韓 山 紀 行                  山路愛山


   仁 川 よ り


  仁川よりこの書を呈す。
  二日門司にて船待すべきはずなりしに、にわかに四国丸という千四百トンの船、釜山、仁川に赴くとの報あり。午後三時半倉皇(そうこう)船に上る。朝来の雨始めてはれ、雲破るるところ青天を見る。あそこに見ゆるが水雷艇、ここに見ゆるが砲台など種々の説明を傍人より受く。今は茫々として記せず。僕は船に慣れず船費はなはだしかるべしとの鬼胎を懐きしかば一等船室を借る。夜半玄界難を過ぐ。舟大いに揺ぎ眠しばしば驚く。すなわち蹶起して寝室を出でて甲板に上る。時に三日午前一時半なり。ただ見れば甲板上人なし。船の動揺はなはだしくしかして月すでに東に上る。四顧ただ微暗にして波声を聴くのみ。僕脚根底なく、身神すこぶる懊悩を覚ゆ。かろうじて甲板の中央に坐し、大声「蒙古来兮」を歌い、わずかに気晴れ、神活くるを覚う。すなわちふたたぴ寝室に帰りて憩う。一眠暁に達すれば船すでに対州の左を通過し、ようやく朝鮮の島を見る。午前十時釜山港に入る。釜山港は三面山と丘陵とをもって擁し、一面大洋に連なる。港内すこぶる広し。ただ風あれば波高きを免れずという。四国丸、荷上げのため多少の時間を要するをもって端舟をやとい釜山の市街を見、始めて韓人の生活に接す。街路に市を開きて物を売るは越後新潟辺の朝市にことならずして、ただその極めて汚穢なるを異にするのみ。女の物を頭上に上せて売りあるくはあたかも大原女のごとく、チゲをもって高く物を背上に荷うことは京都の村民のごとく、小さき車に長き物を載せて行くも三条橋上に見るものに似たり。しかしてその行歩の悠々閑々としてあたかも日月の梭(ひ)のごとくなるを知らざるがごとき光景もまたほとんどわが京人に似たり。持統天皇の御詠にいわく、
   春過ぎて夏釆にけらし白妙のころもほすてふ天のかく山
  時まさに春夏の交、韓人の白衣を干すこと真にかくのごとし。僕の眼に映じたる韓人は実にわが奈良朝時代の復活なり。ただ韓人の生活は精神なき奈良朝生活にして、奈良朝の生活は精神ある韓人生活なるを感ずるのみ。韓人の労働者は身幹体力ともに邦人に勝る。すこぶるノン気至極なるものにして餒(う)ゆればすなわち起って労働に従事し、わずかに一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢なる家に蟄居し、その固陋の風習を守りて少しも改むることを知らずという。僕ひとたぴ釜山の地を履んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。途上に遇うところの韓人ことごとく長き煙管を携え閑あればかならずこれを喫す。またメソタイ魚と称する乾魚をむしりつつ食うものあり。もっとも蒜(にんにく)、唐辛しを好み、食物にはかならずこれを用う。その刺激興奮の食料を貪食することまことに未開の本色を現わせりというべし。午後十一時四国丸釜山を出でて仁川に向う。同四日の一日は海上にあり。朝鮮西岸多島海外の航路を取る。同五日夕に至って仁川に着す。           (明治三十七年五月五日夜)




