学 生 群

   一、偸  盗

 

 P高等学校の校友会費二万円、綺麗に盗まれて居た。
 学年試験も間近の頃だ。新聞雑誌部が、原稿用紙購入の為、会計課に其の代金を請求した際、会計
課では何故か其の支払ひを避けた。奇怪に感じて新聞雑誌部は総務部にその由を報告した。総務部委
員は直ちに部長大野教授立合の上で、会計課の帳簿調査を始めた。……
 七銭残つて居た。
 会計課の老書記、秋田某は総務部委員に激しく詰問され、見るに堪へない程悲惨な表情で、手にし
て居た現金出納簿をボトンと力弱く床の上に投げつけた。其の小さな、併し極めて重大な音が、忽ち
波紋をなし、陰々たる底気味悪さで全校に響き渡つた。
 果然! P高等学校の全生徒が動いた。
 山のやうにむくむく立ち上つた全生徒は併し、確然と二派に分れた。―― 幹部派。そして―― 大衆
派!
 『駄ぐな、おらに委せろ』
 『ひつこめ、だら幹!』
 こんな空気がいよいよ濃くなつて、険悪にさへ見え出したが、惜しい哉、その日は土曜日で半ドン。
其の儘の形勢で直ぐ放課に成つた。

 それから日曜迄にどんな事が起つて居たか。

 『だから此の金策、校長にたのめつて言ふのだらう?』
 細谷は其の手紙を机の引出しの中にうやうやしく仕舞ひ込んでから、今日も今日とて、朝つぱらか
ら彼の下宿を襲つて、グズリグズリとぐろを巻いて居る木島の傍に、並んでごろ寝をした。……母を
入院させねばならなく成つた故、五十円送つて呉れ、と言ふ小蔦からの手紙だつたのだ。
 『まあ、そうだ。どうせ二万円も盗んだのなら、序にもう五十円位盗んだつて罪は同じやうなもんだ
ぜ』
 長々と寝そべつて、そう言ひながら木島は、和やかに笑ひ出し、手をのばして細谷の本棚からブラ
ンデーの瓶をちよろツと取り出した。二人とも仕様のないルンペンだつた。細谷は細谷で、小柄な痩
せぽつちの癖に、自分より二倍も大きい柔道部の選手の木島と、酒と女の量を張り合つては、をさを
さ負(ひけ)を取るものでなかつた。
 『うむ、少くとも一面の真理を語つて居る。木島にしちや大出来だ』
 『こいつ、あとでコツソリ校長の所へ行く気だな』
 『さとられたか、残念』
 だが、細谷はもう質屋に行く腹をきめて居たのだ。
 『浅間しい奴だ。君と校長とは本質的に似たものがあるぞ』
 『大あり。なにせ、どつちもえらい粋人だからな。今朝の新聞だと、二万円の大半は祇園で使つたん
だそうぢやないか』
 『粋が身を食ふ、とはよく言つた。意地だの張りだのつと騒いで居る所謂「まごころの城廓」も、今
ぢやこんな盗賊まがひの者に依つてのみ支持されて居る。ロマンチック極まる我々が従来の放蕩も今
や清算さるべきであるーといふ所だな』
 『ロだけぢや、いつでも勇ましい』
 『いや、ロだけぢや無い』
 木島はブランデーの酔で、もう其の色白な顔を艶々と染め掛けながら、珍しくもむつとしたやうに
頑をふくらした。
 『僕は真面目に考へて居るのだぜ。ルンペン群は、この社会にとつて毒にも薬にも成らないぼうふら
だと許り思つて居たのが………』
 それは物凄い反動への輝ける過程であると始めて気附いた、としんみり言ふのだ。恥しながら高等
学枚二年の修了を目の前に控へての今時分、やつと気附いた、と言ふのだ。
 『現に今度の事件にしろ、僕には他人事(ひとごと)ぢや無いと言ふやうな気がするのだ』
 『馬鹿!』
 細谷はゲラ/\笑ひ出した。
 『木島にも似合はん。醜態だぜ、いやにこう深刻さうな………』
 『深刻、結構! わたしや、どうせ野暮だアよ!』
 木島は余つぽど、昼酒が利いたらしく、キザに自棄(やけ)な悪態をついて抗(さか)らつた。細谷はニヤ/\しな
がら、肘を枕にうつそり天井を眺めて居た。
 『細谷、君は一体、今度の事件をどう思ふ?』
 『どう思ふつて……』
 『くやしくねえのか! 俺達がこれ程校長に、いや時の政府に甘く見られてゐるのがくやしくねえの
か! 白昼公然と二万円もの大金を盗まれて、其れが判つてもアツケラカンと指をくわへて見て居ね
ばならぬ、その俺達の不甲斐なさが恥しくねえのか!』
 『まあ、そんなに威張るなつてば。どうせ、あんなズボラな校長を派遣されたのは、こつちの災難さ。
仕方がないやな。……でもまあ、潔く辞職したんだし、費消した金を返しさへすればいゝぢやない
か』
 『辞職ウ? 潔くウ?』
 本島はうるさくからんで来た。
 『詰腹だぜ。詰腹を切らされたんだぜ』
 『あゝ、総務部委員にやられたんだな。子供だつて馬鹿には出来ん』
 『何を言つてやがる。こいつも総務部委員だけの手柄だと思つてやがる。俺は第一それが癪なんだ』
 『ふふん。判つた。もう沢山だ。そんな所で一人ぷん/\怒つてるよりは、もう一杯のんで眠れ。レニンの夢を見るぜ』
 『おい、細谷! 酒をのんで、女に惚れ、東西古今の天才を罵倒し、勢あまつて、寮雨(れいう)をやり、あげくの果がストームの無茶に及ぶのが所謂従来のカレツヂ・ライフさ。若き学徒があこがれの的たるカレツヂ・ライフよ。此の阿片(オピアム)の御蔭で畜生! 俺達あ、時勢に五十年おくれたゾ!』
 『俺達のせいぢやない』
 『俺達のせいぢやない? 細谷、しつかりしろ、貴様、だまされて居るんだ。へん、小倉の袴に高足駄、二本の白線うれしいね、か。口ぢや何と言つたつて、やはり、末は博士か大臣か、なんて夢見て居るんだ。馬鹿野郎!大泥棒を校長に奉戴しやがつて。くやしくねえのか! ざまア見ろ。今にこの事件で貴様達のきもつ玉をでんぐり返すやうな大騒動が持ち上るぜ』
 『そうかい………』
気のない返事だつた。
 『……同盟休校』
 本島はニベも無く言ひ放つた。
 かつて之程緊張した朝が、かつて之程暗憺たる朝が、此のP高に一度でもあつたか。森々たる不安と動揺との中に全校生徒は黙々と授業を受けて居た。
 ―― 直ちに講堂に集合すべし    本  校
 生徒は此の掲示に接して、蟻のやうにゾロ/\講堂へ向つた。
 講堂の空気は重苦しかつた。沈愁の面持を装ふ教授達、興奮し切つた生徒大衆。ここでは一体、何が起るのだ。学校側から此の事件の真相を発表しやうと言ふのかも知れないぞと、生徒の大半は密かに考へて居たのだ。
 今や大講堂は深山の如く静かである。水をうつたやうにしいんとして居た。―― ギギゝゝと正面の細長い開戸が鈍い音を立ててゆるやかに開いた。
 意外! あの校長が立つて居るのだ。
 『どろぼう!』
 たまつたものでは無い。血の出るやうな悲痛な第一声。
 『馬鹿! だまれえツ』
 壮士を気取つて、こぶしを振り上げ、はつたと其の声のする方を睨みつけたのは、佐賀といふ校長びいきのドン・キホーテ。
 所謂嵐の前の静けさが、ここで破られた。一瞬時にしてゴーツと、講堂全体がスツ飛んで了ふ程の騒音が起る。気の弱い生徒はガタ/\震へた。校長は併し、臆せず、のそ/\講壇に上つて行く。真蒼な顔だつた。拍手で以て之を迎へた道化者もあつた。校長は嵐の梢々静まるのを待つて、小憎らし
い迄に洒唖洒唖と口を切つた。
 『……校友会費を消費した者は、実は私なのである……』
 これには皆ドツと笑ひ出した。実際笑ふより他に仕方が無かつた。だが校長はいよ/\厳粛な態度で述べた。
 『どうも、甚だすまない……………』
 『校長、恥を知れ!』
 堪へ兼ねたか、半分泣きかけて怒号した生徒があつた。
 『黙つて聞いてろツ。子供ツ』
 間髪も入れず佐賀の子分らしいものが之に応ずる。殺気に似た混乱の渦が、又ぐるくと巻き起つたのだ。

    二、若き兵士

 

 諸君と相まみゆるのも之が最後であらうと、すさまじい旋風の中で、どうやら言ひ結んだ校長は、流石に悄然と降壇した。真理に対する健全な探究力と新鮮なる情熱とを持つた此の若い生徒大衆は、直ちに各教室に引き上げ、授業を拒絶し、クラス会を決行した。彼等すべてが恐らく生れて始めて経験したらしい此の事件を最も慎重に考へて見ようと思つたのだ。其れには何よりも先づ事件の真相を知りたかつた。彼等は、局外者の報じた無責任極る新聞記事に依り辛うじてその輪廓を仄覗したに過ぎなかつたのだ。今や彼等は学校当局の手に依つて其の真相が発表されるのを心から期待して居たのだけれど、奇怪にも当局は此の事件一切を隠蔽しようとして居るらしく見えた。此の上は生徒側に於ける唯一の該事件折衝者たる総務部委員に其の真相発表を要求した。自体、此の総務部委員六名といふものは、全校生徒六百名のうちより投票に依つて選ばれ『校友会の予算及び決算に関する事務を分掌すると共に会務の連絡統一を図る』のを其の仕事として居るもので、言ふ迄も無く生徒側のものであるべき筈だつた。然るに彼等は此の事件発生当時よりして既に独裁的態度を執り明らかに反生徒的立場にさへ拠つて居た。其れ故クラス会に於ても生徒大衆は、此の総務部委員より満足な説明を聞くことを得なかつたのは無論だつた。
 彼等に残された道はたゞ一つ、即ち之を全校生徒の名に於て学校当局に強要する事。こゝに彼等は生徒大会開催の必然性を感じた。然し之は果して一部の所謂穏健派の猛烈な反対を受けた。この生徒達は、当局の認めざる所のものを断行するのは我々生徒の本分に違ふものであると、主張した。事実生徒大会は当局に依つて禁じられて居た。彼等も併し、真相の発表は切実に望んで居た。彼等は此の要求を当局の認めたる役員会に依つて通過させるがいいと提案した。併し此の際役員会成立の可能性は甚だ危つかしいものであつた。現に土曜の代議員会は校長派の暴力団に依つて流合の憂き目に逢うて居たのだ。しかも生徒大衆には、まどろつこい役員会なんかでグヅ/\して居る間に当局の一時彌縫政策が着々進行して居るやうな気がして、矢もたても居られなかつたのだ。彼等は最も簡潔直裁な生徒大会へと一図にはやつた。結局此の一部穏健派の反対も、大衆の激流におし流された。生徒大会開催が各クラスの挙つて可決する所と成つた。生徒大会の実行委員がそれ/"\二名づつ選挙され、ク
ラス会は解散した。


 P市の夕暮は浪漫的だ。貌に冬の夕暮がそうだ。もとく城下町である故か、しつとりして居て、樹木が莫迦に多い。R山颪がビユーと吹けば、亭々たる大銀杏の枯枝にこんもり積つて居る粉雪がぱら/\と飛び散るのだ。それが落日に映えて金色にキラ/\光るのだ。町は寒々と静まり返つて居る上に、家々の燈火は、愛くるしくぽつんぽつんと、青麻を張つた螢籠のやうにつゝましいのだ。馬橇のぽろん/\といふ鈴の音さへも、個々感傷的なのである。
 此の町はづれに自堊の大建築物が巍然と立つて居る。背後には富士によく似たR山の秀峰が、量の如く肇えて居る。
 山崎と吉野とは熟した頬をいゝ気持ちで冷気にさらしながら、其のP高等学校の校門を後にした。近頃に無く霧が深かつた。
 『……若し、これが君、同盟休校にでもなつたなら、三年生は悲惨だねえ。もう一週間位の所で卒業なのに……』
 吉野は白い息をハアツと吐いた。次色の霧の中にくつきり黒く浮んで居る彼の伸び伸びした姿態は少からず絵画的であつた。
 『うむ、大学への受験準備もあるんだし……』
 ポロ/\のマントを着、顎が角張つて、眉の素晴しく太い生徒が憮然と答へた。山崎である。
 彼等は文科二年の或るクラスの実行委員に選ばれて、今迄学校に残り色んな仕事をやつて居たのだ
た。吉野も山崎も此のP市の生れで、クラスの者の信任は非常に厚かつた。吉野はP製材会社の社長の一人息子だつた。反逆的な詩を作つて居た。語学は天才的と言つてよい程よく出来た。山崎は苦労人でとほつて居た。現に或る富豪から学資金を貸与され、辛うじて通学して居る有様だつた。常に首席だつた。
 『結束が乱れるとすると、三年生からだぜ。とにかく、三年生にしちや、つらい所だね』
 『三年生に限らず、誰にしたつてつらい所さ。意味もなく騒いで、退学され、天晴れ英雄気取りも、見栄えがしないからな』
 山崎はそう言ひながら、道端の雪を、すくひ取つて、うまそうに頬ばつた。
 『ぜんたい僕は、こんな学校騒動の意義がよく判らないのだ。吉野、君はどうだ』
 『いやな事を言ふね。それ位の事は覚えておいてもいゝぜ。ほら、色々有るぢやないか……』
 山崎に負けないでグン/\大股に街の方へ歩きながら吉野は、例のピン/\した口調で吐き散らして行つた―学校騒動の意義……――或る支配階級に対する示威運動。国家の学校経営に於ける内部機構暴露。即ち学校は結局何と結びついて居るかを、対外的には社会一般に訴へ、対内的には意識の低い生徒に実践で以て教へる。……
 『………何だか君の話を聞いて居ると、学生はこんなストライキで階級的に救はれるといふやうな気もして来るな。現代の学生層は併し、まづまづ例外なく没落するんだけどな』
 『救はれるとは思はんさ。勿論僕だつて、資本主義第三期の此の憂世に生れた進歩的なインテリは、無産階級運動の人身御供に、人柱に、立つ覚悟でなくちやいけないといふ事位は考へてるさ。だから
学校騒動もそれ自体が尊いのではない、それは、やがて、何に結びつくか……』
 『だからさ、君の今並べたてた数々の条項は、成程公式の上では無産階級運動に結びつく性質のものだ。だが実際の形として現はれるものは、………進歩的学生大衆の英雄主義の恰好な捌ロ(はけぐち)。よくいつて集団的行動の訓練獲得……ルンペン群へハツキリした意識と方向を持たせる契機となる……。どれもこれも階級闘争には観念的にしか結びついて居ないぢやないか』
 山崎は農夫の子だつた。
 『併し君、そんな考へは誤つて居ると思ふ。学生は学生として、其の日常生活に於いて、どうせブルジョア民主主義にだが、許されるだけの自由なり何なりをドシドシ闘ひとつて、我々の生活をより合理的なものとなして置くべきであり、その事がやがて……』
 『よし、判つた。ぢや先づ、今の此の場合、例の校友会自治権確立の為に一騒動起しても、あながち無意義ではないのだな』
 『そうさ。だが、自治権と言つた所で、どうせ自由主義的な意味に於てのそれだけれど。兎に角、僕は闘つて見るぞ。なアに糞!負けるものか。全力を尽して頑張つて見るんだ。君もやるだらう?』
 『やるとも!』
 霧はいよいよ深く成つた。ちらりほらり細い雪迄降つて来た。二人はマントを頭からスツポリ被つた。
 もう明るい商店街に入つて居た。
 『おい、ぢや今晩君んとこに迎ひに行つてやるよ』
 吉野はあたりをはゞかるやうに声をひそめて言つた。
 『あゝ、其の途中で誘つて来る人を忘れちやいけないぜ。君は僕もいれて四人の所へ迎ひに行くんだぜ』 『そうだ。今晩は大変だね。余つぽど晩く迄かゝるだらうな』
 『そうだらう。それに特高のスパイはもとより、学校派のものなんかにも邪魔されないやうに注意しなくちやならんし………』
 今夜の生徒大会準備会の話だつた。
 『校長派も馬鹿には出来ないねえ。僕はつくづく思つたんだが、今日の僕達の方のクラス会でねえ、れで瀧光が出席してたら或ひは校長派にクラス会は目茶苦茶にやられたのかも知れないのだぜ』
 『瀧光は何せ、校長と一緒に殆ど毎日芸者遊(ジンゲルアップ)をやつてたんだそうだから、先づ以て、最も旗色鮮明な校長は、いや学校派だな』
 『本当に今日あいつア欠席してたんで助かつたよ』
 『よし出席してたつて、恐るるには足らんさ。でも、あいつ、いい頭を持つてるんだがなあ』
 『全く凄いんだ。あいつは、今に学校派を牛耳るだらうね』
 『校長派、幹部派、穏健派、そろつて一丸となり、ここに学校軍なるモンスターが編成されたわけだ』
 二人はふふんと無邪気に笑つた。と同時に、――今しも角のカフヱーからふらり/\と幽霊見たいに出て来る生徒。山崎も吉野も、ギヨツとしたらしく、怪しく息をはづませた。其の生徒は併し、二人の方は見向きもせず、酒臭い息をぷんぷんさせて、蹌踉とすれ違つて行く。蒼白い顔色。高い鼻。切れの長い鋭い眼。長い漆黒の髪。帽子をかぶらず、其のヒヨロヒヨロ高い身体に長いマントをぞろりとひつかけて居た。慄然(ぞっ)とする程妖艶だつた。霧の中をふらりふらりと泳いで居た。
 二人は瀧光が霧の中に消えて行くのを見とどける迄は、全く呆然として居た。
 『凄いね。アルコール中毒ぢやないかな』
 『あの野郎、呑めば呑む程蒼くなりあがる』
 二人は又歩き出した。今度は二人とも黙つて居た。山崎は、かの妖魔、瀧光と自分との一騎打が、近き将来に於いて必ず起る事を予想して独り心を躍らせて居た。
 吉野は併し、全然ちがつたことを考へて居た。彼は、今朝講堂に於て父の惨めな謝罪の言葉を、生徒として静かに聞いて居た校長の息子、久保木の生きて居る人とも思はれぬ蒼い顔を………。

