我国民の政冶的自殺

 我等は、我日本の現状に対しては、有らゆる方面に於て遺憾を有するものであり、其改善改革に向つて微力を惜まざるは勿論、国民全体の自覚と決心と奮起努力とを要求して止まざるものであるが、我等が、全国民に対して、其自反自省、奮起一番を劇説せんとするものゝ内、代講士選挙の如き其一である。
 年々歳々帝国議会の開会せらるゝ毎に、時々臨時議会の召集せらるゝ毎に、又た総選挙の施行せらるゝ毎に、自ら称して国民の選良と云ひ代表者と云ふに拘はらず、実際は些(すこ)しも代表者らしき所なく、少しも選良らしき処なく、自称代表者であり自称選良に過ぎずして、寧ろ選悪と云ふの適切なるを想はざるを得ないのである。
 今日の所謂、代議士なるものが、名は代議士であり衆議院議員と云ふ頗る厳(いか)めしきものであつても、其実質が如何なるものであるかは、我等が茲に縷述する迄もなく、既に天下周知の事実である。今日の日本は旧日本ではなくて新日本である。已に一切の旧套なる形骸より蝉脱(せんだつ)して、新鋭の絨衣(じうい)を纏(まと)へる新しき日本である。随って、代議士の選挙の如きも、新日本に相応しき選挙であるベきであり、已に新しき理想的真の選挙が実行せられ居るべき筈であるにも拘はらず、実際に於ては、依然として旧式の選挙であり陳腐の選良選定である。故に選挙の形式も内容も、共に情実と陋怪卑劣(らうかいひれつ)なる術策の外何物もない。言論を以て勝敗を決すと云ふと雖も、実際に於て言論はお祭礼(まつり)の提灯に過ぎないものであり、唯だ一種の景気づけに過ぎないものであり、其真に勝敗当落の分るゝ処は曰く黄金、曰く義理、曰く叩頭である。敢(あへ)て問ふ。黄金を以て買収したる代議士が、果して真に代議士たるの価値あるものであるか何うか。義理情実を以て無理矢理に不自然に当選したる代議士に、果して真に国民の選良たる実質が有るか何うか。叩頭を以て当選したる代議士に、果して真に国民の代表者たるに愧ぢざる資格があり且つ其れ丈けの働(はたらき)が出来得るか何うか。其断案は既に議論するまでもなく、現在の代議士其者が遺憾なく明瞭に具体的に自白し尽して居る。
 見よ。殆んど四百頭を算せんとする代議士中、真の代議士らしき代議士は幾人ありや。其大多数は、数千数万の黄金を撤き散し、所謂金力によりて代議士たるの地位を贏(か)ち得たるものにあらすんば義理詰にして投票を得たるものか、然らずんば三拝九拝唯だ之れ叩頭万遍を以て辛くも代議士たり得たる所謂お情け議員ではないか。而も斯くの如きデモ議員であるにも拘はらず、彼等は、堂々たる国民の選良を以て居り、遺憾なき国民の代表者を以て自ら任じ、無闇に代議士風を吹かし、鼻息の荒きこと到底近くべからずである。而も一度び彼等の代議士的真価を曝露すれば、彼等の有する政冶的識見なるものは新聞雑誌によりて得たる雑駁なる知識にあらずんば、浅薄寧ろ憫むべき一夜漬の先輩受売りである。而も最も甚だしき与太議員に至りては、政治的能力の零(ゼロ)であるのみでなく、殆んど全く政治の何たるかをさへ弁知して居ないのである。
 今日の代議士の大多数が、既に斯くの如き黄金、義理、叩頭出身の与太議員であり百姓代議士であり陣笠議員である以上、其の行為行動が徹頭徹尾自己本位であり、私利私福主義であり、金箔主義であり、自家広告主義であり、歳費主義であり、何等国家的観念なく、唯だ議会開会中、型の如く登院してお祭騒ぎを演じ、野次振りを発揮し、与太式を遺憾なく曝(さら)け出して一片愧心なきは、意外でなく不思議でなく、正さに当然であり、必然である。而して又斯くの如き与太議員百姓代議士、陣笠議員によりて組織されたる所謂政党なるものが、国家本位でなくて自党本位であり、政治目的でなくて政権目的であり、国利民福主義でなくて党利党福主義であるのも、自然の結果であつて何等怪むを要しないのである。
