民衆娯楽


 この頃の生活環境は、何所へ行つても、小学校へ逆もどりしたやうな感じがする。映画館へ行けば、きまつて文化映画といふ奴で、地理や理科を教へられるし、芝居を見物すれば、忠臣貞婦の話ばかりで、修身の講義をきかされるし、ラヂオを聴けば、朝から晩まで義勇奉公の説教だし、うかうか街を歩いて居ても、監督の先生が尾行して居て、操行点を付けられるやうな思ひがすると、僕の或る友人が嘆息して語つたが、実際その通りの現状であり、政府は民衆娯楽機関を総動員して、国民教育の再出発に努めてゐるやうに思はれる。 
 今日のやうな大非常時に際して、政府がさうした意図をもつことは、充分僕等にも了解できる。実際日本の国民は、今日に於て再教育されねばならないほど、明治以来の誤つた教育を受け、且つ多くの国民的欠点を持つて居ながら、かつて自ら自覚せずに居たのであつた。国民教育の再出発は、今日最も必要なことであるかも知れない。しかしその教育の方法そのものが、果して当を得て居るか何うか。此所に問題が残るのである。
 最も根本的な問題は、果して『娯楽』といふことの意義について、どの程度の理解を持つてるかといふ疑問である。そもそも娯楽とは何だらうか。そもそも民衆は、何のために娯楽を要求するのであらうか。一口にして尽せば、娯楽は生活の風穴である。元来、人間の社会的生活といふものは、個人の連帯責任から成立して居る。各人はそのために、自然性と本能性を約束され、常にその自由な欲望を禁圧されてる。道徳と法律とは、社会生活のある限り、どこでもその禁圧の桎梏となつてるのである。そこですべての社会人は、常にその桎梏をのがれようとして、無意識の本能にもがいて居る。さうした無意識の解放意識が、劇の舞台や映画のスクリンに表象されたところのものが、即ち所謂娯楽(娯楽演藝)の本体なのである。
 それ故に社会制度が発育して、道徳や法律が厳重に行はれ、相互制裁のきびしい環境に住んでる人民ほど、より強く娯楽への関心をもつのが普通である。そしてその娯楽は、文明の程度(即ち社会制度の発育)と逆比例をして、反道徳的、超倫理的のものが悦ばれる。そこで文明人の悦ぶ娯楽は、一般にナンセンス的のもの、エロチックのもの、反道学的のもの等であり、要するに現実生活の社会的桎梏から解放して、人間の自然的本性を赤裸に見せる種類のものである。
 それ故に娯楽の本質は、心理学上で『夢』と全くよく似て居る。フロイドの説を待つ迄もなく、夢は無意識の欲望の表象であり、現実生活の抑圧感が、睡眠中のイメーヂに解放されたものである。したがつてその日常生活に於て、厳しい修身を強ひられてる教育者や、不自然な禁慾生活をしてゐる戒律僧やが、最も多く放縦不羈の夢を見る人々だと言はれて居る。娯楽もまたこれに同じく、かつての我が徳川時代の如く、道義的にも生活的にも、煩瑣にして苛酷にすぎる政治下の社会に於ては、最も極端に反道徳的のものや、馬鹿馬鹿しくナンセンスのものが悦ばれ、またさうした種類の演藝のみが、自然に民衆の間で発育する。だが夢に見る悪行や淫乱やが、決して罪悪にならないやうに、劇の舞台でする殺人や強盗やも、決して罰されることがないのである。
 心理学者の説によれば、夢は生活の風穴であり、人が現実に抑圧して、無意識に鬱積してゐる不平や不満やを、自然療法によつて発散させ、以て心身の疾病を未然に防ぐものだといふ。もし人間に夢が無かつたら、個人の生命が滅亡するか、もしくはその鬱憤の爆発によつて、社会の現実的秩序が亡びるかであると、或る知名の心理学者が言つて居るが、民衆娯楽に関しても、その同じ原則がそつくり適応されるのである。娯楽の意義が慰安であるとは、多くの人々のいふところである。だが娯楽の社会的意義には、単なる慰安以上に、もつと重大のものがあることを知らねばならぬ。
 それ故に所謂『娯楽性』の本体は、道徳や教訓とは、本質的に矛盾反馳したものなのである。そしてそれが、より多く矛盾すればするほど、いよいよ以て『娯楽性』としての価値が多く、民衆を悦ばす度が強くなるのである。したがつて『教育的な娯楽』とか『教訓的な娯楽』などといふものは、すくなくとも演藝物に関する限り、原則として有り得る筈がないわけである。もしそれが有るとすれば、江戸歌舞伎劇に於ける『勧善懲悪』の如く、劇の外皮だけを教訓的にし、劇の実の内容には、それと全く別種の娯楽性(即ち非道徳性)を多分に盛つたものであるか、もしくはまた、娯楽的価値の極めて貧窮な無味乾燥のものにすぎない。
