日本婦人の優秀性
        日本女性の自覚のために

 日本といふ国は、正直にいつて、あまり住みよい国とは思はれない。何しろ狭い島国の中に、人口が過剰し
てゐる上に、物資もあまり豊かでないので、生活難がきびしくてやりきれない。その上国防上の必要から、軍
備に巨額の税金を課せられるので、いよいよ以て息苦しくなる。しかもその息ぬきするために、唯一の慰安で
あるべき娯楽でさへが、政府によつて必要以上に干渉され殆んど禁圧されてゐるのであるから、全くはけ口が
ないわけである。小学校の教科書では、日本は気候温和にして、四時春の如きパラダイスだと教へられたが、
実際は冬寒くして夏暑く、しかも家屋に防塞防暑の設備がないので、この点の環境からも、決して恵まれてる
国ではない。もし単に国民の幸福が、住みよいといふ一事で決するならば、ハワイや南洋土人の方が、むしろ
僕等より幸福であるか知れない。白人に搾取されてるとはいひながら、彼等は常夏のパラダイスに住み、生活
に労苦すくなく、日夜に舞踏歌謡して、心のままに人生を享楽してゐる。
 だがそれにもかかはらず、僕等は日本に生れたことの幸福さを、此類なくありがたいことに感じてゐる。そ
れにはいろいろな理由があるが、最も現実的な理由の一つは、実に日本の女が好きだといふことである。しか
も此処で『好き』といふのは、単なる主観上の問題でなく、客観的に観察して、日本の女性一般が、他国人の
それに比して、女としての優秀性を多分に持つてるといふことである。もちろん僕は、外国の女たちと接触が
なく、文学や映画を通じての認識以外、直接に深く知るところがないのであるから、かうした言ひ方は独断の
非難を受けるか知れない。しかし『西洋の家に住み、支那の料理を食ひ、日本の女を妻とする。』ことが、人
生理想の幸福だといふ言葉が、世界的の格言とさへなつてるのだから、あながち僕の独断ではなく、普遍的に
根拠のある考だと思つて居る。
 女性に必要のものは、肉体の美と精神上の淑徳である。いかに淑徳の高い女であつても、肉体や容貌が醜く
かつたら、女性としての価値を低くし、反対にまた、いかに容貌が美しくつても、気立や性格の悪い女では仕
方がない。ところが日本の女は他民族の女に比して、その両方の点で卓越してゐる。肉体美の点で言へば、日
本の女は明白に支那人以上、白人以上である0このことについては、かつては谷崎潤一郎氏も或る随筆の中で
書いてゐるが、日本の女の肢体ほど、曲線実にすぐれてゐるものは世界にない。さうした日本美人の典型とし
て奈良、平安朝時代の製作になる、多くの女体仏像を参照しよう。それらの吉祥天女や、弁財天や、観音菩薩
は、何れも現実の日本の女をモデルとして、藝術的に表象化したものであるが、これを支那、印度等の同じ女
体仏像と比較する時、いかにすぐれて我等の女が、肉体的に美しいかといふことが解るであらう。さらにまた、
これをギリシアの女神像に比較して見よ。ヴイナスの美しさは格別である。だがその美しさは、半ば男性的の
美しさであり、長く垂直の脚と、強く達ましい筋肉とを持つてゐるところの、スポーツマン的体操家の肢体で
ある。僕等がそれを美と感ずるのは、映画『民族の祭典』に出て来るところの、男女のオリムピック選手に対
して感ずるところの、同じやうな美的感性に所因してゐる。即ちそれは、女性としての美感ではなく、むしろ
男性的、もしくは中性的なものへの美意識である。純粋に女性的なものへの美感は、男性美の対蹠の側になけ
ればならない。即ち何よりも曲線美であり、肉の柔らかさであり、肢体のふくよかな豊肥さであり、肩や腰の
丸みであり、そして全を通じての、ポーズの優美さと色つぽさとである。ところで日本の吉祥天女や、歌麿の
描いた浮世絵の女やは、かうした点の女性美を百パーセントに具備してゐる。全体に筋骨質で鹿のやうに細長

11-04-023

 

