昭和十五年

  困惑の辯
 心の王者
 このごろ
 鬱屈禍
 酒ぎらひ
 知らない人
 諸君の位置
 無趣味
 義務
 作家の像
 三月三十日
 國技館
 大恩は語らず
 自信の無さ
 六月十九日
 貪婪禍
 自作を語る
 砂子屋
 パウロの混亂
 文盲自嘲
 かすかな馨

 



   困惑の辯




 正直言ふと、私は、この雜誌(懸賞界)から原稿書くやう言ひつけられて、多少、困つたのである。應諾の御返事を、すぐには書けなかつたのである。それは、私の虚傲からでは無いのである。全然、それと反對である。私は、この雜誌を、とりわけ卑俗なものとは思つてゐない。卑俗といへば、どんな雜誌だつてみんな卑俗だ。そこに發表されて在る作品だつて、みんな卑俗だ。私だつて、もとより卑俗の作家である。他の卑俗を嘲ふことは私には許されてゐない。人おのおの懸命の生きかたが在る。それは尊重されなければいけない。
 私の困惑は、他に在るのだ。それは、私がみぢんも大家で無い、といふ一事である。この雜誌の、八月上旬號、九月下旬號、十月下旬號の三册を、私は編輯者から惠送せられたのであるが、一覽するに、この雜誌の讀者は、すべてこれから「文學といふもの」を試みたいと心うごき始めたばかりの人の樣子なのである。そのやうな心の状態に在るとき、人は、大空を仰ぐやうな、一點けがれ無き高い希望を有してゐるものである。さうして、その希望は、人をも己をも欺かざる作品を書かうといふ具體的なものでは無くして、ただ漠然と、天下に名を擧げようといふ野望なのである。それは當りまへのことで、何も非難される筋合ひのものでは無い。日頃、同僚から輕蔑され、親兄弟に心配を掛け、女房、戀人にまで信用されず、よろしい、それならば乃公も、奮發しよう、むかしパイロンといふ人は、一朝めざめたら其の名が世に高くなつてゐたとかいふではないか、やつてみよう、といふやうな經緯は、誰にだつてあることで、極めて自然の人情である。その時、その人は興奮して本屋に出掛け、先づこの雜誌(懸賞界)を取り擧げ、ひらいてみると太宰なぞといふ、聞いたことも無いへんな名前の人が、先生顏して書いてゐる。實に、拍子拔けがすると思ふ。その人の脳裡に在るのは、夏目漱石、森鴎外、尾崎紅葉、徳富蘆花、それから、先日文化勳章をもらつた幸田露伴。それら文豪以外のひとは問題でないのである。それは、しかし、當然なことなのである。文豪以外は、問題にせぬといふその人の態度は、全く正しいのである。いつまでも、その態度を持ちつづけてもらひたいと思ふ。みじめなのは、その雜誌に先生顏して何やら呟きを書いてゐた太宰といふ男である。
 いつかうに有名でない。この雜誌の讀者は、すべてこれから文學を試み、天下に名を成さうといふ謂はば青雲の志を持つて居られる。いささかの卑屈もない。肩を張つて蒼穹を仰いでゐる。傷一つ受けてゐない。無染である。その人に、太宰といふ下手くそな作家の、醜怪に嗄れた呟きが、いつたい聞えるものかどうか。私の困惑は、ここに在る。
 私は今まで、なんのいい小説も書いてゐない。すべて人眞似である。學問はない。未だ三十一歳である。青二歳である。未だ世間を知らぬと言はれても致しかたが無い。何も、無い。誇るべきもの何も無いのである。たつた一つ、芥子粒ほどのプライドがある。それは、私が馬鹿であるといふことである。全く無uな、路傍の苦勞ばかり、それも自ら求めて十年間、轉輾して來たといふことである。けれども、また、考へてみると、それは、讀者諸君が、これから文豪になるために、ちつとも必要なことではない。むだな苦勞は、避け得られたら、それは避けたはうがよいのである。何事も、聰明に越したことはない。けれども私は、よほど頭がわるく、それにまた身のほど知らぬ自惚れもあり、人の制止も聞かばこそ、なに大丈夫だ、大丈夫だと匹夫の勇、泳げもせぬのに深潭に飛び込み、たちまち、あつぷあつぷ、眼もあてられぬ有樣であつた。そのやうな愚かな作家が、未來の鴎外、漱石を志してゐるこの雜誌の讀者に、いつたい、どんなことを語ればいいのか。實に、困惑するのである。
 私は、惡名のはうが、むしろ高い作家なのである。さまざまに曲解せられてゐるやうである。けれども、それは、やはり私の至らぬせゐであらうと思つてゐる。實に、むづかしいものである。私は、いまは、氣永にやつて行くつもりでゐる。私は頭がわるくて、一時にすべてを解決することは、できぬ。手さぐりで、そろそろ這つて歩いて行くより他に仕方がない。長生きしたいと思つてゐる。
 そんな情態なので、私は諸君に語るべきもの、一つも持つてゐない。たつたひとつ、芥子粒ほどのプライドがあると、さつき書いたが、あれもいまは消し去りたい氣持ちである。ぱかな苦勞は、誇りにならない。けれども私は、藁ひとすぢに縋る思ひで、これまでの愚かな苦勞に執着してゐるといふことも告白しなければならない。若し語ることがあるとすれば、ただ一つ、そのことだけである。私は、こんなばかな苦勞をして、さうして、なんにもならなかつたから、せめて君だけでも、自重してこんなばかな眞似はなさらぬやうにといふ極めて消極的な無力な忠告くらゐは、私にも、できるやうに思ふ。燈臺が高く明るい光を放つてゐるのは、燈臺みづからが誇つてゐるのでは無くして、ここは難所ゆゑ近づいてはいけませんといふ忠告の意味なのである。
 私のところへも、二、三、學生がやつて來るのである。私は、そのときにも、いまと同じ樣な困惑を感じるのである。彼等は、もちろん私の小説を讀んでゐない。彼等もまた青雲の志を持つてゐるのであるから、私の小説を輕蔑してゐる。また、さうあるべきだと思ふ。私の小説などを讀むひまがあつたら、もつともつと外國の一流作家、または日本の古典を讀むべきである。望みは、高いほどよいのである。そんなに、私の小説を輕蔑してゐながら、なぜ私のところへ來るのか。來易いからである。それ以外の理由は、ないやうである。玄關をがらつとあけると、私が、すぐそこに坐つてゐる。家が狭いのである。
 せつかく訪ねて來てくれたのである。まさか惡意を持つて、はるばるこんな田舎まで訪ねて來てくれる人もあるまい。私は知遇に報いなければならぬ。あがりたまへ、ようこそ、と言ふ。私は、ちつとも偉くないのだから、客を玄關で追ひかへすなどは、とてもできない。私は、そんなに多忙な男でもないのである。忙中謝客などといふ、あざやかなことは永遠に私には、できないと思ふ。
 僕よりもつと偉い作家が、日本にたくさんゐるのだから、その人たちのところへ行きなさい。きつと得るところも、甚大であらうと思ふ、と私は或るとき一人の學生に、まじめに言つたことがあるけれども、そのとき學生は、にやりと笑つて、行つたつて、僕たちには逢つてくれないでせう、と正直に答へたのである。そんなことは無いと思ふ。逢つてくれないならば、にぎりめし持參で門の外に頑張り、一夜でも二夜でも、ねばるがよい。ほんたうにその人を尊敬してゐるならば、そんな不穩の行動も、あながち惡事とは言へまい、と私は、やはりまじめに言つたのであるが、學生は、こんどは、げらげら笑ひ出して、それほど尊敬してゐる人は、日本の作家の中には無い、ゲエテとか、ダヴインチのお弟子になるんだつたら、それくらゐの苦心をしてもいいが、と囁き、卓の上の饅頭を一つ素早く頬張つた。青春無垢のころは、望みは、すべてこのやうに高くなければならぬのである。私は、その學生に向つては、何も言へなくなるのである。私は、輕蔑されてゐる。けれども、その輕蔑は正しいのである。私は貧乏で、なまけもので、無學で、さうして甚だ、いい加減の小説ばかり書いてゐる。輕蔑されて、至當なのである。
 君は苦しいか、と私は私の無邪氣な訪客に尋ねる。それあ、苦しいですよ、と饅頭ぐつと呑みこんでから答へる。苦しいにちがひないのである。青春は人生の花だといふが、また一面、焦燥、孤獨の地獄である。どうしていいか、わからないのである。苦しいにちがひない。
 なるほど、と私は首肯し、その苦しさを持てあまして、僕のところへ、かうしてやつて來るのかね、ひよつとしたら太宰も案外いいこと言ふかも知れん、いや、やつばり、あいつはだめかな? などとそんな氣持で、ふらふらここへ來るのかね、もし、さうだつたら、僕では、だめだ、君に何んにもいいことヘへることができない。だいいち、いま僕自身あぶないのだ。僕は、頭がわるいから、なんにもわからないのだ。ただ、僕はいままで、ばかな失敗ばかりやつて來たから、僕のばかな眞似をするなとなんべんでも繰り返して言ひたいだけだ。學校をなまけては、いけない。落第しては、いけない。カンニングしてもいいから、學校だけは、ちやんと卒業しなければいけない。できるだけ本を讀め。カフエに行つて、お金を亂費してはいけない。酒を呑みたいなら、友人、先輩と牛鍋つつきながら悲憤慷慨せよ。それも一週間に一度以上多くやつては、いけない。侘びしさに堪へよ。三日堪へて、佗びしかつたら、そいつは病氣だ。冷水摩擦をはじめよ。必ず腹巻きをしなければいけない。ひとから金を借りるな。飢死するとも借錢はするな。世の中は、人を飢死させないやうにできてゐるものだ。安心するがいい。戀は、必ず片戀のままで、かくして置け。女に戀を打ち明けるなど、男子の恥だ。思へば、思はれる。それを信じて、のんきにして居れ。萬事、あせつてはならぬ。漱石は、四十から小説を書いた。
 愚かな私の沿黷マいの忠告は、以上のやうな、甚だ高尚でないことばかりだつたので、かの學生は、腹をかかへて大笑ひしたのであるが、この雜誌の讀者もまた、明日の鴎外、漱石、ゲエテをさへ志してゐるにちがひないのだから、このちつとも有名でないし、偉くもない作家の、おそろしく下等な叫び聲饗には、さだめし失笑なされたことであらう。それでいいのだ。望みは高いほどよいのである。




  心の王者




 先日、三田の、小さい學生さんが二人、私の家に參りました。私は生憎加減が惡くて寢てゐたのですが、ちよつとで濟む御話でしたら、と斷つて床から拔け出し、どてらの上に註Dを註Dつて、面會いたしました。お二人とも、なかなかに行儀がよろしく、しかもさつさと要談をすまし、たちどころに引上げました。
 つまり、この新聞に隨筆を書けといふ要談であつたわけです。私から見ると、いづれも十六七くらゐにしか見えない温厚な少年でありましたが、それでもやはり廿を過ぎて居られるのでせうね。どうも、此頃、人の年齢のほどが判らなくなつてしまひました。十五の人も三十の人も四十の人も、また或は五十の人も、同じことに怒り、同じことに笑ひ興じ、また同樣に少しずるく、また同樣に弱く卑屈で、實際、人の心理ばかりを見てゐると、人の年齢の差別など、こんぐらかつて來てわからなくなり、どうでもいいやうになつてしまふのであります。先日の二人の學生さんだつて、十六七には見えながら、その話振りには、ちよいとした駈引などもあり、なかなか老成してゐた箇所がありました。いはば、新聞編輯者として既に一家を成してゐました。お二人が歸られてから私は羽織を脱ぎ、そのまま又布團の中にもぐりこみ、それから暫らく考へました。今の學生諸君の身の上が、なんだか不憫に思はれて來たのであります。
 學生とは、社會のどの部分にも屬してゐるものではありません。また、屬してはならないものであると考へます。學生とは本來、いマントを註Dつたチヤイルド・ハロルドでなければならぬと、私は頑迷にも信じてゐる者であります。學生は思索の散歩者であります。青空の雲であります。編輯者に成りきつてはいけない。役人に成りきつてはいけない。學者になりきつてさへいけない。老成の社會人になりきることは學生にとつて、恐ろしい墮落であります。學生自らの罪ではないのでせう。きつと誰かに、さう仕向けられてゐるのでせう。だから私は不憫だと言ふのであります。
 それでは學生本來の姿は、どのやうなものであるか。それに對する答案として、私はシルレルの物語詩を一筋、諸君に語りませう。シルレルはもつと讀まなければいけない。
 今のこの時局に於ては尚更、大いに讀まなければいけない。おほらかな、強い意志と、努めて明るい高い希望を持ち續ける爲にも、諸君は今こそシルレルを思ひ出し、これを愛讀するがよい。シルレルの詩に、「地球の分配」といふ面白い一篇がありますが、その大意は、凡そ次のやうなものであります。
 「受取れよ、この世界を!」と~の父ゼウスは天上から人間に號令した。
 「受取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは、これを遺産として、永遠の領地として、贈つてやる。さあ、仲好く分け合ふのだ。」その聲を聞き、忽ち先を爭つて、手のある限りの者は右往左往、おのれの分前を奪ひ合つた。農民は原野に境界の杙を打ち、其處を耕して田畑となした時、地主がふところ手して出て來て、さて嘯いた。「その七割は俺のものだ。」また、商人は倉庫に滿す物貨を集め、長老は貴重な古い葡萄酒を漁り、公達は高オたたる森のぐるりに早速繩を張り廻らし、そこを己れの樂しい狩猟と逢引の場所とした。市長は巷を分捕り、漁人は水邊におのが居を定めた。總ての分割の、とつくにすんだ後で、詩人がのつそりやつて衆た。彼は遙か遠方からやつて來た。ああ、その時は何處にも何も無く、すべての土地に持主の名札が貼られてしまつてゐた。「ええ情ない!なんで私一人だけが皆から、かまつて貰へないのだ。この私が、あなたの一番忠實な息子が?」と大聲に苦情を叫びながら、彼はゼウスの玉座の前に身を投げた。「勝手に夢の國で、ぐづぐづしてゐて、」と~はさへぎつた。「何も俺を怨むわけがない。お前は一體何處にゐたのだ。皆が地球を分け合つてゐるとき。」詩人は答へた。「私は、あなたのお傍に。目はあなたのお顏にそそがれて、耳は天上の音樂に聞きほれてゐました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然と醉つて、地上の事を忘れてゐたのを。」ゼウスは其の時やさしく言つた。「どうすればいい?地球はみんな呉れてしまつた。秋も、狩獵も、市場も、もう俺のものでない。お前が此の天上に、俺とゐたいなら時々やつて來い。此所はお前の爲に空けて置く!」
 いかがです。學生本來の姿とは、即ち此の~の寵兒、此の詩人の姿に違ひないのであります。地上の營みに於ては、何の誇るところが無くつても、其の自由な高貴の憧れによつて時々は~と共にさへ住めるのです。
 此の特權を自覺し給へ。この特權を誇り給へ。何時迄も君に具有してゐる特權ではないのだぞ。ああ、それはほんの短い期間だ。その期間をこそ大事になさい。必ず自身を汚してはならぬ。地上の分割に與るのは、それは學校を卒業したら、いやでも分割に與るのだ。商人にもなれます。編輯者にもなれます。役人にもなれます。けれども、~の玉座に~と並んで座ることの出來るのは、それは學生時代以後には決してあり得ないことなのです。二度と返らぬことなのです。
 三田の學生諸君。諸君は常に「陸の王者」を歌ふと共に、又ひそかに「心の王者」を以て自任しなければなりません。~と共にある時期は君の生涯に、ただ此の一度であるのです。




