今や華族(くわぞく)は駄族である

 近時、我国民思想の全般的総括的傾向風潮が、著しく所謂西洋文明的となり享楽的となり、偸安(ゆあん)姑息的となり、贅沢的となり、遊惰的となり、無為徒食的となり、頽廃的に傾向せることは、何人をして言はしむるも、到底、絶対に、否認すること能はざる事実である。随つて、質素倹約、奮闘努力、堅忍持久、百折不撓、七転八起、徹底的精力主義を云ふが如き、剛健なる精神は代表的都会の人々を中心とし起点として、将さに日本より地を払つて去らんとし、殆んど全く危険状態に陥れることも、其頽廃的傾向風潮を認めざるを得ないと同時に、到底、絶対に、認めざるを得ない眼前に於ける現在の事実である。
 然し乍ら、斯くの如き悪傾向となり悪風潮を招致したる原因を、総括的に欧米に於ける思想傾向風潮の直輸入であり、欧米人の直接影響であるとのみ断定するは、真に其原因の根本の誤りなき断定であると言ひ得ない。蓋し、我等は、現在の斯くの如き不健全なる頽廃的亡国的思想及び実際生活上の傾向風潮が、一も欧米物の直輸入に関係して居るものにあらずと為すものではない。欧米人の直接感化影響が絶無であると言ふものではない。欧米に於ける思想上及び実際生活上の悪向悪風潮の直輸入、並に、欧米人の直接感化影響が、其半部の原因となつて居ることを是認するに於て、勿論、決して人後に落つるものではない。乍去(さりながら)、我等は、其割半(かくはん)の原因を国外的原因、即ち、海外よりの輸入に在りと認むると同時に、他の割半の原因が国内的原因、即ち、国内に於ける或者に発して居ることを認めざるを得ないのである。
 国外的輸入原因は已に分明(ぶんみやう)であるが、其割半の原因の発源地となれる国内に於ける或者とは一体何であるか。我国民の思想上並に実際生活上に於ける傾向風潮を、憂惧(いうぐ)すべき危険に陥入(かんにう)せしめつゝある不埒なる或者とは抑も何であるか。曰く、我日本の社会に於て、一種特別なる階級に在る一族である。皇室より最高の優遇を辱(かたじけな)ふし、国民としての最上級に蟠踞し、皇室の藩屏と称し、国民の儀表(ぎへう)であると称して、自ら居ること頗る尊大傲腹(そんだいがうふく)なる、所謂華族なるものが、即ち夫(そ)れである。
 仮令(たとひ)、其全部ではなくても、尠(すくな)くとも其九分九厘が、現に我が国民の思想を悪化し、社会の秩序を破壊し、善良なる風俗習慣と信念とを損傷し、其の実際生活上に嫌忌(けんき)憎悪すべき傾向風潮を作らしめつゝある事実は、仮令、何人が如何に庇護的否認的弁護を試むるも、到底、絶対に成功することを得ざる事実である。
 勿論、華族階級が、一般国民の思想及び生活を堕落せしめたる事実は、必ずしも現代の華族のみでない。遠く平安朝時代より、所謂公卿(くげ)殿上人階級が、桜翳(かざ)して今日も暮しつと云ふが如き、殆んど純享楽的遊蕩放縦の生活に遊游(いういう)して、敦厚質朴なる中流以下の国民に悪刺戟を与へ、放縦淫逸に流れしめ、怠惰逸楽に耽溺せしめ、善良健実なる一般国民の思想を禍し、其生活を害し、高等遊民の有害無益振りを遺憾なく後世に遺して居る事実は、厳格なる歴史が、遺憾なく、明白に、赤裸々に語つて居り、何時の時代に於ても、国民堕落の発源地は、必ずや上流階級であることを証明して居り、何時の時代に於ても上流社会は腐肉の社会であり堕落の叢淵であることを裏書してゐるのである。
 併し、維新以前の旧日本、殊に昔々の平安朝時代の如く、何等外来の刺戟あるなく、異人種との交渉なく案件なく、恰(あた)かも巾着内の甲虫の如く凾中(かんちう)の白鼠の如く、太平楽至極の生活を為し、日本人以外の民族と全然没交渉であり、又た没交渉で有り得られたる時代にありては、仮令公卿殿上人社会が、如何に堕落し、如何に腐肉の如くなるも、而して又た中流以下の人民が其れに感染して堕落の谷底に急転直下し、腐爛鼻持ちならざる極度に臻(いた)るも、其堕落腐爛の極点が、直ちに国家の滅亡を意味するものではなかつたのである。即ち、外国との交渉一切皆無であつたが為めに、一般的民心の堕落も、全般的民衆の腐爛も、共に単に内政上面白からざる国内的問題国内的民心疾病問題と言ふに止まり、外国より其の隙に乗ぜられて、国家の主権と人民の権利利権との一切を横奪占領せらるゝ等の如き、対外的危険は毛頭無かつたのである。