   京 城 よ り  一


 京城よりこの事を呈す。
 朝鮮多島海の航海は別段面倒なることなけれども時として「ガス」(霧)の海面を掩うことあり。さる時は航海を止めしばしば汽笛を鳴らして衝突を避け、しばらく一所に漂いてそのはるるを待たざるべからず。ただし北海道のごとく十数日の長きにわたりて霧なお散ぜざるようたることはなし、たいていは一日ないし三日くらいにてさらに航進するを得るなり。僕の四国丸は幸いにして「ガス」の襲うところとならざりしかば海上の航程もたいてい予期のごとくなるを得たりしかども、仁川にて他人に開けばあるいは七日を費したりといい、あるいほ八日を費したりともいう。
 四国丸は二等室に船客を載せず、ただ一等室と三等室とのみなり。僕は船に弱きものなれば、嘔吐の醜態などを人に見せては恥ずかしきことなりと思い一等室を借りたり。この船賃門司より仁川まで金二十四円なり。これでも昨今廉になりたるものなりとのことなり。船なればこそ洛陽の一布衣も一等客となりけりと思いてみずから一笑を催したりき。しかるに案外にも弱虫とみずから信じたる僕は一等船客(四、五人に過ぎず)中においてすこぶる平気の方なりしのみならず、三等船客中においても僕のごとくむやみに甲板に上下し、夜中にはね起きて月を見、詩を哦(が)するなどという飛上りの連中ははなはだ少なかりしがごとし。船客中にかつて甲種船長となりて手腕を奮いし井上氏あり。播磨の人なり。善談、善謔、多く甲板にあり。熊本県の中学校より官選にて韓国習学のため京城に赴く学生あり。その他三、四の人、僕とともにおのずから甲板上の一社会をなす。僕これを称して倶楽部という。衆皆絶倒す。後には井上氏などは「やア君は倶楽部に御出席が遅いな」などと戯る為に至れり。九州の学生は一体に質樸にして長者を敬するの風あり、喜んでわが輩の論談を聴く。ために船中の寂冥を破りしこと多し。玄界は鳥も通わぬと歌われたるくらいなれどもそれほど恐ろしきものにあらず。僕は「今から玄界ですから、御飯も控えておいた方がよろしい」というものありしにもかかわらず、据え膳喰わぬは男の恥なりと思い、(君よ笑うなかれ、)ずいぷんたくさん頬張りたれども、ついに吐するに至らざりき。釜山より一等船客となりしはみずから称してスペイン種といえる米人にして年は二十一、二なり。日本語をよくし、すこぶる日本下等社会の状態に通ず。僕は始め日本人の混種が、しか名乗るを好まずスペイン種なりといいおるものなりと思いしが、その仏国宣教師に多く同情し、プロテスタント宣教師を罵倒するをもって、そのスペイン種なりというもののあるいは事実なるべしと思えり。「此方へやって来るプロテスタントの宣教師は金もうけに来るのです。月給が百五十ドルですから日本の三百円になります、それですから相応に贅沢ができますし、金をためることもできます。つまり金がほしいから来るので、別段感心しない。カトリックの教師はそれに反対で、女房は持たずわずか月給十六円で満足しなければならない、まことに感心です」とは彼の説法なりき。彼は雲山の金鉱に従事するものにて、「西洋人は日本人より博奕が好きです。日本人のしない大きな博奕をします。雲山でも西洋人が三十幾人からいますが博奕をしないものはありません。給金を取ればすぐ始めます、そうして取られてしまえば、壁の方に向いて本を読んでいます」という。いずこも青年の風習は同様なり。彼は英訳のボッカシオを読みいたり。僕試みにその猥褻の文句多かるべきことを詰(なじ)りたるに、そういうところは仏文で書いてありますと答えたり。彼横浜、神戸、馬関、門司、釜山、仁川等の巷花路柳についてもっともおかしき経験を有す。おかげにて僕は多くの智識を得たり。
  京城にて鬚を剃ればすぐに二十銭を貪られ、停車場より車に乗りて日本町に至れば四十銭をねだらる。日露戦争にてもっとも多く金の落つる所は韓国ならん。あるいはこれが韓国開拓の一助なるを得ば事はなはだし。京城の南、南大門外停車場の前に丘陵あり。韓人の屋後多く桃を植ゆ。今が花盛りなり。ただし桃花の色日本のに比すればやや鮮かならず。もって京城の月齢をトすべし。
 昨日南大門外にて童蒙先習という一冊を購う。日本の童子経、実語経の類なり。僕は韓国教育の素養如何を知らんと欲したれば、逆旅に帰りし後燈下において一閲したるに全体の主義は朱子学にして、あたかも自鹿洞掲示のごとく、例の父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有りの説法に過ぎず。しかしてその次に宗国(すなわち支那)文運の基づくところを論じ、次に韓国に論及していわく、

  東方初め君長なし。神人ありて太白山檀木の下に降る。国人立ててもって君となす。堯と並び立ち、国を朝鮮と号す。これを檀君となす。周の武王、箕子を朝鮮に封じ、民に礼義を教え、八条の教えを設け、仁賢の化あり。燕人衛滞、蘆[糸官](ろわん)の乱によりて、亡命し来り、箕準を誘逐して王倹城に拠る。孫右渠に至り漢武帝、討ちてこれを滅し、その地を分ち、楽浪、臨屯、玄菟、其蕃四郡を置く。昭帝平那玄菟をもって平州となし、臨屯、楽浪をもって東府二都督府となす。箕準衛満を避け、海に浮んで南し、金馬郡に居る。これを馬韓となす。秦の亡人、避けて韓に入る。韓東界を割きてもって与う。これを辰韓となす。弁韓はすなわち国を韓地に立つ、その始祖の年代を知らず。これを三韓となす。新羅の始祖、赫居世、辰韓の地に都し、朴をもって姓となす。高勾麗の始祖朱蒙、卒本に至りみずから高辛の後と称す。よって姓を高とす。百済の始祖温祚、河南の慰礼城に都し、扶余をもって氏となす。三国おのおの一隅を保ち、互いに相侵伐す。その後唐の高祖、百済、高勾麗を滅ぼし、その地を分ち都督府を置き、劉仁願、薛仁責をもって、留まってこれを鎮撫す。百済年を歴(ふ)る六百七十八年。高勾麗七百五年なり。新羅の末、弓裔、北京に叛き、国を泰封と号す。甄萱(けんけん)は叛きて完山に拠り、みずから後百済と称す。新羅亡ぷ。朴苔金三姓相伝え年を歴る九百九十二年なり。泰封の諸将麗祖を立てて王となし、国を高麗と号す。群兇を剋剗(こくさん)し、三韓を統合し、都を松嶽に移す。季世に至り、恭愍嗣なし。偽主宰[木禺]、昏暴みずからほしいままにし、しかして恭譲は不君なり。ついに亡ぷるに至る。歴年四百七十五年なり。天命、真主に帰し、大明太祖高皇帝、賜うて国号を改めて朝鮮という。鼎(王位)を漢陽に定む。聖子神孫、継々縄々、重煕累給、もって今に至る。実に万世無彊(ばんせいむきょう)の休(よろこび)なり。ああわが国海隅に僻在し、境地褊小なりといえども礼楽法度、衣冠文物、ことごとく華制に遵(したが)う。人倫上に明らかに教化下に行なわる。風俗の美中華に擬するにひとし。華人これを称して小中華という。これあに箕子の退化にあらずや。ああなんじ小子、よろしくそれ観感して興起すべきかな。


