武士道から見た日本の国民性 大町桂月


    一

 明治の初に至るまで、我国には武士といふ世襲の階級があつた。京都が公家の都であり、大阪が商人の都であるのを除いては、日本国中悉く武士の占むる所となつて居た。将軍が麾下八万騎を擁する江戸は、総本家であつて、其余は三百諸侯に分割されて居た。諸侯毎に多くは数千、少くとも数百の武士が属して居て、軍備の任にも当り、政治をも行つた。天下は武士の天下であつた。農工商は殆んど人間といふ資格が無かつた。「花は桜木、人は武士」といふのは、武士の性格の美を賞めたばかりでなく、武士といふ階級の勢力あるのを羨んだものである。武士でなくては、人と生れた甲斐がないとまで思つたのである。馬琴は八犬伝を残すよりも、息子の集めに武士の株を貰ふのを名誉と思つた。伊藤博文は武士ではなかつたが、「おれは武士だ」と威張つた。
 武士には武士道があつた、武士が羨望の的であるにつれて、武士道は天下一般に波及した。武士に劣るものかといふ気慨を武士以外の気骨ある人々が持つて居た。幕末の勇士近藤勇や土方歳三は、多摩河畔の百姓の子であつたが、武士以上の武士魂を持つて居た。幕府で武士に取立てようとしたが、却つて之を拒んだ。太平久しきにつれて、武士に武士らしからぬ人が少なくなかつたと共に、武士以外に武士らしい人か少なくなかつたのである。実質が武士である近藤や土方には、武士といふ名目は必要がなかつたので、腐敗した麾下八万騎への面当に皮肉つて見たものである。
 明治になつてから、武士といふ階級が無くなつて、四民平等になつた。それでも数百千年来養成した武士道の精神が一朝にして消磨するものでない。それは強兵の点には都合が好いが、富国の点には都合が好くないことが多かつた。福沢諭吉は明治の先覚者であつたが、一方には拝金の本山と云はれた。諭吉の本心は、武士道を賤んで、黄金を崇拝したものでも無かつた。日本が国を開いて世界の競争場裡に立つには、武士道だけでは不可ぬ。西洋の文明を採らねばならぬ。科学を盛にせねばならぬ。殖産工業を盛にせねばならぬ。通商を盛にせねばならぬ。国を富まさねばならぬといふのが、諭吉の意見であつた。その為めに日本は今日の隆盛を見るに至つた。諭吉は時に応じて説法したものである。今日では諭吉の説法の薬が利き過ぎて、武士道の精神が必要になつて来た。
 武士の階級が無くなつてから、五十年にしかならぬ。武士道の精神は福沢派の為めに打撃を被り、生存競争の為めに打撃を被り、外来の思想の為めに打撃を被つたが、まだ/\日本には到る処、武士道の精神が存して居る。日清戦争に克つたのも、日露戦争に克つたのも、決して偶然では無い。ほんの五十年前まで武士といふ階級かあつたからである。これは世界中、唯日本だけが有する一種の強みである。