    こ の ご ろ





        (一)


 南洋パラオ島の汽船會社に勤めてゐる從兄があります。名前を云へばわかるかも知れませぬが、わざと書かない。この從兄は十年前に或る政治運動に獻身して捕へられ、殆ど十年近く世の中から遮斷せられ、このごろ出ることを許され、今は南洋パラオ島で懸命に働いてゐるのであります。先日南洋から手紙が來て「東京の家にはお前の唯一人の叔母たる小生の母と、小生の妹と家内と三人で侘しく留守をしてゐるから一度訪ねて行きなさい」とそれに書かれてありましたが、私はそれに返事して「僕にはとても行けない。僕は今まで色々の馬鹿の事をしてゐるので、肉親とは當分、往來出來ないことになつてゐるのだ、故郷の家とも音信さへ許されてゐない有樣だし、また僕がのこのこ親戚のお宅へ顏を出したら故郷の母や兄はやがてそれを聞いてあの馬鹿がと恥かしい思ひをするであらう、いい恥さらしだといつて嘆くかも知れない、僕は肉親の誰とも顏を合せることが出來ないのだ、僕は叔母さんの所へ行きません」と書きました。
 折り返し南洋から繪葉書が來て「おまへの手紙を讀みました。おまへの之までの業蹟に就いては親戚の者共、いづれも心配してゐた樣である。けれど、過去のことは申すな。過去の事を申せば、小生ごとき天下に隱れも無いではないか。さういふことは氣にかけないやうにしませう。是非いちど小生の東京の母を訪ねなさい。小生の母も病弱で、おまへの父上同樣、長命は保證できません。おまへの故郷の方には、小生の家の方から別に何とも言ふわけで無し、誰にも知れる氣づかひは無いのだから、安心して一度たづねてやつて下さい。母も、どんなに喜ぶか知れない。小生、このごろポオドレエルを讀み返し、反省悔恨の強烈を學びつつあります」といふ言葉だつたので、私も之以上、愚圖愚圖してゐるのは、かへつて厭味な卑下だと思ひ、叔母を訪ねることにしました。
 省線の四谷驛で降りて、薄暮、叔母の家を捜し當て、殆ど二十年ぶりで叔母と對面することが出來ました。叔母はもう、いいお婆あさんになつてゐました。從妹など、以前見たときは乳呑兒であつたのですが、もう、おとなになつてゐました。その夜は叔母から、いろいろ話を聞きました。歸途は、なんだか、やり切れない氣持でありました。肉親といふものは、どうして、こんなに悲しいものだらう。省線に乘つてからも、あれこれ思ひ、南洋の從兄の健鬪を一心に祈つてゐました。

      (二)

 Tといふ友人があります。この人は、いま北支に居ります。兵隊さんなのです。私とは未だ一度も
逢つたことが無いのですが、五、六年まへから手紙の往復して居ります。五、六年まへにその人は小さい同人雜誌にいい小説を一篇發表しました。私はその小説に就いて或る雜誌に少し書きました。それから手紙の往復がはじまつたのです。T君は、朝鮮の或る會社に勤めてゐたのです。一昨年、應召して、あちこち轉戰して、小閑を得る度毎に、戰爭を題材にした小説を書いては、私のところに送つて來ました。拝見してみると、いづれも、上出來では無いのです。T君ともあらうものが、こんな投げやりな文章では仕樣がないと思ひましたので、「實に下手だ。いい加減な文章だ」と馬鹿正直に、その都度私の感想を書いて送つたのであります。T君も、ちやんと出來た人でありますから、私の罵言の蔭の小さい誠實を察知してくれて「しばらく小説を書かず、ゆつくり心境を練るつもりだ」といふ手紙を寄こして、それから數囘の激戰に參加なされた樣子で、二月ほど經つてから、送つて寄こした小説は、ぐんと張り切つて居りましたので、私は早速、或る雜誌社にたのみ、掲載させてもらひました。その雜誌と、それから雜誌の新聞廣告の切拔きとを戰地に送つてやりましたら、T君は「いや、實に恥ぢいつた。あんな中堅作家の作品と並べられて、はじめて僕の下手さ加減が、わかつた。きつと僕が、戰地で働いてゐる兵隊だから、そのハンデキヤツプもあつて、掲載されたのだらうが、いや、實に恥づかしい。僕は、H・Aといふ人の戰爭の小説を讀んで、何これくらゐならば僕だつて書けると思つてゐたのだが、とんでも無いことであつた。僕は、またしばらく小説から離れたい。實際、今は、穴あらばはひりたい氣持です」と書いて寄こしました。私はT君に貧しい慰問袋を送りました。タオルや下帶の他に唐詩選、上下二巻をいれてやりました。
 唐詩選は、成功したやうでした。T君は、各地を轉戰しながら、此處は李太白の醉つぱらつたところ、此處は杜甫の哭いたところと唐詩選に照らし合せて、戰ふ心も豐かになり、さながら詩聖たちと共に且つ醉ひ且つ哭く氣持だと、書いて寄こしました。T君はいまにきつと、立派な小説を書けるやうになるのではないか、と私は樂しく、同時にT君の武運長久を所つてゐました。何かまた本を送つてよこして下さい、と戰地からョんで來ましたので、私は新宿へ行き、華麗な裸婦のたくさんある泰西の畫集を三册買ひました。この美しい畫集も、戰地を少しでも明るく彩色してくれるにちがひ無いと思ひ、勇んで家へ歸つて來ましたところ、戰地からの繪葉書が一枚、机の上に載つてありました。T君からの、おたよりでした。「もう手紙を寄こさないで下さい。慰問袋も寄こさないで下さい。寄こしても、返送されるでせう。私の宛名もまるで變るかも知れません。しばらく、何も送つて寄こしてはいけません」と書いてあつたので、私は實に不吉なものを感じて、ぎよつとしましたが、その葉書の隅に小さく「to see you 遠からず一緒に呑めます」と書かれてありました。T君萬歳。ちかく凱旋するのです。


       (三)


 Y君といふ友人があります。私も、とかく理窟つぼい男ですが、Y君ほどではありません。Y君は、實に議論の好きな男であります。先日かれは人力車に乘つて、三鷹村の私の家へ議論しにやつて來ました。夜明けの三時までさまざまの議論をいたしましたが、雌雄決せぬままに蒲團にぶつたふれて寢てしまひました。翌る日、起きて、ふたりで顏を洗ひに井戸端へ出て、そこでもう藝術論がはじまり、一時間ちかく井戸端をぐるぐるめぐり歩いて最近の感想を述べ合ひました。朝ごはんを食べて、家のちかくの井之頭公園へ散歩に出かけ、行く途々も、議論であります。
 「それでは一たい」とY君は一段と聲を張り上げ「君の最も、書きたいと思ふものは、なんだね。君のパツシヨンをどこに置いてゐるのか。それから、さきに決定しよう」と詰め寄り、私は少し考へて、
 「それは、弱さだ」ドストと言ひかけた時、突然、右手の生垣から赤犬が一匹わんと言つて飛び出し、私は、あつと悲鳴を擧げて體をかはしましたがその犬は、執拗にも私にばかり吠えつき、白い牙をむき出してかかつて來るので、私は今は見榮も外聞もなく、Y君の背後にひたと隠れて、
 「だめだ、だめだ、これあいけねえ、わあ、いけねえ」などと意味不明の言語を發するばかりでありました。
 Y君は、持つてゐたステツキを振り上げて、悠然とその犬を撃退してくれたのですが、私は一時、死ぬばかりでありました。
 「なるほど、弱さ、かね」とY君に、笑はれても、私は抗辯することもできず、かの赤犬の出現以來、もう、めつきり氣が弱くなつて、それからの議論は、ことごとく私の敗北になりました。何を言つても私の語調には勢ひが無く、ちつともいいところが無くなりました。ねつから、その日は駄目でした。 犬は、私の仇であります。昨年の秋に、私が或る雜誌に犬のことを書いたら、二、三の知人から大いに面白かつたと褒められて、その作品は、實に粗末なものでしたので、私は愈々恥ぢて、それ以來、犬の話は努めて避けてゐました。いままた犬の話などを持ち出しては、調子に乗つていい氣になつてゐるやうで、まるで見つともないのですが、私の家の小さい庭は日當りのよいせゐか、毎日いろんな犬が集まつて來て、たのみもせぬのに、きやんきやんごうごう、色んな形の格鬪の稽古をして見せるので實に閉口してゐます。仕方が無いので縁側に出て、
 「前田さん、靜かにして下さい。西郷さんもお止しなさい。荒木さんも、うるさいね。みんな、あつちへ行つて下さい。お菓子を、あげますから」と言つて、せんべい一枚をヒユウと向ふの畑地へ投げてやります。みんな競爭して飛んで行きます。前田さん、西郷さん、荒木さんは、それぞれ、その犬の飼ひ主の名前であります。みんな立派な邸宅を構へてゐます。このごろ、たいてい、どの犬はどこのものだといふことが判つて來ましたから、わざと飼ひ主の名でもつて、私は犬どもを呼んでゐます。犬は、それぞれ、その飼ひ主の氣質を餘すところなく暴露してゐるものでありますが、ご近所の惡口は言ひますまい。ひよつとしたら、この新聞を讀んでゐる御家庭もあるかも知れませんから。
 このごろは、私もおとなしくしてゐるから、故郷の家でも、少しつつ私を信用して來た樣子で、うれしくてなりません。けふは、故郷の姉上から、お餅をこつそり送つていただきました。ことしは、きつと、いいことがあるでせう。