 而も斯くの如き、代議士の地位を駆(か)つて自家広告の用に供し、衆議院議員の名を駆つて私利私腹を肥し、其実際に於て多少有価値とせらるゝ所は、党員の頭数を算する場合と議会に於て採否を決する場合のみであつて、其他一切の場合に於ては、有無問題とならざる、否寧ろ有害無益の場合多き代議士を出しつつあるは、之れ果して何人の罪であるか。政府の罪か、選挙法の不備か、将た又代議士夫れ自らの罪か。否、政府の罪でなく選挙法の所為でなく、又た、代議士自らの罪でなく、選挙人なる一般国民の罪である。即ち、斯くの如き黄金、情実、叩頭出身の与太講員を続出せしむる程に衆議院議員選挙を軽視せる国民の罪である。選挙と代議士、代試士と国政、国政と国利民福との関係について、国民一般が余りに無頓着であり無関心であり無考であり軽率であり浅薄である結果である。
 今や日本は、人民が国政の一切に掌(たづさは)ることを許さゞる封建時代ではない。明治二十二年の憲法発布の日より、萬機公論に決せよとの優詔(いうせう)により、一切の国民が政冶の一切に関与することを許されたる立憲国であり、選挙法によつて代表者を選出し、国政の料理に預かしむることを得る代議政体の国である。随つて、国民の選出する代議士の善意は、直ちに国政の善悪に関係し、国政の善悪は又国利民福に直接影響し、国家の盛衰、選挙人たる一般国民の利害に関及するのである。我国民全体が、此の一波の動静は直ちに万波動静の原因たり前提たるに自覚せば、代議士の選挙が、国民の政治的最重最大の問題であり、軽卒に投票すべきでないことを痛感せざるを得ないと同時に、其結論としては、必然、黄金情実叩頭出身の与太議員の如きは、仮令一個半人たりとも、断じて被選者たることを許容すべきでなく、徹頭徹尾、国利民福以外何物も眼中なく目的とせざる、真の国家的国民的人物を代表者として選挙するの絶対必要を認めざるを得ないことに到達せざるを得ないのである。
 茲に於て、我等は、理想選挙の方法として、黄金情実叩頭出身の無能議員の駆逐絶滅策として、真の代議士らしき代議士、真の代表者らしき代表者、真の選良らしき選良の選択方法として、即ち徹頭徹尾国利民福主義の真人物を齟齬なく過失なく選出する完全なる方法として、一私案を提出し、我国民諸君の深思考慮を煩はし、其厳行実践を要求するの急務なるを思はざるを得ないのである。
 然らば、其の我等が茲に提出する一私案と何であるか。曰く、黄金、情実、叩頭によつて代議士たらんとする卑劣無能漢を弾排し、人格高潔にして国利民福主義を以て終始する人物を選挙し、選挙民に於て其生活を保障することであり、且つ該人物が、其生涯を代議士によりて終始する場合は当人の死後に於ても、其妻女又は其子の生活、又は教育に関する一切を保障する等の感謝的報功慰労的方法を執ることである。此の方法によりて代議士を選挙すれば、仮令其破選者に家産なく、全く歳費を以て生活一切の切盛を為さざるべからざる事情にあつても、決して歳費を当にする必要がないのみでなく、代議士として相当の生活を為すことが出来る。随つて、代議士を看板に営利事業に関係することがなく、代議士としての立場は、終始一貫し、国利民福を増進する以外何等の野心も懐抱する必要がないのである。