随つて、公卿殿上人の享楽的耽溺生活も、其腐敗糜爛の極に臻れる遊戯的生存行為も、一般の民衆は之れに対して何等弾劾的態度を執らず、所詮公卿殿上人は斯くの如きものとして其為すが儘に振舞ふが儘に放任し、之れを採つて以て国家的憂患問題として肉迫し、其反省と覚醒とを要求するが如きことは断じて無く、公卿殿上人も亦、之れを以て、公卿殿上人の当然の行為であり、生活であり、権利であり、自由行動であるものゝ如く心得、如何にして猶以上の歓楽生活を為すべきか、如何にせば猶以上の享楽を得るかの研究と実行とに日を暮し夜を明かし、殆んど酔生夢死の為態(ていたらく)であり、一人の能く覚醒して、鞭撻を揮(ふる)ひ、放縦逸楽の腐肉生活を矯正せんとするものなく、滔々として歓楽生活に傾到し、而も其の日常為す所は、花間(くわかん)の舞楽にあらずんば月下の淫酒であり、恋歌の製作にあらすんば美姫を擁して巫山(ふざん)の劇雨(げきう)に陶然(たうぜん)たることであり、其の所謂動物的自然主義なる所、其の動物的本能満足主義なる所、宛(ゑん)として之れ長刀長衣(ちやうとうちうやうい)を帯纏(たいてん)する一種の人面人体の獣(けだもの)に過ぎなかつたのである。
 旧日本の上流社会が、仮令、斯くの如き、長衣を纏(まと)ひ長刀を佩(はい)する一種の動物の群集に過ぎなかつたにしても、而して、又仮令其の極端なる歓楽主義動物主義生活が、何等の社会問題をも惹起しなかつたにしても、而して又其れが一般社会が当然の事として認容したる上流社会の伝統的生活であつたにしても、新日本の而も大正の今日に於ける上流社会の実際生活の典範的事例と為すべきではない。仮令、其(その)何(なに)が何(なん)であり、其何が何(ど)うであるにしても、昨日(きのふ)と今日(けふ)とが同一の日にあらざるが如く、昔々の日本と現代の日本とは同一の日本ではない。一年前の我等と一年後の我等と現在の我等とが、同一の我等であつて而も同一の我等にあらざるが如く、平安朝時代の旧日本の上流社会と飛行機を有し飛行機を有し、世界強国の仲間に入り、全世界の凡百(あらゆる)国家国民に国際関係を有する現代日本の上流社会とは、自から同様の上流社会であることを得ない。
 旧日本の上流社会の公卿殿上人先生達が、昨日も今日も、桜花を翳し桃花を担いで、暢気に気楽に悠長に、天下泰平無為息災で、酔生夢死の連鎖劇を演じ、而も其れで別に差閊(さしつかへ)なかつたにしても、世界と云ふ一切人類の生存競争の俎上に抛り出され、最高最優最秀の地位を得んが為めには、一切の国民が脂汗を絞り血眼になるにあらざれば、到底、絶対に不可能の境遇に在る現代日本に於ては、仮令、上流社会であり華族であり名門名家であるにしても、旧日本に於ける上流社会の、長袖(ちやうしゆ)主義、歓楽主義、本能満足主義、動物生活還元主義無為徒食の純享楽主義を踏襲して、酔生夢死の連続フイルムの製作専門家たることは、断じて認容さるべきものでない。
 其性貿の上より言ふも、元来、華族なるものは、彼等が常に紋切形の如く口にする所の如く、事実皇室の藩塀であり、事実国民の儀表であるべき筈である。常に如何なる場合に於ても、是れより一歩も脱線すべからざるものであるべき筈である。然るに、今日我等の眼前に曝露されたる華族の一切状態は、我等をして、其の事実の余りに想像以上迥(はる)かなるに、意外の感あらしむるものであり、呆然(あぜん)たらしむものであり、喫驚せしむるものであり、憤激慨嘆せざるを得ざらしむるものであり、国民鍛錬の第一着手として、先づ彼等華族階級よりして、峻厳に鍛錬してかゝるの緊要なるを痛思せざるを得ざらしむるものである。
 皇室の藩屏たり国民の儀表たるの本来なる華族は、其社会的個人的生活状態の一切に於て、其名称の華族なるが如く、華のやうに麗々美々たるべきであるにも拘はらず、今日我等の前に生存せる華族は、華の如く美しからず麗はしからずして、其心状行為共に豚の如く醜穢であり、野獣の如く動物的であり、バチルスの如く社会に害毒を流布しつゝある。而して当さに、最早や、華族ではなくて醜族であり駄族であると云ふの標語を冠せしむるに適切なる有様である。