       二

 さらば武士道とは何であるかといふに、忠孝の二字で総括することが出来る。而かも其忠と孝とが別々の物でなくて、全く相一致してゐるのが、日本の武士道の精粋である。この頃は、忠孝は奴隷道徳であるといふ人が多くなつたが、若しも日本人から忠孝の精神を抜き去つたら、日本人は欧米人の奴隷になるのである。自我の奴隷となるのである。自利の奴隷となるのである。如何に奴隷の語を厭がつても、忠孝の奴隷となるか、自我自利の奴隷となるか、どうせ人は何かの奴隷になるを兎れない。忠孝の奴隷となつたら、人であるが、自利自我の奴隷となつたら、動物である。
 動物は自利自我の傀儡である。孝もない。忠もない。家もない。社会もない。国家もない。文明もない。西洋の文明は個人主義の文明であるが、全く自利自我のみではない。神の奴隷といふ耶蘇教の教が、道徳を維持して来た。正義の観念もある。人と人、国と国との競争が激しい中に、文明が発達して来て、常識も発達して居る学者の机上では耶蘇教を軽蔑しても、耶蘇教は数百千年来西洋の社会に深く根付いて居る。信仰は薄らいでも、風俗となり習慣となり、礼儀となり、作法となつて、耶蘇教はなほ西洋の世道人心を支配して居る。西洋から耶蘇教を取り去れば、西洋は闇になる。日本から忠孝の精神を取り去れば、日本は闇になる。日本に産れながら忠孝かち離れ、西洋の思想を容れながら神の奴隷から離れたらば、中ぶらりんの迷児になるの外はないのである。
 今日の人に向つて、忠孝の語を発したら、いきなりに古くさいと云ふであらうか、其癖、毎日米を食つて居るでは無いか。百年前の日本人も米を食つた。二百年前の日本人も米を食つた。千年前の日本人も米を食つた。二千年前の日本人も米を食つた。米は古いと云へば古いが、今日でも、日本人は誰も米と離れることが出来ない。忠孝も日本人に取つては、米と同じである。忠孝は精神上の米である。米は肉体上の忠孝である。古来日本人の肉体は米に因つて養はれ、精神は忠孝によつて養はれて来た。忠孝に武士道を合体した。武士にして忠孝と離れたものは真の武士でなかつたが、武士以外にして忠孝と合たものは、真の武士であつた。西洋でも耶蘇教の信仰が揺らいで来た如く、日本でも忠孝の精神が薄らいで来たが、千年来の感化で、西洋の世道人心の奥には、耶蘇教の根があり、日本の世道人心の奥には、忠孝の根がある。浮草のやうに、ふは/\した人は自分に根が無いから、日本に生れても、忠孝の根がわからず、西洋をぶらついても、耶蘇教の根がわからないのである。


         三

 忠とは何であるか、孝とは何であろかといふに、一口に云へば、忠とは君に尽すことである。孝とは親に尽すことである。君に尽し、親に尽すとは如何にするかといふに、君父の為めに誠意誠心を披瀝して一身を忘るゝことである。茲に孝の一例を挙げて見よう。
 信州は佐久郡内山村破風山の麓に、総右衛門といふ農夫があつた、家より三町ばかり隔つた字逢月といふ処に、猪鹿防ぎの番小屋を設けて、夜々之を守つた。天明八年九月二十五日、夕方から子の亀松を伴つて番をしに行つた。亀松は草を刈り総右衛門は小屋で火を焚いて居たが、狼が不意に来て、総右衛門の足に喰付いた。驚いて振向くと、唇から腮へかけて喰付いた。狼の耳を握つて大に叫んだ。亀松其声を聞いて、始めて父の難を知り、走り来りて、所持して居た鎌を口ヘ引掛けた其柄が狼に喰折られた。父の嫌を取つて、柄の方を狼のロに捻ぢ込んだ。なほ石で狼の牙を打欠いたが、狼は益々猛つて、掻付いた。父は数箇所の傷に弱つて、動くこが出来ない。亀松は少しも屈せずに、力の限りを尽した。終に指で狼の眼を刳り抜いて、漸く狼を斃した。父の傷は多かつたが、みな急所を外れて居た。亀松が介抱して家に連帰り、療養して全快した亀松は此時僅に十一歳であつた。而かも年齢より小柄で虚弱で力は無かつた。唯孝の一念が亀松を豪傑としたのである。
 亀松と正反対の例を挙げると、益々亀松の豪いことがわかる。或人と云つて置く。北海道に居た。学問もある。理窟もいふ。元気で、猟を好んだ。友人と共に熊狩りに出掛けたは好いが、熊が不意に露れて、友人に飛び掛つた。或人は吃驚して腰を抜かした。思はず、知らず、銃を投げ出した。銃を執らうとしても、手が動かない。熊は終に友人を殺して、引いで行つたが、なほ動くことが出来ない。唯目をぱちくりさするだけであつたが、幸にも薬商が通りかゝつたので、扶け起して連れて帰つた。成人は亀松のやうな少年ではない。立派な大人である。
 世人は或人を目して臆病者といふであらうが、臆病者だけではない.或人は誠意誠心が無くて、一身を忘れることの出来ない人でゐる。之に反して、亀松は誠意誠心があつて、一身を忘れることの出来る人である。成人が亀松の場合にあつたら、父はむざ/\狼に殺されたであらう、亀松が或人の場合にあつたら、友人は断じて熊に許されなかつたであらう。或人は友人に対して、友情を尽さなかつたが、子としたら孝子になれない。臣としたら忠臣になれない。学問をしても、学問に忠実でない。事業をしても、事業に徹底しない。亀松は親に対して、孝を尽したが、友としたら益友にらなれる[ママ]。臣としたら忠臣になれる。学問をしたら、学問に忠実である。事業をしたら、事業に徹底する。今世の中を見渡すに、亀松のやうな人は、だん/\少なくなつて、或人のやうな人が、益多くなるばかりである。それでも自ら其非たることを知つて居れば、まだしもであるが、自ら是として、口先ばかりで理窟を捏ねまはすから、何とも仕末に終へない。