 論者或は言はん、成程斯くの如き方法によつて代議士を選出せば、理想的選挙であり且つ理想的結果であるべきも、代議士の生活を選挙民に於て負担することは決して容易の業でない。其生活費が、仮りに最低毎月二百円を要すとせば、一ケ年に二千四百円ではないか、年々二千四百円を負担することは、選挙民の堪へ得る所でない。況んや代議士が終生其地の代議士として一貫する場合は、二十年乃至三十年間の生活を保障する訳であり、其保障は実に四萬八千円乃至七万二千円の巨額に達するをや。況んや該代議士の死後に於ける妻女の生活費又は其子の教育費までも負担すべしと云ふをや。而も前代議士の歿後新代議士の生活費を負担するのみでなく、前代議士の遺族の生活費教育費の一切を保障すべしと云ふをや。故に斯くの如き方法は、理論上の理想としては最上乗なるも、実際的方法としては、到底、言ふべくして行ふべからざる方法であると。
 然り、仮令選挙民の職業が何であるとを問はず、選挙民に於て、代議士の生活費の一切を負担することは、鐚一文も負担せざるに比して重荷であり迷惑であり厄介であり損であることは言ふ迄もない。出す事であれば懐中より手を出すことさへも御免蒙りたがる癖に而も己れの利得となることであれば掛替無しの生命までも粗雑(ぞんざい)に取扱つて怪まざる今日の利已的人心より見れば、年々二千四百円乃至三千円を負担することは大負担に相違ない。随つて真平御免蒙りたがることも必ずしも怪事(くわいじ)でなく不自然でなく、二の自乗が四であるが如く分明であり当然である。
 然し乍ら、僅か代議士一家の生活費の支弁を堪へ得ざる負担として拒否せんとするは、実利の点より見ても到底無打算的であり、軽重を弁ぜず本末を解せざる没分暁漢(わからずや)であり、没常識(ノンセンス)であることを免れない。今日の代議士は、選挙民に政治的自覚なく、一切殆んど無打算的であるが為めに、選挙に方り、当選の月桂冠を戴かんとするには、尠くとも一身代傾けざれば、到底不可能の状態である。一回の逐鹿(ちうろく)に於て、尠くも数千円、多きは数萬金を撒き散らしたるのみでなく、有らゆる情実を手繰り、有らゆる策略を尽し、舌戦口闘に連日連夜不眠不休は愚か、脚を棒にし、叩頭の首万遍を為さゞれば、勝者たること殆んど絶対に不可能であると云ふも、必ずしも大袈裟でない。否、啻(たゞ)に自家の全財産を棒に振るのみに止まらず、負債積んで山の如からざれば、到底衆議院議員の肩書附名刺を振り廻すこと能はざる有様である。先祖伝来の家屋敷を運動員の弁当代に化せしめても、全財産の底を叩いても、更に数千数万の負債を拵へても、遮二無二代議士たらんとする今日の所謂立候補者の立候補理由が、真に、自己の一身一家の犠牲の如きは殆んど問題とすべきでない重大問題即ち国利民福増進についての努力尽瘁にありとすれば、天下は太平無事であり、議会に陣笠議員は一頭顱(いつとうろ)も出現すること絶対にない筈であるが、実際は悉く此の裏である。九分九厘九毛まで、立候補の根本理由則ち代議士たらんとする目的は、国利民福でなくて私利の利慾であり利慾の拡充である。随って彼等に確固たる主義なく主張なく識見なく、党に入つては党に盲従し、党の為めに動き、党の為めに働き、党の為めに犬馬となり牛豚となり、木偶の如く機械人形の如く、而も其裏面に廻つては私利を貪り私腹を肥すことのみに汲々乎とし、無所属を標榜するも無所属たる定見あり主義あり主張あるでなくて、飄々として党則に束縛されず、自由の天地に在つて私利私慾を満さんとするか、然らざれば党則に束縛されざる自由を得んとする懶惰(なまけ)根性の外に出です。議員らしき議員なく、代議士らしき代議士無きは、寧ろ当然の結果であり必然の経路である。
