日本の歴史における人権発達の痕迹       山路愛山
            (1897発表・1917『愛山文集』民友社に収録)

      上

 涅槃経に譬喩あり、王家の力士、眉間に金剛の珠ある者あり、他の力士とカを角して額上の珠を失う。これを憂えて止まず。誰か知らんその実は相撲(あいうちあ)いし時、他の力士の頭に触れしがために珠の自己の膚中に没したるならんとは。彼は自己の膚中に存する珠を知らざりしなり。日本の歴史家もまたこれに似たる者なきにあらず。彼ら
は日本の歴史に存在する平民主義の発達を看取するあたわずして、曰う、これ欧州の産物のみ、人権といい、共和といい、民政というがごときは、日本人民にとりてはとうてい外国的のもののみ、日本の歴史は特種の歴史なり、日本の人民は特種の文明を有す、もとより世界に類例なきものなりと。これあに自己の中に存する珠を知らざるの力士に類せざらんや。
 教育家はしきりに国史国文の教育を奨励していう。かくのごとくにして日本固有なる勤王心を鼓舞し得べし、日本固有なる愛国心を養い得べし、日本固有なる忠孝の情を培い得べしと。彼らが国史、国文を教うるの目的はここに止まる。もしそれ一歩を進めて国史、国文の教育こそ、すなわち吾人の祖先が自己の存在のため、自己の権利のために戦える争闘史を教うるものなりと説く者あらば、彼らは必ず怒罵百方底止する所を知らざらんとす。
 品川弥二郎氏なる政治家のごときはさらに極端に走れり。彼はドイツのごとき内閣の制度をもって日本固有の国体となし、大臣をして国民に対して責任を負わしむるの主義をもって外道邪説なりと罵れり。彼の言をして真ならしめば日本の歴史における日本人民は零なりきといわざるべからず。何となればいかなる大臣ありて、いかなる悪政を施すも日本人民は決してこれに対して何事をもなさざるをもって日本固有の国体なりとすればなり。それ他人わが上にありてわれを圧抑し、わが存在を危うす、しかしてわれは起ちてこれに抗するの権利なしというか。これあに人間の堪ゆるところならんや。政府われを強迫し、われを残賊し、わが子弟を虐使す。しかしてわれはただ絶対的に伏従するのほか、何をもなすあたわざるか。これあに人類の本能が許すところの道理ならんや。しかして品川氏はすなわちいう、かくのごときはわが国体なり、自己の権利を主張し、大臣の責任を問うはこれ外道邪説なりと。はたして品川氏の言をして是ならしめば日本の国体は世界の人情にのろわるべきものなり。ニ千五官年の日本歴史は大臣のために人民の生血を犠牲にしたる戦慄すべき地獄の記事なり。
 しかれども事実は明らかにこれに反せり。日本の歴史は明白に人権発達の歴史なることを示せり。これを解するあたわざるは歴史家の無識に因(よ)り、教育家の迷信に因り、品川氏なるものの無学に因る。彼らはすべて自己の中に存在する珠を知らず、見て他人の宝とする者のみ。
  試みに日本建国の歴史を見よ。日本国民は何がゆえに忠義を皇室に致して、あえて渝(かわ)らざるの節操を養い来りしや。何がゆえに皇室の御為に身を献げて悔いざりしや。これ日本の国民はもと同族に出ずてふ血族の感によるか、そもそもまた皇室は日の御神の御裔(おんすえ)なりてふ宗教心によるか。日本の国体がその始めにおいて一種の族長政治にして、しかして一転して一種の神道政治となりしは、古事記、万葉集の書等明らかにこれを証せり。しかも血族の感は久しうして薄からざるを得ず、神道もまた知識の進歩に伴いてその勢力を減ぜざるを得ず。しかしてこの二力のようやく弛むに反し、皇威のいよいよ光りしものは別にその故なくんばあらず。けだし当時日本の人民は貴族の専横と蝦夷およぴ三韓の生存競争に対して自己を防衛すペき必要ありき。しかして日本天皇は実にこの人民の祈願を充たすべき位地に坐(いま)しましけるなり。神武東征の詔(みことのり)によるに、その御心は実に所在に割拠する酋長を抑えて統一の政治を施したもうに在りき。聖徳太子の憲法にまた曰く、