        四

 誠意誠心があつて、一身を忘れることの出来る亀松と、誠意誠心が無くて、一身を忘れることの出来ない北海道の或人との例で、孝と不孝との分れる根本が判つたが、孝の対象である所の親を何故に大切にせねばならぬかといふに、それは報本反始の精神から出て居る。我身は親の分身である。人間愛他の心は、先づ親に向はねばならぬ。養育の恩を思へば、猶更である。武士なり、商なり、農なり、家業を世襲すら身では、又猶更である。それを誠意誠心で固まつた人は、なまぬるいことでは済まされず、終に一身を忘るゝに至るのである。
 今の世には『頼みもせぬに、何故己れを生んだ』などゝ臆面もなく云ふものもあるが、それは生を呪ふものである。此世に生存する資格の無いものである。
 又『なぜ、賢い子に生んで呉れなかつたらう』と、親を恨むものもあるが、それは慾に迷ふものである。釈迦になりたい、ナポレオンになりたい、カーネギーになりたいと、人の慾には限りがないが、世の中は慾の通りになるものでは無い。学才の多い方が好いが、学才ばかりが人間では無い。才智の少ないよりは才智の多い方が好いが、才智ばかりが人間では無い。適所に適才を発揮する所に、人間の価値がある。殊に己れの努力を忘れてはならぬ。天分の劣つた人が己れの努力に因つて、天分の優れた人を凌駕する例かいくらもあるのである。
 又『生存競争が激しくなつたから、親孝行などゝ悠長な真似は出来ない。個人の発達か急務がある』といふものもあるが、これは前二者に比すれば、一と理窟ある。西洋は斯う云ふ有様である。今日ばかりでない。数百千年前からである。外は国と国との競争が激しく、内は人と人との競争が激しいから、親は子み顧るの遑がない。子は親を顧るの遑がない。親は親子は子で、世に立つて居る。個人本位となつて来た。越後に、『親不知』といふ処がある。断崖絶壁になつて居て、波が打寄せて居る。行人は波のあひま/\を見て、命がけで走つて通らねばならぬ。親は子を顧るの遑が無く、子は親を顧るの遑が無かつた。それで、『親不知、子不知』と云つたのである。西洋の社会は、不孝にも『観不知』の険である。従つて孝道が発達しなかつた。その代りに耶蘇教で世道人心を維持して来た。幸にも日本の社会は大道坦々で、『親不知』では無かつた。孝道が発達して来た。今は日本の社会も『親不知』風になつて来たが、西洋のやうに個人本位でなくて、家庭本位で立つて居る。そこに日本の日本たる所以の美風かある。忠孝の精神が失せない。若しも日本人が忠孝の精神を失ひ、西洋で世道人心を維持した耶蘇教の精神をも抜きにして、西洋の個人本位のみを真似したならば、折角の日本の美風をも失ひ、西洋の美風も得なくて、西洋の糟粕ばかりを嘗むることになるのである。
 『親不知』の西洋では個人本位の道徳が発達して来た。大道坦々の日本では、家庭本位の孝道が発達して来た。西洋には耶蘇教といふ大黒柱がある。日本には皇室といふ大黒柱がある。日本は開闢以来、万世一系の天皇を戴いて居る。これ日本独特の國體である。西洋の個人本位に対して云へば、日本は家庭本位であるが、なほ精しく云へば、皇室中心の家庭本位である。皇室は家庭々々の総本家である。親を生んだものは祖父であり、祖父を生んだものは曾祖父であるから、孝道は自ら祖先崇拝となるのであるが、祖先々々の総祖先は皇祖皇宗であるから、孝道は忠道と一致し、又敬神とも一致した。天皇は現つ神であり、天照大神は日本の総本神である。天皇の人民を視ること子の如く、人民の天皇を観ること父の如しといふことは、日本でなくては見られない美風である。
 日本で孝道の精神に徹底したら、自ら忠道の精神にも徹底する。夫婦相愛する。兄弟姉妹相睦しくする。朋友相信ずる。人に対して忠実である。外国人に対しても親切である。誠意誠心がある。場合に由つては一身を忘れて勇往する元気がある。事務をサボらない。謹直である。礼儀が正しい。一つの孝道に徹底したら、真に立派な人間である。西洋人は耶蘇教のお蔭で、「親不知」を通つて居るから、耶蘇教を信じない日本人を人でないやうに思ふが、それは忠孝の教のあることを知らないからである。日本人で忠孝の精神を解しないものがあるなら、それこそ人でないのである。尤も若い時は一身の発達に追はれるが、所謂『子を持つて知る親の恩』、これ迄の日本国民は何人も忠孝の素質を持つて居た。此素質を多く持つて居る者は成功するにしても、大に成功し、慶福が子孫に及ぶが、此素質の少ないにつれて、成功するにしても小さく成功し、余慶が子孫に及ばないのである。