    三、夜明け迄

 ひどい風だつた。ひとしきり雨戸をガタガタゆるがせると今度は粉雪がさらさらと心細く雨戸を撫でつける。此頃の時節には珍しい寒気だつた。その部屋は殊に寒かつた。襖も障子も穴だらけだつた。五六人の生徒が、小さな火鉢を囲んで、酒をのんで居る。酒でも呑まなけれあ、やり切れない寒さだつた。
 『おらア癪にさわつて堪らん。今日のあの校長に対するあいつらの態度はなんだ。どろぼうとは何だ。
 どんな悪い事をしたか知れないけれど、現在昨日迄我々を教へて下さつた校長ぢやないか。あんまりものを知らな過ぎる。おらア、あの時には、あいつらを一人一人ぶんなぐつてやらうかと思つたぜ。校長だつて悪いと思ふたればこそ、あゝして潔く辞職もし、恥をしのんで教へ子に謝罪迄したんぢやないか。それに………おらアお世話に成つたから言ふんぢやねえが、校長はそれアいい人なんだぜ。おらアこう思つてるんだ、あんな人情深い方だから、こいつア誰か困つて居る者に頼まれて、ちよつと一時融通してやつたのが、運悪く見つかつたのだ、とな。きつとそうだぜ。あゝ、えらいもんだ。見かつた以上は自分一人で総ての罪を引き受ける。えらいもんだな。第一、おい、二万円も平気で消費する。其の肝の大きさがいいぢやねえか。うむ、えらい!』
 ドン・キホーテ佐賀であつた。独りで感心して居た。彼は余程酔うて居るらしかつた。彼の封建的英雄主義は、彼を駈つて暴力団の団長に迄堕落させた。彼は常に危険思想の驕暴を真底から怒つて居た。そして其の憤怒が爆発する都度暴力をふるつた。それ故彼は、彼の一味のものには畏敬さへされて居た。
 『こらツ。菊池。貴様さつきから少しも呑まんぞ。呑めえ』
 帝王の如き態度であつた。菊池は思はず苦笑した。菊池は総務部委員だつた。彼は他の五人の委員と共に学校の対世間的名誉の為に最も尽した。彼等はその名誉の為、之を一般に発表する事を躊躇した。ごく内輪の事件として取扱ひたかつた。併し此の事件が意外にも眼にもとまらぬ速さで、スルスルスルと各方面に伸びて行つた。之には面喰つた。該事件の進展拡大の所謂必然性を見通し得なかつたところが彼等の失策だつた。かくして生徒大衆との対立を余儀なくされ、明日の生徒大会には彼等の不信任案が提出されることは火を見るより明らかと成つた。彼等六名は今ここに集つて居る。
 『小児病にも困るなあ。自治権確立といつた所で、お前等に一から十迄任せ切りに任せる。さあやれ、と言はれたら、却つてあいつらべそを掻くにきまつてる。子供には何が出来るんだ』
 暗い調子で加藤が言つた。加藤は最高点で当選した委員だつた。

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 『そうだ、子供には何が出来るんだ。土董、子供の癖にしやがつて生意気だ!』

 又佐賀だつた。加藤はうるさそうに、之に合槌をうちながら他の委員に向つて話をつづけた。

『それにねえ0もう一過間もすれア学年試験なんだらう。殊に三年生なんかは、受験のこともあるし、

とても著しいんだょ。それア其の身に成つて見なくちや判らんょ。明日若しも生徒大倉をやつて、そ

こで決議した事項がはねつけられたら、キツト、無茶な事をし出かすだらうし…:・』

 ピユーとR山鹿が障子の破れ目から入つて来る。電燈が時々たょりなげに明滅する。

『時が悪い! 今騒がなくつても出来る事だ。事件の真相なんか、今の所、学枚官局にだつてはつき

り刺つて居ないのだ』

 憂鬱な顔をした委員が、そうきめつけた。菊池は心中悶々として居た。彼は正しい事をなして来た

                           ひけ

積りだつた。正しきを愛す鮎に於いては誰にだつて負は取らぬ積りだつた。しかも彼は今、反生徒的

立場に立つて居る。生徒大衆が正しいのか、それとも彼自身が正しいのか。正しい立場はいつでも一

つしかないのだ。

『そうすると、僕達は一饅どういふ事になるんだらう?』

 菊池は思はず哀れつぼい饗を出した。

学 生 群

『どう成る.つて、僕達の始めからつくして衆た所を徹底させるに努める許りさ。目下の急務は小児病

の狂躁をなだめることだ』

『そうだ! 加藤えらい。菊池列つたか。つまり、むづかる嬰鬼をうまくあやすのぢやな』

 佐賀はもう泥酔して居た。ごろりと横に成ると直ぐ嬰兄のやうにスヤスヤと眠つた。

『そんな謬で我々は今後も反生徒的立場を持績せざるを得ないだらう。明日の生徒大倉開催の件にし

ろ、我々は之をあく迄妨著せねばならないのだ。丁度今頃は、彼等も其の準備合をどこかで秘密にや

つて居る筈だ』

 加藤は興奮の為、両眼を怪しく輝かせて居た。

『之から直ぐ皆で妨害しに行かう!』

 もう腰を浮す気の早い委員もあつた。

『まあ、待て、もう少したつたら我々の同志の者が多勢ここに来る事に成つて居るのだ。もう十時だ

ね』

陰惨な緊張がジンワリ皆の胸に喰ひ込んだ。加藤は、部屋のほの暗い隅に先刻からマントをかぶつ

 ヽ ヽ

てふて痩をして居る一人の生徒をゆり起した。

『それから、今、君達に我々の良き指導者を紹介する』

 寝て居た生徒はむつくり頭を撞げた。瀧光であつた。

 

 十一時。

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瀧光を中央にして彼等こ味二十人程が車座になつて坐つて居る。佐賀はまだ眠つて居た。

『皆、集りましたか○こうした立場をとるに至つた原因はそれぞれ異つて居るかも知れませんが、或

る鮎に於いては我々の利薯関係が一致して居ると思ひます0我々の態度が正しいか、又は彼等の態度

が官然か、今は其れを論じて居る場合でないと思ふのです』

瀧光はまだ寝たりなそうに眼を半分閉ぢたま〜、もの憂げにのろのろ言うた。

『今晩はとにかく、彼等の生徒大倉開催を不可能ならしめるのに努力すればいいのです』

『そうだ0世間知らずのお金持の坊ちヰん達が、たゞ騒ぎが面白い許りに人の迷惑も考へずにワイワ

イ叫んで居る0質際、生徒大倉なんかやつて、寧校から虞罰されたら、どうする積りだ。あいつらの

方は学校を迫ひ出されても一向構はないだらうが、こちら見たいな貧乏人は困る』

 牧野の蒼黒い萎れた蔚の牛面が、暗い電燈に照らされて、攣に厳粛に見えた。彼は山崎とクラスの

首席を争つて過度の勉強の結果、気が狂つた事のある生徒だつた0瀧光は獣つて冷たく牧野の顛を眺

めて居た0牧野は、その上結核で、どうせ長い事はないのだつた。

『彼等が今、どこで準備合を開いて居るか、其れを第一に知りたいのです。で、之から皆で手わけし

て探すのです0苦行委員三〇名、別に各クラスの級長が三〇名、校友合の各部から一名づつ、たしか

之だけ出席して居る筈ですから、飴程大きな部屋のある↑宿でなくつちや集れまいと思ふのです。其

の鮎を心掛けてお探しに成つたらいいでせう0まさか料理屋等で開きはしないでせう』

『それ程捌けて居れアいいんだけど、なにせ生え抜きのピューリタン許りだ』

        しやがん

 暴力圃らしい満願の男がそう言つて杢虚な豪傑笑ひをした後は前よりも一層ひつそりした鬼気が此

322

の部屋一杯にみなぎつた。

『ぢや、今から、捜査網の手わけをきめます』

 十二時。

 いょいょ塞さがつのつた。火のかんかんと起つて居る火鉢を挟んだ瀧光と加藤とを除いては皆雪を

白々と眉や頭にのせながら、立つたま1ぶるぶる震へて居た。なんとなく、ものものしかつた。

『なる程ね。河竹君の下宿なら、それ位の廣い部屋があるでせう。いや御苦労。塞かつたでせう。さ

あ、皆こつちへ寄つて温つて下さい。今、鍋焼が来る筈です。それでも食つて皆一寝入りして下さ

い』

『あつちがへ−ヘトに成るのを、英気を養ひながら待つて居るのさ。それからイクサだ』

 加藤はいつに無くハシャイだ馨を出した。

 佐賀は何事かと言ふやうな顔で、ねぼけながら起き掛けた。

学 生 群

一時。

『せつかく眠つてる所をお気の毒です。ではこれから第一段の仕事に取りかからうと思ひます。菊池

君、君はもと政令科挙をやつた事が御座いましたね。ひとつ彼等をアヂつて下さい。え1、そうです。

表の通り迄聞えるやうに高い馨で議論するんです。大いに脱線させるんです。もうお判りでせう。

え〜、そうです。あとはこつちで巧く手配りして置きます。君一人で行きますか。誰か喧嘩の強い人

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を連れて行つたらいいでせう。佐賀君、君行つて下さい。若い者同志には、何と言つても腕力が一番

手軽で、おまけにききめのある武器ですから』

324

 二時。

 菊池と佐賀との行動を更に監現に行つた三人の生徒のうち、一人が辟つて来た。瀧光一人、長い両

脚をぞろつと前に投げ出し、床の間によりかかつて坐りながら茶呑茶碗で冷酒をのんで居た。他のも

のは皆、蛇のやうにぞろぞろ寝ころんで居た。

『上出来だ。菊池はあんな真面目な奴だから奴等すつかり信じたらしいな。佐賀は駄目だつた。だけ

ど、あの部屋の窓の外に、こつそり隠れて居るんだ。菊池は中の模様を紙に書いて窓から投げて寄こ

す事に成つて居る。菊池はもう、すつかり改宗した入らしい態度を執つて居るらしいんだ』

『そうですか、で、其の合合に大林つて人が出て居ますか↑ 大林……』

『あ1、佐賀が言つてたよ。大林が居る、あいつは手剛い、なんて』

『そうですか』

 瀧光は轢い眼を始めて異様に輝かした。

『君、交番のある所を知りませんか』

三時。

瀧光は居なかつた。二三人起きて居た。火鉢をかこんで、ヒソヒソ謡をして居る。

 風もやんだか、雨戸はカタとも動かぬ。何におびえてか、犬の遠吠えが幽かに聞える。しんしんと

身饅の底から塞かつた。凄い程陰気であつた。

『準備合の奴等、恐ろしいエネルギーだね。徹夜を覚悟してるらしいな。疲れないもんかね』

『不死身だな。一文の得にも成らない事であんなに苦心してるんだから、よつぼどの物好き許りさ』

『さつき停電した時なんか、蝋燭をつけてやつてたそうぢやないか。ひどいもんだね。もう人間わざ

ぢやないね』

『まあ、なんでもいいさ、今に吠え面かくな、だ。瀧光がどこに行つたのか、御存じあるまい?』

学 生 群

 四時。

『チ、チキシヤウ! 裏切りやがつた。いくら待つても中から、ウンともスンとも言つて来ねえから、

訝しいと思つて、あの塞いのによ。何時間も窓の下に頑張つてたら、あのほら、何て言つたつけな、

ちよいといい男で、あ1、そうだ吉野よ、あいつに見つけられて部屋の中に引つぱり込まれたんだ。

                                                                 ヽ ヽ

菊池の野郎、俺の隠れてるのを知らせやがつたんだ。畜生! 覚えて居やがれ。アヂるもくそもある

ものか。あの部屋はひつそり閑として、人が居るか居ねえか判らん位だつた。私服らしい攣な男があ

の遽をまごまごして居たが、あんなに静かぢや気の附く筈はねえ。なあに、こうなれア、戸障子、ぶ

ちこはせ、だ。生徒大倉で思ひ切りあばれてやるだけだ!』

 佐賀は凍えかかつたマントを力一杯畳に投げつけ、歯の頼も合はぬ程ガタガタふるへながら、眼を

むき出して、吸鳴つて居た。皆目をさました。併し眠たくて、怒るのが億劫だつた。

32S

『それからどうしたんだい』

『しかたが無い、謝つて来たさ』

クスクス笑ふ者さへあつた。

瀧光は静かに眼をとぢて、眠つたふりをして居た。

『でも殴られアしなかつたらう』

   ね ぼ け

誰かが寝呆気饗で尋ねた。佐賀は恰然と答へた。

『いや、いつそ殴られた方がょかつた。なんだか知らぬが、殴られるより辛かつたょ』

326

 朝!

       まどろみ

 瀧光は苦しい仮睡から覚めた。

 佐賀一人だけ残つて居た。グツスリ眠つて居る。瀧光は立つて雨戸をあけた。しらじらと夜があけ

かけて居た。生徒大倉の朝は素晴しくいい天気だつた!