 国司国造。勿斂百姓。国靡二君。民無両主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢与公。賦斂官姓。

 人もし九州に行きて筑紫の国造(くにのみやつこ)、岩井の古墳を見ば、必ず当時の酋長がいかに人民を圧抑したるかを聯想せん。彼らはエジプトのバロ王がイスラエル人を苦しめんとて辛きカ役をもってこれに強い、炎天、爍日(しゃくじつ)の下において日の出ずるより日の入るまで和泥、作甎(土を練り瓦を作る)等の労役に従事せしめたるがごとく、吾人の祖先を苦しめつつありしなり。彼らは実に国民の桎梏にてありき。しかして皇室はすなわちかかる貴族の暴横に対して人民を防衛すべき最も安全なる保証にてましましき。当時一個の警語あり、あたかも天来の音のごとく国民の心脾に徹したりき。日く「青人艸(人民)は天皇の御宝なり」と。これ実に酋長の残虐に苦しめる国民にとりては「人権の宣言」に比しき福音なりき。仁徳天皇かつて吉備の国に幸(みゆき)レたまいし時、詠じてのたまわく、
   山県にまける青なも吉備人と共にしつめばたのしくもあるか
 ああこれ当時列聖の心法としたまいしところなり。ここに知る日本の皇室は建国の当初においてすでに人権発達史の権化にてましましたるを。皇沢の民心に入りて牢乎抜くべからざるもの、もとより深く怪しむに足らざるなり。
 日本の国民が勤王心を鼓吹せられたる他の原因は、蝦夷およぴ三韓に対する生存競争なり。それ当時のアイヌがその勢極めて猖獗にしてややもすれば吾人の生存を危うせんとしたるは論なし。朝鮮半島およぴこれを通じて来れる支那の勢力が吾人を圧迫するもまたはなはだ恐るべきものありき。吾人の祖先はかかる境遇において最も善き者を撰びたり。彼らは吾人の位地が敵を四隣に有する一軍隊なることを認識せり。しかしてかかる境遇に応ぜんには敏捷にして有力なる中央政府を戴くの最も必要なることを感じたり。ゆえに彼らは大化の新政に謳歌せり。日本を化して一個のオルガニズムとなさんとしたる奈良朝の立法時代を謳歌せり。彼らは皇室のいよいよ尊く、政府のいよいよ強からんことを希望せり。何となればかくのごとくにして始めて自己の安全を期すべければなり。されば当時の皇室はすなわち国家の権化にして、しかして勤王心はすなわち愛国心の別名なりき。
 この間において仏教はわが国に渡来せり。しかして皇室はただちに仏教の保護者となりたまえり。政教分離をもって原則とする今日の時代より見れば皇室が仏教の保護者となり、天皇みずから仏教の宰司長たるがごとき当時の制度は極めて奇怪の現象なるがごとく思わるべけれども、仔細に観察すれはこれもまた日本の人権発達史において看過すべからざる一現象なりとす。けだし当時における社会組織の最も今日と異なるものは良賤の別なりき。日本はその有史時期よりしてギリシャのごとく自由民と奴隷とを有したり。しかして奴隷はその生命と自由とを挙げて本主の駆使に供したり。これ実に人権の歴史における一大汚点にてありき。しかれども皇室が仏教の擁護者たるに及んでこの残酷はいちじるしく和げられたり。人情、博愛の道徳はこの制度によりて広められたり。悲田院のごとき慈善事業は発達せり。五畿七道に派遣せられたる官僧は国造、郡領、富豪、酋長らが人民、奴隷を虐遇する戒飭(いましめる)せり。口碑に伝うるところによれば光明皇后は乞丐(こじき)を集めてこれに浴を賜い、みずから彼らを洗いたまえりといえり。これあに皇室が当時において人民の保護者たり、人情の淵源たりしを証するものにあらずや。
 論じてここに至れば吾人の祖先が至誠忠孝、皇室に事えまいらせしゆえんのものは、偏癖なる歴史家、執迷なる教育家、無智なる保守的政治家が夢想するがごとく、何の故とも知らずひたすらに盲従し奉りしにはあらざるなり。我らの祖先は伏従、無抵抗の信者にてはあらざりしなり。わが列聖はトルコのサルタソのごとく、ロシアのザルのごとく、理由もなく、人民を蹂躙する擅制者にてはましまさざりしなり。わが皇室は貴族の圧制より吾人の祖先を拯いたまいたる仁慈の君主にてましましき。敵国の圧迫に対して吾人の祖先を統一したまいし英雄にてましましき。黄金はおのずから輝き、仁義は自然に人を服す。吾人の祖先がわが列聖を仰ぎて、これに全幅の忠義を献じたるは、わが列聖が常に人権の味方にてましましたればなり。それ春の野に角ぐむ沢の蘆辺には繋がぬ駒も離れずといわずや。吾人の祖先は器械的にわが列聖に従いしにはあらざるなり。ただそれ君主の心はすなわち民の心にして、二の者、二にして一、一にして二なりしかば、ついに膠漆も及ばざる水魚の契をなしまいらせしのみ。
