文化の凋落と再建
今日の世紀は、人類が夢を失つた世紀だといはれてゐる。夢を失つた人々は、理想も空想もロマネスクもなく、ひたすらその現実の社会にばかり生活する。そこでまた今日は、現実主義の時代とも呼ばれてる。現実主義、即ちレアリズムといふ言葉は、文学上の用語としては、特殊なむづかしい意義をもつてるが、実社会上の意味としては、要するに実利実用主義といふことである。
では今日の社会が、どうしてこんなになつたかといふに、過去に於ける人類文化の変転が、自然にさうした経過をして来たのである。それには先づ、過去に於ける哲学と科学の歴史的変遷を、文化史上で考へで見る必要がある。プラトンやソクラテスによつて代表されてるところの、希臘古代の哲学といふものは、真の文字通りの形而上学、即ちこの感覚に映ずる現象界の上に、不易に実在する真理を探求しようとするところの、哲学の最も本源的なロマンチックな探求であり、哲学それ自体が一種の観念的な「詩」や「夢」であつた。然るにそれが近世ルネサンス以後になつてくると、デカルトの標語で代表されてるやうに、「我れ思ふ故に我あり」の「我(エゴ)」の探求に変つて来た。或はまたべ−コン、ヒユーム等の帰納法となり、現実主義的な実証論に向つて来た。そして近代カント以後になつて来ると、哲学はもはやその形而上学を完全に捨て、もつぱら人間知性の認識論になつてしまつた。近代の哲学は、むしろ広義の心理学に属するもので、プラトン時代の浪漫的な夢や詩やを、完全に喪失してゐるのである。
さらに科学の変遷史は、一層この事実をよく語つてゐる。科学が哲学から独立し、真にその学的形態を完(を)へたのは、近世ルネサンス以来のことであるが、さうした開明時代の初期の科学は、形而上学と同じく、宇宙現象の本質的な原理について、未だかつて人々の知らなかつた、不思議な感嘆すべき真理を教へてくれた。たとへばコペルニクスの地動説は、地球が太陽の周囲を運行するといふ新説によつて、人々の常識を根本からくつがへし、宇宙に関する人間の思想を、天地反対に一変させた。そしてダルヰンの進化論は、人間の先祖が猿であることを教へたことで、古来確く人々に信じられてた基督教の原人思想を、一片の痴語妄誕に化してしまつた。人間に文化史有つて以来、進化論や地動説ほど、真に人々を驚異させたところの、不思議な驚くべき思想はなかつた。そして尚今日でさへも、これほど深甚にして意外な驚異を与へてくれる新発見は、どんな新しい科学の分野にさへも無いのである。
だがしかし、かうした開明期の大科学は、人間の現実的な実生活とは、殆ど何の関係もないのであつた。地球が太陽の周囲を運行しようと、太陽が地球の周囲を廻らうと、四季は依然として同じであるし、朝が来て夜が来ることも変りはない。人間の先祖が猿であらうと、神によつて造られたものであらうと、人間は依然として人間であり、現実社会の実生活とは、全く無関係の話である。「実利実益」といふ功利主義の見方ですれば、ダルヰンもガリレオもコペルニクスも、全く有閑無用の発明をした科学者にすぎなかつた。
しかし近代になつてから、科学もまた大いに変貌して来た。十八世紀以後に於ける、科学の代表的な発明といはれるものは、汽車、汽船、電信、電話、写真、蓄音機、風船、飛行機、活動写真、自転車、自動車、ラヂオ等であるが、此等はいづれも人間の実生活と直接に関係のある簡明であり、地動説や進化論の如き、哲学的宇宙論の学説とは、全く科学としての風貌を異にしてゐる。つまり科学が、それだけプラグマチック(実用主義的)になつたのである。しかしかうした近代の科学も、その簡明の動機は、初めから決して実用を目的としたものではなくつて、純粋な知的好奇心にもとづいてることを知らねばならぬ。例へば飛行機の如きも、今日では全く実用上に使用されてゐるけれども、発明の初期の動機は、実用と何の関係もなく、単に鳥のやうに空を飛ばうとする、原始以来の人間の空想を、知的好奇心によつて探求したものに外ならない。電話、蓄音機、写真機等の発明もそれと同じく、人間の声を鑵詰にしたり、千里の遠方で会話をしたり、自然の印象を生写しにしたりしようとするところの、ロマンチックな知的好奇心の探見(たんけん)だつた。今日それらの飛行機等が、最も重要なる武器として、戦争等に使用されてるのを見たら、おそらく最初の発明者は、唖然として結果の意外に驚くだらう。