   四、生徒大倉

 

そうした一夜を経、生徒大倉は今や辛うじてひらくを得た。

一、事件真相の儀表。

学 生 群

  二、・尊校首局の貴任を問ふ。

   (総務部並びに関係職員の貴任を閏ふ)

  三、校友合自治権の確立。

  四、学年試験の延期。

 

 生徒柊所の白壁に、今日の決議文の原案が高く姫られた。素張しく大きな紙に暴くろぐろと書かれ

て居た。其の日の授業も朝から拒香した生徒大衆は、貴行委員の指揮で、それぞれの教室から績々と

合場へ乗り込んだ。

 貴行委員三十名のうちから、更に今日の司令者十名が選ばれ、場内の整理や議事の進行に専心して

居た。

・定刻の入時牛。

 合場には早くも牢乎不抜の或る気韻が感ぜられた。此の気韻。之は脈々と生きて居る。『こゝでこ

そ我等の問題を議する事が出来るのだ。こ1でこそ我等の権利を主張する事が出来るのだ』 − そん

                         ヽ ヽ ヽ

な感慨が、仝生徒の腹の底から、ぢりつと込みあげた。

 此の日の議長がピンポン茎の演壇に上つた。眼の大きい小柄な生徒だつた。

『小早川たのむ!』

『生徒大衆の代将をして呉れツ』

『遠慮するなょ』

32ア

 所謂資本主義崩壊期の此の婆婆に、不幸、清純な血を持つて生れた若い者。彼等生徒が、其の正義

感を煽りつけ、其の心臓を沸き立たせるのは、こんな場合にであつた。

 生徒達は懸命に馨授を輿へるのであつた。

 − なんと言ふたのもしさ! 僕の身鰹は、皆のものだ。皆を信じ、皆と共に動く。それだけだ。

見ろ! 皆は僕を助けて呉れる。

 小早川は男泣きに泣きたかつた。

 彼は理科の三年生だ。常から無口で内気な男だつたが、親友大林なんどからも勤められ、のるかそ

るか、放校もとより覚悟の上で、今度の大役を買つて出たのだ。

『諸君…=・』

 彼は悲痛な饗をふりしぼつた。

 其の一部分を××ニュースにさへ再録された程のあの有名な燃ゆるが如きアヂテーションが、此の

時、小早川に依つて見ん事やつてのけられた。

 績いて今日の議案四項を、各提案者が、こもごも立つて熱心に説明した。

一、事件真相の儀表

 − もともと、二高潮の金は我々仝生徒のものなのだ。しかも之は校友合費だ。授業料や何かとは、

どだい、性質が達ふ。それがそつくり盗まれた。誰に? 何時? 何故? なんにも知らない。盗ま

               べらぼう           おもてむき    ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ

れた常人が知らないのだ。こんな篤棒な話があるか。成る程、表向は校長が、一身上の都合から、無

                                なつとく

断滑費した事になつて居る。だが、そんな好い加減の言ひ逃れで納得がゆくか。『まあ、いい子だか

328

学 生 群

ら、おぢさんのした事、歎つてるんだよ』と言つたやうな心持で我々を舐めて居るのが容赦出来るか。

我々はもう子供でない。十年も其の飴も学問したのは、こんな事に瞞されまい為にだ。そもそも之は

                               いつとき

枚長一人の仕業か。賭又、二三教授が示し合せての醜行か。一時に二萬固持ち出したのか。ちぴちぴ

使ひ込んだとしたら其れは何時頃からの事か。ぜんたい何に使つたのだ。遊蕩費か。それとも某新開

の報ずるが如く校長の義兄に官る某政治家の為の選挙費か。疑へばはてしが無い。あの教授も校長の

経済的扶助を得て居たそうだ。この書記も校長と一緒に遊蕩して居たそうだ。いやいや、全部だ。寧

枚の職員全部が怪しい。君は見たか、学枚の正門に小気味よくも誰やらの架書。自チョークで大きく

伏魔殿。笑ひごとでは無い! そんなに尿はれて居る教授速から第一授業が受けられるか。学校嘗局

は直ちに全職員の名に於て此の事件の真相、それに加へて各職員の身の潔白を著明して貰ひたい。そ

れがお互ひの為、即ちP高の為と云ふものである。我々のP高を愛するの念が強ければ強い程、此の

要求も一層切費になつて来る筈である。敢へて間ふ、一饅学校職員はP高を愛して居るのか。P高六

百の生徒の此の不安、疑心をも更に意としないのか!

 二、学校官局の費任を問ふ

 第一項の要求は必ずやすやすと受容されるに達ひない。何となれば職員達は勿論、彼等も亦P高を

愛して居る由を述ぺるにきまつて居る。そうして、P高は現在六首の生徒の為のものであつて見れば、

其の生徒達の真面目なしかも極めて官然な此の要求をなんで拒絶するものか。つまり職員達は此の事

件に就いてそれぞれ自分の知つて居る範囲だけを遽ぺ、其の身の清廉を澄せばそれでょいのだ。こん

な呆気ない要求も少い。真相さへ明らかになれば、もうい1。不愉快な疑ひは全部カラリと晴れる。

329

あとに残るのはたゞ、此の事件を煮き起させた責任者の問題だけだ。何と言つても、二萬固からの大

金を生徒から預つて、それをケロリと盗まれたのは総務部の手ぬかりであり、失態である。又総務部

のみでなく、常に校長と私的の交際もあり、其の秘書の如き役目をなして居る其々の如き二三職員達

は、此度の校長の行動にだけは、まるつきり菊が附かなかつたとは言はれまい。よし、言つても其の

1ノ かつ

迂潤さの費迄は逃れられまい0即ち兵鰹的には、総務部並びに関係職員の責任を問ふ1

330

三、枚友禽自治権の確立

’ ぞうむ ぞう

最も根本的な要求は之である0今回の不群事はどうして起り得たか。すぺて世に行はれる有象無象

の罪意、例へば、殺人、搾取、強姦、産業合理化等の罪悪を其の犯人の個性に結びつけてのみ考へる

のはょくないやうだ0其の悪人の躍づて居る時代0其の悪事を被ふ杜合全般の制度。それらから割り

出して鮮繹すぺきだ0此のP高の事件も、単に校長の盗癖といふ個性に結びつけるぺきでは無い。た

とひ盲人の泥棒が居たつて、一本の塵さへ盗まれぬやうなガツチリした校友合を組織すればいいのだ。

校友曾の規約は今や根こそぎ改革されねばならぬ0それには先づ、校友合の自治権を確立しろ。自分

達の校友合だ0忘ら十迄自分達の手でやらねば嵯だ0小学校時代から我々が何千同となく開かされ

                                          よろづ

た修身の教訓は何であつたか0『自分の事は自分でせょ!』可笑しい話ではないか。萬の物事の道理

は、逆に生徒の方から先生へ敦へる世の中になつたぞ1

 四、学年試験の延期

 此の要求は二番はつきりして居る0とにかくもう四五日で寧年試験が始るのだ。冗談ではない。人

                               わ け

生のうちで最もものに感じ易い年頃の、此の我々若い生徒達を、理由もなく仰天させて置きながら、

『落ち附け、・・試験をやる』はどう考へても無茶である。試験は首然来季年迄延期0したがつて三年生

は無試験卒業。もともと官局が生徒の身も魂もでんぐり返すやうな事件を着き起したのが悪いのだ0

                           かた

其の窮味につけ込む心は毛頭ないが、此の事件一切の型が附く迄試験には應じたくないのだ0言ふ所

           かたわれ

の『伏魔殿』で、泥棒の片割ではないかと疑られて居るやうな教授達から、我々の学力を試される0

それ程潔癖な生徒でなくても之は嫌な事だ。

学 生 群

 長髪で顔の青白い青年が彼の議案提出の理由を績々と述べて居る。秀才の噂高い濁文科の生徒だつ

た0

『:::諸君のうちの或る少数者は密かに眉をひそめて居るであらう。何といふ無祀者ばかりであらう0

前の提案者三人の説明と言ひ、又かく言ふ僕自身の態度と言ひ、教授達をつかまへて、罪人扱ひは何

事である。生徒は学校の命令通り動いて居ればそれでいいのだ0学校に反抗するなぞ、身の程も知ら

ぬ無稽者である。と。こう慣つて居る者も確かにあるのを知つて居る。ならば我々はその者に聞かう、

一饅我々をそんな無稽者にしたのは誰だ〓』

満場の吠えるやうな拍手裡に各提案者の説明が済んだ0議長小早川はその提案の賛香を廣く生徒大

 たゞ         もちまへ

衆に質さうと静かに登壇した。持前の悍鋭な調子で口を切つた。

『さて、諸君よ……』

 突如! 入口の方にあたつて時ならぬ喚饗。口々に何かわめいて、高足駄の音を轟々と響かせなが

ら、議長の演壇目がけて飛んで来る一国。言ふ迄もない、佐賀とその子分ども0

331

 生徒主事室では大野教授が肘掛椅子に其の短姫を深々と沈ませて先刻から総務部委員の加藤の詩を

聞いて居た。天気がいいから、軒下では小鳥が、ほんとに陽気に噂つて居た。ストーブの石茨が、と

           の ど か

ろとろ燃えて居る棟も長閑だつた。生徒大倉のワアツワアツと言ふ叫び饗も、こ、からは不思議にの

んびり開くことが出来た。

『…:・そんな詳で、総務部が二汲に分れたのです。つまり、あく迄我々の最初の意志の貫徹に、轟そ

うぢやないかと言ふものと、もう一渡は、1早く言へば日和見ですな。今も生徒大倉に出席して、

皆と一緒にあゝやつて騒いで居るんですが…:・。まあ、其んなエ合に分裂しちやつたのです。で、も

う、こう成つた以上は、我々の同志が未だ私も入れて四人程残つて居ますし、其れに先生も:…・』

『おい、念の為に断つて置くがね、わしは本来、一致授に過ぎんのだよ。絶務部の部長といふのは、

                                                         ヽ ヽ

たゞ一時委嘱されただけのものなのだ。いいかね。それを、今の話だけど、まるでわしを君達と一緒

に、まあ言つて見れば、奈落の底迄も造づれにしやうと=‥=』

 『そ、そんな馬鹿な…=・』

 さすが温厚な加藤もカツとした。

『いや、これはわしの言ひやうが悪かつた。ともかくだね、わしは今迄総務部長の立場許りを偶重し

て居たのは間違つてると思ふのだ。君は知つてるだらうな。生徒達のあの無智な馬鹿々々しい反逆も

賓は、私達教授に向けられて居るものでなくて、其の教授達を傭ひ入れ、あやつつて居る或る大きな

権力に封してであると言ふ事位はな。わしには其の権力の命じた教授としての立場、又生徒主事とし

ての立場もあるんだからな、大人気ない此んな騒ぎの渦中に矢鰐入りたくないものだ』

332

学 生 群

『ひきや}です、先生!』

『君、もちつと口をつゝしみ給へ。僕は僕の命じられた義務を遂行して居るのだ。卑怯な事は少しも

無いぢやないか、なあ』

『=…・そうですか』

 加藤は涙も出なかつた。ぐつと顔を上げたら大野教授の視線とガツチリ合つた。憐怒の情を求めや

ぅと必死になつて居る其の卑屈な睦の中に、彼は一切の事情を察した。成る程、之が教授といふもの

         lノなだ

か。又がつくりと項垂れた。=…・

 ガタンと屏が勢よく跳ねかへつたかと思ふと、あわたゞしく一人の若い書記が入つて来て、大野教

授の耳元にそつと口を寄せるのだつた。

『先生、今朝程お謡の暴力圏に、只今合場を襲撃させました所、生徒達は之に封して、案の條何の警

戒もなかつた様子で、一時は非常な狼狽振りだつたですが、:::別に何の抵抗も致しませんから、佐

賀君達もシン底から張り合ひ抜けがしたやうにポカンと立つた儀で、……何か暴動でも始らねば、例

の手筈の通り警察へ電話を掛けるわけに参りませんし、とにかく、一應私が解散を命じて見ましたけ

れど、なんの効果もなく、仕方がございませんから佐賀君へ例の演説:::』

 加藤は其のヒソヒソ講の途中から、温和しく立ち上つて、満身の勇気を奮ひ、生れて始めて皮肉ら

しいものを言うて見た。

『では、失穏を致します。奥様の御病気をお大切に』

333

『:::いいか、瞞されるんぢやないぞ。最後にもう一遍言つてやる。此度の生徒の騒ぎは、たゞの騒

ぎぢやない! 正義仁道の心から出たものぢやないのだ。いいか、マルクス主義。これだ。一部過激

思想家の煽動にうまうまと乗り、群集心理なるものに支配されて、たゞ其の場限りの感激に燃え悔を

百年に残すやうな事をしちやいけないぞ。僕達は幸運にも之を見ぬく事を得た』

『だから、一人宛五園づつ貰つた!』

 胸のすくやうな痛烈極る野次だつた。皆どつと笑つた。事賓佐賀一味の者は学枚から金を貰つたと

いふ噂があつたのだ。いち速くピンポン董を占領し、堂々と今迄生徒大衆に向つて訓辞を輿へて居た

                                 なめくぢ    てい

佐賀も、之には参つた。学純な男だつたのだ。惨めにも堕に滑え入る崎瞼か何かの態で、それでも何

やら凄い捨茎詞をながながと言ひ残しながら、子分共に守られて意気揚々と退場した。

 此の待ちもうけない茶番狂言に生徒大衆の気勢がいょいょあがつた。以後議事は滞りなく進行し、

遽に満場一致で原案通りの決議文を作製し、今日の司令者十名が交渉委員となり、大野総務部長に之

を手交することとなつた。拍手と蟹援とで、此の十名の交渉委員を迭り出した後、皆は其の吉報をし

きりと心待ちに待ちながら、交るく立つて激励演説をやつたのだつた。皆若かつた。彼等の今の此

の行動はどんな歴史的な役割を果すか。小さいものであらう。併し、かの、より大きな役割への、何

といふ挿しいスタートであらう。彼等は今、若者の味はひ得る最大の感激に打たれて居る。無茶と言

ふ者もあるであらう。浅慮と言ふ者もあるであらう。だが、だが、彼等は今こそ一鮎の恥る所なき、

囲憶的な闘ひを、生れて始めてやつて見るのだ。彼等は、始めて友を同志と、誰はゞかる事なく呼ぺ

るのだ。同志! 何といふ挿しい響を持つて居る事か。固く結ばう、同志よ。

334

 手を鐘り合つて、クンタン泣いて居る生徒達もあつた。…:・

 とかくするうちに交渉委員が辟つて爽たのだ。恐ろしい緊張が生徒大衆の胸に迫つた0小早川はぎ

らぎら浜にうるんだ眼をして居た。低い、痛々しい饗であつた。

『諸君、何と言ふ事だ。我々の決議文は、我々の真情を吐露したるかの決議文は、一瞥も輿へられず

大野教授の手に依つてストーブに投げ込まれたのだ。今や彼等の心底は曝露された0諸君! 我々は

これに封していかなる手段を執るべきであるか。…=・』

   せき

 満場寂として饗なく、厳粛な沈獣のうちに生徒大衆は、各々其の心に悲痛な決心を固めて居た0

 かくして同盟休校の幕は切つて落された。

 決議文には『犠牲者を出さざる事』の一項が更に書き加へられた。

五、彼

学 生 群

     (A) 家(ストライキ第一日)