     い脚を持つてる白人の女たちは、女性実の純粋な見地からは、決して償値の高いものではない。しかも我が国
     の油檜董家や特に近代かぶれした若い女たちが、さうした西洋婦人の肢慣を以て、美の最善の典型のやうに考
     へてるのは、彼等の誤つた西洋衆評が、ギリシア美挙を先入見的に盲信して、却つて眞の美を忘却してゐるた
     めである。眞に魅力的なる女性実は、西洋婦人の鹿のやうな脚になくして、我等の所謂『練馬大根』であると
     ころの、日本婦人の丸々とした白い脚にあることを、歌麿以来愚かにも日本美術家たちは忘れ七居た。
      さらに皮膚の実に於ても、我等の女は逢か白人にまさつてゐる。白人種の色の自さは、影に何の陰影もなく、
     複雑な混合色もないところの、単なる自一色の自さである。之れに反して日本の女は、白色の中に責味を混じ、
     速かに陰影の深い複色実の皮膚をもつてる。この両者の比較は、ダリアやシネラリヤの西洋草花と、菊や桔梗
     等の日本草花との封比にひとしい。前者はいかにも華麗であるが、その美が原色的であつて情趣に乏しく、後
     者の複色的で幽玄の情趣に富み、長く見て鞄きないのに及ばない。さらにまたキメの細かさといふこと、皮膚
     の弾力ある手ざはりといふこと等では、此顆なく日本の女が白人の女等にすぐれて居る。一般に白人の女たち
     は、遠くから距離を置いて眺める時に美しいが、目前に接解する時には、皮膚のきたなさ、キメの荒々しさ、
                    ヽ ヽ ヽ
     肉の弾力のないふやけさ等で、著るしく僕等の美意識を幻滅させる。
イイj 文明論・杜曾風俗時評
精神上に於て、日本の女性がすぐれた美徳を有することは、僕等の日本人自身よりも、むしろ外国人の方が

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よく知つてる0多くの日本に来遊した外国人は、殆んど皆ロをそろへて日本の風景を賞讃し、併せて日本婦人
の貞淑さや、従順さや、快活さや愛婦よさやを絶讃してゐる0日本に悪感情を有し、日本人を誹誘的に批判し
てゐる外人等も、日本の女性に封してのみは、概ね皆善意の観察をしてゐるのである。特にラフカヂオ・ヘル
ン(小泉八雲)の如きは、日本の女を紹讃して、世界に顆なき理想の女性といひ、且つ容貌に於ても、性格気
質に於ても、日本の女はこの園の男に此して、別人種の如くに美しくして文明的だと言つてる。日本の女が、
日本の男に此して、果して『文明的』であるかどうかは疑問であるが、男との比較に於て逢かに色が白いこと
は事賓であり、且つ或る鮎に於て、情操上にすぐれた美徳をもつてることも事茸である。すくなくとも比較上
で、世界の男に共通する一般的の映鮎(男性的意徳)と、世界の女に共通する一般的の映鮎(女性的意徳)と
の封此に於て、日本の女が男に比して、より少ない映鮎を持つてることは、公平に考へて肯かれる。
 支那の女は妬婦であり、西洋の女は娼婦であり、日本の女は淑婦である、と言ふ人があるけれども、決して
我田引水の身ビイキではなく、一般論としては骨紫に首つて居る。僕等が間接に知る限り、西洋人といふもの
は、自己の享楽を以て人生の目的とし、且つそれをまた結婚の究極目的としてゐるところの、度しがたいエゴ
イストの典型である0それ故に西洋では、妻をほしいままに享楽させるに足るだけの、充分の財産所得のない
男たちは、終生結婚することが不可能であり、たとへさうした場合が出来たとしてもその夫婦生活は例外なし
に不幸である0どんな下屠社曾の貧乏人でも、容易に好きな女と結婚が出来、しかもその結果が概ね幸頑であ
る日本人の男たちは、畢にそのことだけでも、日本に生れた幸頑さを感謝せねばならないだらう。そしてこの
事情の相違は、日本の女それ自饅の心がけが、西洋婦人とちがつてゐるからである。
 多くの外国人が許する通り、日本の女は快活で愛想がょく、常に朗らかで明るい頚してゐる。長い封建時代
の磨迫にもかかはらず、彼等は決して陰鬱なぺシ、、、ストでもなく、ストア的の禁慾主義者でもなく、むしろ気
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嵐、
Z瑚瀾周畑頂d朋1勺召り川絹1リ召jっ.….
質的な架天篭▼‘八生を享楽す尽き術をよく知?てゐる。だが我等の女たちは、西洋人の女の官ノ竪ブイ
スチックな物慾的享欒主義者ではなく、華南といふものの償俺を、より高い精神上の意味で知つて居ることか
ら、常に家庭を楽しくし、妻としての義務を守ることを、婦道の根本的な倫理感に意識してゐる。それ故にこ
そ彼等は、どんな貧しい裏長屋の生活にも、精神上の辛礪を求めて満足するのだ。そしてこんなことは、決し
て外国人の女には出来ないのである。
 もちろん個々の場合で見れば、支那西洋の外国にも、多くの良妻賢母があり、千古に人を感動せしめる如き、
貞女や烈女やがすくなくない。たとへば近い頃の例で言つて、キューリイ夫人の如き、パール・バック女史の
母の如き、古来日本の歴史にも例がないほど、女子修身の亀鑑となるべき女傑である。だが丁般的の民衆は、
その種の稀れなる貞女や烈女を、異性としての女に欲求してゐるわけではない。男がその妻に求めるものは、
家庭の平凡な日常雑務や、子供の保育や、部屋の掃除やの外、常にその家庭の杢気を楽しくし、良人の機嫌を
よくすることの義務だけである。首萬人に一人のキューリイ夫人が居る固よりは、すぺての女たちがおしなぺ
て皆平凡であり、しかもその平凡なる妻の勤めを、自ら嬉々としてくれる園の男の方が、逢かにまさつて事頑
であり、且つまた国家としても健全である。
 ところでさういふ理想の園は、今日の世界に於て、おそらく日本以外にないであらう。西洋はもちろん、東
洋に於てさへもさうした女等の居る囲は考へられない。特に支那の女性の如きは、一旦家庭に入るや香や、宛
然として女王の如く、一切の家事を奴婦に任せて、その身は阿片の寝室に横はつたまま、飽くなき物慾に沈冷
するといふことである。前に述べた小泉八雲は、多くの日本の女に共通してゐる、他に比類なき美徳について、
或る一日本婦人の日記から、その最も範疇的な例を引用して居る。『或る女の日記』といふ標題によつて、八
雲に公開されたその日記は、東京の或る裏町に住んでる貧民の娘が、役場の小便をしてる中年の男と結婚をし
4イア 文明論・融合風俗時評