         五

 日本の国民性は、忠孝が根本になつて居て、武士道に由つて鍛錬せられた。万世一系天皇を奉じて忠と孝とが一致する日本独得の國體に由つて、なほ更鍛錬せらかた。国歌を見ても判かる。『君が代』の唱歌は、君を祝つたものであるが、君が栄えれば、国も栄える。民も栄える。皇室中心の我が國體では、君が代を祝へば、それが国歌となるのである。それは他の国では出来ない。この特質が判らないものは国歌を謡ふ資格の無いものである。
 言ふまでもなく、御馬前の討死が、武士の天職である。従つて日本国民は勇悍である。その勇悍であることは、干戈の戦争が証拠立てたばかりでなく、平和の戦争に於て、日本国民がどし/\海外に発展したのを見てもわかる。三千年来の歴史を見れば、なほ更わかる。武士は平生武術を修めて、勇気を養つた。胆を練つた。生死に超脱した。武術には、剣術、柔術、弓術、馬術などがある。角力は武器を用ゐない一種の武術であるが上古から行はれて、今も盛である。専門の力士もあるが、到る処に宮角力がある。学校にも土俵がある。碁将棋も腕力を用ゐない一種の武術である。碁将棋にも専門家があるが、日本中、何処へ行つても碁盤将棋盤の無い処は無い。西洋や支那では、正統な紳士の間にも、博奕が行はれて居るが、日本の紳士には行はれない。その代りに碁将棋が行はれて居る。博奕は金を争ふのであるが、碁将棋は智勇を闘はすのである。『日本人が戦争に強いのは、平生碁が行はれて居るのが一大原因である」と云つた西洋人さへある。
 勇気のある者は残酷であり、優雅な者は勇気が無いのが普通であるが、日本国民は勇気があつても、残酷でなく、優雅であつても勇気がある。こゝに国民性の特質がある。『武夫は物のあはれを知る』と云はれて居る。『桜うゑたり軍もしたり是れが真の日本武士』といふ俗謡もある。三千年来の歴史を通結しても、世界の他の国に足るやうな残酷な事蹟がか無い。源義家と安倍貞任とが干戈の戦に連歌を詠みあつたやうなことは他国には無い。那須与一が扇の的を射たやうなことは、日本だけにしか無い。神代の昔から、和歌がある。十戸の村には、必ず和歌を作る人がある。俳句を作る人がある。死に臨んで、従容として辞世の吟を作る人が少なくない。日本のやうに詩人の国は、世界中、何処にもあるまい。欧米では、日本国民を目して、好戦の国民といふものもあるが、こは誤解である。日本国民の気風は尚武ではあるが、好戦では無い。勝気ではあるが、暴慢では無い。欧米人でも立入つて精しく観察したら、日本国民殆んどみな詩人なるに驚くであらう。角力を見ても判る。欧米の角力は残酷であるが、日本の角力は少しも残酷でない。欧米の拳闘はなほ一層残酷である。拳闘の行はれる欧米の国民こそ好戦と云はれようが、角力を好む日本の国民は好戦とは云はれまい。