 これにて一篇を結ぶ。原文は漢文にて、韓国の読法を注したるものなれども、読者の便を計りて書き下したり。その礼楽法度、ことごとく中華に擬するをもってみずから誇り、華人の称して小中華といいたりとて揚々たること事大根性ぜんぜん呈露す。その根底すこぷる深しというペし。この種の人物をして発債自彊せしめんとす、僕はまず匙を投げぎることを得ず。所詮はこの種の文学を一掃し、書を焚き、儒を坑にする底の手段を用い、国民の耳目を一新するにあらざれば不可なるべきか。されど今はかかる議論をなすべき時にあらず。何となれば僕は足を韓地に着けてなお三日に過ぎざる一族客なればなり。
 僕の深く恐るるところは在韓の日本人が自重せず、大国の威を借りて韓人を陵辱しかえってみずから韓人の不信を招かんことこれなり。日本国民の韓国にある者は人人みずから韓人の師表たるをもって任ぜぎるべからず。
 昨日は京城の祝勝会とて大騒ぎなり。僕ほ逆流を出で和圧台という丘陵にてこの騒ぎを見物したり。この丘陵は京城の南にあり、城市眼下に落つ。山は禿山にして骨出で、わずかに矮松の点在するあるを見るのみ。禿山の真中に古色蒼然たる城市を見ることむしろ

03

 

懐愴の感あり。
例の韓人悠々閑々として僕とともに見物す。供その一人
を捉えて筆談を試む。
 (僕)先生能為二漢文車。敢質。(佃触轟驚)
 (帝人)瞳以記二姓名高己。(肋紺掛舛如わd姪)
 (僕)僕輩泳得二繰達り意而己。格法所二固不り論也。
 (舶桝詳報浣諾謂f媚g〕
 (韓人)随二其山川之凰気二言語不転也。(g仙州川…蒜

 (僕)僕輩願大韓国。発憤自強。為二真個独立自主之
 邦≡氾間諸先生、先如何着r手。敢質。(餉確詣l表
 畑翔船舶咤詣鮎詣和い謂紆渦篭、)
  これにて分らぬように感じたれほ、
 請問、貴国発憤自強。以ゐ為壷二着手段二照射貼、
 鋼鞄削い詣k憺)
 とやったり。ところが先生の返辞が奇妙なり。
 (帝人)方今開化文明。世界経緯。義理堅固。然後自立
 之法也。(凱伽表詣頂)
 僕にはその意が解せぬゆえ、さらに一議論を試みたり。
 (僕)僕所見。所謂文明開化、不r過レ粉二飾外面→宕
 無二裏面忠厚意思存叫断不可也。敢問二高見二憎蜘謂が
 即欄州報謂欄幣宗村紺け…訳語駈臨場)
 と試みたり。しかるに先生の答は依然として方角違いな
 hノ0
 (帝人)忠厚意存k各自守二其国→今日筆答之庸○通二
 名姓如何。(詣約諾凱‥給紺凱憫詣酢仏7)
 (僕)僕大日本東京学生、山路氏、通称弥青。号二愛山→
 護聞二等姓ペ
 (僕また)寸陰可レ惜。徒費二観音ペ深為レ謝。深為レ謝。
 (帝人)生大韓元山上皇居姓池氏、名周元宗。聖三、
 号二春山二組l絹耗仙鮎諾詐b郎頂、)
  これにて問答をおわりたり。狐が鳥に乗ったようなと
 はこの問答の謂なるべし。一青年帝人、僕を見て漢学先
 生なりとでも思いたるや、傍に来り英語にて僕に向いキ
 ャソ、ユー、スピーク、イソグリッシュとやりかけたり。
 僕は英語の達人にあらず、はなはだ拙劣なる方なれども、
 族の恥はかき棄てなりと思いたれば、ただちにイエス、
 アイ、キャソと答え、それより鋒をこの青年に向けて一、
 二の談論を試むるに、何ぞ図らん、彼一句も分らず。そ
 の後青年に逢うごとに英語の談話を試むるに知ったふり
 するものはあるようなれども実に知るものは少なし。漢
 文もあまり分るものはなきようなり。一族人の雲煙過眼
 的観察にてただちに臆断を下さんは気の毒なれどもこの
 辺の帝人は概して
  (一)なまいき。
  (二)知ったふり、その実無学。
  (三)押強し、恥を知らず。
 とでも言いたきことなり。
  美少年の多きには一驚を契す。開く韓人の問には竜陽
(鰯)もっとも行なわれ、男と男の問に睨鮮沙汰も珍しか
 らずと。これあるいは韓人精力消磨の一原因にはあらぎ
 るか。               (五月七日)

