風俗時評
偽装紳士と労働者
この頃酒場などへ行くと、必ず一人や二人、得膿のわからぬ男が隣席に居る。折目のついた、きちんとした
新しい背廣服を看、気取つて酒を飲んでる様子は、どう見ても若いサラリイマンとしか思へない。だがその顔
を見ると、全然サラリイマンの顔ではない。サラリイマンの顔といふものは、拳枚出のインテリ相に、俸給生
活者の卑屈な俗物相を混合した顔で、ニイチエの所謂「教養ある俗物」を典型した顔であるが、隣席に居る男
の顔は、全然さうしたタイプでない。それはインテリ相が少しもなく、妙に室虚な感じがする顔で、眼付が襲
に鋭どく光つて居る。服装と対象して、おそらく刑事でもあるかと思ひ、薄気味悪くなつて早々に退出するが、
後で店の者に聞くと、それが皆職工や労働者なのである。英国やアメリカの労働者は、日曜日になると躇服を
著、トップハットにステッキといふ紳士の身なりで、女と公園を散歩するといふ話をきいて居たが、日本でも
さういふ時期が衆たのであらうか。
イ〃 文明論・耐二合風俗時評
学生服を看て居る職工も、近頃都合風俗の一つである。これもやはり初めの中は、奇妙な認識錯誤を起させ
た0服装はどう見ても畢生だが、顔付はどう見ても畢生ではない。やはりインテリ相が全くないので、服装と
封照して、妙に杢虚でグロテスクな感じを印象される。これも見慣れない初めの中は、不思議に薄気味の悪い
感じがしたが、この頃は一見して、すぐ正饅がわかるやうになつてしまつた。
かうした畢生服の職工や、紳士服を看た労働者が、見慣れない人々にとつて、不思議に錯覚した印象を輿へ
るのは、単に服装ばかりでなく、彼等の言語挙動そのものが、努めて紳士や畢生の眞似をして居るからである。
戦時インフレの来ない事攣別にも、さうした労働者の偽畢生は相常に居た。彼等の大部分は自働車の運縛者で、
常時「運ちやん」と言はれた連中だつたが、かういふのが畢生の偽装をするのは、場末の伽排店女給や娼妓な
どから、チヤホヤされたい魚であつた。さうした無智の女たちは、角帽一つ被つただけで、すぺての男を畢純
に大学生に見立ててしまふ。そんな女共を騙すことは、逓ちやんたちにとつて何でもなかつた。だから彼等は、
初めの中こそ畢生らしく、野球の話などして気取つて居るが、少し漕が廻つて来ると、地金をすつかり丸出し、
他愛もない労働者になつてしまふ。
ところが近頃のはさうでない。今の偽装した畢生や紳士たちは、一挙一動に気をつけて、あくまでその品位
を保持しょうと努めて居る。彼等が偽装する目的は、単に「女にもてる」といふ如き単純の考ではなく、もつ
と精紳的に、政令人としての尊敬を買ひたいからである。支那事攣の初めの頃は、戦時成金の労働者が、腹掛
けの丼を紙幣束でふくらせながら、銀座などの一流酒場や料理店に這入つて来た。だがそこでの生気は、全く
さうした珍客と融和しない。紳士階級を常客とする店の客気は、一杯の酒に酔つて上機嫌となり、大饗で浪筏
節を語つたり、女を執つこくからかつたりする労働者とは、雰囲気的に調和しない。さうした気まぐれな珍客
は、腹掛けに浮山の金をもつて居ながら、周囲の物静かな客たちから、無言の歴迫を受ける感じがして、早々
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Z_地げ出凄ふ瀾頑であス剖潤おそらくその時の労働者は、心の中に思つたらう。ああした店は、二度と俺た
ちh絆纏看の行く所ぢやないと。
だが成金人種の心理は、いつでも常に同じである。彼等の何よりも欲することは、自分が下購な成上り者と
見られたくないこと。地位も教養もあるところの、立汲な紳士に見られたいといふ一事である。そこで前の労
働者が、今度その店へ入る時には、必ず洋服をきて行くであらう。そればかりでなく、言葉も挙動も憐しむだ
らう。そして自ら、周囲の雰囲気と調和するやう、努めて紳士らしくするであらう。かくして一人の「急造紳
士」が出来上り、同様にまた一人の「急造畢生」が出来上る。