  鬱 屈 禍




 この新聞(帝大新聞)の編輯者は、私の小説が、いつも失敗作ばかりで伸び切つてゐないのを聰明にも見てとつたのに違ひない。さうして、この、いぢけた、流行しない惡作家に同情を寄せ、「文學の敵、と言つたら大袈裟だが、最近の文學に就いて、それを毒すると思はれるもの、まあ、さういつたやうなもの」を書いてみなさいと言つて來たのである。
 編輯者の同情に報いる爲にも私は、思ふところを正直に述べなければならない。
  かういふ言葉がある。「私は、私の仇敵を、ひしと抱擁いたします。息の根を止めて殺してやらう下心。」これは、有名の詩句なんださうだが、誰の詩句やら、浅學の私には、わからぬ。どうせ不埒な、惡文學者の創つた詩句にちがひない。ジイドがそれを引用してゐる。ジイドも相常に惡業の深い男のやうである。いつまで經つても、なまぐさ坊主だ。ジイドは、その詩句に續けて、彼の意見を附加してゐる。すなはち、「藝術は常に一の拘束の結果であります。藝術が自由であれば、それだけ高く昇騰すると信ずることは、凧のあがるのを阻むのは、その絲だと信ずることであります。カントの鳩は、自分の翼を束縛する此の空氣が無かつたならば、もつとよく飛べるだらうと思ふのですが、これは、自分が飛ぶためには、翼の重さを托し得る此の空氣の抵抗が必要だといふことを識らぬのです。同樣にして、藝術が上昇せんが爲には、矢張り或る抵抗のお蔭にョることが出來なければなりません。」なんだか、子供だましみたいな論法で、少し結論が早過ぎ、押しつけがましくなつたやうだ。
 けれども、も少し我慢して彼のお話に耳を傾けてみよう。ジイドの藝術評論は、いいのだよ。やはり世界有數であると私は思つてゐる。小説は、少し下手だね。意あまつて、絃響かずだ。彼は、續けて言ふ。
 「大藝術家とは、束縛に鼓舞され、障害が踏切臺となる者であります。傳へる所ではミケランジエロがモオゼの窮屈な姿を考へ出したのは、大理石が不足したお蔭だと言ひます。アイスキユロスは、舞臺上で同時に用ゐ得る聲の數が限られてゐる事に依て、そこで止むなく、コオカサスに鎖ぐプロメトイスの沈默を發明し得たのであります。ギリシヤは琴に絃を一本附け加へた者を追放しました。藝術は拘束より生れ、鬪爭に生き、自由に死ぬのであります。」
 なかなか自信ありげに、單純に斷言してゐる。信じなければなるまい。
 私の隣の家では、朝から夜中まで、ラヂオをかけつばなしで、甚だ、うるさく、私は、自分の小説の不出來を、そのせゐだと思つてゐたのだが、それは間違ひで、此の騒音の障害をこそ私の藝術の名譽ある踏切臺としなければならなかつたのである。ラヂオの騒音は決して文學を毒するものでは無かつたのである。あれ、これと文學の敵を想定してみるのだが、考へてみると、すべてそれは、藝術を生み、成長させ、昇華させる有難い母體であつた。やり切れない話である。なんの不平も言へなくなつた。私は貧しい惡作家であるが、けれども、やはり第一等の道を歩きたい。つねに大藝術家の心構へを、眞似でもいいから、持つてゐたい。大藝術家とは、束縛に鼓舞され、障害を踏切臺とする者であります、と祖父のジイドから、やさしくヘへさとされ、私も君も共に「いい子」になりたくて、はい、などと殊勝げに首肯き、さて立ち上つてみたら、甚だばかばかしい事になつた。自分をぶん殴り、しばりつける人、ことごとくに、「いや、有難うございました。お蔭で私の藝術も鼓舞されました。」とお辭儀をして廻らなければならなくなつた。駒下駄で顏を毆られ、その駒下駄を錦の袋に收め、朝夕うやうやしく禮拜して立身出世したとかいふ講談を寄席で聞いて、實にばかばかしく、笑つてしまつたことがあつたけれど、あれとあんまり違はない。大藝術家になるのもまた、つらいものである。
 などと茶化してしまへば、折角のジイドの言葉も、ぼろくそになつてしまふが、ジイドの言葉は結果論である。後世、傍観者の言葉である。
 ミケランジエロだつて、その當時は大理石の不足に悲憤痛嘆したのだ。ぶつぶつ不平を言ひながらモオゼ像の制作をやつてゐたのだ。はからずもミケランジエロの天才が、その大理石の不足を償つて餘りあるものだつたので、成功したのだ。いはんや私たち小才は、ぶん殴られて喜んでゐたのぢや、制作も何も消えて無くなる。
 不平は大いに言ふがいい。敵には容赦をしてはならぬ。ジイドもちやんと言つてゐる。「鬪爭に生き、」と拔からず、ちやんと言つてゐる。敵は? ああ、それはラヂオぢや無い! 原稿料ぢや無い。 批評家ぢや無い。古老の曰く、「心中の敵、最も恐るべし。」私の小説が、まだ下手くそで伸び切らぬのは、私の心中に、やつばり濁つたものがあるからだ。

 



  酒ぎらひ





 二日つづけて酒を呑んだのである。をととひの晩と、きのふと、二日つづけて酒を呑んで、けさは仕事しなければならぬので早く起きて、臺所へ顏を洗ひに行き、ふと見ると、一升瓶が四本からになつてゐる。二日で四升呑んだわけである。勿論、私ひとりで四升呑みほしたわけでは無い。をととひの晩はめづらしいお客が三人、この三鷹の陋屋にやつて來ることになつてゐたので、私は、その二三日まへからそはそはして落ちつかなかつた。一人は、W君といつて、初對面の人である。いやいや、初對面では無い。お互ひ、十歳のころに一度、顏を見合せて、詰もせず、それつきり二十年間、わかれてゐたのである。一つきほどまへから、私のところへ、ちよいちよい日刊工業新聞といふ、私などとは、とても緑の遠い新聞が送られて來て、私は、ちよつとひらいてみるのであるが、一向に讀むところが無い。なぜ私に送つて下さるのか、その眞意を解しかねた。下劣な私は、これを押賣りではないかとさへ疑つた。家内にも言ひきかせ、とにかく之は怪しいから、そつくり帶封も破らずそのまま
にして保存して置くやう、あとで代金を請求して來たら、ひとまとめにして返却するやう、手筈をきめて置いたのである。そのうちに、新聞の帶封に差出人の名前を記して送つて來るやうになつた。Wである。私の知らぬお名前であつた。私は、幾度となく首ふつて考へたが、わからなかつた。そのうちに、「金木町のW」と帶封に書いてよこすやうになつた。金木町といふのは、私の生れた町である。津輕平野のまんなかの、小さい町である。同じ町の生れゆゑ、それで自社の新聞を送つて下さつたのだ、といふことは、判明するに到つたが、やはり、どんなお人であるか、それは思ひ出すことができないのである。とにかく御好意のほどは、わかつたのであるから、私は、すぐにお禮をハガキに書いて出した。「私は、十年も故郷へ歸らず、また、いまは肉親たちと音信さへ不通の有樣なので、金木町のW樣を、思ひ出すことが、できず、殘念に存じて居ります。どなたさまで、ございましたでせうか。おついでの折は、汚い家ですが、お立ち寄り下さい。」といふやうなことを書きしたためた筈である。相手の人の、おとしの程もわからず、或ひは故郷の大先輩かも知れぬのだから、失禮に當らぬやう、言葉使ひにも充分に注意した筈である。折返し長いお手紙を、いただいた。それで、わかつた。裏の登記所のお坊ちやんなのである。固苦しく言へば、青森縣區裁判所金木町登記所々長の長男である。子供のころは、なんのことかわからず、ただ、トキシヨ、トキシヨと呼んでゐた。私の家のすぐ裏で、W君は、私より一年、上級生だつたので、直接、話をしたことは無かつたけれど、たつたいちど、その登記所の窓から、ひよいと顏を出した、その頰をちらりと見て、その顏だけが、二十年後のいまとなつても、色あせずに、はつきり殘つてゐて、實に不思議な氣がした。Wといふ名前も覺えてゐないし、それこそ、なんの恩怨もないのだし、私は高等學校時代の友人の顏でさへ忘れてゐることが、ままあるくらゐの健忘症なのに、W君の、その窓から、ひよいと出した丸い顏だけは、まつくらい舞臺に一箇所スポツトライトを當てたやうにあざやかに眼に見えてゐるのである。W君も、内氣なお入らしいから、私同樣、外へ出て遊ぶことは、あまり無かつたのではあるまいか。そのとき、たつたいちどだけ、私はW君を見掛けて、それが二十年後のいまになつても、まるで、ちやんと天然色寫眞にとつて置いたみたいに、映像がぼやけずに胸に殘つて在るのである。私は、その顏をハガキに畫いてみた。胸の映像のとほりに書くことができたので、うれしかつた。たしかに、ソバカスが在つたのである。そのソバカスも、點々と散らして畫いた。可愛い顏である。私は、そのハガキをW君に送つた。もし、間違つてゐたら、ごめんなさい、と大いに非禮を謝して、それでも、やはりその畫を、お目に掛けずには、居られなかつた。さうして、「十一月二日の夜、六時ごろ、やはり青森縣出身の舊友が二人、拙宅へ、來る筈ですから、どうか、その夜は、おいで下さい。お願ひいたします。」と書き添へた。Y君と、A君と二人さそひ合せて、その夜、私の汚い家に遊びに來てくれることになつてゐたのである。Y君とも、十年ぶりで逢ふわけである。Y君は、立派な人である。私の中學校の先輩である。もとから、情の深い人であつた。五、六年間、ゐなくなつた。大試錬である。その間、獨房にてずゐぶん堂々の修行をなされたことと思ふ。いまは或る書房の編輯部に勤めて居られる。A君は、私と中學校同級であつた。畫家である。或る宴會で、これも十年ぶりくらゐで、ひよいと顏を合せ、大いに私は興奮した。私が中學校の三年のとき、或る惡質のヘ師が、生徒を罰して得意顏の瞬間、私は、そのヘ師に輕蔑をこめた大拍手を送つた。たまつたものでない。こんどは私が、さんざんに殴られた。このとき、私のために立つてくれたのが、A君である。A君は、ただちに同志を糾合して、ストライキを計つた。全學級の大騒ぎになつた。私は、恐怖のためにわなわな震へてゐた。ストライキになりかけたとき、そのヘ師が、私たちのヘ室にこつそりやつて來て、どもりながら陳謝した。ストライキは、とりやめとなつた。A君とは、そんな共通の、なつかしい思ひ出がある。
 Y君に、A君と、二人そろつて私の家に遊びに來てくれることだけでも、私にとつて、大きな感激なのに、いままた、W君と二十年ぶりに相逢ふことのできるのであるから、私は、三日もまへから、そはそはして、「待つ」といふことは、なかなか、つらい心理であると、いまさらながら痛感したのである。
 よそから、もらつたお酒が二升あつた。私は、平常、家に酒を買つて置くといふことは、きらひなのである。黄色く薄濁りした液體が一ぱいつまつて在る一升瓶は、どうにも不潔な、卑猥な感じさへして、恥づかしく、眼ざはりでならぬのである。臺所の隅に、その一升瓶があるばつかりに、この狭い家全體が、どろりと濁つて、甘酸つぱい、へんな匂ひさへ感じられ、なんだか、うしろ暗い思ひなのである。家の西北の隅に、異樣に醜怪の、不淨のものが、とぐろを巻いてひそんで在るやうで、机に向つて仕事をしてゐながらも、どうも、潔白の艶iが、できないやうな不安な、うしろ髪ひかれる思ひで、やりきれないのである。どうにも、落ちつかない。
 夜、ひとり机に頰杖ついて、いろんなことを考へて、苦しく、不安になつて、酒でも呑んでその氣持を、ごまかしてしまひたくなることが、時々あつて、そのときには、外へ出て、三鷹驛ちかくの、すしやに行き、大急ぎで酒を呑むのであるが、そんなときには、家に酒が在ると便利だと思はぬこともないが、どうも、家に酒を置くと氣がかりで、そんなに呑みたくもないのに、ただ、臺所から酒を追放したい氣持から、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまふばかりで、常住、少量の酒を家に備へて、機に臨んで、ちよつと呑むといふ落ちつき澄ました藝は、できないのであるから、自然、All or Nothingの流儀で、ふだんは家の内に一滴の酒も置かず、呑みたい時は、外へ出て思ふぞんぶんに呑む、といふ習慣が、ついてしまつたのである。友人が來ても、たいてい外へ誘ひ出して呑むことにしてゐる。家の者に聞かせたくない話題なども、ひよいと出るかも知れぬし、それに、洒は勿論、酒の肴も、用意が無いので、つい、めんだうくさく、外へ出てしまふのである。大いに親しい人ならば、さうしておいでになる日が改めわかつてゐるならば、ちやんと用意をして、徹宵、くつろいで呑み合ふのであるが、そんな親しい人は、私に、ほんの數へるほどしかない。そんな親しい人ならば、どんな貧しい肴でも恥づかしくないし、家の者に聞かせたくないやうな話題も出る筈はないのであるから、私は大威張りで實に、たのしく、それこそ痛飲できるのであるが、そんな好機會は、二月に一度くらゐのもので、あとは、たいてい突然の來訪にまごつき、つい、外へ出ることになるのである。なんといつても、はんたうに親しい人と、家でゆつくり呑むのに越した樂しみは無いのである。ちやうどお酒が家に在るとき、ふらと、親しい人がたづねて來てくれたら、實に、うれしい。友あり、遠方より來る、といふあの句が、おのづから胸中に湧き上る。けれども、いつ來るか、わからない。常住、酒を用意して待つてゐるのでは、とても私は落ちつかない。ふだんは一滴も、酒を家の内に置きたくないのだから、その邊なかなか、うまく行かないのである。
 友人が來たからと言つて、何も、ことさらに酒を呑まなくても、よささうなものであるが、どうも、いけない。私は、弱い男であるから、酒も呑まずに、まじめに對談してゐると、三十分くらゐで、もう、へとへとになつて、卑屈に、おどおどして來て、やりきれない思ひをするのである。自由潤達に、意見の開陳など、とてもできないのである。ええとか、はあとか、生返事してゐて、まるつきり違つたことばかり考へてゐる。心中、絶えず愚かな、堂々めぐりの自問自答を繰りかへしてゐるばかりで、私は、まるで阿呆である。何も言へない。むだに疲れるのである。どうにも、やりきれない。酒を呑むと、氣持を、ごまかすことができて、でたらめ言つても、そんなに内心、反省しなくなつて、とても助かる。そのかはり、醉がさめると、後悔もひどい。土にまろび、大聲で、わあつと、わめき叫びたい思ひである。胸が、どきんどきんと騒ぎ立ち、ゐても立つても居られぬのだ。なんとも言へず佗びしいのである。死にたく思ふ。酒を知つてから、もう十年にもなるが、一向に、あの氣持に馴れることができない。平氣で居られぬのである。慚愧、後悔の念に文字どほり轉輾する。それなら、酒を止せばいいのに、やはり、友人の顏を見ると、變にもう興奮して、おびえるやうな震へを全身に覺えて、酒でも呑まなければ、助からなくなるのである。やくかいなことであると思つてゐる。
 をととひの夜、ほんたうに珍しい人ばかり三人、遊びに來てくれることになつて、私は、その三日ばかり前から落ちつかなかつた。臺所にお酒が二升あつた。これは、よそからいただいたもので、私は、その處置について思案してゐた矢先に、Y君から、十一月二日夜A君と二人で遊びに行く、といふハガキをもらつたので、よし、この機會にW君にも來ていただいて、四人でこの二升の處置をつけてしまはう、どうも家の内に酒が在ると眼ざはりで、不潔で、氣が散つて、いけない、四人で二升は、不足かも知れない、談たまたま佳境に入つたとたんに、女房が間拔顏して、もう酒は切れましたと報告するのは、聞くはうにとつては、甚だ興覺めのものであるから、もう一升、酒屋へ行つて、とどけさせなさい、と私は、もつともらしい顏して家の者に言ひつけた。酒は、三升ある。臺所に三本、瓶が並んでゐる。それを見ては、どうしても落ちついてゐるわけにはいかない。大犯罪を遂行するものの如く、心中の不安、緊張は、極點にまで達した。身のほど知らぬぜいたくのやうにも思はれ、犯罪意識がひしひしと身にせまつて、私は、をととひは朝から、意味もなく庭をぐるぐる廻つて歩いたり、また狭い部屋の中を、のしのし歩きまはつたり、時計を、五分毎に見て、一圖に日の暮れるのを待つたのである。
 六時牛にW君が來た。あの畫には、おどろきましたよ。感心しましたね。ソバカスなんか、よく覺えてゐましたね。と、親しさを表現するために、わざと津輕訛の言葉を使つてW君は、笑ひながら言ふのである。私も、久しぶりに津輕訛を耳にして、うれしく、こちらも大いに努力して津輕言葉を連發して、呑むべしや、今夜は、死ぬほど呑むべしや、といふやうな工合ひで、一刻も早く醉つぱらひたく、どんどん呑んだ。七時すこし過ぎに、Y君とA君とが、そろつてやつて來た。私は、ただもう呑んだ。感激を、なんと言ひ傳へていいかわからぬので、ただ呑んだ。死ぬほど呑んだ。十二時に、みなさん歸つた。私は、ぶつたふれるやうに寢てしまつた。
 きのふの朝、眼をさましてすぐ家の者にたづねた。「何か、失敗なかつたかね。失敗しなかつたかね。わるいこと言はなかつたかね。」
 失敗は無いやうでした、といふ家の者の答へを聞き、よかつた、と胸を撫でた。けれども、なんだか、みんなあんなにいい人ばかりなのに、せつかく、こんな田舎までやつて來て下さつたのに、自分は何も、もてなすことができず、みんな一種の淋しさ、幻滅を抱いて歸つたのではなからうかと、そんな心配が頭をもたげ、とみるみるその心配が夕立雲の如く全身にひろがり、やはり床の中で、ゐても立つても居られぬ轉輾がはじまつた。ことにもW君が、私の家の玄關にお酒を一升こつそり置いて行つたのを、その朝はじめて後見して、W君の好意が、たまらぬほどに身にしみて、その邊を裸足で走りまはりたいほどに、苦痛であつた。
 そのとき、山梨縣吉田町のN君が、たづねて來た。N君とは、去年の秋、私が御坂峠へ仕事しに行つたときからの友人である。こんど、東京の造船所に勤めることになりました、と晴れやかに笑つて言つた。私はN君を逃がすまいと思つた。臺所に、まだ酒が殘つて在る筈だ。それに、ゆうべW君が、わざわざ持つて來てくれた酒が、一升在る。整理してしまはうと思つた。けふ、臺所の不浄のものを、きれいに掃除して、さうしてあすから、潔白の艶iをはじめようと、ひそかに計量して、むりやりN君にも酒をすすめて、私も大いに呑んだ。そこへ、ひよつこり、Y君が奥さんと一緒に、ちよつとゆうべのお禮に、などと固苦しい挨拶しにやつて來られたのである。玄關で歸らうとするのを、私は、Y君の手首を固くつかんで放さなかつた。ちよつとでいいから、とにかく、ちよつとでいいから、奥さんも、どうぞ、と、ほとんど暴力的に座敷へあがつてもらつて、なにかと、わがままの理窟を言ひ、たうとうY君をも、酒の仲間に入れることに成功した。Y君は、その日は明治節で、勤めが休みなので、二、三親戚へ、ごぶさたのおわびに廻つて、これから、もう一軒、顏出しせねばならぬから、と、ともすれば、逃げ出さうとするのを、いや、その一軒を殘して置くほうが、人生の味だ、完璧を望んでは、いけませんなどと屁理窟言つて、つひに四升のお酒を、一滴のこさず整理することに成功したのである。