 すでにして時世は一変せり、貴族はようやくその専横の翼を収めたり。アイヌは北辺に退きて勢次第に縮れり。朝鮮半島はわれに関係なきものとなりぬ。これぞわが皇室の運命をトすべき一大危険にてありき。何をもってかこれをいう。それ英人がチュードル朝を戴きてその専権の強からんことを希望したるは貴族の暴を抑うるのためなりき。しかれどもすでに貴族の暴を抑え終ればすなわち王朝の強きを厭わざるを得ず。六国の民がその君主に与せずして、むしろ秦王を歓迎したるは、天下分争征役しきりに興るに堪えざりしがためなり。しかも一たぴ秦朝の確立に及べば早くすでにその政治の酷を訴う。その始め功をなしたる者が、ついに文明進路の障害をなすに至るは古今の常状にして、しかしてこれが医療の法は、代議政体の存せざる問はただ革命あるのみ。これ支那に二十二朝の革命ありしゆえんなり。今やわが皇室もまたかくのごとき地位に立ちたまえり。人民よりその施政の善悪を是非せらるべき危機に立ちたまえり。しかして不思議にも藤原氏はかくのごとき時に起りて、みずから政治の衝に当り、人民の毀誉褒貶を挙げてその一家に負えり。これ実に自然が生じたる妙機にして、英人がその代議政体の特色として誇れる大臣責任の主義は形をかえてわが国に行なわれつつありしなり。この偶然の出来事ありしがために吾人の祖先は革命の不幸を見ざるに至れり。吾人の祖先にしてもし当時の政治に満足せざる者あらんか。ただ藤原氏を倒し、もしくはこれを抑ゆれば足れり。吾人はこの時よりまた英人のごとくチャーレス一世と戦い、ゼームス二世を逐うの必要なかりしなり。当時日本の政治的人民は各地に散在する大地主なりき。衝らは十七世紀の英国における田舎紳士が当時の英国の花たりしがごとく日本の花なりき。しかして彼らは藤原氏の施政がようやく綱紀を失し、ようやく散漫に流れたるの当時において王氏を出でて遠からざる源平二家を奉じて主盟となし、ひそかに政府改造の機会を待ちたりき。彼らが源平二氏を仰ぎたるはその王氏たるがためのみ。これなお昔の日本人が酋長の暴横を抑えんがために皇室に結びたるがごときのみ。かくのごとくにして久しく栄華に誇りたる藤原氏の施政はその達すべき運命に達し、源頼朝の鎌倉政府は成りぬ。
 鎌倉政府がいかなるものにてありしかは、源頼家の時、大名六十六人、鶴岡の廻廊に集り、梶原景時の積悪を訴え、ついに景時を出奔せしめたりてふ当時の記事により
て明らかなるペし。これぞ地方の大地主が源氏を仰ぎて主盟となし、ここに一大同盟を結びたるものに過ぎざりしなり。されば北条氏がその家法として位四品の際を越えず、世々武蔵、相模の守たるに止まりしものは、彼が大地主同盟の一人にして、これを超ゆればその同列の嫉妬を免れざりしがためなり。吾人はあえて鎌倉政府をもって共和政治なりきというものにあらず、しかも共和主義の萌芽が、かかる大地主同盟政治の下に存したるを、認識するに躊躇せざるものなり。
 しかれども北条氏は大地主を代表したる政治家なりしがゆえに、語を切にしてこれをいえば大地主の共和的団体を代表したる政府なりしがゆえに、ただ大地主の利益を謀れるものなりとすることなかれ。栂尾(とがのお)の明慧上人なる者、かつて北条康時に語りて日く、政を為すの秘訣は無欲にありと。北条氏はよくこの訓話を守れる者なりき。北条氏の家法は大地主らをしてその飽くなきの欲を逞しうせしめざるにあり。その政治のおもなる事業は土地の分配法を明瞭にしてその侵奪を防ぐにありき。しかして橋を架し柳を植えて行路の便に供し、米を与えて飢民を賑わす等、もっばら意を民政に注ぎ、当時の詩人をして、