 昨日の準備合で、一睡もしなかつた吉野は、生徒大倉から辟るや香や死んだやうに床の中へぶつた

ほれた。昏々と泥見たいに眠つて居た。

裏の製材所の汽笛が正午を報じて居るのを夢心地で聞いた。むつくり起きた。

 Iこうしちや居られん。

33S

 歯ブラシを街へながら、ぶらりぶらり裏の工場の方へ歩いて行つた。天気が良くつて、雪の反射が

眼にチカ′く1と痛かつた。極く小さな工場であつたが、それでも職工は五十人近く居た。雪道を難儀

しながら木材積置場迄爽た。高く積んだ木材の上では、男エや女工がキヤツキヤツと笑ひ興じながら

日向ぼつこして居た。童飯後三十分の休み時間だつた。吉野はこんな和束藷々たる風景を好かなかつ

た。彼は我健一杯で育てられた青年である。白と言へば自、黒と言へば黒、常に旗色を徹底させねば

気に入らないらしいのである。現に此んな風景など歯がゆくつてならないのだ。プロレタリア小説な

んかを讃んで見ると、何虞の工場も皆もつともつと陰惨で、職工は轟く理智的であつた。そしてょく

ストライキを起した。それに引きかへ、彼の工場は賓にくだらなかつた。あまりの平凡さに堪忍出来

ず、時々工場へ行つて密かに彼等の反抗心を煽動して見たり等した事もあつたが、結局男工の方から

                                 ヽ ヽ

は怖がられ、女工からは色目を使はれる位がおちであつた。今ぢや彼は、此の工場を日本一の愚劣な

ものだとして、すつかり諦めて了つて居るのだ。

 1お前、低脳なる職工よ。お前はお前の持つて居る最後のもの迄搾取されるであらう。ふと見る

                    ▲あらは

と、一人の女工が木材の上から、脛も露にころ〈樽げ落ちて来るのを男エが大笑ひしながら聞くに

堪えない程猿雑な言葉で嚇しかけて居た。

 吉野は苦々しげにべつと唾を吐いた。

『坊ちやん、寧校はお休みですかい』

 租父の時代からの岩田老職工が馴れ馴れしく近寄つて来て撃を掛けた。

 『いや、ストライキさ』

336

学 生 群

『ほト才〔 とう′′トおやりなさいましたね』

『うむ、やらねばならない時はやるさ』

 倣然と答へた。

『困つた学生さん許りですね』

 老職工はまぶしそうに笑ひ出した。吉野は愈々苦り切つてギユツと歯ブラシをくわへ直した。

『全部、休んぢやつたんですか』

『まあ、そうだ』

『お父さんに叱られあしませんか』

『親爺は、皆がやるんなら仕方が無い、と言つてる』

 吉野は此の職工が、あくまで自分を子供扱ひにして居るのが療でたまらないのだ。いつ逢つても阿

呆見たいにニタくしやアがつて −。

『親爺はでも、積極的な運動ならいかん、と言つてるが滑極的な運動なんかあるものでない』

 此の二人の棟を、多くの男エの中に雑つてキヤツキヤツと巫山戯ながら、鋭くちよいちよい盗み成

して居る職工がある。

 二、三ケ月許り前に此の工場に入つて来た東京生れの男だつた。額が廣く、ひどい髭つらだつた。

『おい君、あそこで岩田さんと話して居る学生さんは、あれ、何だい』

 とう〈傍に居る若い一人の職工に尋ねた。

『あゝ、あれか、社長の坊ちやんさ。−とても頭がいいんだそうだ。時々工場へ来ちや攣な事を言つて

33ア

行くよ。主義者ぢや無いかな。それょか、さ、腕角カ、もう一同だ』

『ょをし来たツ』

 ××労働組合員黒野はカツ然と應じた。

 吉野は、工場から辟つて来て見ると、彼の昨夜の無断外泊の故か父が何時になく横嫌が悪かつた。

又今夜からストライキの績く限り、クラスの者と一緒に寝起きせねばならぬと言つたら、今度は母が

躍起となつて反対した。それをどうやら説き伏せて、ぷん′′\しながら家を出た。

 午後の一時をちよつと過ぎた許りだつた。三時からの資行委員曾には未だ間があつた。こんな不愉

快な時には大林君の所へでも行つて、思ひさま鬱憤を晴してやるのも亦なかく良い思ひ附きである

と考へ、直ちに大林君の下宿へ足を向けた。大林君とは、もう三十に近い、真面目な、随つて学枚で

は持て験してる立汲なマルキシストだつた。枚内のみでなく、P市に於ける進歩的な分子はすぺて彼

を長敬して居た。

 吉野は、雪どけの道をふくれツラしてヂヤブヂヤプ歩きながらも、心は常に六有名の同志の事を考

へて居た。

 『やあ、吉野』

 突然背後から饗をかけられ、驚いて振り返つて見たら、薄ぎたないょぼノトの裸馬に、正服正帽で

跨つて居る山崎が、恥しそうに笑つて居た。

 『なんだい、それあ』

338

学 生 群

               ヽ ヽ

 言つて了つてからはつと思つた。

      ヽ ヽ ヽ

『田圃にこやしを運んで居るんだ』

 山崎は併し平気だ。彼の父は小作人だつた。

『もう行くのかい↑ あれに』

 山崎はいょ〈快活に馬の上から開いた。

                  一−

『あ、、三時にはまだ少し間があるけど、途中で大林君の所へ寄つて行かうと思つてね』

 吉野にはなぜか山崎の顔が眩しかつた。

           ヽ ヽ ヽ

『僕はもう一同こやしを運んでから行かう。それからでも遅くないな』

『あ1、大丈夫だとも』

 吉野は肥料の臭味をぢつと堪へながら馬と並んであゆんだ。

 ふと見ると向ふから、如何にも貧相な恰好をした一人の生徒が、身佳よりも大きいやうな風呂敷包

を背負ひながら、よちく歩いて来た。

『やあ、引つ越しかい』

 山崎は晴やかな饗を出した。

『えへ〜〜11』

 その生徒は卑しく笑つて、其の儀擦れ違つて行つた。

『攣な奴だね。知つてるの?』

 吉野はこつそり馬の腹に囁いた。

339

『あゝ、細谷つて理科のやつだ。仕様の無い放蕩兄よ』

『細谷…=・』

                    ヽ ヽ ヽ

『吉野、ぢやね、僕もう一度こやしを運んでから行くぞ。しつけい』

 言ひのこしながら、手のひらで馬の尻をピシャツくと二度程叩いて其の痩馬をたツたツたツと駈

けさせた。

340

 1こうして居る間でも、ストライキは不断の進歩をなして居る。

 細谷は重い包にふらノ〜しながら、そう大袈裟に心の中で呟いた。なんといふ小気味よい衝動を彼

は今日受けた事であらう。それは、彼の今迄、夢想だもしなかつた新しい感情であつた。生徒大倉な

んて何を子供達が、と始めから嘲笑的な気持でかかつて居た。くだらんとは思ひつつ、それでも御都

合主義的な汝滑さから、ニヤ〈しながら大倉へ、ちよいと混つて見て、1気も心も仰天した。何

ょりも先づ、其の健康さに打たれた。そして自分の嘲笑の心も結局はかの暴力圃の狂態と、五十歩古

歩であつたことを蜃見するに至つて、全くぺしやんこに参つて了つた。ストライキを決議して下宿に

辟つてからも、盛にぷるく震えて居た。

                                    すゐ

 1素晴しいものだ。あの新鮮な情熱はどうだ。へ〜ん、放蕩がなんだ。粋がなんでえ!