  京城はり 二

  京城よりこの書を呈す。・
 今日は日曜日ゆえ、隙なればとて大東新報社長菊池長
 風君に促され水原に遊びたり。水原は京城より韓の里程
 にて七十里といえば大そうなれども日本里程にすれば七
 里くちいなり。京仁鉄道を、水登浦の停車場より折れ、京
 義鉄道に乗り換えて達す。途中に大なる池あり。一尺く
 らいの鮒がいると韓人は語りたり。朝鮮にてはただいま
 芥子の畠が青々たり。朝鮮人は米の耕作は念を入れざる
 様子なれども野菜の耕作はカを用うるがごとし。漠口は
 水清くしてかつ緩く、両岸に青き柳の枝垂れたる状、唐
 函の山水めきたり。所々に革のみ生えて人力の加わらざ
 る原あり。水利もよろしき様子なれは官姓をしたらば開
 拓の功あるべし。朝鮮の役人は日本農夫の来ることをも
 ちろん好まぬ様子なれども、放って置くよりは日本人に
 耕作された方が、土地もし霊あらば喜ぶべし。京城付近
 かくのごとしとすれば、その他は知るべし。
  この辺の気候は日本の信州よりは暖かなり。ただし冬

04

 時北風が吹けば寒きこと非常なりとぞ。空気は乾燥して、
 天気多く呼吸病に悪しく皮膚病によきは信州のごとし。
 僕は何となく長野に帰りたる心地したり。梨花すでに散
 りてわずかに枚上に残れるものあり。蕨すでに萌え出で
 たり。松林の小丘を縫える田舎道を歩みて城門をくぐり
 水原に入る。道に杉粟生え、すみれ生うること日本のご
 とし。水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうな
               てい
 れども日本の揚多村同然の体たらくなり。さりながら城
 門は立派なるものなり。韓国の都会は大陸流にして廻ら
 すに城壁をもってし四門を閃き望楼を設く。遠望すれば
 写真で見たる万里の長城なり。菊池氏の説に諸府の城門
 の内、南門はいずれもとくに立派なる由。僕案ずるに日
 本人でも畏嚇せんがためなるべきか、それとも南王面の
 意か。それはともあれ僕は城壁の大なると楼門の貌々た
 るとを見、城の内外にある民家の豚小屋然たるに対比し、
 韓国には役人の建築ありて、人民の建築なきを感ぜざる
 ことを得ず。
  韓人は早婚なり。男は十五、六歳にて繁り、女は十七、
 八歳にて嫁す。女房の方が年の上なるが多し。ゆえに正
 室の外に側室を置くこと多し。妾という意義の語はなく

 妻妾混合なり0
 女権存外に強し。上流社会の妻女はかならず政談家な
 り。この段は意外なり。しかし平安朝の季世を見るに男
 は意気地なき奴ばかりにして女には源氏物語、枕の草紡
 の作老あり。足利氏の末路を見るに男子の事業に見るべ
 きものなく、見るべきものは青女房の隠謀のみなり。し
                あした
 からばすなわち衰世には牝鶏の農するものと見えたり。
 ひとり韓国のみならず。
 済州島(昔の秋羅) の人民は男女別室におらず、女を
 家に閉じ込めず、すこぶる日本的なり。しかして頼は琉
 球人に似たる由。朝鮮は女を閉じ込むること支那のごと
 し。貴婦人は人に所を見することなし。女なれば閣内に
 出入するを得。ゆえに朝鮮の外交官は内室に腕利きある
 を要す。
  朝鮮人、利に敏なり。金銭上の執着カはなはだ強し。
一種の外交家なり。朝鮮に始めて釆たるものは詩人的の
 想像にて、この人民を鼓舞し、真個の独立なる人民とな
                          ふ
 しくれんとて、同等の待遇をすれども、少しく時日を摩
 ればあまり横着なる、ずうずうしき人民なりと感得し、
 驚馬をたたくつもりにて鞭撞する気になるが常なりとぞ。

 そのしぷとさ、不得要領さ、卑屈さ、肝頼の無さはとて
 も僕輩の耐え得るところにあらず。
 朝鮮にもっとも多く来り任するものはいわく山口県人、
 いわく熊本県人、いわく大分県人、いわく長崎県人。
 すつぱん
 簡の価は廉なり。相応の大きさなるもの四疋を繋ぎた
 る人にその価を問えば、いわく韓銭六十銭、日本の三十
                   ▲フま
 銭ほどなり。味は日本のほど甘からずというものあり。
 牛肉、鶏肉ともによし、鶏肉もっとも美なり。鶏卵は水
 原あたりにて一個一銭ぐらいなり。
       こ人ノむ
  韓女は物を蒙りて歩むこと足利時代の女のごとし。.し
 かして皆杖をつき居るなり。この輩は中流以下のものに
、過ぎず。上流の女は深く隠れて出でず。
  水原にて菊池氏の友人医師某君の家に厄介となり、朝
         せり  に
 鮮の鍋にて牛肉と芹とを煎、昼飯の馳走になりたり。某
 君の室、いまだはなはだ若し。外君に従って韓人の地に
 入り、韓人の家に住まい、あえて寂蓼を厭わず。この点
 は九州婦人の長所にして関東婦人の遠く及ばざるところ
 なるべし。
       たか
  京城物価の貴きこと話のようなり。半ば日本商人のか
 くのごとく騰貴せしめたるなりと非難するあり。

 朝鮮の流行歌を和訳すれば、
  御前といっしェに峠へ上り、四方を眺めりや日は沈
  む、帰らにゃならねど真の閤。
 亡国の音にあらずして何ぞや。
                   (五月入日)