 実際について、今日、華族の為す所行ふ所が何であるかを看よ。曰く贅沢、曰く傍若無人の尊大倨傲、曰く放縦、曰く逸楽、曰く破倫、曰く不貞、曰く淫酒、曰く漁色、曰く不規律、曰く無秩序、曰く破廉恥、曰く無為徒食、其他不健全不真面目たる高等遊民的一切の行為である。而して彼等は、未だ曾て、国家的社会的何事に対しても、自発的に、皇室の藩屏の実を体したる、又国民の儀表らしき行為を殆んど一回も実行したことがない。即ち、華族らしき行為を一般国民の輿論に余儀なくされずして試みたことがない。衣冠束帯で恋を語り。年百年中歌舞管絃、歓楽生活に浮身を窶すを畢生の能事としたる、昔々の公卿殿上人と、其生活の内容に於て、殆んど同様である。其相違する所は昔と今との相違であり、平安時代と大正時代との相違であり、旧文明時代の公卿殿上人と新文明時代の華族との相違である。
 我等は、原則として、華族が、皇室の藩屏であり、国民の儀表であると云ふことに対して、異議異論を唱へんとするものではない。然し乍ら、我等は、尠くとも今日の華族は、其九分九厘まで、皇室の藩屏たる資格なきは勿論、国民の儀表とするには、余り不完全であり、余りに腐敗堕落せるを想はざるを得ないのみでなく、寧ろ、有るは無きの弊害なきに若かざるを思はざるを得ないのである。即ち、今日の華族の如き華族は、我皇室に取りても、国家に取りても、将た又国民に於ても、一切不必要であり一切無用であり、華族ではなくて駄族であり、上流社会の上流人ではなくて上流社会に生棲する所謂下流以下の有害無益の動物であることを断言するに躊躇せざるものである。
 殊に、其家庭の腐敗紊乱に至りては、到底、華族の家庭を以て見るべからざるのみでなく、彼等が、常に、虫族(むしけら)の如く、奴隷の如く、寧ろ人間にあらざるかの如く蔑視せる所謂下層社会の、熊公八公の家庭にだも、及ばざること遼遠なるを想はざるを得ない有様である。而も其家庭の腐敗紊乱が、如何なる事実によつて証明せらるゝかは、我等が茲に特に叙述するを要しない。今日迄社会の表面に暴露したる一切の事実を参考とすれば充分である。而して、又、我等の常に目撃する所、及び、常に彼等の家庭に出入する者の実際に目賭(もくと)せる事実のみによりて沢山である。
 今や、我日本は、昔々の平安朝時代の日本でなく、専権圧制の封建的日本でなく、国家的社会的将た個人的一切の組織が、根本的に革新せられたる新日本である。而して復た、今や我国民の一切が必死の奮闘努力を為すべき重大なる局面に臨んで居り。国家の盛衰、民族の消長は、一に現代国民の健闘振りの如何によつて決せらる、場面に際して居り、華族たると平民たると新平民たるとを問はず、一致団結、歩調を一にして勇敢に一切の努力を積むべき危険状態に陥つてゐる。
 而も此の最重最大の場面に於て、皇室の藩屏たり国民の儀表たるべき華族が暢気に気楽気儘に、国家を思はず、社会を顧みず、国民を眄(べん)せず、明けても暮れても、歓楽生活の贅沢三昧、無為徒食の連続フイルム製造にのみ熱心であるのは、第一彼等が、皇室の優遇に酬ひ奉るの所以でなく、華族なるものゝ何たるを知らざるものであり、又国家国民の為め、真に寒心すべき事であり、深憂せざるを得ないことであり、我等平民をして寧ろ華族制全廃を絶叫するの已むを得ざらしむるものである。
 元来、皇室に於て、彼等を遇せらるゝの優渥なる其御趣旨は、決して、彼等をして無為徒食の歓楽生活を為さしめんが為めではない。又彼等をして、国家を忘れ、社会を藐視(ぼうし)し、国民と没交渉ならしめ、一種の隠居的生存を為さしめんとするのではない。彼等の父祖の勲功により、或は彼等の国家的社会的功労を嘉表(かへう)せられ、皇室の藩屏、国民の儀表たらしめんとせらるゝ以外、何物もあるものでない。
 仮りに我等一般国民は、旧日本の一般人民が、公卿殿上人の遊民的純歓楽生活を、其地位と物質的豊富より来る必然的当然的行為であると黙視認容したる華族と云ふ特殊の階級に列するの故と、彼等が多額の財産所有者である故とを以て、彼等の華の如く美しからざる生活、皇室の藩屏及び国民の儀表らしからざる行為とを、其境遇より来れる已むを得ざる自然的結果の行為であるとして、黙視認容するにしても、時に華族に列すとの優渥なる聖旨に対して、彼等は、果して恐懼する所なきか。果して聖旨に背悖馳反せるものでないとして安閑たることを得るか。果して、皇室に対して不忠不臣ならず、一般国民に対して一点愧づる所なく疚しき所なき、華族的行為行動であるとして超然たるを得るか、我等は先づ、其れに対する彼等の偽らざる答弁を聞かんことを欲するものである。而して我等は、彼等が、是れに対する答弁の口を開かんとするに先(さきだ)ち、華族とは抑(そもそ)も何であるかを深考(しんかう)せんことを要求するのである。

 

「今や華族は駄族である」 (『珍ぷん感ぷん』 樋口麗陽 大正六年)