「シンニッポン」欄
●この頃ニュース劇場の映画館に行くと必ず日独防共協定を主題とした、政府の宣伝映画が一本宛(づゝ)ある。これを見ると、世界はコミンテルンの赤化露西亜と、ファッショの独伊とで思想的に二分されて居り、日本はその何れかに聯盟せねばならない立場にあるといふ事が、殆んど強説的に宣伝されてゐる。僕はこの種の映画を見て、初めて政府のいはゆる「国民精神総動員」の本意が那辺にあるかを推察し得た。この映画を見ると、日本は今や赤化の魔手に侵略され、スペイン内乱的の危機に瀕してゐるやうにも思はれるが、そんなことも初めて映画を見て知つたのである。実際政府によつて教へられる迄、僕等は何事も知らずに居た。映画を見て、僕はつくづく自分等の無知と世間知らずに驚いた。まさか現代の日本が、そんな重大の非常時に際してゐるとは、夢にも思はないことであつた。五・一五事件や二・二六事件以来、僕等は絶えず意外の事件に逢着し、無気味の夢を見てゐるやうで、常に驚かされ続きであつたが、その秘密の夢魔の実体が、今にしていくらか解つたやうに思はれる。もつと早く知らせてもらへば、尚善かつたかも知れないのである。
●白水社の一店員が、出版の事で、出頭を命じられた時、いきなり「お前は何だ」ときかれたさうである。「何だとはどういふ意味です」と反問したら、赤かファッショかと質問された。そこでその人が、私は赤でもなくファッショでもないと答へた所、「では自由主義者だな。それがいちばん悪いのだ。」と云つて、半時間も叱られて説諭されたさうである。つまり、今の日本は、コミンテルンかファッショかの二つの中、どつちかの聯盟に加入せねばならない立場に居るので、中途半端の自由主義者や、中立主義者がいちばん非国民的で悪いといふことになるのだらう。日独伊防共協定の映画は、この政府の意向を最もよく具体的に説明してくれる。もし未見の人があつたら、是非一度見るべきである。
●ナポレオンが太鼓を打つ時、仏蘭西の民衆は一切の理性や批判性を忘却し、狂気のやうに酔つぱらつて従軍した。今独逸人や伊太利人やも、同じやうにまたヒットラー、ムツツリーニに魅惑され、単にその姿を見、その声を聞くだけで興奮し、すべての力と希望とを、ひとへにその巨人の太陽から仰いでゐるのだ。 いかなる場合に於ても、独裁政治とはヒロイズムの政治であり、一人の英雄によつて、大衆が無批判的に酔はされるところの政治である。所で、日本がもしファッショ聯盟に入るとしても、日本の國體の特殊性から、日本に独伊的の独裁政治が成立しないことは明白である。日本は単にコミンテルンの赤化聯盟を防止する目的から、仮りに独伊と防共協定をし、かりにファッショ聯盟に入るにすぎない。そこで日本の政治は、今後或は「強権国粋主義」になるかも知れない。だが独伊のやうな独裁的ファッショ国家になる筈がない。故にヒットラーやムツソリーニが、日本に現はれて来ないことは、むしろ当然かも知れないけれども、別の意味に於て、今日ほど真の英雄的大政治家が、日本に要求される時代はないのだ。
●民衆は常に「酔ふこと」を求めてゐる。ナポレオンのやうに、ヒットラーのやうに、ただ快よく人々を昂奮させ、無批判に酔つばらはせてさへくれれば、民衆は悦んで一切の犠牲を捧げ、自発的にいかなる奉仕をもするのである。今の日本の不幸は、この、ナポレオンがないばかりでなく、僕等を酔はせてくれる物の実体が、社会的にも政治的にも無いことである。
●最近読んだ本の中で、芳賀檀君の「古典の親衛隊」に敬服した。何よりもこの山頂的に崇美な文学精神に敬服したのだ。芭蕉を論じ、ゲーテを論じ、ニイチエを論じ、北京を語ることはだれにも出来る。だが芳賀檀君のやうに、崇美な詩人的エスプリで語ることが、日本の文壇では珍らしく、他に殆んど人がないのだ。この著者の感性には、独逸浪漫主義の最も清澄な詩精神が侍へられてゐる。しかもかうした文学精神といふものは、かつての日本文壇に全くなく、生育の土壌を持たないものであつた。今後の日本に於て、かうした文筆精神がどこ迄発育を遂げるかといふ事も、おそらくまた深い疑問であり、そして此所にこの著者の慰められない孤独がある。とにかく真のエッセイといふ文学が、過去に全く存在せず、現在に於ても絶無に近い我が文壇で、最近保田與重郎君や芳賀檀君のやうな詩人的エツセイスト(エツセイストは常に必ず詩人である)が出たことは、僕の深く悦びに耐へない現象である。