   鏡南浦より一


 鏡南浦よりこの書を呈す。
 僕史癖あり、足韓山を踏むに及んで例の病気再発して
 堪えがたし。人ごとに一の癖はあるものを、少しく閑文
 字を弄ぶを許したまえ。
  仁川の前に横たわれる江華島に摩尼山(一本都塵尼
 山)あり、これ古朝鮮の始祖壇君の天を祭りし所なりと
 いえり。岡島に伝燃山あり、壇君三千をして城を築かし
 むる所にして三郎城の名あり、古址なお存すという。平
 安道妙香山、一名太白山は檀君初降の地にして黄海道文
 化県の九月山は檀君神となるの地なりと伝う。檀君に関
 する遺伝は後人の偽作なりとの説もあれば、僕はあなが
 ちに韓国の古口碑なりと推断するわけにはあらざれども、

05

僕をしてもし妄断妄言せしめばその天を祭るところの山
 を都摩尼山、もしくは摩尼山というものは、わが「フナ
 マlこなる語と源を同じうするものにあらざるか。イザ
 ナギノミコトが「フトマニ」をもって天神に奉事せられ
 たるは古事記の記すところなり。かつその三子ありとい
 うも、イザナギノ、、、コトと相類す。現に蝦葵三郎はイザ
 ナギノ、・、コトの第三子ヒルコのことなりなどいうにあら
ずや。かつ琉球にも始祖三子の遺伝あり。されば檀君に
                   しっかい
 関する遺伝をもって悉皆後人の捏造なりとするは少しく
 苛酷に過ぐるの臆断にして僕ほそのうちには日本、朝鮮、
 琉球に通有する台伝の骸骨を発見すべきものにあらずや
 と思う。
 されど檀君の昔話はあまりに舌りにたり。史籍に朝鮮
 のことの現われたるは漢武の後なるべきか。漢武の時に
 至りて支那人種は非常の拡張をなし韓半島の北半部を挙
 げてその郡県となしたり。すなわち江原道の鴻国は逐わ
 れて臨屯郡となり、平安道ほ楽浪郡となり、威鏡道は玄
 菟郡となり、遼東は真蕃郡となれり。照帝の時、さらに
 この四郡を改めて二府となし、玄菟、其蕃を合して乎州
 都督府とし、楽浪、臨屯を合して東州都督府となしたり。

 しかしてこの漢領に沿うて南にあるものは諸韓なり。
 思うに人種移動の勢いこの時よりはなはだしきものはあ
 らざりしなるべく、しかして日本が始めて韓国と政治的
 交渉を始めたるも当時にありしがごとし。さらに妄断す
 るを許さば日本開国の紀元には数世紀の違算あり。(し
 か考うるに正当の史学的理由あるは学者の疑わざるとこ
 ろなり。)たいてい人皇の始なるわが先王は奉呈(漢武
 の事業は秦皇の経営したるものの継続と見て差支えな
 し)冒頓と時を同じうしたる英主にましまし、人種移動、
 大国樹立の機運に乗じて日本島の統一を遂げたまいたる
 ものにはあらざるか。かくて諸韓は北は旬奴と支部とに
                   きんばく
 迫られ、南は日本に要せられ、すこぶる署迫の状態にあ
 hソき○
  しかるに句奴と漢とは久しく雄を争って互いに疲れ、
 ひとたぴ韓半島の北部をその郡県としたる漢人もややそ
 の強き手を弛めざるを得ざりしかば松花江岸書林省の平
 野に住まいし扶余族は白頭山を越えて国を大同江畔に建
 て、成鏡、平安、黄海諸道を略し、はては威力を遼河の
 岸にまで及ぼしていわゆる高勾麗の朝廷を開き、同族の
一枝は江原道より漢江を下りて百済となり、今の京城、


          −わだか●▲
 忠治、全羅の地に幡り、新羅は辰韓の一部より起りて今
 の慶尚道の地を略しここに三国鼎立の状態を現じ、従前
 の諸韓は次第にこの三国のために滅ぼされたり。神功征
 韓の役は三国鼎立の始めに起りたるものにして日本の属
         丸まな
 地たる洛東江南の任那諸酋長を新羅の圧迫より救わんが
 ためなりしなるべきか。されど任那はついに亡びぬ。し
 かして百済は一面高麗に圧せられ、一面新羅に迫られ、
 国勢はなはだ据わざりしかばつねに日本に臣節を尽くし、
 その保護に待つもの多く、日本もまた百済を優遇して任
 那の侯復を計らんとはしたり。
 すでにして支那は隋に至ってふたたびその勢力を統一
 し、勢力の統一とともに外方に向って開展し来り、ここ
 にふたたぴ高勾麗と戦いを開くに至れり。されど当時の
 高勾麗は土地広く、人種もまた雄健にしてよく戦いしか
 ば漢人は容易にその志を遥しうするあたわざりき。ひと
 り如何せん新羅はその人種を異にするがために扶余族と
 親しむことあたわず、早く款を漢人種に通じ、内外爽政
 の策を取りしかば唐に至って百済まず滅び、高勾麗もま
 たついに滅び、日本も韓半島に関する棄求を都ち、ここ
 に支那の勢力はふたたび朝鮮に及び、首済の地に熊川都

