないこと。したがつてその信仰には、地獄や天国の観念がなく、極めて現資的であること。オリムボスの山
と高天原とが、紳々の遊楽地であつたり、集合地であつたりすることで、本質的に極めてょく似て居ること等
で、大和民族とギリシャ人とは、宗教的にも気質的にも、畢一原素に共通したところがある。
小泉八雲=ラフカヂオ・ヘルンは、「紳園日本」その他の著作に於て、この日本人とギリシャ人との相似鮎
イ〃 文明論・。杜曾風俗時評
をあげ、且つ結論してかう言つてる0世界に於て、眞に文明といふものを理鰐し、且つそれを所有してゐた国
民は、古代ギリシャ人と日本人との外にはない0この二つの民族は、宗教が本質的に似てゐるばかりでなく、
民族性そのものがょく顆似して居ると0さればたとへ唐との交通がない場合にも、古代の大和民族が自立的に
創つた文化は、おのづからヘレニズムと共通したものがあつたか知れない0たとへば次の如き常葉集の歌
ますらを
天地に少し至らぬ丈夫と思ひし我や雄心もなき(武人のうたへる歌)
表し照るや難波の津より舟よそひ我は出でぬと妹に告げこそ(防人出征の歌)
プラトニックラ ヴ
等に見える如く、古代是人の第三尊んだ生命的の湯は、賓に蚕男」と「精紳的鰭愛」とであつた。
そしてこの生活的イデーは、全く古代ギリシャ人のそれと表して居る0(今日の濁逸人が自らギリシャ完
の直系的俸統者と構してゐるのは、この二つの生活的イデーを、希騰人と共通にして居るからである。)かう
した民族的情操の本質に於て、日本人と嘉人とは大に異つて居た0支那人は決して武雪雲国民ではない。
その上にもプラトニック・ラヴを知らない国民であつた0愛だの鸞のといふ言葉は彼等に於て不潔な肉慾的
痴情としか考へられず、したがつて非道徳的のものと観念され、士君子はそれをロにすることさへ恥ぢた去
れ故に宗の詩人は唐代に於てさへも讐を歌ふことを忌み嫌ひ、特別の誓にも、たいていそれを女人の作
に擬し蒜つた0それには勿論、儒教の影響もあるだらうが、本雲那人の民族性が女性に封して精神的であ
るよりは、著るしく肉情的、痴情的であつた為に外ならない。
誉蓼術を愛することに於ても、日本人はギリシャ人に劣らない民族である0印度人の悌教徒やバラモン教
徒が、それを官能の迷牢こして、或は煩悩の業果として排斥した時、ローマ以来の基督教化した西洋人は、ヴ
4ア2
一.表
イナスやミユーゼの美▲衝品を、悪魔の化身として火刑にし升加すぺての美しいもの、‖蓼衝的なるものを、異端の
おほやけ
誘惑として悪み嫌つた。かうした古代の民族史上で、ひとり公に美と拳術を愛したものは、オリムボスの諸紳
を奉ずるへレネ人と、八百万の神を拝する日本人の外になかつた。ヘレネ人と日本人とは、世界のいかなる人
種以上に、眞の民族的なる唯美主義者であり、眞の拳術至上主義者でもあつた。
かうした日本人の本然的な園民性は、記紀の詩人を始めとし、万葉歌人の子々孫々にまで、常に連綿として
血脈し、日本文化の最も異色的なる相を造つた。ただ時代による社合の攣化で、その一方的なる物のみが、特
別に重んじられることがあつた。たとへば平安朝時代には、美と椿愛とが止揚され、武勇は比較的に揚棄され
た。反封に鎌倉・室町の時代には、武勇が最高の位置に換へられた。しかもその武家時代にも、日本人の素質
的なる唯美主義は、その甲胃を世界最高の美術品にし、平安朝以来の美挙を俸へて、能楽の幽玄なエスプリを
「花」に求めた。花は即ち色であり、色は即ち懸であつて、男紳女神の相聞歌に初まる日本の歴史は、此所に