        六

 武士は平生刀をさして居た。然し刀を抜いたら生命が無い。御馬前の討死が出来ない
場合に由つたら、先祖代々の家を棒に振らねばならない。それでよく/\の事でなければ、妄りに刀は抜かない。そこに武士道が閃いて、武士をして礼儀を重んぜしめた。礼儀が正しければ、争が起るものではない。争が起らなければ、刀を抜く必要がない。礼儀は形ばかりのものでない。内に誠意誠心があつて、能く敬愛を解するのである。忠孝の一変形に外ならない。忠孝を解した日本武士は、実に礼儀正しい国民であつた。武士の階級が無くなると共に、礼儀も地に堕ちた。七尺下つて、師の影を踏まない真似をするものは無くなつた。師を視ること恰も雇人のやうになつた。その他は推して知られる。国民の品位が下落した。内は識者を顰蹙せしめ、外は欧米人に軽侮せられろやうになつた。
 人に苦しい顔を見せないといふものも、礼儀の一面である。苦しくても、苦しさうな顔を見せない。苦しいとは言はない 『侍の子といふものは腹がへつてもひもじうない』、『武士は喰はねど高楊枝』、武士には痩我慢が付物である。感情をむき出しにする欧米人は之を虚偽と云ふやうであるが.そこに日本国民性の特質がある。喜怒色にあらはれないばかりでなく、笑つて死に就くのである。日本国民は「泣笑ひ」の出来る人間である。日本人から欧米人を見たら、礼儀の程度が低い、泣虫である、辛抱がない。たしなみがない、痩我慢が出来ない。角士でも、前には負けた時、平気な顔、若しくは笑ひ顔をするものがあつたが、この頃はみな恨めしさうな顔、若しくは泣きさうな顔をするものばかりになつた。野球の選手が負けた時一同に泣き出すのは、責任を重んずるといふ理由もあらうが、武士から見れば、欧米人にかぶれて、泣虫になつたものである。
 武士は妄りに刀を抜かないが、恥を知らねばならない。腰を抜かしてはならない。刀を抜くべき時には、抜かねばならない。殿中では困まるが、浅野内匠頭が刀を抜いたのは、大に同情すべき点がある。武士は常に刀の手前と云ふことは心得て居らねばならない。廉恥が武士道の大眼目である。卑怯でない、賤しくない。不正でない。公明正大、私利私慾に動かない。実業に従事したら、損をすることもあらうが、砂利を喰ふことはない、瓦斯を飲むこともないのである。