要するに十八、九世紀の近代科学は、人類が原始以来空想し、夢に見てあこがれ、幻に見て願望してゐた多くのイデーを、ルネサンス以来新たに解放された知性によつて、あくなき好奇心からむさほり発明した時代であり、科学の最も夢多きロマンチックの時代であつた。
ところで現代の科学はどうだらうか。今世紀の科学と科学者は、もはやさうした「夢」の大部分をなくしてしまつた。最近代の科学は、その発明の大部分が、殆ど皆過去の発明の改良であり、不完全のものを完全にし、非実用のものを実用にすることにかかつてゐる。そこで現代は、科学の応用時代(応用科学時代)といはれてる。応用科学時代は、それ自ら実用科学時代であり、夢と詩のない今日の文化世相を反映してゐる。そこで科学の歴史は、過去に三段の推移をしてゐる。即ち第一期は哲学時代(宇宙論時代)、第二期は発明時代、第三期は改良応用時代である。またこれを別な視点からすれば、第一期は基督教迷信への啓蒙時代であり、第二期は知的ロマンチック時代であり、第三期は実利実用時代である。
かくの如く、哲学も科学もすべての文化が、今日ではそのロマンチシズムを喪失して、全く現実主義的のものに化してしまつた。「詩は驚異の情に始る」とアリストテレスが言つてるが、単に詩ばかりでなく、科学も哲学も藝術も、すべての文化の本源するものは、実に驚異の情に外ならない。然るに今日の世紀は、すべての文化を通じて、その最も本源的なエスプリが稀薄に涸燥してゐるのである。その意味で或人々は、今日の世紀を無科学時代と呼んでるが、同様にまた今日は、真の科学精神のない無科学時代でもあるか知れない。なぜなら真の純粋な驚異から出発しないで、実利実益のみを考へる応用科学は、本来真の第一義的な科学ではないからである。
かうした世紀的な現象は、文藝に於てもまた同様である。世界の文学の歴史は、十九世紀で終つたとアンドレ・ジイドが嘆いてゐるが、実際今日の二十世紀は、文藝の空白時代といつてもよい。上古、中世は別として、近代になつてからも、世界のあらゆる大詩人や大小説家は、殆ど皆十八、九世紀に輩出した。トルストイやドストイエフスキイの如き、幾世紀に一人しか出ない大天才が、十九世紀の露西亜に肩を並べて群出したことは、世界の奇蹟的な出来事であると、メレヂコオスキイが驚嘆してゐるが、単に露西亜ばかりでなく、その同じ奇蹟は世界的に共通であつた。例へば仏蘭西では、ボードレエルや、ヱルレーヌや、ランボオやの大詩人 ― 数世紀に一人しか出ないやうな大天才 ― が、殆ど同時代の同じ詩壇に、肩を竝べて何人も現れてゐるし、独逸でも、ゲーテや、シルレルや、ハイネやの巨星が輩出してゐる。然るに二十世紀になつてからは、欧羅巴の世界を通じて、トルストイやゲーテ等に匹敵すべき、殆ど一人の大詩人も、一人の大小説家も出て居ないのである。今日の世紀は、実に無哲学時代、無科学時代である如く、また実に無文学時代であり、そして要するに文化の凋落時代である。
此所に於てか、今や世界の新しい革命が来ねばならぬ。今次の欧州大戦争は、表面から観察して、独逸が屈服二十余年の報復であり、或はまた全体主義国と民主主義国との衝突でもある。しかしその最も本質的な文化上の意味は、独逸人の文化的浪漫精神が、英米仏の実利的現実主義の文化に対して、新しい革命を呼び起し、以て文化の健全なる精神を再建しようとするところの、一種のルネサンス戦争に外ならない。そのことについては、ヒツトラア自ら、余は文化の破壊のために戦ふのでなく、文化の新しい再建のために、文化の新使命のために起つのだといつてるのでも明らかである。