          の れ ん

 彼はばつと質屋の暖簾をはじいた。

 五十囲は大丈夫と思つて居たのが、たつた三十園しか貸して呉れなかつた。

                      むづか

『ょそ様にお持ち込みになりましたら二十囲も難しからうと存じますんですが、毎度のお馴染でもあ

学 生 群

り…=占・、

『ょし、ノ1』

          たく

 細谷は此の主人の企まざる椰捻に少からず自尊心を傷けられ、一刻も早く此の場から逃れたいと思

つたのだ。

『ぢや、三十園でおょろしうございますね。はい、承知致しました。どうも寧校ぢや、大挙な騒ぎら

しうございますな。さぞお急しいことで…………』

 話ここに至つては、もう蹄る事が出来なかつた。細谷は浮しかけた腰を又悠然とおちつけた。

『今朝ストライキを決議したんだ』

『ストライキをね』

 主人のビクともしなかつたのが、惰らしかつた。

『そうだ。併し此のストライキたるや、僕達が面白牛分にやつて居るのとは詳が達ふ。此のストライ

キには、色んな方面から見て、誠に重大な意義がある。先づ第一には従来のブルジョア教育への反抗、

第二には学園に於ける進歩思想と反動思想との衝突、第三には……=…・』

 ハツと菊が附いた。……質屋で演説。いや之は容易ならぬ醜態である。彼はハラ〈と落葉の如く

退却した。

 途中細谷は、清元のお師匠の家へ寄つて、ストライキの魚、首分お稽古を休まねばならぬことを語

り、下宿に辟つてから、彼の故郷、大阪に居る小蔦への手紙を書いた。そもノ(1小蔦といふのは、彼

が大阪の浪人時代に馴れそめて、今では野暮な約束さへ交して居る奉者の事だつた。どうせ三流どこ

341

の不見挿だつた。

 三十園迭る。あとの二十園は、も少し待て、と書いた。我々のストライキは・==・と書きたかつたが、

質屋の醜態を繰り返すのを恐れて之は見合せた。

 次に父親あてに、こんどは安心して細々と、ストライキに至る迄の経過、績いて之に封する自分の

感想を述ぺ、常に深重な態度をとり、無茶な行動は決してせぬ事を約して筆を結び、更に、序でなが

らといふやうな口調で二十囲の金がさし官つて入用なる事と、父の健康を折るといふ意味の言葉とを

簡学につけ加へた。

 かくして手紙二本を書き上げたが、細谷等のクラスの集合は午後の六時からだつたし、まだ時間が

うんと鎗つて居た。細谷は其の間、先日木島から借りて来た古ぼけた一筋の本を熱心に食つて讃んだ。

『タールハイマー著、紳澄法的唯物論入門』其の本の表紙にはクッキリとそう書かれて居た。

      (B) 馨  援

 始めは、十人位かなと思つたが、よく見ると、たつた四人だつた。よし、これ位なら相手にしても

負けはせぬ。酒と喧嘩で育つた木島だ。盟休生六有名の為に戦ふのだ。さあ、来い。

 木島はものも言はずにズカノ〜進んだ。

『まあ、まあ、待て。喧嘩しやうといふんぢやない。頼みたい事があるのだ』

 木島の意外にも手剛そうなのを見てか、中の一人が穏かにロを切つた。低いがしんなりと絡みつく

やうな饗だつた。

342

学 生 群

『人にるの・を頼みたいのなら、それ相首な作法がある筈だ。こんな暗がりで、だしぬけに人を取り囲

んで置きながら、今更そんな事を言ひ出すのは卑怯だぞ』

『ょし、よし、剣つた。あやまる。往来で立ち話もなるまい。どつかへ入つてゆつくり話そう』

      はつきhソ

 くらいので明瞭せぬが、大きい域縁の眼鏡を掛け、でつぷり太つた生徒だつた。確か見た事のある

顔だつた。が思ひ出せなかつた。

『俺は今、そんな事をして居られんのだ。急がなくちやならない用があるんだ』

『その急がなくちやならん用の事に就いてなんだ。まあ、歩きながら話さう』

 濁りでのそく歩き出した。木島は重い足どりで不承々々ついて行つた。他の三人も無言で後から

績いて来た。

『君は思ひ達ひして居る。僕達はストライキ側なんだぜ』

 どうも、酷くねつちりした口調だつた。

『嘘つけ。学校側の暴力囲さ』

 木島は躍束になつて叫んだ。

『まあいい。今に判る。それはともかく、君が今クラスの集合所に持つて行かうとして居る本部の指

令に就いてだがね』

 ギヨツとした。

『とんでも無い間違ひがあるんだ。まあ、とにかく入らう』

 そこのカフェーは、合社員らしい若い男の客が一人居るだけで、蒼白い電気の加減もあり、襲にし

343

めつぼかつた。

 ボックスのこつち側には眼鏡と木島。向ひ側には其の子分らしい三人が窮屈そうに並んだ。

『まあ、呑みながらゆつくり話さう。塞くていかん』

 木島は呑むと聞いて、思はずゴクリと囁を鳴らした。そして、うつかりこんな所へ入つて了つたの

を大いに悔んだ。

『いや、今すぐ言つて貰はふ。それに、ストライキ中、酒を呑むことは堅く禁じられて居るぢやない

か』

『指導部の名に於いて、か。まだ君は僕達を疑つて居るやうだね。まあ、しかたが無いさ。今に判る

事だ。お−い、ここへお酒だ。熱くしてだょ』

 眼鏡はいょいょ茫漠たる風貌を示して来た。本島はさつきから居ても立つても居られない気持だつ

た。ストライキ第一夜の緊張し切つた時である。クラスの仲間はどんなに彼を待つて居るだらうと思

へば、もう此の本部からの指令に、どんな重大な間違ひがあらうとも、又は眼鏡に二つ三つ殴られた

つて構はないから、一刻も早く此虞をのがれたかつた。

『其の指令の中に 「決議文の再検討」といふ項がある筈だね』

 ズケリと言つた。

『知らん』

 さあらぬ態を辛じて装ふ事が出来た。

『いや確かに有る筈だ。再検討なんて君、もう既にストライキ側の敗北を意味して居るぢやないか』

344

学 生 群

 これにはムツとした。

『君は一鰹なんだ。何を意味しやうと鎗計なお世話だ』

 併し相手は惰らしくもニヤニヤ笑つて居る。

『再検討なんて、無理な所があれば訂正するつて事なんだらう。そんな馬鹿な話があるか。ストライ

キを始めるか始めないうちに、もう妥協策を考へるなんて謡が。え↑』

『うむ』

 突然木島は、言ひやうの無い不安に襲はれて来た。向ひ側の三人は、こつち側の講なんかには、て

んで興味も無いらしく、何やら別な事をひそひそ話合つて居た。時々クックツタツと笑つたりした。

皆の言葉には共通の攣な靴があつた。一様にひどく老けて居た。白線の帽子も滑稽な程そぐはなかつ

た。酒はまだ来なかつた。

『そうだらう。どうせ決議事項貫徹の為のストライキなんだらう? 此の決議事項が其のま〜容れら

れる迄は、何十日でも何ケ月でもストライキを横行する覚悟なんだらう? 最後の一人になつても戦

ふ意気込みなんだらう? だらし無い人道主義的な闘争に経つちやつまらんからな。そうでもなけり

や、此のストライキは全く無意味だ0第一あんな校長を寄こした、やんごと無い役所の人事行政なん

か、どしどし拒絶しちまへ』

 眼鏡の底から、小さな笑つて居るやうな眠がチラチラ覗く。耳の奇妙にひろがつた女給が、酒を持

つて奥から出て来た。つんつんしながら皆に一杯づつお酌したかと思ふとすぐ勘定董の方へ行つて了

つた。

34S

『僕達は非常にもてぬ。まあいい。君は酒を禁じられて居るのなら呑まぬ方がょからう。僕達だけで

呑む』

 どうも可笑しいアクセントだつた。彼等の呑むのを木島は苦笑しながら眺めて居た。皆よく呑む。

『いいか、列つたね。此の事をすぐ本部、ぢやない指導部に忠告して見たらいいだらう。指導部か。

指導部は良かつたな。そもそも僕は、こんなストニフイキをやつた位で、ひとつぱし革命家気取りは鎗

り賛成出来ないのだが。貴社合は大攣に複雑な機構を持つて居るし、其の改革に就いての理論も通り

一過の書粛的な勉強で、把握出来るものぢやないのだからな。とにかく、今度は大いに戦つて見るさ。

戦つて居るうちに段々刺つて来る。まあ、せいぜい勢の良い所を見せて、何虞かの誰かをうんと脅し

てやるさ』

一饅是は何者であらう。木島は次第に薄気味悪く成つた。眼鏡は矢張りニヤニヤ笑ひながら、ふざ

けるやうな調子で言つた。

『併し、君達の此のストライキを破るものは、結局君達自身ぢやないかな。君達自身の持つて居る或

る種の階級根性ぢやないかな。先づ君達の立場、君達の土董を換へなければ、此のストライキの勝利

346

は凡そ覚束ないね。は〜〜ゝ1』

 もはや此の上嘲弄されて居る必要は無かつた。四人がドット笑ひ崩れるのを背後に聞きながら、

島は散弾の如き素敏こさで外に走り出た。それから始めて彼等の正饅に思ひ官つた。

『あツ、そうだ。道理で攣な言葉だつた』

学 生 群

『…:‘瑞ハ四人組のいたづらか』

 木島が血相を攣へての御注進を一々穏やかな微笑を以て聞いて居た大林は、やがて朗らかに笑ひ出

した。

 賓行委員禽の秘密合合所だつた。皆は此虞を指導部とか、本部とか言つて居た。頼もしくも茸行委

員の面々が全部ここに集つて居るのだ。吉野や山崎の顔も見えて居た。

『再検討といふのはね、あの決議事項の必然性を、もう一度更に深く皆の頭に刻み込ませろ、と言ふ

意味なんだ』

 小早川も傍から優しく説明して呉れた。これもニコニコ笑つて居た。

『今のやうな誤解も起り得る事を見越したから、たつた今各クラスに注意してやつたんだ。一慣、検

討なんて言葉を無闇に使ひたがるのは悪い癖だね』

 更にもう一人の委員が言ふ。

 木島はたゞたゞ嬉しかつた。

『しかも其の言葉を一番さきに言ひ出したのは君ぢやなかつたかな』

          へうきん

 大林も今は珍らしく別軽だつた。彼には、かの異邦の兄弟、李以下の四人の支部留学生の蔭ながら

        きも

なる饗接が、脂に銘じてしみじみと嬉しかつたのだ。

      (C) 敗 惨 者

『…=・おい、=…・おい===』

34ア

 眠つては居なかつたのか、青井は、深々と其の身鰹をくるんで居る何やら光る娼布の夜具の中から、

じめじめと馨をかけた。隣の部屋からは併し何の返事もない。たゞ何かごそごそ片附けて居るらしい。

其の物音だけが、電気スタンドの真紅のシエードのお蔭で、よく彼の友達に言はれる通り、まさしく

『蚊龍の洞窟』を思はせる青井の妖怪じみた部屋へ、何故であらう攣に物々しく響いて来るのだつた。

 青井は、じれつた菊に、ぐつと頭を撞げた。

『おい、何だ、===何をして居るんだ。先刻から=…・』

 せに言ふ『名門』の血を充分偲ばせるに足る秀鹿な顔を、赤い電光に美しく晒しながら神経質にキ

リツと歪めて居る。

『僕かい?』

         ■あひ

 朗らかに答へて問の襖をからんとあけ、のそのそ隣部星から入つて爽たのは、小柄ではあるが、大

きい熱情的な眼を持つた生徒であつた。

『小早川、一鰹何をしてたんだ。一人でこそこそ===』

 うつろで言葉尻が果敢無げに滑え入りさうな口調なのだつた。

『やつぱり感附かれちやつたな。こつそりこつそりやつてたんだけどなあ』

 にこやかに笑ひながら小早川は快活に頭を掻いた。

『いやな奴だな。僕を出し抜かうとするなんて。まあ、とにかく坐れょ』

 小早川は素直に青井の枕元へ大きく胡坐をかいた。青井は、力弱そうに又床の中へズプズブもぐつ

て静かに仰向きに成りながら、痴呆のやうな冷さで言つた。

348

『僕には列.つてるぞ…・=』

『何がさ』

 小早川は、やはり明るく囁いて、此の病身の同志を慈愛のこもつた眼で母のやうに見下した。

『旗行の仕度をして居たんだ=…・。そうだな===』

 まるで別人のやうに厳粛な饗で言つた。小早川は無邪気に苦笑して居た。

『直訴だらう?』

『馬鹿、そんなもんぢやないょ』

 穏やかに打ち滑した。

『かくす必要はないさ。誰に知らせると言ふのぢやなし、たゞな…=・』

『たゞ?…=・』

        ヂボーショナル

『・::・君の今迄の麒身的な活動に封して僕の最後の敬穫を受けて貰ひたいのだ』

『どうも奉術家だけあつて、言ふ事がロマンチックだな。僕見たいな野暮人はたゞたゞ恐縮する許り

だ』

学 生 群

『そうだらう。肇術家は皆キザなものだ』

 青井は眼を柔く閑ぢて寝言でも言つてるやうにプツブツ呟いて居る。

『小早川、僕はやつばり敗惨者だな』

 ぼろんぼろんと階下の古時計が十時を打つ。森々と更けた春脊の生温さがとろりと感じられた0

さへ無い。

風 349

『…:・僕みたいな男は一饅どうすればいいのだ。え↑ 小早川、むづかしい問題だぞ』

『又、始つたぞ。まあ、そうだな、君なら身饅を丈夫にする事でも工夫するのが一番だな』

『駄目だ。僕の胃腸病は慢性なんだから、癒る見込みは少しもなし、それに親爺から結核性の鰹質を

受けついで居るし===』

一々其の通りだつた。小早川も之には何と答へていいやら、たゞべソを掻いてしょげて居た。

『僕はつくづく今迄の僕の曖昧な生活が嫌になつたのだ。へ〜ん、こんなマルキシストがあるもんか。

賓に立汲な偽書者だ。小早川、考へても見ろよ、月々、生活費の十分の一にも満たない端金を、それ

も上の方からの命令でいやいやながら出してょ、後はよくいつてプロパガンダ、讃書合。これ位の所

が我々学生に許された最高限度の行動さ。杜合主義的学生運動さ』

『うん、まあ。=…・誰かのインテリゲンチヤ論の中でもそんな事言つてたな』

『カウツキーだ。君から借りたあの本の中に書いて居たんだ。賓際僕もそう思ふな。だが、それだけ

でいい。それだけの行動でもまことに使いものだ。現に此度のストライキでも、全くいいチャンスだ。

チャンスだ。学生間へのプロパガンダには持つて来いのチャンスだ。……だが僕には其の任務さへ果

せないのだ』

『それア君===』

 之には理由があつた。ブルジョアの父組を持ちながらも、悪い事は嫌だといふ人並はづれて強い潔

癖を持つて居る青井だつた。彼は此のP高に入る時から、ブハーリンやスターリンの著書をトランク

の底に忍ばせて居た。それから三年、彼は主としてP高の蜃術運動の先鋒となつて、とにかく活躍し

350

学 生 群

て居たP.それがつい最近に至つて其の牽術運動をあつさり放棄した。蜃術運動は、階級闘争の輝ける

逃避湯である。蛮術は、殊に文学は決して革命家を養成し得ない。浪漫的な、随つて段落の見えすい

          シソ.ハサイザア

た革命家をのみ作る。共鳴者、之は文学に依つても作り得る。そして此の共鳴者の獲得は伸々必要で

ぁる。だが、それには、文学よりも、もつと確かで、もつと地味な、そして何よりも、もつとく安

償な方法がある。個人的な忍耐強いプロパガンダ、その他、周膿、集合等に於ける適度のアヂテーシ

ョン等々。世に言ふプロ文学に依つて我々インテリは少しの理論も教へられない。要は、我々の持つ

て居る理論に其の作品の持つてる意識感情が如何程迎合するか、である。幾百同幾千同となく試みら

れながら、未だ一同も成功しなかつた企圃。プロレタリヤに讃ませるプロレタリヤ小説0こんな皮肉

な事賓はあるか。インテリにはインテリに讃ませるプロレタリヤ小説しか書けない。之は恥しながら

事貰だ。真のプロレタリヤ小説を作りたいならば、先づプロレタリヤを正しく教育せょ。すべての仕

事はそこから始る。尊敬すべきさる闘士が言ふ。

『今のプロ作家達は、あんなインテリ臭いプロ小説なるものを首筋書く事によつてでは無く、其の稿

料を我々に寄附する事によつて階級的に存在の意義がある。文筆業は割に金になるものらしいから、

筆の立つ者は−勿論プチ、ブル的に!どんな小説を書いたつて構はんから合法的な職業として、

文士になるのも烏渡よいぞ』

 それからレニンの功利性二鮎張りの拳術論。しかも其の拳術論は全然正しい。だが同時に青井には

到底堪えられん。

 青井は、そうして肇術運動を潔く放棄した。校友合雑誌の委員も新したし、劇研究合幹事の柴職も

3Sl

捨てたが、たゞ小説の方だけは併し、将来の所謂合法的な職業として、金になりそうな、大衆ものの

書き方等に就き、いやいやながら乗り気のしない練習をぼそぼそ績けて居た。こんな世の攣りめに於

いては、金にもならない、又飴り人にも讃まれない小説や、詩は手淫に等しい。かく人だけが一番う

れしい。書いて居るうちに色々の妄想が起つて、遽に何か自分は、人生に於ける最も偉大な素張らし

い仕事でもなして居るやうな何とも言へぬ好い気持がして来る。所謂文学の阿片性である。之は慢性

となれば傍から他人がどんなに忠告しても駄目である。いょいょ手浬に似て居る。

 兎に角、こんな縛形期に生れた進歩的な拳術家は気の毒なもんさ。自慣、蜃術は祀合全般の制度の

結果現象である。それにも不拘、革命の先騒に立たうとするのだから頻るむづかしいのさ。I青井

は寧ろ朗らかに此の宰術運動と手を切つたのだ。

 彼はそれからポツリボツリ、プロパガンダ、カルチべ−ションなんぞの像り華やかでない仕事に関

係し出した。貧窮して居る進歩的な生徒へは喜んで財政的支持を申し出た。

 とかくするうちに此のストライキが起つた。然るに彼は何故か此のストライキには参加出来なかつ

た。一つには健康を損ねたのと、今一つには彼の家庭からの干渉であつた。ブルジョアは流石こんな

事には鋭敏である。彼の父は、此のストライキが起ると同時にP高の生徒主事、大野教授へ、彼の行

動の監硯を特に願ひ出た。友達は青井の『金のある共鳴者』としての存在を惜んで此のストライキに

は紹封に参加せぬ方がょからうと忠告した。青井のやうな合法的存在はまだまだ利用されねばならな

いのだ。青井一個人の小つぼけな英雄主義は此の場合捨てねばならなかつたのだが、だが青井は此の

友達の忠告には少し不満だつたのだ。

3S2

学 生 群

『それア君、何同も言ふやうだが、君にはこんなストライキなんかで働くよりも、もつともつと大き

な役割があるのだからな。我慢出来ぬか……』

 小早川は今、その青井の不平を一生懸命なだめて居るのだつた。青井の、死面のやうに動かぬ顔が、

侮蔑した如く微かに笑つた。

『小早川、思ひ達ひしちや困る。僕はもう、そんなストライキなぞに働かせて呉れなぞと歎願して居

るのぢやないぞ。そんな英碓主義の狂信者ぢや無い筈だ。乃木軍の決死陳ぢやあるまいし=::』

『ぢや何だ===』

『……僕はやつぱり、駄目なのだ』

『困るなあ』

 小早川は真底から官惑した。

『色々考へて見たのだ』

『考へて許り居たつて駄目ぢやないか』

『考へる閑があつたら賓践にうつれと言ふのだらう。よく剣つて居る。だが小早川、僕の今迄の行動

                      こん

は、あれで精一杯の所なんだぜ。カの限り根の限り頑張つて見て、たつたあれだけさ』

『あれだけで充分ぢやないか』

一論戦はのがれぬ所と観念したのか、小早川もどつしりと落ちついて好きなバットを吸ひながら、

此の駄々ツ子と封陣した。

『達ふぞ。それは君が僕の全生活の片面だけしか見て居ないからだ。僕は劫い時から、曲つた事は嫌

3S3

