叙事詩と日本文化

 人類の文化史上に於て、叙事詩と抒情詩と、どつちが先に俊育したかと言ふことは、学者の間で問題になつてることであるが、普通西洋のギリシヤ史では、ホーマア等の叙事詩が先に発育し、後に遅れてサツホオ等の抒情詩が生れたことになつてる。この発生の順序は、常識に少し矛盾したやうに思はれる。なぜなら抒情詩は主観の情緒表現であり、叙事詩は客観の記録表現であり、そして主観は常に客観の先に立ち、情緒は常に認識の先に立つから。常識的に考へて、詩の最も素朴的なる原始表現は、どこの民族にあつても抒情詩であるべき筈なのに、ギリシャ史ではこの優生の順序が逆になつてる。だがさらに進んで、西洋詩学で概念されてる「叙事詩」「抒情詩」の語義を考へれば、むしろこの発生の順序が当然なことがわかるのである。
 人類文化史の発育するプロセスは、一人の人間が子供から大人に成育するプロセスと同じである。そこで紙芝居の前に群がる子供等の中で、最も無邪気な幼ない児童は、ドリームランド的ファンタジイの童話やお伽話の類を好むが、少しく年齢を経た少年期の子供たちは、飛行機少年の冒険談とか、日の丸太郎の妖怪退治とかいふ類の、ヒロイツクでスリルに富んだロマンスや冒険物を悦ぶのである。しかし更らにもつと年を取つた思春期の少年少女は、既に紙芝居の前を離れて、漸く初めて恋愛的センチメンタリズムの映画や読物に興味をもち出して来る。そしてこのプロセスは、人類文化史の発育するプロセスと一致してゐる。即ち文化史の最初に於ては、どの民族の歴史に於ても、原始に先づファンタスチックの神話があり、次に半ば神話化された戦争詩や英雄詩のロマンスがあり、最後に人文発達の三期に移つて初めて男女相聞の恋愛詩や情痴詩が生れるのである。所で「叙事詩」といふ概念は、単なる記述的物語詩を指すのでなく、普通の詩学上ではヒロイツクな戦争詩や冒険詩を指すのであり、「抒情詩」といふ言葉は、主として恋愛的センチメントの相聞歌を指すのであるから、人類文化史上に於て、抒情詩の前に叙事詩が発生するのは当然である。
 西洋文化の母源である古代ギリシヤ史が、この「神話から叙事詩へ。叙事詩から抒情詩へ」の三段階を、順序に正しく発展したことは、普ねく人の知るところであるけれども、日本の歴史に於てもまたこのプロセスは同じであつた。即ち日本に於ては、最初に先づ古事記開闢時代のファンタスチックの神話があり、次に神武天皇や雄略天皇やの、半ば神話化したヒロイツクの戦争記や英雄談があり、最後に日本武尊あたりから、漸く初めて真の恋愛詩的なものが発生し、それが奈良朝の文化に満開して、遂に万葉和歌集の絢爛たる相聞抒情詩となつたのである。故にどの民族の歴史に於ても、抒情詩が満開した時は、文化がその第三段階のプロセスを経て、最後の完成した高峯に立つた時である。個人の歴史に就いて言へば、このプロセスは「子供から成人」への完成したエポツクを証左してゐる。既に恋を知り、性に目ざめた子供たちは、もはや子供(未完成のもの)でなく、一人の生育した大人(完成のもの)である。故に抒情詩発育以後の人文史は、本質上にもはや固定されたものであり、異質的の変化がなくして、単に外観上での推移や流行があるけみである。
 所でしかし、西洋と日本と異なる点は、西洋に「叙事詩」といふ言葉があつて、日本にそれが無かつたことである。日本上古の古典文学として、古代ギリシャのそれと対比さるべき古事記の記事は、概ね皆半ば神話化した英雄談や戦争記であり、内容に於てホーマアのイリアツドやオデツセイと正則に類同してゐる。しかも西洋ではそれを「叙事詩」と呼び、日本ではそれを「詩」と呼ばないのである。そしてその理由は、ギリシヤのそれが韻文の形式で書いてるのに、日本のそれは散文の形式で書いてるからである。
 此所で注意すべきことは、西洋の詩学に於て「詩」と「韻文」とが同義字であり、西洋人のイデーにある「詩」といふ言葉が、韻文と不離の関係にあるに反して、我々日本人の場合に於ては、このイデーが少しくひちがつて居るといふことである。人も知る通り、古事記や日本書紀の本文中には、歴史的記事以外に、登場の人物が折にふれて述懐した一種の「歌」が載せてある。これを「うた」と言ふのは、その史上の人物が、時にのぞんで実際にこれを朗吟し、声に出して唄つたからである。(歌と唄とは、上古に於て同じであつた。これは西洋でも同様である。)しかし此等の「うた」といふのは、概ね不規則な格調をもつた自由律の詠嘆語であり、西洋流の観念からは、決して韻文と言ひ得ないものである。日本人がこれを「歌」と呼ぶ意味は、散文と対立した韻文を意味するのでなく、主観の情操を詠嘆する場合に於て、リリカルの表情を帯びる言葉を指してるのである。いやしくもかかる表情や調子を帯びてるところの、すべての音楽的リリカルの言葉は、その散文たると韻文たるとを問はず、日本人は悉くこれを「歌」と呼んだ。