  夜の戸ものどけき宿にひらくかなくもらぬ月のさすにまかせて

 と歌わしむるにいたれり。それ鎌倉の時代において大地主が日本政治の要素となりしは、これもとより人権の一大進歩なり。しかして北条氏が大地主の威力を抑え、平和を維持したるはさらに大いなる進歩なり。この時において不幸にして承久の役は起れり。
 承久の役は日本人が皇室に事うべきか、北条氏に事うべきかを撰びたるの時期なりきといわんよりは、むしろ京都政府に従うべきか、鎌倉政府に従うべきかを撰びたる時期なりといわぎるべからず。何となれば、当時日本国民は後鳥羽法皇を隠岐に流したる北条氏の処置をもって称讃すべきものなりとせざればなり。いな、ひとりこれを称讃せざりしのみならず、この空前の大悪事はたしかに北条氏の運命を縮むる一の原因となりにき。

  我こそはにひしまもりよおきの海のあらきなみ風こころしてふけ

 の一首はいかに深く忠義なる日本人の心に刻まれしよ。当時もし北条氏にしてかかる残酷の手段に出ずることなくただ京都政府を破毀したるに止めしめば、自家の運命を長くするためにはむしろ良策たりしならん。しかもかくのごとき不忠の挙ありしにもかかわらず、天下のなお北条氏を謳歌して止まざるゆえんのものは何ぞや。吾人は南朝の柱石、勤王家の巨擘(きょはく)(代表的な者)たる北畠親房の言を藉りてこれを説明せざるべからず。曰く、

  白河鳥羽の御代の頃より政道の古き姿ようよう衰え、後白河の御時、兵革おこりて姦臣世を乱り、天下の民ほとほと塗炭に落ちにき。頼朝一臂を振いてその乱を平げたり。王室は古きに復るまではなかりしかど九重の塵もおさまり、万民の肩も安まりぬ。上下堵を安くし、東より西よりその徳に服せしかば実朝なくなりても、反く老ありとは聞えず、これにまさるべきほどの徳政なくしていかではたやすく覆えさるべき、たといまた失われぬべくとも、民安かるまじくば上天よも与したまわじ、云々。