また新しい武装をして展開した。
かうした日本人の民族情操が、いかに抜きがたく本然的のものであつたかは、過去の長い歴史を通じて、係
数や儒教の影響を受け、常にそれが文化の表面を彩どつて居たにかかはらず、日本人そのものの性情が、さら
に少しも支那人臭くなく、印度人臭くならなかつたことで明らかである。悌教の陰鬱にして苛虐的な宿命観は、
日本人の文化情操の中に融解して、優雅に床しい「物のあはれ」のりリシズムとなり、儒教の形式的なる仁義
思想は、能楽の幽玄なる武家的象徴賓術となり、さらに老荘の非情的なる枯淡主義や虚無思想は「侍びしを
り」の情趣深き茶道となつて表象された。そしていかなる攣貌の面の下でも、日本文化の本質は常に楽天的で
あり、現世的であり、享楽的であり、唯美主義的であり、そして常に懸愛至上主義的であつた。
然るに近世の徳川期に入つてから、幕府は武士階級の思想統制をしようとして、儒教の朱子畢を強制的に園
イアブ 文明論・政令風俗時評
教とし、之れに反するすぺての思想を許しがたい異物として札弾した0そのため椿愛至上主義や唯美主義やは、
基督敦のへレ1妄ムに於ける如く、悪魔邪淫の破倫と思惟され、士君子のロにするだに恥づぺき妄想と考へら
れた0その時以来、日本の有識階級と武士階級とは、彼等の文畢にも美術の上にも、決して轡愛を圭材としな
くなつてしまつた0能楽ですら、その本質的精神の「彗を失ひ、畢に形式上の枯淡なる造形美術として鑑賞
された。
しかしかうした時代にも、日本人の本然的なる民族性は、依然として大衆の中に血脆されてた。そして所謂
「江戸文化」が町人階級にょつて創造され、未曾有の爛漫たる花を開いた。これ等の町人階級者は、幕府によ
つて人間外の非倫理的存在と考へられてた0その為宰ひにも儒教の強制から免税され、自由に彼等の拳衝的才
能を態展させることができた0さうした奴致的地位に居た無数養人の江戸奉術は、女中部屋や人足部屋の話題
とひとしく、もとより極めて卑俗に下司ばつたものであつたが、しかもその本質鮎では、日本民族の先組以来
血脆してゐる文化情操を、下賎な攣貌に於て最もよく奔縦に磯拝したものであつた。即ち江戸文化の中心的エ
スプリは、情痴的に卑俗化した懸愛至上主義と唯美主義であり、日本人の民族性が特有してゐる諸属性1明
朗性や、楽天性や、享楽性や、伶武性や1は、箕に最もよくそれらの江戸文奉に表象されてる。その意味に
於ては江戸文拳すら、万葉集の直系であるといふことが出来るだらう。
前に自分は、奈良朝以後に於て、日本に於ける「西洋的なる」文化の種が攣完と書いたが、その「西洋的
なるもの」は、賓には「支那的なるもの」と同じく、この挿図日本に舶来して、文化の表皮を彩どつたものに
すぎなかつた0ただその西洋的、即ちギリシャ的なるものは、支那的のものや印度的のものに比して、日本人
の国民性と本然的に符節を合する鮎が多く、より同化し易い可能性を持つて居たのである。唐の崩壊以後、日
本にその舶来が準えたことは、異に惜しみても像りあることといはねばならない。だが「常葉ギリシャ」の眞
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Z瀾畑瀾凋瀾周淵瀾パ川漣1朋 く
棉神は、日本人がヘレネ人と似てゐる限り、依然として歴史を一貫して居る箸であつた増たたしかし首棄以後、
その西洋風なる舶来の香気と風貌とが、すべての日本文化と文拳から安失したことを、自分は中河輿一氏と共
に、寂しく悲しむことを述べたいのである。