 

 

 

 

  知らない人




 ことしの正月は、さんざんでありました。五日すぎから、腰の右方に腫物ができて、粗末にしてゐたら次第にそれが成長し、十五日までは酒を呑んだりして不安の氣持をごまかしてゐましたが、たうとう十六日からは、寢たつきりになつてしまひました。惡寒疼痛、二、三日は、夜もろくに眠れませんでした。手術は、いやなので無二膏といふ膏藥を患部に貼り、それだけでも心細いので、いま流行してゐるらしい、れいの「二箇のズルフオンアミド基」を有する高價の藥品を内服してみました。葡萄状球菌、連鎖状球菌に因る諸疾患にも卓效を奏するといふことだつたので、私は、それを、はじめて二錠服用したときから、既に快復の一歩を踏み出したやうな爽快を覺えました。私は、膏藥の效能書を、實に信用する愚かな性質を持つて居ります。その、「二箇のズルフオンアミド基」を有する高級化學療法劑に就いては、かねて新聞廣告に依つても承知してゐたのでありますし、いま自ら購ひ求めて、藥品に添附されて在る一枚の效能書をつくづく眺め、熟讀して、腰の腫物を忘却してしまふほど安心したのであります。效能書に依れば、これは、たいした藥なのであります。世界を驚かした大發明なのであります。私は、ここでその藥品の廣告をするつもりでは無いから、くはしくは書きませんが、實に種々雜多の難病に卓效を奏する藥なのであります。もう、これでなほつた。腫物が、なほるばかりでなく、肌がなめらかになり色が白くなるかも知れない、と家の者に冗談を言ひ、靜かに臥し、藥のききめを待つてゐました。二錠づつ、一日三囘服用すると、たいていの腫物は、なほるといふ效能書の言葉だつたのですが、二日服用しても、三日服用しても、ちつとも輕快になりません。
 おなかが變に張つて、ごろごろ鳴ります。胃に惡い藥のやうです。三日服用したら、あと服用を禁止せよ、三日乃至五日間休止して、それからさらに二錠づつの服用を開始せよ、と效能書に書かれて在りましたので、私は、少しも、ききめの無いままに、その藥の服用を、やめなければならなくなりました。すでに私は、三日間、服用してしまつたのです。甚だ、味氣ない思ひでありました。腫物はいよいよ發展し、いまは膏藥では間に合はず、脱脂綿に無刺激の油藥を塗つて患部に貼りつけ、日に五、六囘も貼りかへなければなりませんでした。膿が、どんどん出るのです。その状は、流石に形容を遠慮しますけれど、とにかく酸鼻の極でありました。お銚子の底くらゐの大きい深い穴が腰にぽつかりできてしまつたのです。入院、といふことも考へましたが、それでも、やはり心の奥底で、かの高價な「二個のズルフオンアミド基」を有する世界的な新藥を、たのみにしてゐるところが在るらしく、そのうち卓效を奏するであらうと、身動きもならず靜かに臥して、天に祈る氣持でありました。服用休止の三日間が過ぎて、さらに私は藥品の服用を開始しました。いたづらに膿が流出するだけであります。患部を見ると、あまりの慘状にくらくら眩暈を感じます。腫物で死ぬ奴も無いだらう、などと強がりを言つて、醫者に見せようともしませんでしたが、どうも、夜半ひとり眼覺めて、いろいろのことを考へると、なかなかに心細くなるのでした。寢ついてから、もう十日以上になります。いまは、膿も、あまり出なくなつて、からだも輕くなり、かうして床に腹這ひになり原稿を書けるやうになりました。だんだん、よくなつて行くのでせう。やはり、「二個のズルフオンアミド基」のおかげなのでせうか。それにしても、ずゐぶん緩慢な卓效ぶりであります。全快までには、まだまだ相當の日數がかかるやうな氣がします。私が、あまり有頂天で效能書の文句を信じ過ぎたのでありませう。現實は、たいてい、こんなものではないでせうか。この世に、奇蹟なんてものを期待した私は、ばかであります。
 十日間、寢たままなので、ずゐぶん本を讀みました。なんでもかでも、選擇せずに讀みました。恵送された同人雜誌も、全部讀破しました。一つ、心に殘つた記事があります。第一早稲田高等學院の「學友會雜誌」に、Kヘ授の追悼記が載つてゐました。Kヘ授といふ人は、どんな人だか、私はちつとも存じません。逢つたことも無し、また、名を聞いたことさへありません。けれども、その雜誌に載つてゐる四つの追悼記を讀んで、實にその人を、なつかしく、惜しく思ひました。こんな美しい人も生きてゐたのかとほのぼの樂しく、また、もうこの人も、なくなつて、お逢ひできる望みは、全く無いのだと思ふと、胸ががらんどうになつて侘びしく、變な氣持でありました。四人の人が、追悼文を書いてゐるのですが、その四人の人の名も、私は知つてゐません。四人とも、早稲田の先生なのでせう。私の知らない人ばかりですが、なかなか巧みに書いて居ります。追悼文を讀み、私のやうに故人を全く知らぬ男にさへ、故人に對して追慕の念を懷かせるのは、それは、きつと追悼文の誠實さであり、またその追悼文の筆者の故人に對する深い愛情の證據であると考へられますが、また、それだけ故人のコの深さをも思ひやられるところが在るのであります。つまり、故人のコの深さが、このやうに友人たちに、美しい追悼文を書かせた、といふ交互相照の作用を考へることもできるのであります。私は、終りのはうから逆に讀んで行きました。一ばん終りには、Y・Tといふ人が、「K君は歩きながら語り合ふ樣な人であつた。さし向つて話すときでもお互ひにそつぽをむいて話した。それが大變に氣持よかつた。そして默つたままでゐても氣持が良かつた。」と書いてゐます。また、「勢ひこんで議論を吹きかけるとK君は大抵だまつて、ものの十秒も考へてから言ふのである。君の言ふことも、さう、そんなこともあるよ、とK君は獨特のアクセントで言つてたいてい贊成してくれる。K君は氣の弱い人である。恐らく澤山の人がK君を輕んじてゐたと思ふ。それは全く、はたで見てゐて齒がゆくなる程であつた。K君は決して他人の惡口を言はない。他人の批評をしない。決して蔭ロをきかない。けれども、厭なもの、くだらぬものの傍は默つて通りすぎる人であつた。云々。」とその他たくさんのいいことを書いてゐるのです。M・Kといふ人が、その前の頁に書いてゐます。「實際あのひとの慇懃鄭重は、生れつきだつたらしい。幹部候補生を勤め上げて、騎兵少尉になつてからのことだ。どこかへ演習に待つての歸る時、集合命令をかけたが、雜談に餘念のなかつた二三の部下に徹度しなかつた。つかつかと歩み寄つたK少尉、いきなりびんたの一つも張るかと思つたらさにあらず、『それ位にして置いて早く集つて下さい、濟まんが』とやつたものだ。部下は飽氣にとられる。側にゐた上官が、そんなことで威嚴が保てるか、と眞赤になつてK少尉の膏を搾つたといふが、Kさんは、そんな人だ。決して威張れない人なんだ。それでゐて結構つよい牛面もあつて、學問上の議論となると、なかなか譲らない。我武者羅に押通さうものなら、默つて聽いてはゐるが、『さういふけどなあ』とねちねちやつて來る。言ひ出したら引かない。しまひには辭引を出して來る。參考書を引張り出す。さうなつたら大抵の場合、こちらの敗けだ。よく讀んでゐるからなあ。」と書いてゐます。また、「本當の意味のユーモアは、K君の持味だつた。輕口を言はず、駄洒落を飛ばさないから、K君をユーモリストだと誰も思はないけれど、挨拶をさせたり、序文を書かせたりしたら、K君のものは天下一品だ。少し長すぎるなと思つても、結構、しまひまで附合ひさせる面白さがあつた。微笑は、する者にも見る者にも、上品でよいものだ。そんな輕い微笑をK君は絶えず人々に、そつと投げかけてゐた。だからK君のゐる傍は、いつも和やかな春風が吹いてゐた。云々。」その前の頁には、D・Eといふ人が、「彼には、自分が生きるために、止むを得ず他の人間を喰物にするなぞといふ事は、誠に思ひもよらぬ事の如くであつた。氣づかぬふりして人に迷惑をかける、なぞといふ事は絶對に彼の本性が許さなかつた。彼は實に不便な思ひをしながらも、最も人に迷惑をかけないやうな身の置き所から、身の置き所へと、恰も飛石づたひのやうに拾ひ歩かなければならなかつたのである。」と愛情を以て説明して居ります。また、その前の真には、T・Iといふ人が、「變な言ひかたかも知れないが、Kさんは、ほんとの聲を出す人であつた、さうしてほんとの聲しか、出さない人であつた。君が純眞率直で自己を僞れない人であつた他面に、さういふ人に時々見掛けられる他の人に對する冷酷さといふ
ものが殆ど無く、反對に優しい心根の、先輩に對しては極めて謙譲な、實に美しい性情の持主であつたことは、矢張り君の自己ヘ養の深さから來たものではないかと思ふ。」と書いて、その實例を三つ四つ、引いて在るのです。實にK氏は、いい人だ、できた人だ。こんないい人が、どうして死んだのだらう、と追悼記の一ばん前の頁をひらいて見ると、そこに、學院長K・Mといふ人の弔詞が在ります。「第一早稲田高等學院ヘ授陸軍騎兵中尉K・K君逝けり。君は昨年九月召に應じて征途に就き、南支バイアス灣上陸軍に加はり、廣東攻略戰に參加して奮鬪せしが、幾ばくもなく病に罹りて、戰線より後退するの止むなきに至り、爾來臺灣に、後廣島に加療し、更に東京日本赤十字病院に轉じて、只管に健康の恢復に力めしが、天無情にして齡を君に假さず、客月二十九日、痛ましくも終に不歸の客となれり。云々。」と書いてありましたので、私は、なんだか、寢床に起き直りたい氣持になりました。
 小さい、美しい奇蹟を、眼の前に見るやうな氣がいたしました。奇蹟は、やはり在るのです。