て、数年間の同棲生活をした記録の日記で、内容は極くありふれた平凡の記事にすぎない。′
イイβ
明治二十八年九月二十五日の夕方、向ひの家の人が爽てかうきいた。
『御宅の御総領の事ですが、お片づきになつてもいいのでせう。』
 そこで返事はかうであつた。
『出したいことは出したいのですが、何分支度ができませんので。』
 向ひの人はいつた。
『しかし、さきでは支度などいらないといふのですから。中々堅気なんだといふ評判です。年は三十八歳
です0御総領は二十六位だと思ひますから、先方へ云ひ出して見たいのですが:…・』
『いいえ1二十九ですょ。』と答へた。
『ああ1それなら先方へ今一應話して見なければなりません。先方に話してから御相談に参ります。』
 さう育つて向ひの人は出て行つた。
翌朝、向ひの人が又来て1今度は岡田氏の細君(うちの知人)と一緒に1それから云つた。
『先方は満足です。そこであなたも御承諾あらば、この縁談は整ひます。』
磯邪
『全く何事も経ですから===それでは明晩の今頃、岡田さんの宅で曾ふ事にして下さい。』・
 こんな風に約束が貸方で出来た。
 向ひの人は翌晩岡田氏の宅へ私を連れて行かうといつたが、私は何分一度踏み出した以上、のつぴきな
らぬ事ですから、母と二人だけで参りたいと云つた。
 母とその家へ行つた時『こちらへ。』といつて迎へられた。それから初めてお互に挨拶した。しかし何
だかきまりが意くて顔を見ることができなかつた。
といふ書き出しに初まるこの日記は、績いて
 三三九度の盃事も無事にすみ、叉御開きの時も思ひの外早く来たので、御客は皆辟つた。
『あとは二人差向ひとなり、胸うち騒ぎ、その恥かしさ筆紙につくし難し。』
 全く私の感じたことは、初めて両親のうちを出て花嫁となり、知らぬ家の娘となつた事の覚えある人に
だけ一分るであらう。
 あとで食事の時私は、大層きまりが悪かつた。T
 といふエ合に、素朴な女の心もちを、極めて有りのままに書きつけてる。この日記の筆者は、おそらく尋常
小拳枚さへも、完全に卒業しなかつたと思はれる。しかも日本の農村や貧民窟に住んでる大多数の民衆は、さ
ぅした女と男たちなのである。それ故にこの女の日記は、日本の大衆の眞の気持ちや生活やを、如賓に代表し
イイク 文明論・杜合風俗時評