 以上、娯楽の本質について述べたことは、すべての政治家たるものが、常識として知らねばならないことである。民衆は何故に娯楽を求めるか。何を彼等は娯楽について求めて居るか。その根本の原理を知つてる人であるならば、時に望んで如何なる娯楽を禁断し、如何なる娯楽を許可するかの、一般的の政治常識もある筈である。世界のどの国の政府でも、政治問題に解れた演藝物に関して、上演の許可がやかましいのは、それが『夢』としての娯楽性よりも、それの政治的煽情によつて、民衆を行動に導く危険があるからである。そしてあまりに極端なる猥褻や残虐を禁ずるのも、それが写実的なる場合に於て−夢幻的な場合は別であるが−風俗を乱す恐れがあるからである。だが為政者にとつて、最も必要な分別と良識とは、その国家社会の現状してゐる環境から、取締りの寛恕を手加減することの才覚である。
 前に言ふ通り、民衆が娯楽を求めるのは、抑圧されてる欲望の解放であり、もしくはその鬱屈感の忘却である。それ故今日の日本の如く、民衆が非常時の緊張を強ひられ、その上にも物資に欠乏して、身心共に鬱屈して居る社会に於ては、平常時にも数倍して、娯楽が強烈に要求されてることは言ふ迄もない。しかも日本の政府中には、公衆に演説して、今日の非常時日本は、娯楽など求めてゐる時代ではないと、大声に公言した人さへある。政治家が政治を知らないこと、今の日本のやうなのはない。
 戦地から帰つた人の話に聞くと、第一線に居る兵士たちが、最も悦んで歓迎する慰問は、漫才的のナンセンスと映画だといふことである。不自由な環境に居て、人間の本然性が抑属されたり、非常な苦難を忍ぶことが多い時ほど、人はさうした娯楽を悦び求めるのが自然である。そして今日の日本人は、だれしも皆或る別の事情で、戦場の兵士と同様の苦難を嘗めてるのである。かかる社会的環境に於てこそ、政府は民衆娯楽の取締法を、多少大眼に見るのが本当である。ところが、ナンセンスものなど、『たわいもない』といふ理由によつて、叱責を蒙つてるといふ話である。ところが実際には、今日非常時の民衆ほど、さうした『たわいもない』笑ひやナンセンスを、切にその娯楽に求めて居るものはないのだ。
 『笑ひがただの笑ひであつては困る。笑ひの中に教訓を含めてもらひたい。』おそらくこの心意の延長が、いはゆる文化映画の奨励となり、孝子貞女の修身劇や、忠臣義士の教育劇やの上演となり、すべての劇場や映画館を、悉く小学校の教室化さうとするのである。
 軍隊の習慣では、演習や行軍によつて、過度に疲労して帰つた兵隊には、何よりも先づ酒を飲ませるといふ話である。日本の民衆は現に強行軍をし続けて居るのである。彼等が真に欲求してゐるものは、教訓でもなく説教でもなく、ただその疲労を忘れるための、一杯の酒と娯楽にすぎないのである。然るにその酒の中まで薬を入れ、慰安の席にまで、無理にも説教を聞かせるのは、果して政治としての才覚だらうか。現に大戦中の独逸や英国では、漫才的なユーモア演藝が流行し、且つ政府がそれを奨励してゐるといふ話だが、日本の政治家の頭だけは、もつと道学的に堅苦しく出来てゐるので、西洋人と考へ方がちがふのだらうか。
 過去の封建時代の日本は、為政者が皆武士であり、儒教の教養を受けた為に、一般に娯楽と名づけるものを、何かの罪悪のやうに悪み嫌つた。おそらくかうした封建的の遺伝思想が、今日日本の当局者の頭脳の中に、怨霊のやうに影を残してゐるのではあるまいか。
 『娯楽がただの娯楽であつては困る。教訓が含まれなくてはいけない』といふ思想は、明白に儒教的実利主義の思想であり、初めから『娯楽そのもの』を否定してゐる思想である。娯楽は、それがただの娯楽である故にこそ、真の娯楽であるといふ別の思想は、さうした儒教的教養者等には、いくら説いても理解できない話であらう。ノモンハンの経験から、急に科学を奨励したり、独逸兵の優秀さを見て、理科の文化映画を作つたりするのでは、同じその儒教的実利主義者に外ならない。もし戦争等の直接実利に役立たなかつたら、永久に、科学を奨励することがなかつたかも知れない。しかも科学の発達史は、夢を可能とするロマンチックなイデーに始まり、何等実利を目的とするものではなかつた。そこで日本に科学が発育しなかつたのは、日本人に科学的知性が欠陥して居た為ではなくして、儒教的実利主義の教育が、さうした非実用的な発明やロマンチシズムやを、無用の遊戯事として擯斥した結果に外ならなかつた。
 しかし此所には、そんなことを論じて居る暇がない。ただ繰返して説きたいのは、娯楽は、それ自身の中に真の娯楽としての価値を有するといふこと、及び娯楽の本質が、民衆の生活に於ける慰安であり、避難所であり、あわせてその不平や鬱屈やの、風穴的安全弁であるといふことである。