 

 

 


  諸君の位置




 世の中の、どこに立つて居るのか、どこに腰掛けて居るのか、甚だ曖昧なので、學生たちは困つて居る。世の中のことは何も知らぬふりして無邪氣をよそほひ、常に父兄たちに甘えて居ればいいのか。又は、それこそ、「社會の一員」として、仔細らしい顏をし、世間の大人の口吻を猿眞似して、大人の生活の要らざる手助けに努めるのがいいのか。いづれにしても不自然で、くすぐつたく、落ちつかないのである。諸君は、子供でも無ければ、大人でも無い。男でも無ければ、女でも無い。埃つぽい制服に身を固めた「學生」といふ全然特殊の人間である。それはまるで、かの半人半獣の山野の~、上半身は人間に近く、脚はふさふさ毛の生えた山羊の脚、小さい尻尾をくるりと巻き、頭には短い山羊の角を生して居るパン、いやいや、パンは牧羊~として人々にも親しまれまた音樂の天才であり笛がうまいし、草笛を發明するほどの怜悧明朗の~であるが、學生諸君の中には、此のパンと殆んど同一の姿をして居ながら、暗い醜怪の心のサチイル、即ち憂鬱淫酒の王デイオニソスの寵兒さへ存在するのだ。我が身が濁つて低迷し、やりきれない思ひの宵も、きつと在る。諸君は一體、どこに座つて居るのか、何をみつめて居るのか。先日、或る學生に次のやうなシルレルの物語詩を語つて聞かせたところ、意外なほどに、其の學生は喜んだ。諸君は、今こそ、シルレルを讀まなければなるまい。素朴の叡智が、どれほど強力に諸君の進路を指定してくれるものであるかを知るであらう。
 「受け取れよ、世界を!」ゼウスは天上から人間に呼びかけた。「受け取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは之を遺産とし、永遠の領地として贈つてやる。さあ、仲好く分け合ふのだ。」忽ち先を爭つて、手のある限りの者は四方八方から走り集つた。農民は、原野に縄を張り廻らし、貴公子は、狩猟のための森林を占領し、商人は物貨を集めて倉庫に満し、長老は貴重な古い葡萄酒を漁り、市長は市街に城壁を廻らし、王者は山上に大國旗を打ち樹てた。それぞれ分割が、殘る隈なくすんだあとで、詩人がのつそりやつて來た。彼は、遙か遠方からやつて來た。ああ、その時は、地球の表面に存在するもの悉くに、其の持主の名札が貼られ、一坪の草原さへ殘つてなかつた。「ええ情ない! なんで私一人だけがみんなから、かまつて貰へないのだ。この私が、あなたの一番忠良な息子が!」と大聲に苦情を叫びながら、彼はゼウスの玉座の前に身を投げた。「勝手に夢の國でぐづぐづして居て、」と~はさへぎつた。「何もおれを怨むわけが無い。お前は一體どこに居たのだ。みんなが地球を分け合つて居るとき。」詩人は泣きながらそれに答へて、「私は、あなたのお傍に。目はあなたの顏にそそがれて、耳は天上の音樂に聞きほれて居ました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然と醉つて、地上のことを忘れて居たのを!」「どうすればいい?」とゼウスは言つた。「地球はみんな呉れてしまつた。秋も、狩獵も、市場も、もうおれの物でない。お前がこの天上におれと一緒に居たいなら、時々やつて來い。此所はお前の爲に空けて置く!」
 詩は、それでおしまひであるが、此の詩人の幸福こそ、また學生諸君の特權でもあるのだ。これを自覺し、いぢけず、颯爽と生きなければならぬ。實生活に於ける、つまらぬ位置や、けちくさい資格など、一時、潔く抛棄してみるがよい。諸君の位置は、天上に於て發見される。雲が、諸君の友人だ。
 無責任に大げさな、甘い観念論で、諸君を騙さうとして居るのでは無い。これは、最も聰明な、實情に即してさへゐる道である。世の中に於ける位置は、諸君が學校を卒業すれば、いやでもそれは與へられる。いまは、世間の人の眞似をするな。美しいものの存在を信じ、それを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは在るのだ。學生の期間にだけ、それは在るのだ。もつと、具體的に言ひ度いが、今日は何だか腹立たしい。君たちは何をまごまごして居るのか、どんと背中をどやしつけてやり度い思ひだ。頭の惡い奴は、仕樣がない。チエホフを、澤山讀んでみなさい。さうしてそれを眞似して見なさい。私は無責任なことは言つて居ない。それだけでもまづやつてみなさい。少しは、私の言ふこともわかるやうになるかもしれない。
 失禮なことばかり言ひました。けれども、こんな亂暴な言ひ方でもしないことには、諸君は常にいい加減に聞き流すことに馴れて居る。諸君の罪だけではないけれども。




   無 趣 味




 この、三鷹の奥に移り住んだのは、昨年の九月一日である。その前は、甲府の町はづれに家を借りて住んでゐたのである。その家のひとつきの家賃は、六圓五十鏡であつた。又その前は、甲州御坂峠の頂上の、茶店の二階を借りて住んでゐたのである。更にその前は、荻窪の最下等の下宿屋の一室を借りて住んでゐたのである。更にその前は、千葉縣、船橋の町はづれに、二十四圓の家を借りて住んでゐたのである。どこに住んでも同じことである。格別の感慨も無い。いまの三鷹の家に就いても、訪客はさまざまの感想を述べてくれるのであるが、私は常に甚だいい加減の合槌を打つてゐるのである。どうでも、いい事ではないか。私は、衣食住に就いては、全く趣味が無い。大いに衣食住に凝つて得意顏の人は、私には、どうしてだか、ひどく滑稽に見えて仕樣が無いのである。


  義  務




 義務の遂行とは、並たいていの事では無い。けれども、やらなければならぬ。なぜ生きてゐるか。なぜ文章を書くか。いまの私にとつて、それは義務の遂行の爲であります、と答へるより他は無い。金の爲に書いてゐるのでは無いやうだ。快樂の爲に生きてゐるのでも無いやうだ。先日も、野道をひとりで歩きながら、ふと考へた。「愛といふのも、結局は義務の遂行のことでは無いのか。」
 はつきり言ふと、私は、いま五枚の隨筆を書くのは、非常な苦痛なのである。十日も前から、何を書いたらいいのか考へてゐた。なぜ斷らないのか。たのまれたからである。二月二十九日までに五、六枚書け、といふお手紙であつた。私は、この雜誌(文學者)の同人では無い。また、將來、同人にしてもらふつもりも無い。

同人の大半は、私の知らぬ人ばかりである。そこには、是非書かなければならぬ、といふ理由は無い。けれども私は、書く、といふ返事をした。稿料が欲しい為でもなかつたやうだ。同人諸先輩に、媚びる心も無かつた。書ける状態に在る時、たのまれたなら、その時は必ず書かなければならぬ、といふ戒律のために「書きます」と返事したのだ。與へ得る状態に在る時、人から頼まれたなら、與へなければならぬといふ戒律と同斷である。どうも、私の文章の vocabulary は大袈裟なものばかりで、それゆゑ、人にも反撥を感じさせる樣子であるが、どうも私は、「北方の百姓」の血をたつぷり受けてゐるので、「高いのは地聲(ぢごゑ)」といふ宿命を持つてゐるらしく、その点に就いては、無用の警戒心は不要にしてもらひたい。自分でも、何を言つてゐるのか、わからなくなつて來た。これでは、いけない。坐り直さう。
 義務として、書くのである。書ける状態に在る時、と前に言つた。それは高邁のことを言つてゐるのでは無い。すなはち私は、いま鼻風邪をひいて、熱も少しあるが、寝るほどのものでは無い。原稿を書けないといふほどの病氣でも無い。書ける状態に在るのである。また私は、二月二十五日までに今月の豫定の仕事はやつてしまつた。二十五日から、二十九日までには約束の仕事は何も無い。その四日間に、私は、五枚くらゐは、どうしたつて書ける筈である。書ける状態に在るのである。だから私は書かなければならない。私は、いま、義務の爲に生きてゐる。義務が、私のいのちを支へてくれてゐる。私一個人の本能としては、死んだつていいのである。死んだつて、生きてたつて、病氣だつて、そんなに變りは無いと思つてゐる。けれども、義務は、私を死なせない。義務は、私に努力を命ずる。休止の無い、もつと、もつとの努力を命ずる。私は、よろよろ立つて、鬪ふのである。負けて居られないのである。單純なものである。
 純文學雜誌に、短文を書くくらゐ苦痛のことは無い。私は氣取りの強い男であるから、(五十になつたら、この氣取りも臭くならない程度になるであらうか。なんとかして、無心に書ける境地まで行きたい。それが、唯一つのたのしみだ)たかだか五枚六枚の隨筆の中にも、私の思ふこと全部を叩き込みたいと力むのである。それは、できない事らしい。私はいつも失敗する。さうして、また、そのやうな失敗の短文に限つて、實によく先輩、友人が讀んでゐる樣子で、何かと忠告を受けるのである。
 所詮は、私はまだ心境ととのはず、隨筆など書ける柄では無いのである。無理である。この五枚の隨筆も、「書きます」と返事してから、十日間も私は、あれこれと書くべき材料を取捨してゐた。取捨では無い。捨てることばかり、やつて來た。あれもだめ、これもだめ、と捨ててばかりゐて、たう とう何も無くなつた。ちよつと座談では言へるのであるが、ことごとしく純文學雜誌に「昨日、朝顏を植ゑて感あり」などと書いて、それが一字一字、活字工に依つて拾はれ、編輯者に依つて校正され、(他人のつまらぬ呟きを校正するのは、なかなか苦しいものである。)それから店頭に出て、一ケ月間、朝顏を植ゑました、朝顏を植ゑました、と朝から晩まで、雜誌の隅で繰り返し繰り返し言ひつづけてゐるのは、とても、たまらないのである。新聞は、一日きりのものだから、まだ助かるのである。小説だつたら、また、言ひたいだけのことは言ひ切つて在るのだから、一月ぐらゐ、店頭で叫びつづけても、惡びれない覺悟もできてゐるが、どうも、朝顏有感は、一ケ月、店頭で呟きつづける勇氣は無い。