 日本の人民をもってみずから政府を撰びみずから政府を作るの能力なしという者よ。何ぞ北畠親房の言を聞かざる。世もしみだりに一種の国法諭をもって皇室を民怨の孤柱となしまいらせ、あえて人権進歩の大潮に抗せんとする者あらば、その人やすなわち後鳥羽法皇を隠岐に蒙塵させまいらすの愚計を画く者にあらずや。
 すでにして北条氏もその達すべき運命に達したりき。元寇は北条氏をして中央集権の必要を感ぜしめたり。しかして中央集権の桎梏はただちに自由放任を喜べる大地主によりて感ぜられたり。政費の増加は新田の庄の一邑にすら六万貫を臨時に課するにいたれり。しかして革命の烽火は承久の役において、癒すべからざる傷痍をこうむりたる京人によりて掲げられたりり 「我こそはにひしまもり」の御製に感激したる日本人民の勤王心は爆然として焚え上がれり。かくのごとくにして後醍醐帝の中興は成りぬ。
 しかれども日本の人民は不幸にしてここにも二の問を撰ばざるべからざる事情に迫られたり。
 後醍醐帝の中興は人民の期するところに反せり。その感情においてむしろ南朝党たる太平記の記者この間の消息を伝えていいき。

 今のごとくにて公家一統の天下ならば諸地の地頭御家人は、みな奴碑雑人(ぬひぞうにん)のごとくにてあるべし。あわれ、いかなる不思議も出で来て武家四海の権を執る世の中にまた成れかしと思う人のみ多かりけり。

 かくて中興も星火の如く恨えぬ。
 吾人がかくのごとく説くゆえんのものは何ぞ。人権、民政のごとき主義の必ずしもひとり外国の産物にあらざるを証明せんがためなり。


       中


 朝陽の東に上るや先ず山頂を照らし、しかして後山背を照らし、しかして後山麓を照らす。人権の発達もまたこれに似たるものあり。その始めは酋長、族長の類にのみひとり政府を撰び政府を易(か)ゆるのカありと思えり。四嶽舜を薦むるというがごときものこれなり。ついで一魂の土壌を有し、一個の兵器を蔵するものもまた自己が政治的要素たるを自覚す。かくのごとくにして政権は次第に広き階級に分配せられ、ここに始めて一種の共和的感情を生ず。鎌倉政府はすなわち地方の大地主が自己の勢力を自覚し、自己の手腕により、自己の趣好に適したる政府を造りたるものなり。これをもって政権の藤原氏より源氏に移りたるものに過ぎずとするは、これその皮を相して肉を相せざるもののみ。
 もちろん当時の大地主は責任内閣なる文字を知らざりき。共和制度の何ものたるを知らざりき。ひとりこれを知らざりしのみならず、自己が政府を作り、政府を易ゆる正当なる権利あるを覚らざりき。爾(しか)くこれを覚らざりしといえども、彼らはなお無意識的に自己の権利を行なえり。彼らが久しく北条氏に従って叛(そむ)かざりしは、北条氏がよく彼らの感情を代表し、彼らの利益を保護したればなり。彼らがついに北条氏に背きしは、北条氏がついに彼らの感情と利益とに反馳したればなり。しかして彼らはいう。北条氏は天道に背きて非行多かりしがゆえに亡びたりと。その実は彼らみずから自己の権利を行ないて、しかして覚らざるのみ。
 当時の大地主が自己の嗜好に適せざる政府を易ゆるの能力を有したるは、左の一表によりでさらに明白なるものあらん。

   足利氏執事の交替(太平記による)
 観応六年二月執事高師直・師泰殺さる、仁木義長執事たり。延文五年七月仁木義長逐(お)わる(中間八年)、尾張道朝執事たり。
 貞治五年八月尾張道朝逐わる(中間五年)。