だつた。自分の腹をいつ誰に透して見せても一鮎恥る所の無い生活をしたかつた。そしてその理想は、

僕一人の主観的な生き方をして居た少年時代には可能でさへあつた。併し、やがて僕の客観的な眼が

開け、廣く杜合の一成員として見た時に、小早川、僕は君達のやうにプチ、ブルでさへ無いんだぜ。

直接搾取行為に携つて居るブルジョアなんだぜ。地方の大地主の息子なんだぜ。革命はまさに僕達を

倒さんが為のものなのだ===』

『君は − 革命が君自身に何か階級的利得をもたらすぺきだ、なんて考へて居るんぢやないだらう

な』

『知つてるよ。僕の苛んで居るのは理論が判らないからでもなし、公式が難解だからでもないょ。知

つては居るが=…・さて、どうもならん。と言ふ其の苦しさが、なあ…=・』

『どうもならん? 冗談だらう。今迄だつて一生懸命やつて来たぢやないか』

『だから始め言つて置いたぢやないか。君は僕の行動の全面を見て居ないツて。君は僕とこうして三

年もの間同じ下宿で兄弟みたいに暮して爽たが、それでも未だ僕の恐るぺき二重人格を見破れないの

        せい

だ。君が間抜けな故ではない。それ程僕が巧妙な偽書者だつたからなんだ……』

 青井は低いけれど泣いてでも居るやうに熱のこもつた切なげな饗で語り績けるのであつた。小早川

は静かに火鉢へ炭をついだ。炭火の起る音だけが、ぽとんぽとんとせわしげに聞え始めた。

                                       シソ.ハサイザア

 青井が今大騒ぎして二重人格だの、偽善的生活だのと言つて居るのは、智識階級の共鳴者が普通行

つて居る何の欒哲もない種顆のものだつた。それだけ又、重大な意味が含まれてあると言へば言へな

い事もないのだ。即ち、彼が言ふ所の『一のプロレタリアートヘの貢献と、九のブルジョアジーへの

354

学 生 群

貢戯の生活』を指して居るのだつた。現に青井等も、寧校で友達と一緒にこそこそ働いて居る時こそ、

辛うじてプラスの生活を保つて居られるので、若しも一人離れてまごついて居つたら最後、ずるずる

ずるとマイナスの生活の深淵へ首パーセント引きづり込まれるにきまつて居た。殊に青井の如きブル

ジョアの子弟にあつては、暑中休暇等で蹄省した場合、其の生活こそ賓に罵倒に償すべきものであつ

た。身のまわりの仕未は一切合切女中まかせで、郷に入つては郷に随ふと言ふ洒落か、靴の紐まで女

中にほどかせるのである。無論、彼の意志からではあるまい、併し事資は事賓だ。彼とて蹄省の度毎

に、今更ながらブルジョアの磨爛した生活に無限の恰意を感じるのではあつたが、それ軒長くて一過

間が程の事で、あとはもう魚の臭いも御存じなく、お梅や、冷蔵庫にメロンがあるから、なんぞと、

だみ学を張り上げて我が身は藤の長椅子にごろごろしながら、レコードをかけ、映董雑誌でもひろげ

て居やうと言ふ呆れ果てた有様。

 之は立汲な裏切だ! 心から恰むべきものだ。そう菊附いて愕然とする。とつてつけたやうに何か

革命的な書簿を引つ張り出す。表情さへ深刻にして、二、三頁讃む。それから真面目に考へ込む。僕

は駄目な男だなあ、第一に意志が弱い、勇気が無い。僕は逆立ちしたつて闘士には成れない。共鳴者、

あの見柴えのしない財政的支持者が僕のギリギリの役割だ。よろしい、自分一個人の英雄心は此の場

合、潔く捨ててやる。棟の下の力持ちだ。阿呆と言はれやうが何と言はれやうが、自分さへガツチリ

してたら屁の河童だ。=…・

                                        ま ど ろ

 そう覚悟をきめながら、藤椅子の上で、扇風機に快く吹かれ、うとうとと微陸む。眼がさめれば、

大きいメロンの片身が涼しげにベチヤぺチヤ水気を湛えて枕元に置かれてある。早速がぶりとやる、

3SS

と同時に其のメロンの値段が熟練工三日の賃銀を優に超して居る事を忘れて居る。

『…=・な、小早川。君は僕の全部を知つて居らぬとはここの事だ。僕は張子の虎のやうなものだ。首

をつつかれた官座だけは、それでもピクピク動いて居るが、なあに、見て居るうちに休んぢやつてケ

ロリとして居る。今迄あれ程努力して来ても、あ1だつたんだから、これからだつて、いくら努力し

た所が、五十歩百歩だらうと思ふんだ』

『絶対にいかんな、そんな悲観主義は。君だけぢやなく、インテリには、奨な好ましからぬ分子がた

くさん鰹内に巣くつて居るさ。それをたつた今、乳つぶしに退治して了はうとするから、身の破滅さ。

それょりは、もつと楽天的になつて、.そんなウヂヤウヂヤの畠なんか飴り気にせん方がいいんだ。自

分の方向がチヤンと定つて、歩一歩確茸な努力さへ績けて居たら、其の行動の途中でそんな虚けらは、

どしどし清算されて行くぢやないか』

一言一言にカをこめ、小早川は真剣な口調でそう言ひ経つてから、煙草を又、スパスパと菊ぜわし

そうに吸ひ績けた。青井は淋しそうに低く牽を出して笑つた。

『はゝゝゝ。小早川、君は朗らかでいいなあ。いつでも明るい。そうでなくちやいかんのだ。僕は駄

目だ。いつでも憂鬱だ。僕はそれ程春菊に構へて居られんのだ。僕の饉内には君達の十倍も多くの晶

がウヨウヨたかつて居るのだ』

『ひどく観念論的な言葉だぞ。青井、しつかりしろ、君も僕達も同じインテリだ。本質的には少しも

建つてる所が無いんだよ。何もかも君の弱気から起つた幻想だ』

『そうぢやない、君達はプチ、ブルだし、僕はブルジョアだ。僕には君達の持つて居ない色々な血が

3S6

学 生 群

流れて居る・。一番手つ取り早い講が、僕には父の顧慮的な放蕩の血がぬらぬらと流れて居る0今こそ

言ふが、僕は一晩の放蕩に首囲も使つた経験を持つて居る。高等学校三年を通じて、僕は此の放蕩の

為に二三千囲は確かに使つた。そして此のやうに身饅を目茶苦茶にやられた0僕だつて過去の罪劫を

徒に悔む愚は知つて居る。僕の言ひたいのは、こんな狂態が将来に及ぼす精神的並びに肉燈的の惰性

なんだ…=・』

『あんまり遊んだものなあ。それに、何もかも承知の上で放蕩してるんだから、どうにも忠告のしや

ぅが無いのだ。それはそうと、文子はどうしたのだ。文子さんは』

 青井に惚れた此の土地の奉者だつた。言はゞ、命迄もと惚れて居た。それがもとで大事な旦那とは

別れ、金目のお客の座敷はしくじり、惚れたらう馬鹿だらうの痩意地をとにかく立て通して来たのだ

った。青井もまんざら悪い気はせず、それ程迄ならばと、嫁に貰ふ事にきめた。傍から見ても可愛い

やうな色事であつた。

『…:・あれは不幸な女だ。だが僕はどうする事も出来ないんだ。なに、あれは器量がょくないけれど

賢い奴だから、僕が死んだら、死んだで、すぐ僕よりもつとノトいゝ男を捜し出すだらうさ』

『死ぬ? 死ぬのか君は↑』

 本官に死ぬかも知れないと小早川は思つた。去年の秋だつたかしら、何でも立円井の家に小作争議が

起つたりして色々のゴタゴタが青井の一身上に振りかかつたが、其の時も彼はカルモチンで自殺を企

てて三日も昏睡し績けた事さへあつたのだ。又つひ先だつても、僕がこんなに放蕩を止めないのも結

局は僕の身膿がまだ放蕩に堪え得るからだ。去勢されたやうな男になれば、僕は始めて一切の感覚的

3Sア

快楽をさけて、階級闘争への財政的扶助に専心出来るのだ。と考へて、三日許り績いてP市の病院に

              ど ぶ

通ひ、其の俸染病舎の傍の泥溝の水を掬つて飲んだものだそうだ。だが、ちょつと下痢をした許りで、

失敗さ、と其の事を後で青井が恥しそうに話すのを聞いて、小早川は、其のインテリ臭い遊戯を此の

上なく不愉快に感じたが、併し、それ程迄に思ひつめた青井の心が少からず彼の胸を打つたのも事資

であつた。

『死ねば一番いいのだ。いや、僕だけぢやない。少くとも紅合の進歩にマイナスの働きをなして居る

奴等は全部死ねばいいのだ。それとも君、マイナスの者でも何でも人はすべて死んぢやならんといふ

科挙的な何か理由があるのかね』

『ば、ばかな』

 小早川には青井の言ふ事が急に馬鹿らしくなつて来た。

『笑つちやいかん。だつて君、そうぢやないか。組先を祭る為に生きて居ねばならないとか、人類の

文化を完成させねばならないとか、そんな倫理的な義務としてしか僕達は今迄敦へられて居ないのだ。

何の科挙的な説明も輿へられて居ないのだ。そんならば、僕達マイナスの人間は皆死んだ方がいいの

だ。少くとも死はゼロを意味してるからな』

『馬鹿! 何を言つて居やがる。土憂、君、品が好すぎるぞ。それは成る程、君も僕も全然生産に興

って居ない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はして居ないと思ふんだ。君は一饅、無

産階級の解放を望んで居るのか。無産階級の大勝利を信じて居るのか。程度の差こそあれ、いかにも

僕達はブルジョアジーに寄生して居る。だが其れはブルジョアジーを支持して居るとは全然意味が達

3S8

ふのだ∵丁のプロレタリアートヘの貢戯と、九のブルジョアジーへの貢戯と君は言つたが、そもそも

何を指してブルジョアジーヘの貢戯と言ふのだ。わざわざ資本家の懐を肥してやる鮎に於いては、僕

達だつてプロレタリアートだつて同じ事なんだ。資本主義的経済敢合に住んで居る事が裏切なら、蹄

士にはどんな仙人が成るのだ。そんな言葉こそウル

キソヂルクラソクハイト

学 生 群

士にはどんな仙人が成るのだCそんな言葉こそウルトラと言ふもんだ。小 児 病と言ふもんだ。

一のプロレタリアートへの貢戯、それで澤山。其の一が尊いのだ。その一だけの為に僕達は頑張つて

生きて居ねばならないのだ。そしてそれが立派にプラスの生活だ。青井、君に死ぬ程の覚悟があるな

ら、どうだ一つ死んだ思ひでやつて見ないか。君の気性として、今迄のやうなどつちつかずの曖昧な

暮し方がいやならば、君も僕と同じやうな生活をやつて見ろ。とにかく君の生活は根本から改める必

要がある。先づ僕と同じ水準の生活を始めろ。い1か、そうすれば第一、どれ位の小便銀が浮くか。

活動へ行つた積りで五十銀。拳者をあげた積りで二十固。ヘチマコロンを買つた積りで五十鏡。レコ

ードを買つたつもりでいくら。コーヒーを飲んだつもりでいくら。洋服を新調したつもりでいくら。

=:=…:・とまあ言つたやうなエ合で金をためる。そして其れを××の基金なり何なりに寄附するのだ。

どうだ、出来ないか?』

 小早川は本気に怒つて、饗をはげましながら言つた。

『:::出来るかも知れない。・::・だが、それぢや、あんまりだ。あんまりだ。:…・…:・』

                       し や く

 突然、青井は夜具の襟に顔を埋めて、弱く鳴咽り始めた。小早川は一時呆然とした。が直ぐ一切を

了解した。言葉や何やは面倒臭い。お互ひの肉慣を通して、直接に一切が列つたのだつた。理窟を抜

きにした堪らない友情が、小早川の全身をカツカツと煽つた。

3S9

 …=・そうだ。青井は大地主の血を受けた息子だ。

『判る。青井! だが、死ぬな。死ぬな。理論もタソもねえ。青井が死ねば僕は淋しいからだ。青井、

泣く事はないぞ。僕は青井を好きなのだ。死ぬな。死んで了へばもう、何もかも駄目ぢやないか』

 可笑しいではないか、そう言ひながらも小早川は大粒の浜をぽろぼろ零して、めそめそと泣き出し

た。・…=

 やがて小早川は未だシクシク泣いて居る青井に限り無き愛着と懸念とを残しながら、盟休生六雷名

を代表しての自分の或る秘密の大役接果す為に、バットの煙が真紅の電光に気味意く反映し、部竺

杯を異様に立てこめて居る此の『蚊寵の洞窟』を敢然と後にした。

 彼は古ぼけた小さいバスケットを一つ手にして、狭い下宿星の階段をギシギシ下りながら、右こぶ

しを固く握り両眼に涙を一杯にためたまま大きく大きく叫んで居た。

 1頑張れツ! 頑張れツ! 頑張れツ! 頑張れツ!

      (D) 女

 同じ夜の十二時近くである。大野教授の家では、まだ赤々と電燈がともつて居た。

′ 寝巻のま1の大野教授は、皆をじろりと見渡してから言つた。

 『瀧光はどうした』

 『後で来る筈です』

 『あれは一饅、どこから通学して居るんだ』

360

学 生 群

 皆燕首や顔を見合せた。誰も知らなかつたのだ。

『どこか情婦の家らしいです』

 牧野は真面目に言つた。誰一人笑ひもしなかつた。

『そうか、あれの不規律にも困るな。ぢや、まあ、之がストライキ反封側の代表全部な謬だね』

『えゝ、そうです。我々には同志が五十人程あります。今日生徒大倉の直後、我々は教室で之が封應

策を講じ、我々九名とそれに瀧光君を入れて十人が、先づ委員として選ばれたやうなわけでありま

す』

 加藤だつた。いょいょ恰沈した態度であつた。

『で、どうゆう用件で参つたのだ。妻の病気もある事だし、こんなに遅く来られては費際困る。一濃

どうした用件なんだ』

 佐賀はむつとしたが、懸命に怒りの心の破けるのを堪え忍びながら、一膝乗り出して、それでも穏

しく口を切つた。

『先生、我々は今迄個人的な感情で彼等に持抗して居ましたんですが、やはり圃鰹には囲鰹の力で対

抗しなくちやならない事を悟り、ここに我々は一切の私的感情を捨て…:::…』

『つまりどうだと言ふんだ!』

 鋭く言はれて佐賀は、腹の中の煮えくり返る思ひをぐつとおさへた。鬼の眼にも涙、眼蓋が熟くな

つて来た。

 加藤は見兼ね、後を引き受けて説明した。

361

『ぶちまけて言へば、此の際学校官局の為に極力働かせて貰はうと言ふのです。卑劣なやうでござい

ますが、どうせ我々は学校あつての生徒ですし、又清爽のある身膿でもあつて見れば、つまらぬ一時

の感情で、そうそう無茶な事は出来んのです。我々も青年です、華々しい事はやりたいです。それを

ぢつと堪え、あらゆる罵晋雑言を搭びて立つて居るのは賓際つらいです』

 大野教授も之には少からず動かされた。成る程、こんな生徒もあつたのか。今迄は坊主情けれあ袈

裟迄で、生徒と見れば誰もかも惰らしかつたのだ。

『わしにして見た研が、此の事件では、ほとほと窮つて居る。今迄の校長の仕事が全部わしの所へ集

る。それに妻の病気も此頃又一段と悪くなつたやうなんだ。あれも長い事は無いと思ふ====…・』

 教授はふと言葉を途切つて火鉢の次をたゞ何となく静かにかき廻した。

『それに今のストライキだらう。生徒達は面白くてやつてるのかも知れんが、こつちにとつちや生命

                 ヽ ヽ

がけだ。下手に立廻るとくびに成るからな。つらい世の中さ。なに、わし一人の身膿ならなんでも無

いんだけれど=………・』

 老妻の身を思ふと不憫でならぬと言ふのだ。日本有数のラテン語学者大野教授も遂に孫程の子供の

前でくどくどと愚痴を並ぺ始めた。怒り易いが、それだけ又情に脆かつた。

 加藤達も暗然とした。今やストライキは彼等にとつて、頭も尾も無く然も大河のやうに洋々と押し

寄せて来る渾沌の怪物であつた。併し情緒纏縞たる此の場面も残念ながら其の幕切に至つて、いささ

か破綻を生じた。といふのは教授の愚痴が鎗りにも長過ぎた事である。加藤達も之には窮つた。時計

を見る迄もなく、もう一時問は過ぎて居る。佐賀は、もうどうにも堪え切れず無祀とは知りつつ言葉

362

学 生 群

を挟ん海。1

『先生、僕達の詰もちと聞いて下さい』

 教授は苦笑した。そして彼は直ちに又もとの厳粛な態度を取り戻す事が出来た0

『うむ、思はず長ばなしをして失捜した。で、他に未だ何か用件が残つて居るのかな』

彼等は今迄、盟休囲の陣容を探つて居たのである0そして先づざつと其の目的を達した故、大威張

りで此の深夜大野教授の宅へ、それを報告に来たのだつた0

彼等の報告に依れば、−此のス土フイキの組織は明らかに左翼戦術の公式に俵つて居るもので

先づ苦行委員合なる最高幹部合があり、之が指導部の地位にあつて、之と放射線的関係で各クラスが

聯結して居る。各クラスにはそれ1ぐ正副二名の議長があり、クラスの生徒全部が委員と成つて居て

本部より次々に来る指令により、決議を要するものは之を決議し、又クラス内に起る輿論は之を苦行

委員合に報告する。此の連終に官る連絡係は各クラス毎に三名づつ選出される0その他警備係等もあ

り、やはり各クラスから三名づつ出て居る0之等役員は一日たてばすつかり人が攣る○又本部並びに

クラスの集合所も一日毎に換へる改定。費行委員合の議長は期間をきめず臨機應攣に委員全部が交代

でやる。別に宜俸係と探訪係とがあつて、本部に直属し、最も清澄な運動をする○そして此全組織の

特徴とすぺきは、係員の相互應攣性である、即ち連絡係は或る場合、警備係の役目をする事もあれば、

警備係は又、時に俵つて宣俸係の仕事を手樽ふこともあるのだ0

『……なる程、立汲な陣容だね。まづ、公式そのま1と言ふ所か0併し問題は此の理論的な公式が果

してどの程度迄資際に行はれ得るかにあると思ふな』

363

 大野教授は皆の説明が済むのを待つて、べツと吐くやうに言ひ放つた。

『そうです。彼等は其の為に特別な訓練を別に受けて居ませんし、此の組織の崩壊は眼に見えて居ま

す』

 加藤さへ軽蔑的な口調だつた。

 恐ろしく静かな夜だ。教授の夫人のカない咳が、折々ごほく聞えて衆た。もう皆の辟るぺき時だ

つた。

 教授は皆を玄関迄見迭つて呉れた。

『加藤、わし達の方の組織も考へて置かうな』

 辿へた時の冷い眼、そして迭る時の此の温い手。教授はその両手でもつて加藤の細い手を堅く経つ

た。 − その時だつた、一番最初に玄関を出た生徒らしい。

『キヤツ!』

『なんだツ』

『どうしたツ』

 どやくと皆玄関に下りた。

『だ、だれか居る……』

 薄くらがりから、蟻のやうな白い顔がスツと出た。片頼のすり傷から、黒い血が娼練のやうにタヲ

くと流れて居る。

『瀧光! どうしたツ』

364

『やられた』

物凄く笑つて居る。

『それツ』

 は だ し

皆既足のま1外へ飛んだ。

雪明りで逃げて行く人影がハツキリ見えた。

先頭の加藤はチラとそれを見て急に迫ふのをやめた。

人影は女だつた。どこかへ障れたらしく直ぐ見えなくなつた0

『どうした加藤。居ないか』

 佐賀は、ぼんやり立つて居る加藤にいき込んで聞いた0

『あゝ、もうとつくに逃げちやつた』

『ちえつ、残念!』

学 生 群

 佐賀は身を震はして惜しがつた。

加藤はあの女を知つて居た。瀧光に散々もてあそばれて、とうく今では妊娠迄して居る某カフェ

ーの女給だつた。加藤はしよんぼり雪の上に立つた健、われ知らず深い溜息をもらした0寒天の下に

は、夜汽車の汽笛がポボーと頼りなく鳴つて居た0

加藤とて知るまい。あれは上野行の急行列車、前校長秘書の成澤教授と、我等が代表、小早川とが

皮肉にも偶然一緒に乗り合せた列車の笛だ。二人は全く同じ役所へ、そして全く違ふ目的で密かにP

市を後にしたのだつた。

365

     (E) ルンペン (ストライキ第二日)