 斯くの如きデモ議員を選挙し、斯くの如く与太代議士、我利々々亡者を選挙すれば、選挙民に鐚一文の特別なる選挙費を要せず、年々数千円の代議士生活費を負担する厄介なきの分明であることは明白であるが、仮令鐚一文の損なく費(ついえ)なくとも被選挙者が代議士として帝国議会に於ける行動は、善悪共に一々選挙民に影響するものであり、其代表者らしからざる行動は、直ちに非国利非民福とならて、国家を禍し、国民の頸に巷(まき)つき頭上に落下し、其結果は自己の掏へる縄によつて自己の首を縊ると同然である。
 国利民福とは其内容に於て善政の別名である。国民が国家法規の下に其代表者を議会に送るは、即ち悪政の下に個人的社会的生活を為さんが為めではなくて、猶(より)以上の善政の下に満足なる国民的生活、社会的生活、個人的生活の幸福を得んが為めである。即ち国利民福を遺憾なき状態によつて進行せしめんとするが、其最後の目的である。
 既に、国民の代議士選挙の意義目的が、国利民福を増進せんとするにある以上、其意義目的を眼中に置かず、私利を図り私腹を肥し、或は箔を附けんが為めに行動する代表者を選挙するは、之れ直ちに、選挙民が、自ら代表者選出の意義を蹂躙し、目的を直接滅茶々々にするものであり、寧ろ選出せざるの繁無く禍尠きに若かざるものである。今日の我一般国民は、此の代議士選出の意義目的について殆んど全く何等の考慮をも費して居らず、殆んど全く無頓着であり、没交渉であり、無自覚であり、衆議院議員選挙にせよ、府県市町村会議員選挙にせよ、唯だ被選挙者の名誉利害得失のみの問題の如く心得て居る。今日、衆議院議員にせよ自治団の議員にせよ、一人も人物らしき人物無く、其大多数が政党本位にあらずんば我利々々主義の与太議員でありヘボ代議士であるのは、此選挙者たる一般国民の無頓着無自覚無責任没交渉無考慮が生んだ結果である。随つて、選挙人たる国民が、其代表者の適当ならざる為めに被れる不利不幸は、到底数千円数万円どころの話でなく、年々歳々、何千万円何億万円の巨額を棒に振りつゝあり、而かも其の精神的損害に至りては、殆んど言外である。
 此の莫大なる損失を顧みれば、一ケ年二三千円程度に於て代議士一家の生活費負据の如きは、お茶の子サイ/\、殆んど比較の問題とならざる軽微の負担であるのみでなく、其利する処益する所は、現在の損害を除去し、莫大なる選挙費を不要ならしめ、併せて猶以上の積極的距離大幸である。逐増逓進的国利民福である。
 国家の何であるかを知らざる国民は、滅亡に必到する憐むべき国民であり、自己の権利利益を解せず、其擁護増進に無頓着無自費の国民は憫むべき奴隷的国民であり、衰滅を必然の結果とするの已むを得ざる国民であり、自殺的国民である。今や我国民は、尠くとも政治的に国家の何たるかを知らず、自己の権利利益を解せず、其擁護増進に無頓着無自覚の国民たる非難を免がれ得ざる国民である。即ち政治的に自殺せんとしつつある国民である。国家民力の進展に対して、寧ろ自ら迫害を加へ阻止を試み妨害を行ひつゝある国民である。而も我国民が此の政治的自殺より脱するの方法は何でゐるか、而して国家民力の進展を期し、自已の権利利益の擁護増進を完全ならしむるものは何であるか。其方法は何であるか、而して国家民力の進展を期し、自己の権利利益の擁護と増進を完全ならしむるものは何であるか。其方法は単一明瞭である。即ち、代議士選挙に対する一般国民の自覚である。即ち代議士らしき代議士、議員らしき議員、代表者らしき代表者を選挙し、現在及び過去の如く、黄金情実叩頭出身のへボ代議士与太議員を一掃し滅絶せしむるの一事以外何物もあるべきでないのである。