 当時将軍の執事たりしもの、必ず久しくその位置を維持するあたわざるを常とす。師直兄弟はこれがために殺され、仁木義兵と尾張道朝とはこれがために追われたり。しかして時の執政者をしてここに至らしめたるものはみな当時の大地主たる大名の心を失いたるに外ならず。当時もし大名を会して議会を作り、議会の好悪によりて執事を進退するの法あらしめば、執事たる着かくのごとき惨劇に遇わずして円滑にその位置を易ゆるを得たりしならん。不幸にして時勢いまだここに至らず、政府を易ゆるの機関いまだ発達せざりしがために殺戮、もしくは追放の手段を取らざるを得ざりしのみ。
 言少しく多岐にわたるがごとしといえども、仁木義長の執政につきてはなお数言を費さざるを得ず。当時大名の心、次第に義長を去り執事を易えんとするの兆候すでに顕然たるに済んで、義長おもえらく、

 宰相中将殿(将軍義詮)もし讒人の申す旨によりて細川、畠山(当時不平なる大名の代表者忙してその巨魁なり)に御内通の事ありなば、外様の兵、(自己の家臣にあらず、単に義長が将軍の執事たりというをもって彼に従える老)何様二心仕るべく覚ゆれば、中将殿を取籠め奉りて近習の者共をあたり近く寄せざるこそよけれ。(太平記)

 彼は自己の身をその君主たる義詮と同体にすることによりて自己の位置を保護せんと欲したりしなり。君主と内閣とを一にして君主の聖体をもって内閣の存在を擁護せんとしたりしなり。かくのごとく君主と内閣とを混同するの結果は人民をしてもし執政に不満あれはただちに君主に対して抗論の声を揚げざるを得ざるに至らしむ。
 義詮の父たる尊氏はかつてその執事たりし師直兄弟を庇護せんとしてほとんど一身を危うしたり。義詮はよくこの事態を熟知せり。されば彼は再びその執事たる義長を庇護せんと思わざりしかは、夜に乗じて反対党の陣中に投ぜり。彼は執事の執政に厭きたる大名に与せしなり。かくのごとくにして義長の身を君主と同体にせんとする企謀は美事に破れぬ。当時もし義詮にしてその執事たる義長の一身を愛惜し、これと絶つことあたわずんは吾人は足利氏の運、早くすでに窮まりしを借ずるなり。されば久しき経験は足利氏をして人望に背きたる執事を庇護するの愚計たるを知らしめ、執事の任に当りたる人をして、もし人望を得ずんば君主の信任もまた頼むに足らざるを悟らしめ、ここに円滑に執事の位置を易ゆるの慣習を生じたり。鹿苑院義満が執事の職を三家に分ち相交替して政治に当るの制を定めたるはすなわちこれなり。これなおローマがコンソルの任期を一年とし、合衆国が大統領の年限を四年としたるがごとし。真に政界の一進歩なりきといわざるべからず。これを知らずしていたずらに人民に対して無責任なる内閣はわが国体に合せるものなりなどいうはその智義満にだも如かざるなり。
 すでにして日本がかつて経験したることなき絶大なる改革は意外の原因より生じたり。しかして不思議にもこの事実は日本の歴史家によりて看過せられたり。それ日本の歴史を通じて真に今古の一大界線を劃すべき時期ありとせは、そは頼朝の改革にあらず、南北朝の混戦にあらず、実に応仁以降の戦争に在りきといわざるべからず。それ国造変じて郡領となり、郡領変じて大名となる、もとより注目すべき変化たるに相違なし。しかもとうてい大地主をもって政府の地盤とするもののみ。頼朝の国に守護を置き、荘園に地頭を置くや、少しく大地主の威力を圧抑せしがごとしといえども、彼の政府は結局大地主によりて支えられたる政府のみ。足利氏の時に至りてもまた然り。信憑すべき口碑によるに、応仁のころまで北部の伊勢にのみ四十八家の大名ありしといえり。日本を通じてこれを量るに、けだし百騎、二百騎の大将と称する者、通じて五六千は存在せしなるべし。しかしてこの五六千家こそすなわち当時政治上の要素たりしなれ。
 事なければ彼らはおのおのその封疆を守り、その主盟に朝し、事あればすなわち一揆となり、同盟となり、おのおのその好める執政に与力し、その悪める執政を排斥す。
 かくのごとくにして彼らは機会あるごとに政府を易ゆることをなしたりしなり。北条氏の執政もこれによりて易えられたり。師直・師泰もこれによりて殺されたり。京の執事、鎌倉の管領は彼らの黙諾によりてその位置を維持したり。かくのごときは千余年間日本が養い来れる人権発達の歴史なりき。もし常理をもってこれを推せば、彼らは次第に自己の勢力を覚り、その始め無意識的に実行し来りたる政府を易ゆるの権利を意識的に認識し、ここに代議政体の萌芽を見るべきはずなりき。しかるに事の結果は全くこれに反し、久しく政治的要素たりし大地主は全くその威力を失い、久しく占領したる土地は他の強大なる地主に併呑せられ、六十余州に星羅碁列したる旧家は朝日に逢える霜のごとくに消滅し、五六千家の大名は二百六十余藩に減じ、しかもこの二百六十余藩もその政権は一に徳川氏の手に集められ、政治的にはほとんど屈従の態度を取らざるを得ざるに至りしこそ、開国以来二千年に近き日本がいまだかつて経験せざる改革なりきといわざるべからず。しかしてこの破天荒の改革を生じたる者は何ぞや、他なし、銃砲の渡来これなり。
 吾人はここに銃砲の渡来が日本の社会に生じたる大変革につきて詳説せざるべし。ただ左表によりて読者をしてその変化のいかに激烈なりしかを想像せしめ得ば足れ
 り。