  作家の像




 なんの隨筆の十枚くらゐ書けないわけは無いのであるが、この作家は、もう、けふで三日も沈吟をつづけ、書いてはしばらくして破り、また書いては暫くして破り、日本は今、紙類に不足してゐる時ではあるし、こんなに破つては、もつたいないと自分でも、はらはらしながらそれでも、つい破つてしまふ。
 言へないのだ。言ひたいことが言へないのだ。言つていい事と言つてはならぬ事との區別が、この作家に、よくわからないのである。「道コの適性」とでもいふべきものが、未だに呑み込めて居ない樣子なのである。言ひたい事は、山ほど在るのだ。實に、言ひたい。その時ふと、誰かの聲が聞える。
 「何を言つたつて、君、結局は君の自己辯護ぢやないか。」
 ちがふ! 自己辯護なんかぢや無いと、急いで否定し去つても、心の隅では、まあそんな事に成るのかも知れないな、と氣弱く肯定してゐるものもあつて、私は、書きかけの原稿用紙を二つに裂いて、更にまた、四つに裂く。
 「私は、かういふ隨筆は、下手なのでは無いかと思ふ。」と書きはじめて、それからまた少し書きすすめていつて、破る。「私には未だ隨筆が書けないのかも知れない。」と書いて、また破る。「隨筆には虚構は、許されないのであつて、」と書きかけて、あわてて破る。どうしても、言ひたい事が一つ在るのだが、何氣なく書けない。
 目的の當の相手にだけ、あやまたず命中して、他の佳い人には、塵ひとつお掛けしたくないのだ。私は不器用で、何か積極的な言動に及ぶと、必ず、無益に人を傷つける。友人の間では、私の名前は、「熊の手」といふことになつてゐる。いたはり撫でるつもりで、ひつ掻いてゐる。塚本虎二氏の、「内村鑑三の思ひ出」を讀んでゐたら、その中に、
 「或夏、信州の沓掛の温泉で、先生がいたづらに私の子供にお湯をぶつかけられた所、子供が泣き出した。先生は悲し相な顏をして、『俺のすることは皆こんなもんだ、親切を仇にとられる。』と言はれた。」
 といふ一筆が在つたけれど、私はそれを讀んで、暫時、たまらなかつた。川の向う岸に石を投げようとして、大きくモオシヨンすると、すぐ隣に立つてゐる佳人に肘が當つて、佳人は、あいたた、と悲鳴を挙げる。私は冷汗流して、いかに陳辯しても、佳人は不機嫌な顏をしてゐる。私の腕は、人一倍長いのかも知れない。
 隨筆は小説と違つて、作者の言葉も「なま」であるから、よつぽど氣を付けて書かない事には、あらぬ隣人をさへ傷つける。決してその人の事を言つてゐるのでは無いのだ。大袈裟な言ひかたをすれば、私はいつでも、「人間歴史の實相」を、天に報告してゐるのだ。私怨では無いのだ。けれども、さう言ふとまた、人は笑つて私を信じない。
 私は、よつぽど、甘い男ではないかと思ふ。謂はば、「觀念野郎」である。言動を爲すに當つて、まづ觀念が先に立つ。一夜、酒を呑むに當つても、何かと理窟をつけて呑んでゐる。きのふも私は、阿佐ヶ谷へ出て酒を呑んだが、それには、こんな經緯が在るのだ。
 私は、この新聞(都新聞)に送る隨筆を書いてゐた。言ひたい事が在つたのだけれど、それが、どうしても言へず、これが隨筆でなく、小説だつたら、いくらでも闊達に書けるのだが、と一箇月まへから腹案中の短篇小説を反芻してみて何やら樂しく、書くんだつたら小説として、この現在の鬱届の心情を吐露したい。それまでは大事に、しまつて置きたい。その一端を、いま隨筆として發表しても、言葉が足らず、人に誤解されて、あげ足とられ、喧嘩をふつかけられては、つまらない。私は、自重してゐたいのである。ここは何とかして、愚色を裝ひ、
 「本日は晴天なり、れいの散歩など試みしに、紅梅、早も咲きたり、天地有情、春あやまたず再來す」
 の調子で、とぼけ切らなければならぬ、とも思ふのだが、私は甚だ不器用で、うまく感情を蓋ひ隱すことが出來ないたちなのである。うれしい事が在ると、つい、にこにこしてしまふ。つまらない失敗をすると、どうしても、浮かぬ顏つきになつてしまふ。とぼける事が、至難なのである。かう書いた。
 「誰もそれを認めてくれなくても、自分ひとりでは、一流の道を歩かうと努めてゐるわけである。だから毎日、要らない苦労を、たいへんしなければならぬわけである。自分でも、ばかばかしいと思ふことがある。ひとりで赤面してゐることもある。
 ちつとも流行しないが、自分では、相當のもののつもりで出處進退、つつしみつつしみ言動してゐる。大事のまへの小事には、戒心の要がある。つまらぬ事で蹉跌してはならぬ。常住坐臥に不愉快なことがあつたとしても、腹をさすつて、笑つてゐなければならぬ。いまに傑作を書く男ではないか、などと、もつともらしい口調で、間拔けた感慨を述べてゐる。頭が、惡いのではないかと思ふ。
 たまに新聞社から、隨筆の寄稿をたのまれ、勇奮して取りかかるのであるが、これも駄目、あれも駄目と破り捨て、たかだか十枚前後の原稿に、三日も四日も沈吟してゐる。流石、と讀者に膝を打たせるほどの光つた隨筆を書きたい樣子なのである。あまり沈吟してゐたら、そのうちに、何がなんだか、わからなくなつて來た。隨筆といふものが、どんなものだか、わからなくなつてしまつたのである。
 本箱を捜して本を二册取り出した。『枕草子』と『伊勢物語』の二册である。これに據つて、日本古來の隨筆の傳統を、さぐつて見ようと思つたのである。何かにつけて愚鈍な男である。」
 と、そこまでは、まづ大過なかつたのであるが、「けれども」と續けて一枚くらゐ書きかけ、これあいけないと、あわてて破つた。もう、そのすぐ次に、うかと大事をもらすところであつたのである。
 一つ、書きたい短篇小説があるのである。そいつを書き上げる迄は、私に就いて、どんな印象をも人に與へたくないのである。なかなか、それは骨の折れることである。また、贅澤な趣味である、といふ事も、私は知つてゐる。けれども、なるべくなら、私はそれまで隱れてゐたい。とぼけ切つてゐたい。それが私のやうな單純な男には、至難の業なのである。私は、きのふも思ひ悩んだ。かう、何氣ない隨筆の材料が無いものか。死んだ友人のことを書かうか。旅行の事を書かうか。日記を書かうか。私は日記といふものを、いままでつけた事がない。つけることが出來ないのである。
 一日中に起つた事柄の、どれを省略すべきか、どれを記載すべきか、その取捨の限度が、わからないのである。勢ひ、なんでもかでも、全部を書くことになつて、一日かいて、もうへとへとになるのである。正確に書きたいと思ふから、なるべくは眠りに落ちる直前までの事を殘さず書いてみたいし、實に、めんだうな事になるのである。それに、日記といふものは、あらかじめ人に見られる日のことを考慮に入れて書くべきものか、~と自分と二人きりの世界で書くべきものか、そこの心掛けも、むづかしいのである。結局、日記帳は買ひ求めても、漫畫をかいたり、友人の住所などを書き入れるくらゐのもので、日々の出來事を記すことはできない。けれども、家の者は、何やら小さい手帖に日記をつけてゐる樣子であるから、これを借りて、それに私の註釋をつけようと決心したのである。
 「おまへ、日記をつけてゐるやうだね。ちよつと貸しなさい。」と何氣なささうな口調で言つたのであるが、家の者は、どういふわけだか、ぐわんとして應じない。
 「貸さなくても、いいが、それでは僕は、酒を飲まなくてはならぬ。」頗る唐突な結論のやうであるが、さうでは無い。その他には、この隨筆から逃れる路が無くなつてゐるのである。ちやんとした理由である。私は、理由が無ければ酒を飲まないことにしてゐる。きのふは、そのやうな理由があつたものだから私は、阿佐ヶ谷に鹿爪らしい顏をして、酒を飲みに出かけたのである。阿佐ヶ谷の酒の店で、私は非常に用心して酒を飲んだ。私は、いま、大事を胸に抱懷してゐるのであるから、うつかりした事は出來ない。老大家のやうな落ち付きを眞似して、靜かに酒を飲んでゐたのであるが、醉つて來たら、からきし駄目になつた。
 與太者らしい二人の客を相手にして、「愛とは、何だ。わかるか? 愛とは、義務の遂行である。悲しいね。またいふ、愛とは、道コの固守である。更にいふ、愛とは、肉體の抱擁である。いづれも聞くべき言ではある。さうかも知れない。正確かも知れない。けれども、もう一つ、もう一つ、何か在るのだ。いいか、愛とは、----おれにもわからない。そいつが、わかつたら、な。」などと、大事もくそも無い。ふやけた事ばかり言つて、やがて醉ひつぶれた樣子である。


三月三十日


 滿洲のみなさま。
 私の名前は、きつとご存じ無い事と思ひます。私は、日本の、東京市外に住んでゐるあまり有名でない貧乏な作家であります。東京は、この二、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞ひ込み、私は家の中に在りながらも、まるで地ぺたに、あぐらをかいて坐つてゐる氣持でありました。けふは、風もをさまり、まことに春らしく、静かに晴れて居ります。滿洲は、いま、どうでありませうか。やはり、梅が咲きましたか。東京は、もう梅は、さかりを過ぎて、花瓣も汚くしなび掛けて居ります。櫻の蕾は、大豆くらゐの大きさにふくらんで居ります。もう十日くらゐ經てば、筏が開くのではないかと存じます。けふは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。私は、政治の事は、あまり存じません。けれども、「和平建國」といふロマンチシズムには、やつぱり胸が躍ります。日本には、戰爭を主として描寫する作家も居りますけれど、また、戰爭は、さつぱり書けず、平和の人の姿だけを書きつづけてゐる作家もあります。きのふ永井荷風といふ日本の老大家の小説集を讀んでゐたら、その中に、
 「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいふ鳥が舞ひ下ると申します。然し當節のやうにかう何も彼も一概に綺麗なもの手數のかかつたもの無uなものは相成らぬと申してしまつた日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏ぢや御座いませんから、いくら出て來たくも出られなからうぢや御座いませんか。外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦繪まで御差止めに成るなぞは、折角天下太平のお祝ひを申しに出て來た鳳凰の顏をしめて毛をむしり取るやうなものぢや御座いますまいか。」
 といふ一文がありました。これは、「散柳窓夕榮」といふ小説の中の、一人物の感慨として書かれてゐるのであります。天保年間の諸事御儉約の御觸に就いて、その一人物が大いに、こぼしてゐるところなのであります。私は、永井荷風といふ作家を、決して無條件に崇拜してゐるわけではありません。きのふ、その小説集を讀んでゐながらも、幾度か不満を感じました。私みたいな、田舎者とは、たちの異る作家のやうであります。けれども、いま書き拔いてみた一文には、多少の共感を覺えたのです。日本には、戰爭の時には、ちつとも役に立たなくても、平和になると、のびのぴと驥足をのばし、美しい平和の歌を歌ひ上げる作家も、ゐるのだといふことを、お忘れにならないやうにして下さい。日本は、決して好戰の國ではありません。みんな、平和を待讐して居ります。
 私は、滿洲の春を、いちど見たいと思つてゐます。けれども、たぶん、私は滿洲に行かないでせう。滿洲は、いま、とてもいそがしいのだから、風景などを見に、のこのこ出かけたら、きつとお邪魔だらうと思ふのです。日本から、ずゐぷん作家が出掛けて行きますけれど、きつと皆、邪魔がられて歸つて來るのではないかと思ひます。ひとの大いそがしの有樣を、お役人の案内で「觀察」するなどは、考へ樣に依つては、失禮な事とも思はれます。私の知人が、いま三人ほど滿洲に住んで大いそがしで働いて居ります。私は、その知人たちに逢ひ、一夜しみじみ酒を酌み合ひたく、その爲ばかりにでも、私は滿洲に行きたいのですが、滿洲は、いま、大いそがしの最中なのだといふ事を思へば、ぎゆつと眞面目になり、浮いた氣持もなくなります。
 私のやうな、頗る「國策型」で無い、無力の作家でも、滿洲の現在の努力には、こつそり聲援を送りたい氣持なのです。私は、いい加減な嘘は、吐きません。それだけを、誇りにして生きてゐる作家であります。私は、政治の事は、少しも存じませんが、けれども、人間の生活に就いては、わづかに知つてゐるつもりであります。日常生活の感情だけは、少し知つてゐるつもりであります。それを知らずに、作家とは言はれません。日本から、たくさんの作家が滿洲に出掛けて、お役人の御案内で「觀察」をして、一體どんな「生活感情」を見つけて歸るのでせう。歸つて來てからの報告文を讀んでも、甚だ心細い氣が致します。日本でニユウス映畫を見てゐても、ちやんとわかる程度のものを發見して、のほほん顏でゐるやうであります。此の上は、五年十年と、滿洲に、「一生活人」として平凡に住み、さうして何か深いものを體得した人の言葉に、期待するより他は、ありません。私の三人の知人は、心から滿洲を愛し、素知らぬ振りして滿洲に住み、全人類を貫く「愛と信實」の表現に苦鬪してゐる樣子であります。



  國 技 館



 生れてはじめて本場所といふものを、見せてもらつたわけであります。世人のわいわい騒ぐものには、ことさらに背を向けたい私の悲しい惡癖から、相撲に就いても努めて無關心を裝つて來たわけであります。けれども、内心は、一度見て置きたいと思つてゐたのでありました。むかしの姿が、そこにまだ殘つてゐるやうな氣がしてゐたからであります。
 協會から案内の御手紙をもらつたので、袴をはいて出かけました。國技館に到着したのは、午後四時頃でありました。招待席は、へんに窮屈で、その上たいへん暑かつたので、すぐに廊下に出て、人ごみのうしろから、立つて見てゐました。
 雛壇を遠くから眺めると、支那の壷の模樣のやうに見えます。毛氈の赤が、少しKずんでゐて、それに白つぼいが交錯されて在るのです。白つぽいとは、観客の服裝の色であります。圃扇が無數にひらひら動いてゐます。ここには、もう夏が、たしかに來てゐるのです。
 土俵のK白赤の四本の柱は、悲しいくらゐどぎつい原色なのでありました。土俵には、ライトを強くあててゐるらしく、力士の裸體は、赤土色に見えます。埴輪のやうな、テラコツタの肌をしてゐるのであります。
 全體の印象を申せば、玩具のやうな、へんな悲しさであります。泥繪具の、鳩笛を思ひ出しました。お酉樣の熊手の裝飾、まねき猫、あんな幼い、悲しくやりきれないものを感じました。江戸文化といふものは、こんな幼稚な美しさ、とでも言ふものの中に生育してゐたのではないか、とさへ思ひました。
 取組を、四、五番見ましたが、あまり、わかりませんでした。照國といふ力士は、上品な人柄のやうであります。本當に怒つて取組んだら、誰にも負けないだらうと思ひました。相手の五ツ島とかいふ力士の人柄には、あまり感心しませんでした。勝ちやいいんだらう、といふ荒んだ心境が、どこかに見えます。勝負に勝つても、いまのままでは、網になれません。もう一轉びの必要があります。
 用事があつたので、照國、五ツ島の取組を見て、それだけで歸りました。
 四、五番を見ただけですから、自信を以ては言へませんけれど、力士の取組に、「武技」といふよりは、「藝技」のはうを、多く感じました。いいことか、惡いことか、私には、わかりません。

 



