襟度豆の如き日本人
今や日本は、世界並の文明国であり、一等国であり、世界的強国であり、絶頂ではなくても、少くとも確かに得意の時代である。国命を賭した露国との戦に、列国の意外とする程度の勝利を収めて、目出度く、一等級強大国の試験に及第し、而も目出度く、而も安全に呑気に生活し、而も最も西洋的に文明国を気取り、一等国を誇り、強大国を振り廻し、大国民を振り廻しつゝあることは、現在に於ける有りの儘の偽りなき事実である。
然し我等は、我日本及び日本人に関し、世界的強大国、世界的一等国、世界的文明国、世界的大国民一等国民文明国民を想ふとき、少くとも我等の偽らざる赤裸々の所見を以てすれば、我日本国民諸君が、如何に強大国を振り翳し、如何に一等国を振り廻し、文明国を振り翳し、強大国を鼻の先にブラ下げても、又如何に大国民を気取り、世界的大民族の自負に宇頂天となるも、少くとも現在の状態に於ては、到底、真の強国民たり、真の文明国民たり、真の一等国民たり、真の大国民たる資格に於て、重大なる欠点あることを指摘するの已むなき遺憾を痛思せざるをえないのである。
而も其の欠点の内容は、可成的具備するを可とする云ふが如き、具備するも可、具備せざるも大して差支へなきものではなくて、絶対必要のものである。真の文明国民として、真の一等国民として、真の強大国民として、真の大国民として、完全に具備せざれば、全資格の真価を下落せしむること尠少にあらざる重要必須のものである。
然らば、其重大なる欠点とは何であるか。大国民たるの資格を棒に振り台無しにするの已むなき重大なる国民資格欠点問題とは抑も何であるか。
曰く、襟度の狭小である。即ち大国民の大国民たるに於て必須なる度量が、宇笛の如く大海の如く寛宏広闊(くわんこうくわうくわつ)ならずして、豆よりも小なることの夫れである。
之れを実際に観よ。常に天才の出現を要求して居るにも拘はらず、偶々(たま/\)天才的人物の現はるるゝことあれば、寄つて集つて袋叩き同様の憂目を見せ、其擡頭(だいとう)を押へつけて枯死せしめすんば已まざるものは、我国民夫れ自らではないか。又、政治界にせよ、外交界にせよ、宗教界、文芸界、教育界にせよ、実業界にせよ、偉大なる人物らしき者出現すれば、何彼(なにか)と難癖をつけ、攻撃の問題を作り、文句を並べ、其の完全なる発達と社会的活動を阻止し妨害し拘束し窘窮(きんきう)し、偉人の萌芽を摘み切り、枝を折り、葉を(むし)り、幹を傷(きずつ)け、根を掘り出して有耶無耶に葬り去るにあらざれば腹の蟲の納得せざるものは、偉人の出現を熱望しつつある我日本人夫れ自らではないか。
而も、偉人天才を迫害して、其成長を妨害するに、最も得意なる我日本人は、迫害にあらず妨害にあらず、之れ儼正批評なりと謂ふが、其の弁解の紋切形である。勿論我等は、偉人天才の出現及び其行為行動に関しては、絶対に批評的態度を執るべからすと云ふものではない。仮令其れが偉人であり天才であるにしても、又偉人天才の出来損(そこな)ひであるにしても、儼正なる批評を加ふるの無差閊(むさしつかへ)であるのみでなく、充分に批許し厳密に論議するの必要あることは無論の分明事である。
然し、批評は何処までも純客観的批評であることを要する。儼正なる批評は何処までも儼にして正なる批評であるを要し、論議は何処までも公平無私の神聖なる論議であるを要す。若し批評にして儼正を失し純客観を脱線すれば、最早や儼正なる批評ではなくて漫罵である。論議にして公平無私を放(はな)れて私情私心を挟(さしはさ)めば、又直ちに神聖なる論議と称すべき資格を喪失する。偉人天才的人物と思惟せらるゝ人物、又は偉人天才と迄は行かすども、多少頭(づ)抜けたる識見と手腕とを有する人物らしき人物の出現及び其の行為行動に対する我日本人の態度は、純粋公平なる批評的態度ではなくて無茶苦茶の態度であり、暴慢無礼の態度である。声明は儼正なる批評であつても、其所謂儼正なる批評の内容其物は、殆んど一切の場合に於て儼正ならざる漫罵であり、無責任なる打壊(ぶちこは)しである。其所謂神聖なる論議は神聖なる無私の論議ではなくで、殆んど一切の場合に於て、岡焼(をかやき)的論議であり、嫉妬論議である。即ち混(まぜ)つ返し論議であり、叩き潰し批評である。即ち罵倒であり雑言である。即ち悪口であり悪態つきである。
斯くの如く、一方に於ては偉人の出現天才の続出を熱心に希望しながら、偶(たまた)ま偉人天才的人物の出現せんとする事実あれば、態度は一変して、寄つて集(たか)つて、叩き潰し押し潰し、妨害迫害到らざるなき矛盾に熱心なるは我日本人の常ではないか。即ち、我日本人の偉人天才の出現を熱望し要求すと云ふは、唯だ口弁のみの熱望であり要求である。随つて、日本人は只だ理論の上に於てのみ空想的偉人架空的天才を熱望し要求するに過ぎざるものであり、実際的に偉人天才の出現することを好まず、若し其の理論の上に於て空想的に熱望し要求したる偉人天才の出現することあれば、有らゆる嫉妬、有らゆる倩視とを以て迫害せざれば承知の出来ざる我儘勝手の国民であり、不得要領の国民であり、女の腐つたやうな国民であり、胆豆(たんまめ)の如く、度量針端の如く細く狭き国民であると謂はざるを得ないのである。