しかし彼等を一口に、ニセ畢生、ニセ紳士と呼ぶのはおだやかでない。なぜならニセといふ言葉には、不良
性や犯罪性が合れてゐるのに、彼等の偽装する心意の中には、何等さうした悪意も不良性もなく、むしろ却つ
て愛すべき稚気があるからである。かうした偽装者を見破ることで、最も桐眼な人種は、常に彼等を客として
ゐる加排店の女たちである。「どうしてお前たちには、彼等が労働者だといふことが解る?」といふ私の質問
に封して、「手を見ればすぐ解ります」と女が答へた。労働者は、手に豆やタコが出来てるからである。それ
でさうした客たちは、手を見せないやうにして居るといふ詰もきいた。それを聞いて私は、世の欒樽の烈しい
のに驚いた。かつて数年前までは、手に豆やタコの出来てることが、却つてインテリ青年の自慢であつた。常
時のマルキシズムにかぶれた畢生や青年たちは、多く中産階級の子弟であつたにかかはらず、わざと菜ツ菓の
労働服を看、自らプロレタリアと構して得意で居た。さうした「偽装労働者」等は、本物の労働者から、いつ
も手を見せろと言はれ、豆やタコのないことから、観念プロレタリアといふ名で嘲笑された。それが今では反
封になり、労働者の方で畢生の偽装をしたり、ブルヂヨアを気取つたりして居るのである。だがおそらくは、
これが眞資な人間の心理であらう。なぜなら物質的にも智識的にも、より高い地位に居る階級の者を、より低
イアア 文明論・杜合風俗時評
い地位に居るものが憧憬するのは自然であるから。
イアβ
国民服の美挙
「国民服を看た男」が、この頃の映董や小説によく現はれる0さうした種顆の男は、たいてい行商人、御用聞
き、職工、仕事師、小貿商人等であつて、防客演習の時に、青年園長として活躍するやうな人物である。さう
した「国民服を看た男」は、国民服を看ること自慣にょつて、何となくユーモラスの感じがするので、映董や
小説に市井文寧的な興味をあたへる0だがかうした人たちは、たいてい小寧校的国民意識を代表してゐる、市
井の無数養な人々であつて、国民服などといふもののない時から、軍服まがひの青年囲服などを、常に悦んで
看て居た人々だから、彼等が最先にそれを採用したのは官然である。
ところが最近になつてから、一部の智識階級の間にも、それを着用する人が現はれて来た。勿論さうした人
人の毒は、上からの指令にょつて、強制的に看せられた官更や合社員であるだらうが、中には全く自費的に、
月由霊告つて看て居る人書くなくない0その人たちの心理は、群集心理に指導されてる以外に、新しい
タイプの着物に封する、趣味上の好奇心が伴つてることは疑ひない0国民服といふものが、国防上にどんな利
便を持つてるかといふやうな、薯利↓の問題については、僕等の如き文寧者の知る範囲でないから、此虞では
一切沈験して、単に趣味上の観鮎から、風俗美挙としての批判を述ぺょう。
明白にいつて国民服は、美といふ鮎で落第である0日本人の男装は、過去にその優美無類の女装と改行して、
神官に美しく蓼術的のものであつた0平安朝時代の貴族の男装は、就中特別に優美であつたが、下つて武家時
代に移づてからも、鎌倉、室町時代の風俗は、平安朝とは正反封に、最も活動的な利便に通するやうに作られ
題
ながら、欄びかも男性的の剛健美と気品美とに富み†衣服として一流の拳衝晶であつた。徳川期の武士服や平民
服は、前代のものに此して気品が低く、美的償値に於て甚だしく劣つて居るが、しかも伶特殊の濁創的な餞見
と美を持つて居た。明治になつて以来、洋服の普及と共に、日本人の男装は全く非拳術的の物になつてしまつ
たが、それでも命、洋服に比して美しいことは、多くの来遊外人の批評する通りである。
国民服の不都合さは、第一にそれが日本服の改良でなくして、洋服の改良(或はむしろ改悪)であるといふ
ことである。日本人の国民食といへば、勿論米の飯に極つて居る如く、日本人の国民服といへば、和服のキモ