  大恩は語らず




 先日、婦人公論のNさんがおいでになつて、「どうも、たいへん、つまらないお願ひで、いけませんが、」と言ひ、恩讐記といふテエマで數枚書いてくれないか、とおつしやつた。「おんしうき。恩と讐(あだ)ですか。」と私は、指先で机の上に、その恩といふ字と、讐といふ字を書いて、Nさんに問ひただした。Nさんは卒直な、さつばりした氣象のおかたであつた。「さうです。どうも、あまりいいテエマぢや無いと、私も思ふのです。手紙でお願ひしたら、あなたは、きつとお斷りになるだらうと思ひましたから、ですから、私がけふお宅へお願ひにあがつたのです。恩は、ともかく、讐なんて、あまり氣持のよいものでは無いのですから、テエマにあまり拘泥せず、子供の頃、誰かに殴られて、くやしかつたとか、そんな事でもお書きになつて下さつたら、いいのです。」
 私には、Nさんの親切は、よくわかるのだが、内々、やり切れない氣持であつた。とにかく、斷るより他は無いと思つた。「私には、書くことはありません。恩といへば、小さい時から、もう恩だらけで、いまでも、一日も忘れられない恩人が、十人以上もありますし、一々お名前を擧げて言ふのも、水くさくて、かへつて失禮でせうし、『大恩は語らず』といふ言葉のとほり、私は今では、あまり口に出して言ひたくないのです。復讐感の方は、一つもありません。癪にさはつたら、その場で言つてしまふ事にしてゐます。」
 以前、私は恩を感じてゐるお方たちに、感じてゐるままに、「恩」といふ言葉を使つて言つて、かへつてそのお方達や、またその周圍の人たちに誤解されてしまつた事があるのだ。めつたに、口に出して言へる言葉でないやうである。
 「それでいいのです。」とNさんは、私の説明に肯定を與へてくれた。「いま、おつしやつた事を、そのまま書いて下さつたら、いいのです。」Nさんは、私同樣に、汗の多い體質らしく、しきりにハンケチで顏の汗を拭いて居られた。
 「書きたくないんですよ。四枚、五枚の隨筆ばかり書いてゐると、とても厭世的になつてしまふのです。それこそ、復讐感が起りさうになります。だまつて、小説ばかり書いてゐたいのです。」
 「さうでせうね。」とNさんは、本心から同感を寄せて下さる。「ほんたうに、いけないんですよ、こんな事をお願ひするのは。ですから、テエマにこだはらず、どんな事でも、いいのです。書いて下さい。」
 Nさんは、この遠い田舎の陋屋に、わざわざ訪ねて來てくれたのだといふ事を思へば、私は今、頑固に斷つてこの場を氣まづくするのが、少しつらくなつて來たのである。私の心の中にはやつぱり臆病な御氣嫌買ひの蟲がゐる。たうとう書くことになつた。けれども、「書くことはありません。書きたくないのです。」といふ言葉は、私の本心からのもので、それは、ちつとも變つてゐない。書くことが無いのだ。仕方が無いから、Nさんが、それからおつしやつた、氣持のいい言葉を、歪曲すること無く、そのまま次に書き記す。
 「復讐なんて、私は、きらひですね。忠臣蔵だつて、考へてみると、へんなものですよ。婦女子ばかりの無防備の家に、夜盗のやうに忍び込んで、爺さんひとりを大勢かかつて殺してしまふのですからね。卑怯ですよ。復讐なんて考へてないと嘘をついたりして。やりかたが、汚いぢやないですか。曾我兄弟だつて、小さい時から、かたきの何とかいふ人を殺すことばかり考へてゐたわけでせう? それをまた、母親が一生懸命にそそのかす。陰慘ぢやないですか。十八年間も、うらみを忘れずにゐるなんて、氣味の惡い兄弟ですよ。私は、そんな人とは、とても附き合ひ切れない。武士道といふのも、へんなものですねえ。」
 「さうだ。それを書きませう。」と私が言つたら、Nさんは快活に笑つた。
 それから、Nさんがちかごろ見た映畫の筋書や、戰爭の事や、東北人(Nさんも、私と同じ、東北の生れであつた。)の長所や短所、青年の無氣力、婦人雜誌の賣行きなどに就いて、いろいろ卒直な面白い話を聞かせてくれた。この原稿の件さへ無ければ、私にとつて實に樂しい半日であつたのだ。
 結局こんな、不得要領の原稿が出來て、Nさんには、お氣の毒でならない。けれども、恩讐記と題して、讀者の下等な好奇心を滿足させる爲に、多少ゴシツプめいた材料などを交錯させて~妙に五、六枚にまとめ上げるのが、作家の義務であるのなら、作家は衰弱するばかりである。年少虚名の害に就いては、私だとて、よく知つてゐるつもりである。ろくな事にならない。讀者もよくないのである。私は、現代(昭和十五年)の讀者を、あまり、たよりにしてゐない。
 以上は、虚傲の放言ではありません。いろいろ考へた上で、言つてゐるつもりであります。重ねて、Nさんには、おわびを言ひます。

 

 

 自信の無さ



 本紙(朝日新聞)の文藝時評で、長與先生が、私の下手な作品を例に挙げて、現代新人の通性を指摘して居られました。他の新人諸君に對して、責任を感じましたので、一言申し開きを致します。古來一流の作家のものは作因が判然(はつきり)してゐて、その質感が強く、從つてそこに或る動かし難い自信を持つてゐる。その反對に今の新人はその基本作因に自信がなく、ぐらついてゐる、といふお言葉は、まさに頂門の一針にて、的確なものと思ひました。自信を、持ちたいと思ひます。
 けれども私たちは、自信を持つことが出來ません。どうしたのでせう。私たちは、決して怠けてなど居りません。無ョの生活もして居りません。ひそかに讀書もしてゐる筈であります。けれども、努力と共に、いよいよ自信がなくなります。
 私たちは、その原因をあれこれと指摘し、罪を社会に轉嫁するやうな事も致しません。私たちは、この世紀の姿を、この世紀のままで素直に肯定したいのであります。みんな卑屈であります。みんな日和見主義であります。みんな「臆病な苦労」をしてゐます。けれども、私たちは、それを決定的な汚點だとは、ちつとも思ひません。
 いまは、大過渡期だと思ひます。私たちは、當分、自信の無さから、のがれる事は出來ません。誰の顏を見ても、みんな卑屈です。私たちは、この 「自信の無さ」を大事にしたいと思ひます。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い見事な花の咲くことを、私は祈念してゐます。

 

 

  六月十九日


 なんの用意も無しに原稿用紙にむかつた。かういふのを本當の隨筆といふのかも知れない。けふは、六月十九日である。晴天である。私の生れた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんたうの子でないと思ひ込んでゐた事があつた。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされてゐるやうな氣がしてゐた。容貌がまづかつたので、一家のものから何かとかまはれ、それで次第にひがんだのかも知れない。藏へはひつて、いろいろ書きものを調べてみた事があつた。何も發見出來なかつた。むかしから私の家に出入してゐる人たちに、こつそり聞いて廻つたこともある。その人たちは、大いに笑つた。私がこの家で生れた日の事を、ちやんと皆が知つてゐるのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はつきりヘへてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかつた。なんだか、がつかりした。自分の平凡な身の上が不滿であつた。
 先日、未知の詩人から手紙をもらつた。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、といふ手紙であつた。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢へばきつとがつかりなさるでせう。どうも、こはいのです。明治四十二年六月十九日生れの宿命を、あなたもご存じの事と思ひます。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割に素直に書けたと思つた。

 



  貪 婪 禍


 七月三日から南伊豆の或る山村に來てゐるのだが、勿論ここは、深山幽谷でも何でもない。温泉が湧き出てゐるといふだけで、他には何のとるところも無い。東京と同じくらゐに暑い。宿の女中も、不親切だ。部屋は汚く食事もまづい。なぜこんな所を選んだのかと言へば、宿泊料が安いだらうと思つたからである。けれども、來て見ると、あまり安くもない。一泊五圓以上だ。一日の豫定の勉強が濟んで、温泉へ入り、それから夕食にとりかかるのであるが、ビールを一ばい飲みたくなつて女中さんに、さう言ふと、
 「ございません。」とハツキリ答へる。けれども、女中さんの顏を見ると、嘘だといふことがわかるので、
 「ぜひ飲みたいんだ。たつた一本でいいのですから。」と笑ひながら、ねだると、
 「ちよつとお待ち下さい。」と眞面目な顏で言つて、部屋を出て行く。しばらく經つと、やはり眞面目な顏をして部屋へやつて來て、
 「あの、少し値が張りますけれど、よろしうございますか。」と言ふ。
 「ええ、かまひません。二本もらひませう。」と、こちらも拔け目がない。
 「いいえ、一本だけにしていただきます。」
 いやに冷淡に宣告する。
 このごろは宿屋も、ひどく、おたかく止つてゐる。物資不足は、私だつて知つてゐる。無理なことはしない。お氣の毒ですが、とか何とか、ちよつと言ひかたを變へれば、雙方もつと、なごやかに行くのに、どうも、ばかにつんけんしてゐる。勢ひ、客も無口になる。甚だ重苦しい。少しも、のんびりしない。私は寄宿舎で勉強してゐる學生のやうである。
 窓の外の風景を眺めても、別段たいしたこともない。低い夏山、山の中腹までは畑地である。蝉の聲がやかましい。じりじり暑い。なぜ、わざわざ、こんなところへ來たかと思はれる。
 けれども私は、ここを引き上げて、別の土地へ行かうとも思はない。どこへ行つたつて、似たやうなものだといふことが、わかつてゐるからである。私の心が、いけないのかも知れない。以下はフロべエルの嘆きであるが、「私はいつも眼のまへのものを拒否したがる。子供を見ると、その子供の老人になつた時のことを考へてしまふし、搖籃を見ると墓石のことを考へる。女の裸體を眺めてゐるうちに、その骸骨を空想する。樂しいものを見てゐると悲しくなるし、悲しいものを見ると何も感じない。あまり心の中で泣いたから、外へ涙を流すことが出來ない。」などと言へば、少し大袈裟で、中學生のセンチメンタルな露惡趣味になつてしまふが、私が旅に出て風景にも人情にも、あまり動かされたことのないのは、その土地の人間の生活が、すぐに、わかつてしまふからであらう。皆、興覺めなほど、一生懸命である。渓流のほとりの一軒の茶店にも、父祖數代の暗鬪があるだらう。茶店の腰掛一つ新調するに當つても、一家の並々ならぬ算段があつたのだらう。一日の賣上げが、どのやうに一家の人々に分配され、一喜一憂が繰り返されることか。風景などは、問題でない。その村の人たちにとつては、山の木一本渓流の石一つすべて生活と直接に結びついてゐる筈だ。そこには、風景はない。日々の糧が見えるだけだ。
 素直に、風景を指さし、驚嘆できる人は幸ひなる哉。私の住居は東京の、井の頭公園の裏にあるのだが、日曜毎に、澤山のハイキングの客が、興奮して、あの邊を歩き廻つてゐる。井の頭の池のところから、石の段々を、二十いくつ登つて、それから、だらだらの坂を半丁ほど登ると、御殿山である。普通の草原であるが、それでも、ハイキングの服裝凛々しい男女の客は、興奮してゐる。樹木の幹に「登山記念、何月何日、何某」とナイフで彫つてある文字を見かけることさへあるが、私には笑へない。二十いくつの石段を登り、だらだらの坂を半丁ほど登り、有頂天の歡喜があるとしたら、市民とは實に幸福なものだと思ふ。惡業の深い一人の作家だけは、どこへ行つても、何を見ても、苦しい。氣取つてゐるのではないのだ。
 ここへ來て、もう十日に近い。仕事も一段落ついた。けふあたり家の者がお金を持つて、この宿へ私を迎へに來る筈である。家の者にはこんな温泉宿でも、極樂であるかも知れぬ。私は、素知らぬ振りして家の者にこの土地の感想を聞いてみたいと思つてゐる。とても、いいところですと、興奮して言ふかも知れない。


 



  自作を語る



 私は今日まで、自作に就いて語つた事が一度も無い。いやなのである。讀者が、讀んでわからなかつたら、それまでの話だ。創作集に序文を附ける事さへ、いやである。

 自作を説明するといふ事は、既に作者の敗北であると思つてゐる。不愉快千萬の事である。私がAといふ作品を創る。讀者が讀む。讀者は、Aを面白くないといふ。いやな作品だといふ。それまでの話だ。いや、面白い話だが、といふ抗辯は成り立つわけは無い。作者は、いよいよ慘めになるばかりである。

 いやなら、よしな、である。ずゐぶん皆にわかつてもらひたくて出來るだけ、ていねいに書いた筈である。それでも、わからないならば、默つて引き下るばかりである。

 私の友人は、ほんの數へるくらゐしか無い。私は、その少數の友人にも、自作の註釋をした事は無い。發表しても、默つてゐる。あそこの所には苦心をしました、など一度も言つた事が無い。興覺めなのである。そんな、苦心談でもつて人を壓倒して迄、お義理の喝采を得ようとは思はない。藝術は、そんなに、人に強ひるものではないと思ふ。

 一日に三十枚は平氣で書ける作家もゐるといふ。私は一日五枚書くと大威張りだ。描寫が下手だから苦労するのである。語彙が貧弱だから、ペンが澁るのである。遅筆は、作家の恥辱である。一枚書くのに、二、三度は、辭林を調べてゐる。嘘字か、どうか不安なのである。

 自作を語れ、と言はれると、どうして私は、こんなに怒るのだらう。私は、自分の作品をあまり認めてゐないし、また、よその人の作品もそんなに認めてゐない。私が、いま考へてゐる事を、そのまま卒直に述べたら、人は、たちまち私を狂人あつかひにするだらう。狂人あつかひは、いやだ。やはり私は、沈默してゐなければならぬ。もう少しの我慢である。

 ああ早く、一枚三圓以上の小説ばかりを書きたい。こんな事では、作家は、衰弱するばかりである。私が、はじめて「文藝」に創作を賣つてから、もう七年になる。

 流行は、したくない。また、流行するわけも無い。流行の虚無も知つてゐる。一年一册の創作集を出し、三千部くらゐは賣れてくれ。私の今までの十册ちかい創作集のうちで、二千五百部の出版が最高である。