鉄砲渡来前

一 少数の兵をもって険阻によらばもってたいてきをふせぐべし。ゆえに城は多く山上にあり、糧は多く儲畜による。楠氏の千破剣のごときその一例なり。
二 少数の兵をもって大敵を防ぎ得べきがゆえに二百騎三百騎の大将もまた独立の態度を保つことを得。ゆえに日本を通じて五六千のほとんど独立したる大地主を群列するを得たり。
三 少数の兵をもって戦い得べきがゆえに軍隊の規律を要せず、兵カの集中を要せず。武士その土地に住す。
鉄砲渡来後

一、大数の兵によらずんば大敵を防ぐべからず。ゆえに城は糧道を掩護すべき街道に沿うたる平地にあり。
二 少数の兵をもって大敵をを防ぐを得ざるがゆえに小家はようやく大家に併せられざるを得ず。ゆえに大名の数は減じて二百六十余となれり。
三 大数の兵を運転せざるが叩を得ざるがゆえに、軍隊の規律を要し、兵カの集中を要す。武士みな城下に集る。

 かくのごとくにして一たぴ発達したる大地主の勢力は、消沈せり。昔は宇都宮氏の執事たる芳賀兵衛入道すら、なおその心に平かならざるものあれば鎌倉の公方を敵手として兵を挙ぐるを得たりき。今やかくのごときはほとんど想像すべからざる事態となりぬ。徳川氏は武力によりて天下の膏腴(こうゆ)(肥えた土地)をその一門に集め、地を割きて親族、家臣を封じ、威力をもって諸侯に臨み、立派なる独裁政治の典型を建てぬ。世運ここにおいて、さらに一個の生面を開きたるなり。大地主は亡びたり、その無意識的に実行し来りし政府を易ゆるの権利は痕跡を失えり。然らばすなわち人権の発達はここに一大頓挫をなしたるか。温暖なる小春の気に誘われて萌芽したる野草が忽ち厳霜に遇うて枯萎するがごとく、人権は銃砲の渡来と共にその早熟の発達を毀(こぼ)たれたるか。何ぞそれ然らん。吾人は徳川政府の下においてもまた日本の人民が自己の存在を主張し、自己の権利を拡張しつつありしことを知る。
 けだし大地主が政府を易ゆるの権力を無意識的に実行したりし鎌倉室町の世は人権の進歩における一時期たるに相違なし。しかもこの大地主なるものは要するに五六千家に過ぎず、しかして実際においてはこの五六千家はすなわち地方の擅制者にして、「泣く子と地頭には勝たれぬ」という諺の今日にまで存するがごとく彼らは無限の威力をその領内に振いたりしなり。彼らの館舎はその領民の膏血に成るところにして、彼らの戦場に携えたる兵士はその領民の子弟なりしなり。当時いわゆる「家の子郎党」なるものはかくのごとくにして子々孫々彼らにつかえたる領民の子たりしなり。しかしてその因習の久しきや、「家の子郎党」はなお財産と同じくその生命を挙げて主人の使役に供するに至れり。されば元和慶長以降、武士の領地を離れたる後も教百年来養成し来りし