 もちろんこの「歌」の観念は、後に万菓集以後に於て定形律に規定され、正しくフォルムされた韻文形態を取つたけれども、尚その本質に於ける日本人の詩観念は、上古以来依然として不変であつた。即ち日本人のイデーする「詩」といふ言葉は、単にその修辞上の文学形態に於ける「韻文」を指すのでなくして、文学の内容する本質上に於て、主観的情操のリリカルな直接表現を意味するのである。それ故日本には、実際に「叙事詩」と言ふべき文学が存在しながら、これを「詩」の概念の外に除外した為、かかる言語が文学史上に無かつたのである。即ち例へば「謡曲」の歌詞の如きは、正則に七五調で書いた韻文であり、内容からも形式からも、正しく西洋の所謂「劇詩」と称さるべき文学である。また「平家物語」の美は、同じく七五調の正則韻文で書かれ、ヒロイツクで悲壮な戦争を歌つた者であるから、西洋流に言へば勿論「叙事詩」の代表的範疇に属してゐる。さらに近松の浄瑠璃の如きも、やはり律格を厳守した韻文であり、内容は主として男女情痴のロマンスであるから、西洋詩学の所謂「物語詩」もしくは「物語抒情詩」に相当する。その他尚江戸時代の「川柳」「狂歌」「落首」の類は、多く時の政治や風俗を諷刺した短詩形の韻文である故に、ギリシャ詩学の「諷刺詩」「警句詩」の類と同一である。かつて或る詩人は、日本に和歌俳句の抒情詩があるばかりで、外国に於ける如き多種の詩形が無いことを指摘し、その不満と不自由とを訴へたが、上述の如く我が国にも、昔から伝統的に多種多様の詩形があり、およそ西洋にある限りのものは、叙事詩も、劇詩も、物語詩も、諷刺詩も、悉く皆具つて居るのである。それにもかかはらず或る詩人等が、前のやうな錯誤を起して不満するのは、実際日本の習慣として、上述のやうな韻文学を、普通に「詩」と呼んで居ないからである。日本で正しく詩と呼ばれ、日本人の観念で意味されてる詩、もしくは詩歌といふ言葉は、漢詩の外に和歌俳句があるばかりである。その他の長篇韻文である謡曲や浄瑠璃の類は、日本の文学史上で「謡ひ物」と呼ばれて居り、厳正の意味での詩文学と区別されてる。そしてこの理由は、前述の通り、日本人のイデーする「詩」といふ語が、主観の純粋な情緒的直接表現を意味して居り、西洋人の如く、単なる形式上の「韻文」と「散文」とによつて、詩を定義づけるのでないからである。日本では、韻文の形式で書いた文学が、必しも常に詩を意味せず、「詩」と「韻文」とが同義字(シノニム)でないのである。故に日本流に言へば、ホーマアの叙事詩の如きは、厳正の意味での詩文学に属してない。それらは平家物語の類と同じく、琵琶もしくはリラによつて伴奏されつつ、一種の吟遊詩人や盲目法師によつて歌謡されるところの、日本の所謂「謡ひ物」に属するのである。此所で我々は、さらにひるがへつて「詩」といふ文学の本質を考へて見よう。そもそも詩とは何だらうか? 詩がもし散文と同義字であり、単に修辞形体の上からのみ、広く名称される者だとすれば、神話も、歴史も、伝説も、小説も、論文も、感想も、すべて内容の如何を問はず、一切「韻文で書いたもの」は、韻文である限りに於て皆「詩」である。だがこの定義は、本質に於て詩を規定するものではないだらう。文学の内容上から、正しく批判して詩と言はるべき表現は、何等の記述的説明方法によらず、また何等の外在的事件や原因に捉はれないで、作者の主観に燃焼する意志や情緒や、或はその心象に浮ぶイメーヂの類を、直感のままに直接法する表現こそが、まさしく唯一の詩であり、純粋の意味での詩と言ふべきだらう。そこでこの種の詩を、その直接法の故に「抒情詩」と呼ぶならば(抒情詩と言ふ言葉は、狭義には恋愛詩を指すけれども、広義にはまたしばしばこの意味で用ゐられてる。)たしかにエドガア・アラン・ポオの言ふ通り、真に詩と言ふべき者は抒情詩の外になく、抒情詩のみが唯一の純粋詩であるのだらう。
 日本人の驚くべき聡明さと、そのあらゆる純粋を愛する潔癖性とは、かかる詩文学の最高純粋イデーを、上古の開闢に於て既に早く悟性してゐたことである。和歌俳句の如き純粋の抒情詩以外に、我々はポエムの神聖なイデーを許さなかつた。然るにギリシャ以来の西洋人は、最近十八世紀に至る迄も、詩を韻文の形態と混同して、本来「詩」に非ざる不純のものを、その形式の故に詩と認めて居た。そして漸く、十九世紀に近くなつてから、ポオ等によつて啓蒙されつつ、初めて叙事詩や物語詩の類を廃棄し、現代では我等と同じく、専ら主観のイメーヂや情緒を歌つた、短篇の抒情詩のみを書き、且つそれのみを唯一の詩文学としてゐるのである。