たものとも見られるのであるひ
役所の小使をし、月給十彗生活してゐる貧しい男と、六畳表の萱星に住んでるこの女が、それからど
んな生活をしたかは、迫々と次の日記に展開して来る。

  十二月八日、浅草寺へ参り、それから御酉様にも参詣した。
 その年の十二月に、犬と自分の書をこしらへた0その時初めて、かういふ仕事の面白いことが分つて、
 大層嬉しいと思つた。
  二十五日、東大久保の天神様に参り、そこの御庭を散歩した。
4∫0
二十九年の一月十一日に岡田を訪れた。
十二日に後藤へ二人で行つて面白かつた。
二月九日に「妹脊山」を見に二人三崎座に行つた0途中思ひがけなく後藤氏にあひ、
行つた0しかし蹄りには雨が降り出し、造がひどくぬかつた。
それから一緒に
同月二十二日、天野で二人の馬眞を取つた。
                うぐひすづか
三月二十五日「春木座」へ行き「篤填」の芝居を見た。
この月のうちに哀表に高(両親、親戚、友達)打連れて萱に行く約束をしたが、中々都合よ
く行かなかつた。
 四月十日、午前九時、二人で散歩に出た0初めは九段招魂杜へ参詣し、それから上野公国まで行き、そ
Z】一一甘一一つ鶏革へ待つ用一男観音様に参詣しまた門跡楼にも参羽場だ。それから浸革奥山の方へも廻るづもりのと
ころ、先づ御飯を食ふといふので、そこで或る料理屋へ入つた。食事をして居るうち、戸外に大喧嘩があ
るのかと思はれる程の大騒ぎやら呼び撃やらが聞えた。その騒ざは、見世物小屋に火事が起つたからであ
った。見て居るうちにも火が早く廣がつて、その町の見せもの小屋は大抵焼けた。1私共はすぐ料理屋
を出て、浅草公園をあちこち、見物しながら歩いた。
 この日の日記の後に、次のやうな素朴な詩が附記されて居る。『あひ見た事のなき人に、不思議に三めぐり
の稲荷、かくも夫婦になるものか。初めの思ひに引きかへて、いつしか心も隅田川、つがひ離れぬ都島0人も
羨めば我もまた、咲き乱れたる土手の花よりも、花よりも増したその人と、自責やしろになるまでも、添ひと
げたしと祈り念じ…=・』
 それからまた、町内の神社の祭祀の夜には、女の両親や親戚の者が集つて酒宴をし『二夫婦そろうて統ふ氏
神の祭も今日はにぎはひにけり』『思ひきやはからずそろふ二夫婦何にたとへん今日の吉日』などいふ歌を皆
で作り、彼女自身もまた『祭りとて封に仕立てし伊漁がすり今日楽しみに者ると思へば』といふ和歌を作つて
居る。
 八雲が感嘆の粋を蓋してゐる如く、こんな貧乏人の祀合で、こんな楽しい生活のできる杜合が、果して世界
のどこにあるだらうか。何よりも感嘆にたへないことは、さうした日本の女のいぢらしい心根である。おそら
くその日その日の生計に窮し迫ひ立てられるやうな暮し向きをしてゐる中で、僅かの飴裕を得て安芝居を見物
をし、常に良人と二人で散歩遊山をし、嬉々としてその境遇に満足しながら、人生を朗らかに楽しんでるやう
な女が、日本以外のどこの園に居るだらうか。しかも彼女の享楽は、決して利己主義のエゴイズムではなく、
イ∫J文明論・牡合風俗時評