此点(このてん)について、常に我等が、現在に於ては我等日本人と同等であり、何等の文明人であつでも、将来に於ては、我等日本人を遙かに凌駕する文明人となり、万般の事に於て遙かに優越すベき人種であると思料するを得ない欧米人を観れば、日本人をして顔色なからしむる程に優越せることを痛感せざらんと欲するも能はざるものである。彼等は、唯だ口先のみに於て偉人天才を優待するものでない。彼等は、只だ理論的にのみ偉人天才の出現を要求熟望するものでない。彼等の熱望は実際的であり、彼等の要求は生ける偉人生ける天才の出現であり、生ける偉人天才の生ける働きの力である。即ち彼等は空想の偉人架空の天才を欲せずして、現実の偉人を要求し、現実の天才を熱望し、一度(た)び偉人出で天才現はるゝに当りては、有らゆる同惰、有らゆる好意、有らゆる擁護、有らゆる激励、有らゆら称賛を以て実際的に優待し、其無難なる成長と其社会的活動とを完全に遂行せしめ、其胆は世界的大であり、其度量の寛宏は海の如く広大であり、日本人の如く、偉人天才を早く卵時代に叩き潰すの乱暴なく無茶なく矛盾がない。之れ、欧米人の偉人天才を待つの寛量実に嘆賞に価(あたひ)するものある事実であつて、而も一等国民たり、文明国民たり、世界最強の国民たり、神洲の国民たる我日本人に対する皮肉でなくて何である。我日本人の襟度豆よりも小なる事実を反証せるものでなくて何である。而して又我日本人が如何に何を振り翳し、何を振り廻し、何を鼻の先にブラ下げても、少くとも襟度に於ては、彼等に一疇(いつちゆ)も二疇(にちゆ)も輸せざるべからざるを示せるものでなくて何である。而して又、我国民諸君が、如何に大国民を以て自ら任じでも、其資格に於ては、一大欠点あるを皮肉れる事実でなくて何である。
我等は、欧米人の自国に於ける偉人天才を俟つの寛量と、我日本人の自国に於ける偉人天才に対する態度とを比較して想ふの時、欧米に偉人天才の出現頻なるの理由と、我日本に於て、偉人天才は愚か、一人の人物らしき人物さへも、否、其の臭ひさへも嗅ぐことを得ざる理由とが、此の一点によつて分れて居ることを思はざるを得ないのである。
而して又、欧米列強が其偉人天才の偉大なる力によりて、常に安全なる航路を発見しつゝあるに比して、我日本が、一人の人物らしき人物さへも有せず、団栗的凡庸のみの押し合ひへシ合ひに日を暮し、平凡船頭徒らに多くして日本帝国と云ふ巨船が、将に山に引摺(ひきず)り上げられんとしつゝある悲惨にして滑稽なる現在の為態(ていたらく)が、将来如何なる結果を来すべきかを憂慮せざるを得ないのである。
有らゆる異人種の血によつて混血的に組織されたる事情の存するあらば兎に角、苟くも、純粋単一なる大和民族のみを以て成れる我日本国民に対して、我等は、必ずしも、爾の敵を愛せよと勧告するものではない。右の頬を擲(なぐ)られたら左の頬を向くるの耶蘇的寛量を強(し)いんとするものでもない。然し乍ら、尠くとも、自国の偉人天才を俟つに絶対寛量であるべきことは、真の大国民たる資格の一部であり、我日本帝国と一切国民との将来を光明ならしむる上に於て絶対必要であり、我帝国と大和民族とを、世界の最高線に置く上に於て絶対必須の条件であり、形而上的であるにしても形而下的であるにしても、将来、各世界を、我日本人の手によりて一丸とし、其の支配者たり、覇者たり、司令民族たるを現実する準備と実行との上に於て、絶対必要の一条件である。
我等は、他の如何なる国家国民と比較する場合に於ても、絶対優越なる国家であり、国民であることを欲するものである。仮令何であるにせよ、一点たりとも譲歩せざるべからざる欠劣あるを欲しないのである。偉人天才を有することに於ても、他の何れの国に比するも、量に於て質に於て、迥(はる)かに優越せんことを期せんと欲するものである。而して、此時期に到達して始めて我日本人は真の世界的大強国たることを振り廻すべきであり、世界的大強国たるを振り翳すべきであり、世界唯一の優秀国民たるを鼻の尖にブラ下げで、世界の到る処を到らざるなく闊歩するも差支(さしつかへ)なき時代である。而も此の理想の時代完全の時代は、偉大なる人物の出現によらざぎれば、到底、絶対に、期待せられ得べきものでない。
然るに、我日本人は、一方に於て其偉大なる人物を要求しながら、実際に於ては、之れを打壊し叩き潰すことに熱心であり得意である。而して日本に偉人無く天才なしと称し、而も得意満面の状態である。斯くの如き建設と破壊とを同時に行ふ民族に、果して偉大なる人物が出現し得るか。果して偉大なる天才が偉大なる天才を十分に遺憾なく発揮し得るか。
我等は我日本人全体が、此欠点に自覚せざる限り、而して寛量宇宙の如く大海の如くならざる限り、仮令一人の偉人一人の天才たりとも、到底絶対に日本の地上に実現することなきを断言せざるを得ないのである。即ち千代萩の作者の喝破を俟つまでもなく千年万年待つたとて、何の音信(たより)があろぞいなであり、永久望洋の嘆より脱することを得ないのである。