 私の作品は、どう考へたつて、映畫化も劇化もされる餘地が無い。だから優れた作品なのだ、といふわけでは無い。「罪と罰」でも、「田園交響樂」でも、「阿部一族」でも、ちやんと映畫になつてゐる樣子だ。
 「女の決鬪」の映畫などは、在り得ない。

 どうも、自作を語るのは、いやだ。自己嫌惡で一ばいだ。「わが子を語れ」と言はれたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちよつと躊躇するにちがひない。出來のいい子は、出來のいい子で可愛いし、出來の惡い子は、いつそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言ひ傳へるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。

 私は、私の作品と共に生きてゐる。私は、いつでも、言ひたい事は、作品の中で言つてゐる。他に言ひたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それつきりだ。一言も無い。

 私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矯小になる。その人を、だましてゐるやうな氣がするのだ。反對に、私の作品に、惡罵を投げる人を、例外なく輕蔑する。何を言つてやがると思ふ。

 こんど河出書房から、近作だけを集めた「女の決鬪」といふ創作集が出版せられた。女の決鬪は、この雜誌(文章)に半箇年間、連載せられ、いたづらに讀者を退屈がらせた樣子である。こんど、まとめて一本にしたのを機會に、感想をお書きなさい、その他の作品にも、ふれて書いてくれたら結構に思ひます、といふのが編輯者、辻森さんの言ひつけである。辻森さんには、これまで、わがままを通してもらつた。斷り切れないのである。

 私には、今更、感想は何も無い。このごろは、次の製作に夢中である。友人、山岸外史君から手紙をもらつた。(「走れメロス」その義、~(しん)に通ぜんとし、「駈込み訴へ」その愛欲、地に歸せんとす。)

 龜井勝一郎君からも手紙をもらつた。(「走れメロス」再讀三讀いよいよ、よし。傑作である。)

 友人は、ありがたいものである。一巻の創作集の中から、作者の意圖を、あやまたず摘出してくれる。山岸君も、龜井君も、お座なりを言ふやうな輕薄な人物では無い。この二人に、わかつてもらつたら、もうそれでよい。

 自作を語るなんてことは、老大家になつてからする事だ。


 

 



  砂 子 屋


 書房を展開せられて、もう五周年記念日を迎へられる由、おめでたう存じます。書房主山崎剛平氏は、私でさへ、ひそかに舌を巻いて驚いたほどの、ずぶの夢想家でありました。夢想家が、この世で成功したといふためしは、古今東西にわたつて、未だ一も無かつたと言つてよい。けれども山崎氏は、不思議にも、いま、成功して居られる樣子であります。山崎氏の父祖の遺コの、おかげと思ふより他は無い。ちなみに、書房の名の砂子屋は、彼の出生の地、播州「砂子村」に由來してゐるやうであります。出生の地を、その家の屋號にするといふのは、之は、なかなかの野心の證據なのであります。郷土の名を、わが空拳にて日本全國にひろめ、その郷土の榮譽を一身に荷はんとする意氣込みが無ければ、とても自身の生れた所の名を、家の屋號になど、出來るものではありません。むかし、紀の國屋文左衞門といふ人も、やはり、そのやうな意氣込みを以て、紀の國の名を日本全國に歌はせたが、あの人は、終りがあまり、よくなかつたやうであります。さいはひ、山崎氏には、淺見、尾崎両氏の眞の良友あり、両氏共に高潔俊爽の得難き大人物にして帷幕の陰より機に臨み變に應じて順義妥當の優策を授け、また傍に、宮内、佐伯兩氏の新英惇コの二人物あり、やさしく彼に助勢してくれてゐる樣でありますから、まづこのぶんでは、以後も不安なかるべしと思ひます。山崎氏も眞の困難は、今日以後に在るといふ事に就いては、既に充分の覺悟をお持ちだらうと思ひます。變らず、身邊の良友の言を聽き、君の遠大の浪漫を、見事に滿開なさるやう御努力下さい。




  パウロの混亂



 先日、竹村書房は、今官一君の第一創作集「海鴎の章」を出版した。裝幀瀟洒な美本である。今君は、私と同樣に、津輕の産である。二人逢ふと、葛西善藏氏の碑を、郷里に建てる事に就いて、内談する。もう十年經つて、お互ひ善藏氏の半分も偉くなつた時に建てようといふ内談なのだから、氣の永い計畫である。今君も、これまでずゐぶん苦しい生活をして來たやうである。この「海鴎の章」に依つて報いられるものがあるやうに祈つてゐる。
 今君は、此の雜誌(現代文學)に、パウロの事を書いてゐたやうであるが、今君の聖書に就いての知識は、ほんものである。四福音書に就いては、不勉強な私でも、いくらかは知つてゐるやうな氣がしてゐるのだけれども、ロマ書、コリント前・後書、ガラテヤ書など所謂パウロの四大基本書簡の研究までは、なかなか手がとどかないのである。甚だ、いい加減に讀んでゐる。こんど、今君の勉強に刺戟されて、一夜、清窓淨机を裝つて、勉強いたした。
 「義人は信仰によりて生くべし。」パウロは、この一言にすがつて生きてゐたやうに思ふ。パウロは、~の子ではない。天才でもなければ、賢者でもない。肉體まづしく、訥辯である。失禮ながら、今官一君の姿を、ところどころに於いて思ひ浮べた。四書簡の中で、コリント後書が最も情熱的である。謂はば、ろれつが廻らない程に熱狂的である。しどろもどろである。譯文の古拙なせゐばかりでも無いと思ふ。
 「わが誇るはuなしと雖も止むを得ざるなり、茲に主の顯示(しめし)と默示とに及ばん。我はキリストにある一人の人を知る。この人、十四年前に第三の天にまで取り去られたり(肉體にてか、われ知らず、肉體を離れてか、われ知らず、~しり給ふ)われは斯のごとき人を知る(肉體にてか、肉體の外にてか、われ知らず、~しり給ふ)かれパラダイスに取り去られて言ひ得ざる言(ことば)、人の語るまじき言を聞けり。われ斯(かく)のごとき人のために誇らん、然れど我が爲には弱き事のほか誇るまじ。もし自ら誇るとも我が言ふところ誠實(まこと)なれば、愚かなる者とならじ。然れど之を罷(や)めん。恐らくは人の我を見、われに聞くところに過ぎて我を思ふことあらん。我は我が蒙りたる默示の鴻大(こうだい)なるによりて高ぶることの莫からんために肉體に一つの刺(とげ)を與へらる、即ち高ぶること莫からんために我を撃つサタンの使なり。われ之がために三度まで之を去らしめ給はんことを主に求めたるに、言ひたまふ、『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力(ちから)は、弱きうちに全うせらるればなり。』然ればキリストの能力(ちから)の我を庇はんために、寧ろ大いに喜びて我が微弱(よわき)を誇らん。この故に我はキリストの爲に、微弱、恥辱、艱難(なやみ)、迫害、苦難に遭ふことを喜ぶ、そは我、よわき時に強ければなり。」と言つてみたが、まだ言ひ足りず、「われ汝
らに強ひられて愚かになれり、我は汝らに譽(ほ)めらるべかりしなり。我は數ふるに足らぬ者なれども、何事にもかの大使徒たちに劣らざりしなり。」と愚痴に似た事をさへ、附け加へてゐる。さうして、おしまひには、群集に、ごめんなさい、ごめんなさいと、あやまつてゐる。まるで、滅茶苦茶である。このコリント後書は、~學者たちにとつて、最も難解なものとせられてゐる樣であるが、私たちには、何だか、一ばんよくわかるやうな氣がする。高揚と卑屈の、あの美しい混亂である。他の本で讀んだのだが、パウロは、當時のキリスト黨から、ひどい個人攻撃を受けたさうである。
 一、彼の風采上らず、その言語野卑なり。例へば、(その書(ふみ)は重く、かつ強し。その逢ふときの容貌(かたち)は弱く、言(ことば)は鄙(いや)し。)と言はれ、パウロは無念さうに、(我は何事にも、かの大使徒たちに劣らずと思ふ。われ言葉に拙(つたな)けれども知識には然らず、凡ての事にて全く之を汝らに顯(あらは)せり。われ汝らを高うせんために自己(みずから)を卑(ひく)うし、價なくして~の福音を傳へたるは罪なりや。)と反問してゐる。
 二、暴なり。破壊的なり。
 三、自家廣告が上手で、自分のことばかり言つてゐる。
 四、臆病なり。弱い男なり。意氣揚らず。
 五、不誠實、惡巧(わるだくみ)をする。狡猾であり、詭計を以て掠め取るといふこと。
 六、彼の病氣。癇癪ではないか。(肉體に一つの刺(とげ)を與へらる云々。)
 七、彼が約束を守らぬといふこと。
 その他、到れり盡せりの人身攻撃を受けたやうである。(塚本虎二氏の講義に據る。)
 今官一君が、いま、パウロの事を書いてゐるのを知り、私も一夜、手垢の附いた聖書を取り出して、パウロの書簡を讀み、なぜだか、しきりに今官一君に聲援を送りたくなつた次第である。

 

 

 

  文盲自嘲


 先夜、音樂學校の古川といふ人が、お見えになり、その御持參の鞄から葛原しげる氏の原稿を取り出し、私に讀ませたのですが、生れつき小心な私は、讀みながら、ひどく手先が震へて困りました。かういふ事が、いつか必ず起るのではないかと、前から心配してゐたのでした。私は、「新風」といふ雜誌の七月創刊號に、「盲人獨笑」といふ三十枚ほどの短篇小説を發表しました。それは、葛原勾當日記の、假名文字活字日誌を土臺にして、それに私の獨創も勝手に加味し、盲人一流藝者の生活を、おぼつかなく展開してみたものでした。けれども、この勾當の正孫の、葛原しげる氏は、私たち文士の大先輩として、お元氣で、この東京にいらつしやる樣子なのですから、書きながら、ひどく氣になつて居りました。御住所を捜し、こちらからお訪ねして、なほ奄オく故人の御遺コをも伺ひ、それから、私ごとき非文不才の貧書生に、この活字日誌の使用を御許可下さるかどうか、改めてお願して、そのおゆるしを得て、はじめて取りかかるべき筋合ひのものであるとは、不コの小文士と雖も、まづは心得て居りました。それが、締切日の關係やら、私のせつかちやら、人みしりやらで、たうとうその禮を盡さぬままにて、發表しました。お叱りは、覺悟の上でありました。けれどもいま、葛原しげる氏の原稿を拜讀して、そんなに、嚴しいお叱りも無いので、狡猾の小文士は思はず、にやりと笑ひ、ありがたしと膝を崩さうとした、とたんに、いけませんでした。「ゑちごじし、九十へんとは、それあ聞えませぬ太宰くん。」とありました。逃げようにも、逃げられません。いたづらに、「やあ、それは困つた。やあ、それは、しまつた。」などと阿呆な言葉ばかりを連發し、湯氣の出るほどに赤面いたしました。文盲不才、いさぎよく罪に服さうと存じます。他日、創作集の中に編入する時には、「四きのながめ。琴にて。三十二へん。」と訂正いたします。
 まことに、重ね重ねの御無禮を御海容下さらば幸甚に存じます。秋深く、蟲の音も細くなりました。鏤心の秋、琴も文も同じ事なり、まづしい艶iをつづけて行かうと思ひます。





かすかな聲


 信じるより他は無いと思ふ。私は、馬鹿正直に信じる。ロマンチシズムに據つて、夢の力に據つて、難關を突破しようと氣構へてゐる時、よせ、よせ、帶がほどけてゐるぢやないか等と人の惡い忠告は、言ふもので無い。信ョして、ついて行くのが一等正しい。運命を共にするのだ。一家庭に於いても、 また友と友との間に於いても、同じ事が言へると思ふ。

 信じる能力の無い國民は、敗北すると思ふ。だまつて信じて、だまつて生活をすすめて行くのが一等正しい。人の事をとやかく言ふよりは、自分のていたらくに就いて考へてみるがよい。私は、この機會に、なほ深く自分を調べてみたいと思つてゐる。絶好の機會だ。

 信じて敗北する事に於いて、悔いは無い。むしろ永遠の勝利だ。それゆゑに人に笑はれても恥辱とは思はぬ。けれども、ああ、信じて成功したいものだ。この歡喜!

 だまされる人よりも、だます人のはうが、數十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。

 不平を言ふな。だまつて信じて、ついて行け。オアシスありと、人の言ふ。ロマンを信じ給へ。「共榮」を支持せよ。信ずべき道、他に無し。

 甘さを輕蔑する事くらゐ容易な業は無い。さうして人は、案外、甘さの中に生きてゐる。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のやうに考へたがる。

 「生活とは何ですか。」
 「わびしさを堪へる事です。」

 自己辯解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。

 「敗北とは何ですか。」
 「惡に媚笑する事です。」
 「惡とは何ですか。」
 「無意識の毆打です。意識的の毆打は、惡ではありません。」

 議論とは、往々にして妥協したい情熱である。

 「自信とは何ですか。」
 「將來の燭光を見た時の心の姿です。」
 「現在の?」
 「それは使ひものになりません。ばかです。」

 「あなたには自信がありますか。」
 「あります。」

 「藝術とは何ですか。」
 「すみれの花です。」
 「つまらない。」
 「つまらないものです。」

 「藝術家とは何ですか。」
 「豚の鼻です。」
 「それは、ひどい。」
 「鼻は、すみれの匂ひを知つてゐます。」

 「けふは、少し調子づいてゐるやうですね。」
 「さうです。藝術は、その時の調子で出來ます。」