Z周】淵凋j溺←嘗確.メ。空?、
常に全力のベストをつくして、その愛する良人を楽しませょうとしてゐるのである。その心がけの可憐さと貞
淑さに、詩人的感傷家の小泉八雲は、落涙するばかりに感激してゐるが、日本人であるところの僕等もまた、
同じ落涙の思ひを禁じ得ない0しかも日本では、かうした女が異数者でなく、世間至るところに縛がつてゐる
ところの、最も有りふれた普通の平凡な女なのである。
 この日記の主人公は、後に二兄を生んで二兄ながらに幼死され、悲嘆と絶望の極に到達するが、しかも伶そ
の悲劇の中で、不攣に良人を愛し、家事にいそしみ、或る時々には和歌や俳句の顆を作つて、人を慰め我をは
げまし、最後までょく人生を朗らかに戦ひぬいてる0そして遽に営養不良から病死する時、人知れずこの日記
を、針箱の中にひそめ、その表題に『昔話』と記して残した○『昔話』とは、かつてこの世に生きてゐた或る
一人の人間の、行きて辟らぬ過去の日の生活を、息ひ出に記した記事といふ意味であり、言外に含めた千萬無
量の悲哀がある0そしてこの悲哀!決して何人に皇岬らず、ひとり心の中に胸深く秘められてる悲哀1こ
そ、すぺての日本の女たちが、古来係数の教化によつて、俸統的に薫育されてる情操であり、よく困難に耐へ
るところの、日本の女のあらゆる勇気と淑徳とを、本質に素因づけてるものである。
 或る洩薄の人々や、皮相に西洋心酔をしてゐる人々やは、かうした日本の女の美徳1従順や、貞淑や、忍
耐強さや1を以て、古い封建制度の因襲とし、特に東洋諸国に共通してゐるところの、男性専横の歴制牡合
から、自然的に強ひられた卑屈の奴錬根性だと言ふけれども、他の東洋諸国と日本とでは、全く杜合の制度が
異なり、特に女性に封する男の観念が、著るしくちがつて居ることを知らねばならぬ。支那でも、印度でも、
土耳古でも、他の多くの東方諸国に於ては、女は表の私有財産と同視されてた。彼等の女たちは、その主人
の監視する深い閏房の中に閉ぢられたまま、殆んど一歩も自由に外出せず、一度も自由に行為することなノ\
 妄を禁鋼に経らねばならなかつた0然るに日本の女たちは、この国の歴史を通じて、かつて妄もモんな頃
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池場に生きなか用句凋使周月古に日本の女は、太陽と−頴周崇拝され、遠く男性の上に君陸して居泡用中世の藤原時代
も、女性は文化の中枢に玉座して居り、男と殆んど同等の地位に居たし、鎌倉室町の武家時代にも、女性の家
庭的、祀禽的の地位は低くなかつた。特に庶民階級の女たちは、常時新たに勃興した産業のために、職業戦線
に立つて活躍したことで、却つて男に優越するほどの樺利をもつてた。ただ近世の徳川時代は、支那式儒教の
強制的な政事によつて、比較的女性の地位が膿められ、やや支那に顆する歴迫や購辱を加へられたが、しかも
その時代でさへも、日本の女は自由に外出して市中を歩き、土耳古の女の如く、ヴエールを被つて眉目をかく
すやうなことはなかつた。
 日本の女のあらゆる美徳は、決して封建政事の産物でもなく、東洋的なる男性専制のためでもない。古来日
本の男たちは、西洋の騎士道とはちがつた仕方で、常に女性を心から敬愛し、一個の人禅的官為者として、神
聖に取り扱つて居たのである。日本の女のあらゆる美徳は、資にさうした奴款的境遇のためではなくして、推
古以来の長い俸統によつて薫訓されたところの係数の深い影響によつて居るのである。しかもその彿敦は、日
本に来て印度的の憂鬱性を稀薄にし、代るに明朗快活な楽天性を多分に加へた。そして日本的なる係数情操こ
そ、我々の園の女性を歴史的に薫育したのだ。
 かつて濁逸のカイぜルは、日本の女を以て理想的の女性と許し、濁逸がもしさうであるならば、濁逸の家庭
は一層の強兵になるだらうと言つたが、賓際に日本人の勤勉さも、日本兵の勇気も、本源的にはすぺて日本の
女の美徳と貞淑に基因したことを知らねばならない。それ故に日本の或る将軍は、日本の女が死なない限り、
日本は決して永久に亡びないと明言して居る。ただ憂ふぺき一つのことは、この園の新しい教育と社合制度が、
我々の若い女性を欧風化し、侍統の情操を破滅させることからして、その本質してゐる美徳を喪失させること
である。
4タj 文明論・虎土合風俗時評

今日に正に魚すぺき女子教育は、若い女畢枚の生徒に封して、細川ガラシア天人の貞烈を説き、北條政子の
女傑ぶりを説くことでなくして、むしろ八要の『或る女の日記』に出て居るやうな、平凡にして有りふれた庶
民の一女性を、その正しい倫理的認識に於て、新たに批判反省させることになければならない。そしてこの忠
告は、同時に女性自身に封して、その日本人的なる自覚と衿持とを自ら意識せょといふことの注意である。
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