 冷い朝霧の中に、白い息を吐きながら、二人の生徒がぶらく歩いて来る。サクくと束持よげに

雪道を踏んで来る。

 太陽は今しも杉の鬱蒼たる林から、のう′〜と昇つた。雪に被はれた満目の××平野は、一瞬時に

してパツと紅潮した。平野一面、溶けて流れるやうにキラく光る。二人は思はず立ち止つて、うつ

とりと眺めて居た。

『太陽は、沈む時も美しい。併し其れは病的な世紀末的な神経にのみ訴へ得る美しさに過ぎない。同

時に明日の日の出を約束して始めて信じ得る美しさに過ぎない。それに反して太陽の昇る時の美しさ。

これこそ最も健全な本来的な神経に訴へ得る美しさである』

 突然鶴田は攣な演説を始めた。

『浮せも之と同じである、と来らあ』

 木島はすかさず結論をつけてやつた。

『だけど、いゝなあ』

 鶴田は此の風景を、名残り惜しそうに振り返り振り返りしながら又のろ′\歩き出した。

『高天ケ原が燃えて居るやうだ。とは何といゝ形容だらう』

 鶴田は得意だつた。

『飛んでもない。鶴田、饗が高いぞ』

366

学 生 群

 木島が真顔で言ふ。

『これでも高いとはケチな男だ。よし、負けてやれ、五厘!』

 鶴田もすまして居る。

『それにしても高い、高い』

 木島は躍気となつて言ふ。二人にも何を言ふてるのか判らなかつた。それでも結構だつた0時々こ

んな事をしては嬉しがつて居た。

 クラスの集合所で緊張した一夜を明した二人は、今、朝飯を食ひに各々の下宿へ辟る途中だつた0

鶴田も亦木島や細谷に劣らぬルンペンだつた。酒と女の二科目の他に敷革がずば抜けてょく出来た0

痩せこけて皮膚の汚い生徒だつた。

『ともかく眠い。これに、異議があるか』

 木島は雪で口をすすぎながら言つた。

『いや、全く賛成である』

 二人は饗を合せて笑つた。笑饗は朝の澄んだ室菊に、びつくりする程大きくひゞいた。

『だけど、昨夜は驚いたなあ』

『また、四人組の話か。もう止せょ、恥の上塗りだ』

『だつておい、まるで今にも革命を起せつて言ふやうな謡なんだらう。それでも顔を見ればニヤく

笑つて居る===』

『木島、費が高いぞ、と来るかね』

367

 鶴田は全然興味のないやうな顔をしながら、それでも何とか、攣てこな調子を合せて居た。が、ふ

と何かに菊附いたらしかつた。

『おい、俺は昨夜、素張しい論文を作製したんだ』

『こいつ、嘘も言ふね』

『賓は、まだ腹案中なんだ。ちょいと其の概要を述ぺて見る』

『言つて見な』

 今度は木島が浮かぬ顔をし出した。

『学校工場論つて言ふんだ。つまり、皐校は一つの工場であつて、生徒は其の労働者で、親元、即ち

学資金供給者が資本家となるわけだ。いゝか、そうするとだね、ここに痛快なる事は、だ。教授は、

どうしても機械とならざるを得なくなるのだ。だから彼等は単なる生産手段としてのみ其の存在が認

められるに過ぎんのだ。さて、此の工場の労働條件は、概して労働者側に有利である。平日は一日六

時間制の労働をする。老朽なる磯城で労働する時は、其の連碑の不治萌さに労働者が甚だ難儀をする.