 督府は置かれ、平壊の地に平壊都督府は置かれ、事大主
 義は始めて牢乎たる根底を韓人の脳髄に作るに至れり。
               てん】じ
  爾後の歴史はただ支那に詔事しその甘心を求むるの一
 精神をもって貰徹するあるのみ。
                  (五月十五日)


   鋲南浦より 二


  鋲南浦にて郷塾のごときものを見たり。郷塾と書けば
 立派なるように聞ゆれども、生徒らしきもの二十三、四
 名に過ぎず。読むところの書は支那の歴史なり。先生は
 髪の生えたる五十恰好の人物なり。僕、平野氏(同船の
 煙草屋なり)とともにその家に至り、一礼したる後紙筆
 を請い、左の筆談をなせり。
 (僕)先生為二本邑教習季。(詑蛸渦和徴)
 (帝人)客二留此斎一為二教師叫 (凱駒帽策瑠し)
  (また)敢問二高姓大名叫
  (僕)初見通レ刺。士君之礼宜レ然。僕大日本学生、山路
 氏、名弥青。(ほ鮎詣鳩酎舶如弛棉削姐托し)
  (帝人)僕大韓幼学姓摩、名敬点。

06

 (僕)同行之友。姓平野、日本紳董。
 (韓人)既日二学生叫則宗教何道也。
 (僕)僕年少主二日本物担裸先生之学ペ長而学二泰西学
 術→頗聞二愛人敬天之教ペ但未レ準喪信一為顔。(謂妙、
 税謂批報幣讃糾い帽熊那鰯媚詣鯛詣b村f確人)
 この時韓人は物祖彿先生の名を解せざるもののごとく、
         や
 かたわらに日本人耶と書きてその意を質したれば、僕は
ただちに首肯してそのしかることを示したり。
 (僕、また)請「教、先生主二何学」奉二何教ペ
 (帝人)僕主二儒道→祖二述亮舜叫夢二革文武づ而以二孔
 孟多元師一也。(鯛憺は約諾肌訂謂謁祈l渦牝恵)
 宅舜を祖述し文武に憲章すとはさても大きく出たるも
 のかな。僕は彼が租彿先生を知らざるを頼に障りたれば、
 すなわち組彿学の講釈を始めたり。
 (僕)日本租彿先生。以二先王孔子之教」為レ在二乎利用
 厚生一途」痛排二朱拷亭→日本人謂為二古学巾僕亦少年
 読二其遺書二男如岬謂ほ加bほ姐f牌覿鵬削巾蒜桐畑批
 外印頂梢l酎l繋)
 さらに一転語を下して朱子を痛撃していわく、
 (僕)朱氏論r性。直与二仏氏一不「殊。僕輩所レ不レ服。


 先王之道0治国之要道。断非二性理之学→如何。(詰潤
那浣酢蒜離婚蒜l購凱棚難詰袈b概篭)
 ただちに敵の本陣に迫る。彼なんぞ連戦の態度に出で
ぎるを得ん。
 (帝人)性理之学以二仁義一以〔王。仁義之中。白布二治
 国之道→性理治国。非二両件物事二碓謂蛸ぢ諾艶d
 関蒜憫∽媚恥b媚礪)
 攫知遠の、何のという、日本にも評判の性理学老を出
したる韓人が眼前、一書生のために罵倒せられて黙する
あたわず、このくらいの逆襲に出でたるは当然にしてむ
しろ健気なりといいつべし。僕もさらに性理学の害を痛
論し、韓国の今日あるをいたせしは挙国ことごとく舟中
大学を講ずるの徒にして、性理学、実に韓国を腐敗せし
めたるものなることを語らんと思いたれども、悠々閑々
筆談に耽るべき旋にもあらねば、そのまま切上げわずか
に左の一句を残したり。
 (僕)性理与二治国叫本有二交渉叫而性理非二直是治国→
 (謂鮎鮒増配bf削詑鵜b鞋%)
 韓人は微笑したるのみ。この人は平安道竜岡郡の人の
由なるが韓人のうちにては気骨のありそうなる餅つきな

 hノき0
 韓人といえども全く気骨なきにあらず。概していえば
 京畿道より北は寒気強く冬も河水が氷り、人馬氷上を往
 来するくらいなれば、人物もやや骨頂あり。平安、威鏡
 両道に至っては下等社会などには健闘して血を流すもの
 さえあるくらいなれば弱きもののみにあらず。京城にも
 弓を射る武人の一派ありて肩を怒らし威張って歩くもの
 あり。この輩は気力もあり、蛮気も多く、男色を愛する
 など、一言にて評すれば韓人中の薩摩人ともいうべきも
 のなれども、如何せん科挙をもって士を取りし崇文の風
 習は久しく韓人の頭脳を圧し、ついに弱虫をのみ駿属せ
                   が とう            かんせい
 しめ今日に至っては臥揚の下に他人の軒声を容れて、し
 かも覿として恥ずるなきに至れりい韓人が孔子の廟につ
   てん