         七

 支那は儒教の起つた国であるが、儒教は支那に行はれなくて、却つて日本に行はれた。殊に最も能く江戸時代に行はれた。元来儒教は官吏の教で、人民の教でない。忠義の解釈次第で、儒教は全く武士道と合つて居る。然し例外はある。論語に
 厩焼けたり、子、朝を退いて曰く、人を傷つくるやと。馬を問はす。
 昔年の馬は、今日の飛行機である。『関東の兵は天下に敵するに足る』と云はれたのは、関東の兵の強かつたばかりでなく、関東の兵は馬術に長じて、良馬を持つて居たからである。山内一豊の良馬を買ふのに、その夫人が賛成したのも、これから出たのである。武士が厩の焼けた時、人のみを問うて、馬を問はなくては、ちと困まる。物徂徠は孔子の語を左の如くにした。
 人を傷つくるや否やと、馬を問ふ。
 これは『葷酒山門に入るを許さす』(不許葷酒入山門)を『葷を許さず、酒は山門に入れ」(不許葷。酒入山門)とした筆法で、『傷人乎。不問馬』を『傷人乎不。問馬』としたのである。子供だましであるが、徂徠は武士道に合ふやうにと力めたものである。徂徠は豪いことは豪いが、御用学者で、曲学阿世の風を免れない。こんな小細工をしなくても、いくらも解釈の仕様がある。馬も大事だが馬よりは人が大事であると解けばよいのである。儒教は官吏の教であるが、なほ精しく云へば、文官の教であつて武官の教でない。それで徂徠の小細工が起るやうになるのである。古来支那は尚文の国である。廉頗が
藺相如に対して立腹したのも無理は無い。日本は尚武の国である。日本の武士は論語だけでは不足である。孫子を読まねばならない。この頃問題になつた杉浦重剛先生が儒教に達して居ることは、知つて居る人も少なくなからうが、先生は孫子の愛読者である。其家塾で孫子を講じたこともあつた。『志願兵制度は良くない。国民の尚武の気風を殺ぐ』といふのが先生の意見である。先生は教育家であるが、普通の軍人よりも強硬の意見を持つて居る。今日天下みな先生に敬服せざるものは無いが、唯敬服するだけでは、足りない。先生の根本には、武士の精神があることを知らねばならない。知つて学ばなければならない。


         八

 武士道は婦人に対して、どうであつたかと云ふに、男尊女卑であつた。それには大に理由がある。男なら、祖先代々の後をついで武士になれるが、女ではなれない。男を尊ばざるを得ない。今日でも一般に女よりは男を生むのを喜ぶ気風がある祖先代々の家を継ぐ子孫が必要であるので、養子もしたが、養子よりも実子が好いから、蓄妾が許された。女に恋着するのを武士の恥とした。女に恋着しては、勇ましい首途が出来ない。花々しい戦が出来ない。小野小町に通うた深草少将が、深草少納言なら、まだしもだが、少将では困まつたものである。平安朝第一の色男の在原中将も中納言でなくて、中将であるから、これも困まつたものである。新田義貞も勾当内侍の色に迷うたから、失敗を来たした。武士に美人は禁物である。『武夫は物のあはれを知る』であるから、何も女を虐待するわけでは無い。唯女尊になつては、武士の天職が廃れる家庭でも女尊になつては、尚武の風が廃れて文弱になる。盲目の人情が跋扈する。鋼臭が多くなる。商家では女尊の方が繁昌するが、武士では女尊になつたら、家が亡びる。どうも太平が続くと、女尊になる。女尊になると、弱くなる、弱くなると国が亡びる。古今東西の諸国みな之を繰返して居る。我国でも平安朝では、この通りであつた。江戸時代もこの傾向があつたが、武士道で維持した。今日はまた平安朝の傾向を帯びて来た。国家の将来が危ぶまれる。婦人でも、武士道の精神を了解して居るなら、大に尊いが、さもないと、亡国の媒をするやうになる。この頃婦人問題がやかましくなつたが、先づこの点を考へねばならない。何も女を賤しむわけではない。女を憎むわけでもない。国家が大事な[ママ]からである。