ノに極つて居るのだ。紅毛人の洋服を基準として、それに少しばかりの改訂を加へたものを、日本人の「国民
服」と呼ぶことは道理に合はない。しかしパンやウドンの如き代用食さへが、国民食といはれe非常時だから、
そんな有閑的の理窟はぬきにしよう。
美的批判から見て、国民服の第二の不都合は、すぺてがユニホ」ム的に畢一であり、且つ色が一様一色に規
定されてることである。かうしたユニホームを肴るといふことは、軍隊や、畢生や、警官やの如き、同一公則
の下に同一行動をする集囲人には必要だが、個々にちがつた生活をし、個々に別々の境遇に居る、一般の貴社
合の人民にとつては、無用以上に迷惑な話である。なぜならそれによつて、個人の趣味性が抹殺され、個性の
自由な饅展が奪はれるからだ。昔の朝鮮人やアラビア人が、一様に皆白い同」の衣服を看、ユニホーム的に国
民服がきまつて居たのは、政治的の理由によつて、彼等の生活が萎縮し、個性の自由な蜃育がなかつたからだ。
そして個性の餞育のない敢曾は、生産的にも文化的にも、決して飛躍のない祀合である。だがかうした思想も、
個人主義的青息想で、新健制下の全饅主義に適用されないといふならば、それもまた沈験する外はない。
しかしさうした根本的の不満を除いて、他の鮎で純蜃術的に鑑賞する時、園民服にも意外の新しい美が凌見
される。悪口を言ふ人が、それを支那の捕虜みたいだと言ふのは、全髄が軍服まがひでありながら、武装を解
イフワ 文明論・産土合風俗時評
除された丸腰であるからで、たしかにさうした印象も受けるけれども、智的階級の人々が、それをぴつたり身
につけて、スマートに看て居る様子は、満更ら粋でないこともない。だがその「粋」は、過去の美的観念にあ
る普通の粋とは、よほどちがつたものであり、また若い青年将校等に、軍服が似合ふ意味での粋でもない。む
しろ全然、さうした美意識とは類縁がなく、僕等はさうした服装から、表現況や超現貴汲の檜に見る如き、近
代的グロテスクの機械人間を聯想する○元来近代美といふものは、本質に於て何所か皆機械的であり、したが
つて皆何所かグロテスクである0さうした近代的スマートの新しい実は、石貨店の飾窓に故ぶマネキン人形が
表象してゐる0あのツルツル光つたセルロイドで、簡単に出来てる洋装の西洋人形は、どこか妙にグロテスク
で、磯城的の新しい美を感じさせるが、国民服をスマートに看た若い男も、やはりそれに似たものを印象させ
る0いつか私は、さうした風饅の人物が、キリコの檜の中で坂を登つて行くのを見た。あまりに磯城的であり、
機械的である故に妙に悲しく、侍しく白つぽい町の中を、無表情に磯城的の服装をした人物が、夢のやうに排
掴して居る風景は、どこか「文明の悲哀」といふことを感じさせた。
園民服といふものが、そんな近代董風の印象をあたへるのは、それが洋服からすぺての装飾的部分1ネク
タイ、カラー、飾ボタンの顆1を除去し、且つ服地の縞柄や配合色を抹殺したことで、セルロイドのマネキ
ン人形と同じやうに、眼も鼻もない、のつぺら棒の、つるつるとした解党感をあたへるからである。すぺて解
ヽ ヽ ヽ ヽ
覚感をあたへるものは、物質的の機械感をあたへるものだが、家具にも調度にも建築にも、または流線形の汽
車自動車にも、近代実の本質となつてるものは、すぺて解党感を強調してゐる。その意味に於て、頭から胴か
ら足下まで、竺の毛皮でくるまつたエスキモーの服装や、氷1スポー\ツの選手が看る毛練の大ヂヤケツやは、
最も近代的モダーン実に富んだ着物である0政府が国民に論告して、一定のユニホーム的服装をさせょうとす
る意譲は、つまりいつてその国民を、忘科挙的なる機械的集圃にしようとする意志に外ならない。そしてか
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かる意志の下に、嘗局者の全く意識しなかつたところの、意外に不思議な近代的磯城美が、そのいはゆる国民
服に意匠されたことも自然であつた。
日本は科挙園たり得るか