最後の太閤

 それは太閤の命も已に、あやふく見えた時であつた。宏大な伏見城の奥のうす暗い大広間である。広間には諸侯がうよ/\とうごめいて居る。陰気な暗い重い湿つた空気がぐん/\とさゝやく彼等の言葉さへなんとなく暗く思はれた。裏山の杉の林からジージーージジーーと暑苦しい重たさうな蝉の声がはつきり聞えて来る。
 隣部屋に寝て居る太閤は今どんなことを考へて居るだらう。傍には秀頼も居る。淀方も居る。しかし北政所方の居ないのは妙にさびしい。太閤は目を細く開いて秀頼の顔を見上げた。淀方の方に顔をむけた。隣間の諸侯の話声に耳をかたむけた。そして彼は又満足気に目をつぶつた。彼の頭には色々な考へが幻の如く、まはり燈籠の如く浮んで来た。父、彌右エ門と山に薪をとりに行く彼の姿。父は彼の煩にキッスをした。父と子 − 飾りけのない貴い姿 − あの時と今と −
 彼はウツトリとなつて居た。そして考へは次から次へと進んで行つた。
 天正十年のことであつた。山崎で逆臣光秀を討つて主君の仇を報いた時の嬉しさ。彼はたつた今でもそれを味はふことが出来た。
 つゞいて起つた賤ヶ岳の戦。それらは皆眼前に幻となつてはつきりと現はれた。彼の口元には勝ほこつた者のやうな微笑が浮び出た。
 同十二年!!小牧山の戦!!彼の微笑がもう顔のどこにも見あたらなくなつて居た。どうしても徳川公を亡ぼすことが出来ず和睦を申し込んだ時の彼の心『わしともあらうものが・・・』と彼は彼自身にも聞きとれそうもない程ひくい/\ひとりごとをもらした。隣間から徳川公の咳がゴホン/\とじめ/\した空気を伝つて彼の耳にとゞいた。彼の顔色はだん/\暗くなつて行つた。
 関白−太政大臣、彼の栄達は実に古今に類がなかつた。あの当時の彼の勢。彼は今それを思ひ出したのである。自分でさへ自分自身の勢が恐ろしくてたまらなかつた位であつた。彼はもうたまらなくなつてウーとうなり出した。聚楽第の御幸!文武百官を率ゐて諸侯と共に『天皇をうやまひ申す』との誓ひを立てた時の有様は・・・おゝ彼の目は涙でうるんで居る。太閤は心から泣いた。君恩は彼を泣かしめたのだ。四辺の空気は尚一層じめ/\して来た。文禄元年の朝鮮征伐が目の先にちらついて来た。彼はどこを見るともなくまた目を開いた。彼の手はかたく/\にぎられて居た。汗まで手の中にひそんで居た。
 彼は急にフーと長い/\歎息をもらした。
 慶長元年の明使をおつぱらつた時の光景が目の前に浮び出たのである。
 しかし彼はすぐにはれやかな色を顔にたゞよはした。彼はあのはなやかであつた彼の醍醐の花見を思ひ出したのだ。ほゝゑみが彼のやせこけた頬にうかんだ。もう彼の頭はポーとして来て何が何やらさつぱりわからなくなつてしまつた。・・・秀頼の顔が大きく/\彼の目の前に幻となつて現はれた。
 そして秀頼はニツコリ笑つた。太閤はもうたえられなくなつてしまつた。そして大声でウハツハツ
ハツハツハツと笑ひこけてしまつた。
 枕もとに侍つて居た人々は驚異の目を見はつた。隣間の諸侯が急にがや/\とさはぎ始めた。それをおし静めて居るのが前田公であつた。
 あゝ一世代の英雄太閤は遂に没した。
 その死顔に微笑を浮べて・・・。
 華かなりし彼の一生よ。
 広間の中からはすゝり泣きの声が洩れて来た。
 諸侯は誰も面を上げ得なかつた。
 夕日は血がにじむやうな毒々しい赤黒い光線を室になげつけた。諸侯の顔も衣服も皆血で洗はれてしまつたやうに見える。否彼等の心に迄も血がにじんで居るだらう。裏の林の蝉が又一しきり鳴き始めた。
 夕日はかくして次第に西山に沈んで行く・・・。
 太閤はかくしてあの世に沈んで行つたのである。