 かえ、礎知遠を理想の人物とし、抵抗、努力、活動、進
 取の動物的元気を鼓舞するを知らざる間は国力はとても
 恢復し難からんか。
  僕、京城学堂の渡瀬氏に語っていわく、日本と朝鮮と
 はその文明に根本的差違あり。君知らずや、日本の幕府
 はかつてその憲法において儒者と医者をもって制外の人
 物となせり。すなわち学者をもって長袖の坊主に並ペ、
 彼らを政権の門外に駆逐したり。一見はなはだ残酷なる
 がごとくなれども、これによりて日本人は思想の樫桔を
 免れ、外国の学問も、学者のいわゆる異端も、相応に息
 をつくことを得たり。これ維新の後において日本の思想
 界が大いに自由の活動をなし得たるゆえんなり。これに
 反して韓国は科挙の法あり、政権に与るものはことごと
 く学究なりき。されば昔臥本に来りし朝鮮の三使もたい
 ていは詩文くらいひねくらぬはなく、外見よりも文学盛
 んの国と見えたれども、その弊や思想の圧抑はなはだし
 く、朱子学をもって人才を樫楷し、加うるに文弱の夙を
 招きたりと。渡瀬氏もこの論に首肯したりしなり。
                  (五月十六日)


    平 壊 よ り一


  掘久の汽船慶尚号に搭じ、昨日午後、満潮を待って鎮
 南浦を発し、夜十時ごろ晩景台にて下りさらに帝人の小
 舟に乗りかえ、大同門外の三根という旅館に投じたり。
 平壌には月本人の作りたる日本風の家産は一軒もなし。
 ≡根旅館は今のところにては平壊第一という評判なれど

07

 も、それすら韓人のやや大なる家をつくろいて行李を安
 頓するだけに直したるものに過ぎザ。
  韓人の小舟に乗って大同江をさかのぼりし時は夜色沈
 沈、水声静かにして両岸模糊たり、ただ柔櫓の声を開く
 のみ。まれに星のごとき火を見たるはこれ韓人の村落よ
 り漏るるものならん。またしばしば犬の吠ゆるを聞きた
 り。韓人の村に犬多きこと知るべきなり。この時またい
 わゆる狐火なるものを見たり。傍人僕のために舟を操り
 し帝人の説くところを訳していわく、彼はこれを指して
    ヽ
 神の焚やす火なりとなし、かつ静粛ならんことを舟中の
                         ひ ぜ
 人に求めたりと。狐の火といい、神の火という、彼是の
 俗相似たるものあり。かつ神てふ韓語は斡霊にも化物に
 も通ずる由なれば暗合の妙、さらに一層切なるを覚う。
  筆のついでなれば韓人の宗教について一諭せん。僕は
 すでに聖廟、閑廟の類を見、また賢人忠士の雨なるもの
 を見たり。さらに久しく韓国にありし人についてこれを
 質すに韓人の祭るところは多くは支那人の祭るところを
 かり来りしものに過ぎザ。いわゆる玉皇大帝、観音、天
 合、井神、竜神、土神の輝ことごとく支那伝来のものに
 あらざることなし。韓国の歴史に固有したるいわゆる国


 民的の祭神に至っては皆無というも可なり。したがって
 仏経にも本地垂逆の説あるを要せずと。僕はここにおい
 て韓国と日本との歴史的相違のはなはだしきにおどろか
 ざるを得ぎるなり。
  平壌の粍多きは驚くに堪えたり。飯の上に集るものを
    しゆゆ
 見れば須現にしてほとんど椀上〕面を里てし、また飯粒
 の存在を認むべからず。日本にても田舎に行けばこれに
 似たる所なきにあらず。五月の粍はうるさきことの響諭
 となり居るなり。
                  (五月十七日)


    平壌 よ り 二

  昨、舟中においてある人の説を聞くに支那にあっても
 洪水の沿岸においてはかならずしも女子を家庭に密閉せ
 ず、貴宅大戸といえども好んでその妻子を出港せしめ、
 美婦艶妾を有するものはかえってこれを世間に見せぴら
 かすの凰あり。花の朝、月の夕には、しやなりしゃなり
 として美人の男子の問を歩むもの少なからず。ほとんど
    あい
 肩を挨し、背を擦し、目挑心招の醜態あり。他人の妻子

 の品定めのみして喧嘩語浪をきわむるもの少なからず。
 支部人を挙げてことごとく女子を外に出さざる老なりと
 するは過れり。韓女の深く潜みて稀に出ずるは北清の夙
 にして南清の風にあらず。かつ不思議なることは韓女は
 き はん
 窮絆を弛め、多少の教育を与え、やや自由に男子の問に
 往来せしむればその椅痴速巡の体を一変してお転婆娘と
 ならざるはなく、ほとんど始めは処女のごとく終りは脱
 兎のごとき勢いあり。その何のゆえたるを知らず。
  ある人、また竜陽のことに論及していわく、日本の薩
 摩人ともいうべきものは支那の福建人なり。福建人のこ
 れを好むことあたかも宿世の因縁とでもいいたきくらい
 なり。某大官のごとき、往々自己の翫童をもって秘書記
 室の任に充つるものなきにあらずと。僕いわく、福建は
 台湾と接し、台湾は琉球、薩摩に連なり、薩摩は両肥の
 群島、済州島と水路相通じ、しかして全羅道に入る。こ
 れを竜陽帯(芙人帯のごとし)というべきかと。咲笑一
 番す。しかしてひそかに薩人の傍にありてこの東人の大
 言壮語を怒らんことを恐れしなり。
  ょって思う、釜山より仁川に至る航路中、肥後の青年、
 甲板上に集りて写本「暁のおだまき」を読む。余戯れて