                                        しろもの

土曜は牛ドン。日曜は朝から休み。併し、漁習復習なる名目の残業といふ代物があるから、まづ平均

して一日入時間制の労働をして居る。賃銀は月沸ひだ。大抵六十固内外だ。此の賃銀は、規定時間以

上いくら働いても上らぬが、さりとて少しでも怠けると覿面に下る。現に、とかく酒許り呑んで工場

を休みがちだつた為に、月給五園を下げられた哀れな労働者がある。併し之は彼自身の不自然な怠惰

に因を優して居るのだから、誰をも恨む事が出来ない』

『ちえつ、此の野郎、それは併し脱線だな。早く結論をつけろ』

368

学 生 群

 木島は大きな欠伸をしながら言つた。

『まあ、まて。これから面白く成るんだ、どうも甚だ気の毒だが時間の関係で、ほんとうの概要だけ

しか話すことが出来んのだ。之が完成した暁には一筋の立汲な学行本に成るんだからな。賃銀の謡は

其れ位にして置いて、此の工場の生産過程、商品流通、並びに償俺の問題、利潤の分配等について講

適する』

『いや、もう渾山だ。一つ一つ官てはめて行けばいいんだらう? 学なる思ひ附きだ』

『いやいや、其の思ひついた所が偉いのさ。まあ、どうにかこぢ附けて行けばいいやうなもんだけれ

ど、之だつて大いに苦心を要する事だぞ。うむ、凡そ君にも出来るやうだが、たゞ一つ、其の工場の

生産物は何であるか、と言ふ事だけは推定出来まい。それはどうしても労働者自身でなければならな

い。が其んな工場はあるものでない。併し此の解決は簡学だ』

『労働者自身の腐つた脳味噌さ。其れを捷漬けにした擢詰か何かだらう。資本家の奴、之を喜んで食

ふんだ』

 木島はそんな事を呟いて、それでもやはり、くだらんといふやうな顔をして居た0

『うむ、こいつ、思つたより頭がいい。そうなんだ0つまり、労働者は其の精巧な、呑むしろ魔術的

な機械に依つて、知らず識らずのうちに自分の繭を作り、やがて攣態して蛸と成る0繭の桶は殺され

るべき運命を持つて居る。桶の生きて居る繭のブルジョア市場に於ける償希はお話にならん程低い0

生きて居ると何時繭を破つて出るか判らんからだ。彼等の要求して居るものは、蛸ではなくて、賓に

繭なのだ。其の魔術的機構を持てる不思議な機械に依つて、蜘蛛の綿の如く職工に被ひかぶさつて衆

369

る繭なのである。窓と生れた我々労働者は、晩かれ早かれ殺されねばならぬ。 − どうだ、ちつとは

憂鬱に成つたらう?』

『よし、俺が其の結論をつけてやる。だからだ、我々学校工場労働者は、其の機械の故障の為、之が

運樽た飼難を感じ、其の修繕を要求して、ストライキを起した。そもノ〜、かかるストライキは賓に

馬鹿げて居る。が、とにかくストライキを起した。さて、其の要求が仮令無條件で容れられた所が又

もとの蓋である。殺される運命は到底まぬがれない。大鰹、機械の修繕を同じ機械たる教授達に要求

するのが間違つて居る。其の機械に投資した或る何者かが有る筈ではないか。我々の敵はまさにそれ

である。此虞に至つてだ、我々の闘争は最早従来の商品経済の土茎の上の闘争ではなく、此の経済の

存績に反封する飛躍的革命的突撃である。それは即ち…=・まあ、よそう。これ位でいいだらう』

『少し讃本臭いが、まづ其れ位の所でょろしからう』

 二人のルンペンは、邁度の興奮に快く酔うて居た。

 P市はもう、そろノト目覚め掛けた。

 工場の汽笛が盛んに鳴つて居る。霧も晴れた。

370

六、ス

 其の日も暮れた。併し彼等の組織は一練乳れず整然として居た。賓践に最邁のもの、それが彼等の

公式だつた。『公式その健の組織』それだけで充分である。彼等は今威風堂々と其の陣営を守つて居

学 生 群

る。

 細谷等のクラスは殊に勇敢だつた。中にも細谷は清澄だつた。

『おい、今日学校に出た奴は五十人もあつたと言ふんぢやないか。奴等、元来P高の小便だつたのぢ

やないかしら、とも尿はれる』

 細谷は宣俸係からのレポートを見て腹の底から悔しがつて居た。

『町の新聞なんかには三分の一出席してる、なんてデマを飛ばして居やがつたんだぜ。五十人位なら

授業も出来まい』

『其の五十人も明日になつて見ろ、二十人か十人。其の次の日あたりからは誰も出ぬ=…・』

 購棋を差して居る二人の生徒が交る交るなだめた。

『それあ、いかん。敵の勢力を過小評償するのは慎むべきだ。たとへば彼等五十人がめいめい一再に

僕達を一人づつ抱き込んだとして見ろ。そうすると明日は百人、明後日は二百人といふエ合で、瞬く

間にストライキは破れる。兎に角、此の五十人はクセ物だて』

 そんな事を言ひながら細谷は、ふいと傍の将棋盤に眼を下して、忽ち頓狂な饗を出した。

『併し其の飛車は…=・』

『要らざる助言ぢや』

 叱られて、今度は鶴田の方へのこのこ出掛けて行つた。

 今夜の集合所は村山といふクラス切つての美少年の下宿だつた。P市の郊外にあつて閑静だつた。

その部屋は十昼間で相首席いのに、隣りの八昼間も杢いて居た故、隔ての襖をはづしたら、クラスの

371

四十人は柴に入れた。クラス撃つてストライキに参加したのは此のクラスだけだつた。だから、其の

合合も資に澄刺たる風景であつた。もう夜も十時近く成つたのであるが、皆満々たる尉志に燃え、疲

れた風なんどはチツともなかつた。

 村山から書籍を借りて熱心に讃んで居るもの。老人見たいに可笑しく落ち附いちやつて碁を打つて

居るもの。賑はしくトランプをやつて居るもの。火鉢を囲んで、茶をがぶがぶ飲みながら、たいして

高何でもない雑談を交してゐるもの。……

 とにかく、之は一つの楽しい家庭である。

『……そうすると、つまり、金を使つたのは校長だけぢやないつて事になるねえ』

 火鉢の次をやたらに掻き廻しながら、村山は穏やかに言つた。鶴田は我が意を得たと言ふやうな点

をした。

『そうとも。枚長が、ほら、こつちへ赴任してから色んな教授を引つばり込んで衆たらう。あれが皆

あやしいんだ。校長はもとより、あいつら全部が身分不相應な豪遊をやるんで、俺は前々から睨んで

居たんだ。それもさ、校長や成浮教授位ならまあ豪遊ヅラもして居るけれど、あの、笹山教授と来た

ら…=・』

『やあ、笹山も!』

 村山は饗を出して驚いた。あんな五尺たらずの矯躯をひつさげ、水湊をす1り上げながら季者の膝

にころりと枕して居る様は、重く奇妙な見物であらうと思つた。

色の白い一人の生徒が何かに思ひ乱つたらしくニヤニヤ笑ひ出しながら話し始めた0

372

学 生 群

『そうだ、いつか俺が、或る料理屋の前を通つたら、二階の座敷から、その、なんとも言ひやうの無

い浪花節が聞えて来たのだ。資に可愛そうな気がして、暫く立ちどまつて聞いて居た位だつたが、そ

う言へば、あれは確かに笹山の撃だつた。浪在節は…・=乃木将軍……』

『はツはツはツは。乃木将軍はょかつたな。散りても後に香を残す乃木御夫婦の潔き、か。いやはや、

どうも=・=・』

 鶴田は其の遽をコロコロニろげ廻つて笑つた。

 細谷は、もとの俺だと、こんな話にも心から書ぺたのかも知れないが、今はもう、人が達ふと言ふ

やうに難かしい顔をして、別のもつと厳粛な事を言ひ出した。

『だけど、今頃、校長はどうして居るだらうねえ』

『あいつクリスチャンだそうだから、お祈りの時刻の来る度毎に、全能の紳に封し、ことごとく面目

ながつてるだらうよ』

 すぐ應じて呉れたのは顎のやけに長い生徒だつた。

『クリスチャンかい。ひどいクリスチャンもあつたものだな』

 傍で温和しく碁を打つて居る生徒だつた。

『みんな、そうゆうもんさ』

 細谷は悟り顔で、あまり要領の得ない事を言つた。

『所であれアどうしたんだらう。使つた金はよ』

 誰かの其の言葉を、先刻の色白の生徒が嗜めるやうな口調で言つた。

3ア3

『排償したとか言つてたけど、そんな事は第二の問題だと思ふ。僕達は此の事件を切離された個々の

問題として考へてはいけないのだ。僕達がこうして戦つて居るのは校長の盗癖を矯正しやうとか、又

は彼の道徳的罪悪を攻めたてやうとかの魚ではないのだ。こうした事件を起させるに到つた底の底の

大きなつながり、からくり、まあそんなものを態いてやる為だ:::』

 生徒大衆は次第に此のストライキの意義を確費に掴めるやうになつて来た0併し、それは、まだま

だ真理に封する学なる寧究的潔癖に訴へた意義にのみ低相して、彼等プチ、ブルの日常生活に於ける

経済的不安と結びつけて戦ふ事をくやしいが忘れて居た。

『疑心暗鬼といふが、僕はあの会計課の秋田書記も怪しいと思ふんだ』

『あの、品のよさそうな爺さんだらう。今朝の新聞だとあの人も検事局に召喚されたらしいね』

『そうだらう。なんでも或る季者にひどくつぎ込んでるつて噂を聞いたぜ』

『おや、なんて拳者だ↑』

皆のがやがや騒いでるのを開きながら、細谷は濁り静かに茶をすゝつて居た0彼は不機嫌だつた0

もつと健康な、早く言へば真面目な謡をしたかつたのだ0

『……新聞で見ると、文部省は校長の立場に頗る同情して居るやうだねえ』

しんみり言ひながら細谷は皆にも茶をついでやつた0茶の注ぎ方や何かは、いつも妙に器用だつた0

『首り前さ。同じ穴の賂だもの。起訴猶漁で依願免本官とやらだそうぢやないか0なつちや居ない』

鶴田は滑々しげに呟いた。村山は、何か考へて居るらしかつたが、やがておだやかに語り出した0

『こう言ふ話を聞いて居るんだがねえ0文部省では頻々たる投書に依つて、飴程前から此のP高合計

374

課の素乳を知つて居たのだが、此虞の校長の従兄弟だつたかが、現政府の要官である為に、まあ、見

て見ぬ振りをして居たんだね。其の澄援には、遅くとも一月中には来る筈の文部省の合計検査員が未

だ爽て居ないと言ふんだ。それを反封薫のさる政商が嗅ぎつけて態きにか1つた詳だね、と言ふのは、

其の政商の息子が此のP高に入つて居て、去年落第させられたんだ。知つてるだらう? 文科の曾根

さ。僕よく其の遽の事情は知らないけれど、なんでも其の落第のさせかたたるや、ちと意地の悪いも

のだつたそうぢやないか、で、まあ、其の父親の政商なるものが心中面白からざるものがあつたんだ

ね。併し之が本官だとすると、問題が莫迦に大きくなるね。もはやP高のみの問題ではなくて=:=』

『お−い。皆こつちへ来て呉れ。本部からのレポだあ!』

 今夜の議長、木島は大きい聾で叫んで居る。

 皆すぐズラリ園陣を作つて坐る。たつた今迄キヤツキヤツ他愛もなく遊んで居た子供達も、所謂

『椅子のやうな鋭敏で明晰な観察カ』と『銭の様な破る〜事なき意志』とを合せ持つて居るかの如き

頼もしげな委員と欒つて了ふ。いぢらしくも健気であつた。

 クラス委員合は始つた。

学 生 群

『只今、本部から指令が参りました』

木島は、普段の巫山戯た態度なんか微塵も見せず、言葉迄改つて居た。

『=:=之に依ると、決議を要する事項は一つしか無く、他は皆戦術上の警告ばかりです。

で、こつち

の方を先に讃んで見ます。決議を要するものは其の後でゆつくり論議する事とします。それがいいで

せう? ぢや讃みますょ』

37S

 委員全部、無言でペンとノートとを取り出した。常に其の要鮎を書きとめて置くのだつた。

『 −一、ストライキ切り崩し策に封する自衛・=…以下其の説明です。=…・学校側では、反ストライ

キ側の生徒を狩り集め、之に四五人の教授を加へ、今日より絶動員でストライキ切り崩しに狂奔中。

彼等の運動も可成り組織的に進められて居る。今の所、ストライキ側生徒への戸別訪問といふ形式で

行はれて居る。我々は之に封抗する為に、次の二つの事柄を守らうではないか。第一、必ず二人以上

かたまつて居る事、第二、反ストライキ側の生徒、若しくは教授を訪問する事は固く禁ずる。若し逆

に彼等の訪問を受けた場合は、全盟休生の名に於いて其の面合を謝絶する事、以上の二項を再三の忠

告にも不拘無税した態度を執るならば、その者は盟休園から相首の制裁があるのを漁期する事。伶積

極的には、反ストライキ側より、どしどし味方ヘメンバーの奪取に努める事。但し此の仕事は二人以

上の共同作業たるぺき事。…=・之は一人でやると逆にミイラにされて了ふ怖れがあるからです。……

もう一つは簡学です。===睡眠を充分取れつて言ふのです。これは併し何でもないやうですが、伸々

重大な事だと思ひます。現に僕達は昨晩だつて殊に眠らなかつたのです。僕達が疲れ果てたらストラ

イキは敗北です。・==・ぢや、以上の事に就いて何か質問でも御座いましたら===』

 どれもこれも判りすぎる程官り前の事であつた。

『では、次に進んで、1我々は再び孝枝側に、かの決議文の同答を迫る必要があるか。若しありと

すれば、何時がいいか、又どんな手段に依ればいいか。===此の問題に就いて一つ論議したいと思ひ

ます』

『議長!』

3ア6

学 生 群

 先づ細谷だつた。

『僕は断然その必要があると認めます。なぜなら、我々は昨日の生徒大倉の際、大野教授にかの決議

文を手交したが、其れは直ちに火中に投ぜられ、我々の代表は、二言の説明をも其れに附け加へる事

が出来なかつた。随つて学校首局は或は、我々の決議文の内容を誤つて解稗して居るかも知れないの

です。故に此の際、学枚側へ決議文の真の趣意を更に詳述するのは極めて有意義な事であると思ふの

です!』

『異議なし』

『賛成』

 口々にみんな言つた。そう決を採つて見る必要もなかつた。

『紹封多数と認めます。では其の時日です』

『善は急げ!』

 誰やら叫んだ。村山が饅言樺を求めた。

『今夜はもう遅いから、明日直ちに決行した方がいいと思ひます。若し倉見を拒絶されたら何十同で

も何百同でも倉見を求めるのです』

 之も満場一致で可決された。

『最後に其の手段です』

 委員達は考へ込んだ。飴りに尤大な問題だつた。

『意見がありませんか。ぢや儀、鳥渡言はせて貰ひます。手段と言ふのは、つまり、先同の如く首席

3アア

教授、大野先生に面合を求めるか、それとも誰か他の次席教授あたりに面合した方がいいか。と言ふ

問題に蓋きると思ひます。これに就いて=…・』

 眼の細い痩せた生徒が言つた。

『其れは無論、大野教授ぢや駄目です。彼は萬一我々の説明を恭取し、其れが道理に叶つて居る事を

知つたとしても、決して我々の要求を容れて呉れません。それは生徒大倉の時に彼が執つた態度を見

ても明白です。其れ故我々は、我々の気持ちを比較的理解して呉れて居て、しかも孝枝側に於いて可

成りの勢力ある教授を別に捜し、其の人に我々の立場を詳細に説明して其の蓋力を仰げばいいと思ひ

ます。幸ひP高には糟川教授が居ります。相川教授なら、決して我々の為に成らぬやうな取りはから

ひはせぬだらうと思ふのです。……』

 これにも皆賛成らしかつた。

『議長!』

『どうぞ、鶴田君』

『僕は絶封反封です。飛んでも無い事です。そんな事したら学校側に足もとを見透かされる許りです。

もう眈に妥協策を講じて居るやうなものです−・』

 鶴田は珍らしくむきに成つて居た。

『鶴田君、もう少し詳しく説明して下さい。何を言つてるのか、僕にはちつとも判らん』

 その痩せた生徒も、少し興奮して居た。

『もちろん、もつと詳しく言ふつもりです。先づ第一に、糟川教授は其の場の速答を必ず避けるにき

378

′闇

学 生 群

まつて層ます。そして之を教授曾に持つて行くことは明らかな事です。いいですか。その際糟川教授

は、決議文を通しての我々の意志を其の健反映させ教授全部を向うに廻してあく迄我々の為に戦ふ事

が漁想出来るか。成る程糟川教授は立汲な人格を持つて居るかも知れない。だが悲しいかな彼も亦教

授である。文部省の一層員に過ぎない。単に輝ける人格のみでは、今の此の場合、我々を信頼させる

事は出来ないのだ。ひるむ事なき闘志こそ争いのだ。糟川教授に果して此の闘志があるか無いか、改

めて言ふ迄もないと思ふのです。此虚数日P高の校長の事務はすぺて大野教授が代掌して居る0随つ

て学校は今、大野教授の支配下にあると言つていいのです。故に此の決議文も我々自身め力でもつて

大野教授に直接受け容れられたのでなくては此のストライキは敗北と言はれても仕方は無いのです0

それだけ我々の力が弱かつたのだからです。最初から糟川教授を紹封に信頼して、すぺてを委せ、そ

れで我々の要求が通る位なら、誰も好きこのんでこんなストライキを起しはせんです0諸君、こゝの

所をよく考へて呉れ。僕はたとひ一人だつて構はない、紹封に反封だ! 議長、君の意見を開きた

い!』

 鶴田はグツト木島を睨んだ。木島もキツト鶴田の顔を見つめて居た。曹て感じた事もない新しい力

がぢりぢりと胸にこみ上げて来るのを感じ、期せずして二人は、ぶるつと勇ましい武者震ひした0

    ス.ハ イ

『おい、私服らしいものが居るぞ。電燈を滑せ!』

 警備係の一人が突然入つて来て低く叫んだ。すぐあかりを滑す0クラス委員合は取り敢へず中止と

成つた。

 村山は雨戸を細めに開けて、こつそり外を覗いた。向ふの露路をグラブラ歩いて居る太つた男がそ

379

れらしかつた。いい月夜だつたから若い彼の眼には恐しく妖幻的に見えた。

    七、裏 切 者

 

 彼と同じ宗教を信じて居る関係から特に親交のあるP高の英人教師へンリーから、此の度の騒動に

就いての慰問を受けた。それはいいが、ヘンリーの日本語交りの英語と、彼の英語交りの日本語との

合議の途中ゆくりなく1−、講が二萬固滑費の事に解れた時、ヘンリーが不用意にもロから滑らせた

『STEAL』なる学語が久保木校長のさらでだに傷いた心を見るも無残にえぐり返した。

 せめて此の人だけはと思つて居たのに、やはり自分を盗人呼ばはりして居る。何かしら裏切られた

やうな果無い気持で、やがてへンリーを迭り出してから、又彼の書斎へ静かに辟つて来た。…=・

 彼の趣味で茶室風に破く裁つた此の六鼻。……常から自慢の部屋であつた。彼は朱塗の小机の前に、

うすら塞げにつくねんと端座して、雪洞の電気スタンドの光に腺騰と浮び上つて居る、床の間のおも

との黒い葉影に、味気なく眼をくれて居た。此の部屋に居るのも長い事は無いな、等と、己の演じた

大醜態の恥しさはさて置き、何よりもたゞ、過去の華やかな生活を懐しみ、又振りかへつては今の我

が身の沈落を悲しんで居た。久保木校長はそれ程無邪気な大きい駄々つ子であつたのだ。彼は小机に

                          ヽ ヽ ヽ

もたれ乍ら為す事もなく、唯床の間のおもとにぼんやり眼をやつた健、しみじみと或る底の知れない

憂鬱に落ち込んで層た。……その時彼は、気の毒にも第二の裏切者を蜃見したのだつた。

 P高校長の柴職を辞した今は、此の上長くこの官舎に居られる筋合のものでもなし、女中や書生に

380

学 生 群

言ひつけて先日より少しつつ家の道具などを整理させつつましながら引越しの準備をさせて居たので

                                      ヽ ヽ ヽ

あるが、どこか痴呆に似かよう程ひつそりと彼が此虞でとぐろを巻いて居るのを知つてか知らないで

か、隣の部屋で、荷物をまとめながら女中と書生がコソコソ交して居る無遠慮極まる囁き饗がそつと

彼の耳に忍び込んだのだ。

『・::・馬鹿な事をお言ひでないょ。あんなよぼょぼの彿々親父に:…・』

『てヘツ。はゞかりながらこれでも虞女よ、か。ロだけはまづまづ=:=』

『何がまづまづだい.お前も疑り深いね。考へても御覧よ。あんなヌスツト!』

 Iヌスツト?=・=・

 久保木校長は愕然として、ぬつと上牛身を伸ばした。震へる手先で襟を掻き合せ、シツ、饗が高い

とでも藁詞のはいりそうな芝居がかつた大袈裟な身振りであたりをずつと見廻した。奥に居る筈の妻

も子供も此の遽にまごついて居ぬ事を見極めてから、やつと安心したらしく、ほつと弱い吐息をもら

した。

 それから始めて女中の無稽に気が附いた。

・…=ヌスツトとは何事であらう。自分は今迄どんなにあの女中を可愛がつて来た事か。自分のこん

な汲手な遊山生活の中で、たゞあの女だけ、…=・たゞあの女だけは=…・。

 梅毒をうつしてやらなかつたとでも言ふのであらう。女を好きだから買ふ。金が、あるから使ふ。

たとひ他人の金だらうが何だらうが、まあ、現在自分の手許にあるんだから使はう。あとはどうにか

ならう。久保木校長はなんと朗らかな男でないか。元来が政治畑のものであつたのを、こんな第屈な

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教育界な・どといふ知らぬ在所へ連れ込まれたのだから、気の毒である。彼は酒宴の席に於て時折都々

逸をものする。その都度地方の新聞はそれをうやうやしく掲載する。こんな事だけに依つて久保木校

長は彼の深遠な学識の片鱗をチラと示すのだ。とにかくP高の生徒こそいい災難であつた。

 頭は慈し、ずぼらではあり、時の首相田中大将にも似通ひ、何故よりによつてこんな校長を、と一

部の生徒は早くから不平たらたらであつたのだ。

 − 昏が言ふ程、そんなに自分のした事が悪いのか。飴りに世間は狭量でないか。少しは同情して

呉れてもいいではないか。

 彼は立つて部屋の周囲をのそのそとめぐり歩いた。容貌も立汲だし膿姫も堂々たるものであつた。

少し間が抜けて居るやうでほあるが、こうして立ち上つた所は、たしかに名優の面影があつた。資本

主義崩壊期の×政府的×××の中に、見えざる綿にあやつられ、きのこさへ生えて居る腐り果てた檜

の舞憂で、悲しく舞ひ狂つて居る其の名優の面影が。…=・

 隣り部屋の話馨も何時しかやんで、此の雪滑え時の深夜には軒の雨だれの音だけが、せわしく聞え

る許りだつた。

                 一

 − 自分だとて、好きで他人の金を使つたのではない。色々苦しい事情があつたのだ。交際費や何

やらに困つて一時右から左へ融通する事は誰にだつてあるのだ。それに此度の滑費の事賓だけは、自

分はこんなに早く嗅ぎつけられやうとは夢にも思はなかつた。たかゞ子供だ、どうにか言ひのがれは

出来ると思つて居たのだ。所がどうだ。大人以上の陰険さで自分を完全にやつつけて了つた。こうせ

ち辛い世の中では、子供にさへあんな悪智志が廻る===。

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学 生 群

『もう此虞の家も二三日でおさらばだね』

 ヽ ヽ ヽ ヽ

『ふんだくれるだけふんだくつたからには、もう思ひ残す所もないだらうて=::』

『いやだよ、此の人は。なんぼなんでも其んな事は===』

『いや、いや、そう言ふな。印は目前これを見よ、だ』

 隣部屋からの話を又ふと小耳に挟んで、腹立たしいょりは寧ろ逆に、何と皇一口へぬ凄い荒涼たる恐

怖に襲はれた。どちらかと言へば菊のいい、のんびりした『旦那棟』で暮して来た彼であつたO

 I何だ、何だ。自分には詳がわからない。自分は今迄どんなにあいつ等の面倒を見てやつたかわ

からないのだ。それを恩に着せる心はちつとも無いが、自分が今ちよつと不運な目に遇つたといつて、

直ぐ掌を返したやうに、こんな態度をよくも執れるものだ。小気味のいい程キツパリ裏切つた! 義

理もへちまもない。何と言ふひどい世の中だ。いやなせの中だ!

 確かにそうだ。いやな世の中だ。彼のやうな大馬鹿が堂々と年俸五千囲もとれる世の中である0

 久保木校長は情に厚いと佐賀等盛んに感服して居るが、情に厚い人は涙もろいと言ふ誓ひが本官と

すれば、或は佐賀等の言ふ通りかも知れない。と言ふのは校長は今年分泣きかけて居るからである0

世の欒挿の有様を考へ、又彼と彼一家の行未を思へば、飴りの頼りなさに饗をあげて泣きたかつた0

カ無く障子を引きあけ、よろよろと廊下にすぺり出た。

 美事な満月である。雪滑えの庭園は、蒼白い月光の洪水だ。気の故か彼には梅の香さへした。雨戸

の椅子窓に鼻先をぴつたりくつ附けて余るやうに此の魔朗たる月夜を眺めた0…:・

 ふと彼は、その庭園の生垣の傍に異様な人影を教見した。時が時だけにギヨツとした。思はず息を

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殺してょくよく見た。二人だつた。どちらも丈のすらつとした生徒である。そのうちの一人のかぷつ

て居る帽子の白線が月の光にほのぼのと浮いて見えた。単にうつとりした懐しい風景だつた。ぢいつ

と耳をすますと、二人の話饗が低く流れて衆た。

『===ぢや今晩の所、別に攣りはなかつた謬だね』

『うむ、ヘンリーの野郎が来たゞけだ』

『そうか=…・いや、どうも有りがとう。これからも、よろしく頼むよ。何か撃つた事が起つたら、す

ぐ僕達に知らせるんだぜ』

『大丈夫』

 久保木校長は危く鼻の先で椅子窓を突き破らん許りに驚いた。彼は此の可愛い第三の裏切者に接し

た時、遽にクラクラと眩牽を感じた。

 ひよいとこつちを振りむいた無帽の生徒は、意外にも久保本校長の息子らしかつたのだ。

 月の光で清らかに輝いて居る秀でた額は、あれは確かに1。