 いわくこれ諸君の「小三、金五郎」なることなからんや¢
 青年蓑ずる色あり。すでにしていわく、我らもし婦人と
 戯れば同人の痛斥唾属を免れず、男子と兄弟行を契るに
 至っては父兄また多くこれをとがめざるなりと。余は今
 に至って悪風の死灰ふたたぴ燃えんとするを歎ぜざるあ
 たわず。
  平壌の夙色は絶好のパノラマなり。余の筆これを画く
 ことあたわず。しいてこれを形容せしむれば、大陸的忙
 してまた島国的なるラソドスケープなりというべきか。
 その一望空潤、野水縦横し、田野多く開け、飛鳥の影を
 造空に投するまで目送し得べき大観あるはこれを大陸的
 なりといい得ペきも、その限界の空潤なるは単調なる無
 限の平陸あるがためならず。かえってあたかも島喫に擬
 すべき諸丘陵ありてその問を点綴することなおわが遠州
 道中の光景に似たれども、ただ大山ありて地界を狭陸な
 らしむることなきを異なりとするのみ。記してここに至
 る、僕は乎壌の山水もし霊あらば僕の排撃埋窟(川抑川紗
 約)がこの風色を妄評したるを笑わんことを信ずるなり¢
  僕の見るところにては鋲南浦、平壊の韓人は冠を着け
 たるもの京城仁川よりも多からず。悠々閑々として、く

08

   ぎ墟lV
 わえ煙管に太平の閑人を粧うもの多からず。足もやや早
 く、仕事にもやや勤むるものに似たり。
                  (五月十七日)

   鋲南滞より 三


 平壌はただ一宿したるのみにてさらに当地に引きかえ
 したり。僕は朝鮮の行路を取ることのわが軍情を訪問せ
 んとする当初の目的に益なく、ただ韓国見物に過ぎぎる
 結果に終らんことを恐るるのみならず、船便の意外に悪
 きをもって、いたずらに留連の患をなさんことを慮り帰
 計を決したり。ただし当地にていつまで船待ちすべきや
 ほ未定なり。
 さりながら韓国を見たること僕にとっては真に一大教
 潮なり。僕は韓国に対する日本の位置のとうてい今のま
 まにてやむペからざるを信じ、韓国を鞭撞して、秩序あ
 り、規律あり、文明人の棲息経営に堪ゆるものたらしむ
 るは実に大日本国民の義務なることを深く信ずるに至れ
       ひ おく             し
 り。試みに思え比産みな浄潔にして道路もまた平坦砥の
 ごとき間に介在するに茅屋あり、ひとり不潔、汚稼をき

 わむるのみならず、破壊、危険の状あらば隣人たるもの
 公益を維持するの上よりしてその主人に迫りて改築の計
 をなさしめざるを得ず。これ隣人の権利にしてまた義務
 たるにあらずや。僕の韓国に来らざるや韓人のなおみず
           つエ
 から振い、みずから萱むるの余地あるを信ぜり。足ひと
       ふ
 たぴ韓国を履みて後はこの信仰は一変せり。韓人のみず
 から振作するを待つはほとんど枯木の芽を出すを待つに
        し
 異ならず。如かず、日本の隣人の義務としてひとりその
 なすべきところをなさんのみ。この新信仰を僕の心に生
            ▲し ゆよノ
 ぜしめたるものほ実に此遊の賜なり。
  平壌においては僕は牡丹台に上り、さらにいわゆる玄
 武門を見、七星門を見、義州街道より箕子廟をも望むこ
 とを得たるのみならず、市街を縦横行し、領事にも逢い、
 静海門城壁の上を左に廻り、さらに折れて大同江岸に出
 でたり。これ数時間のうちにその大体を視察せんとした
 るがためなり。すべて見るところは京城とことならず、
 ただ商人は京城よりも勉強し居るように感じたり。
  乎壌にて一学究の二、三の少年を集めて書を教うるも
 のに逢う。此人はキリスト教信者の由にてその趣を紙に
 書きて入口に記しあり。僕はこれを訪いてわが王師は首


 戦冒勝をもって誇るものにあらず、秋竜も犯さざるをも
 って誇るものなりと書きて見せしに彼は感謝の意を表し
 たり。韓人にはずるき者多くヤソ信徒たるを護符として
 外人の保護を得んとするものなきにあらずとかねて開き
 たるが、此人もあるいはその流なるやも知るべからず。・
 韓語は日本語と兄弟にして文章の組立も同じことなれ
 ども風俗習慣は日本よりも支那に似たり。その通邑大都
 かならず廻らすに城壁をもってするもの似たり。その道
 路の狭くして不潔なること似たり。その人家に周なきこ
 と似たり。思うに諸城ことごとく南門を壮麗にするもの
 もまた支那の風なるべきか。韓人の俗において日本人の
 及ばずと思うものはすべての建築およぴ器物の堅固にし
 て長久に堪ゆか性質のものなることこれなり0すなわち
 書籍のごとき、皿、鉢のごときも日本のごときやにこき
 ものはなきなり。        (五月十七日)