主従の関係はなお告朔(こくさく)の※羊(きよう)として存し(益なきも、害なければ保存するの意)、主貧しくして尺寸の土地を所有せず、四方に浪遊するもなおその郎党は主と離るるを得ず、これを離れて去らんとすれば、主の怒りに触れて殺さるるも天下これを寃(むつじ)なりとせざるの状態なりき。是により之を観るに、当時の大地主はひとり日本の土地を小分してこれを占有したるのみならず、その土地に属する人民をも自己の私有となしたるなり。きればこの点より見る時は日本人民は五六千家の大名に圧抑せられしものなりといわざるべからず。
 徳川氏はこの状態より日本人民を救いたり。露国の奴隷のごとく土地と密着して離るるあたわざりし人民をして始めてその領主の圧抑を脱し、自由にその職業を撰び、自由にその住まんとするところに住むことを得せしめたり。領主と家の子郎党の関係は一変して主人と年期奉公人の関係となれり。大地主の私有なるがごとく思われたる人民はここに始めて身体の自由を贏(か)ち得たり。


      下


 けだしいかなる時代においても人権を侮辱する政府は一日といえどもその命脈を存すべき理由を有せざるなり。人はいかなる時間と空間とを通じて動くもなお同じく人なり。彼らは自己の権利を防衛し得べき力量あるを自覚すると同時に、必ずその悪むところの政府を覆えして、その好むところの政府に更えんとするなり。
 久しき間、自己を拡張せんと勉めつつありし日本の人民は、五六千個の大名が天下に碁布して互にその雄を争いつつある間に、日本の文明の発源地たる瀬戸海を航路とする諸港湾において、大名以外の一勢力として自己を発見せり。この現象もまた多くの日本歴史家が注意せざりしところなり。しかも日本の人民が大名以外に一種の勢力を養い来りし事実は、吾人がここに論ぜんとする徳川時代における人権発達の歴史と大関係あり。乞う、吾人をして少しくこれを説かしめよ。
 人もし紀貫之の土佐日記なるものを読まば、必ず彼が土佐の大津より和泉の国に達するまで常に海賊の来襲を警戒しつつありしことを見るべし。彼が和泉のなだに達するや、記して日く、「今はいずみの国に来にたれば海賊もものならず」と。しかしてこの一片の事実こそ、明らかに当時瀬戸海を横行して官私の船貨を掠奪する一種の人民ありしことを示すものにあらずや。人あるいはその海賊の名あるをもって単に社会の圏外に逸したる無頼漢に過ぎずとせば、そは当時の情態を知らざる者なり。当時中央政府の網維全く弛(ゆる)び、大名の私闘する者、政府これを制するを知らず。日本全国を通じて、星羅碁布する大名の心は皆人の地を掠して、己に加うるにあらざるはなし。これを要するに天下を通じてみな海賊の心なりき。ひとりかの瀬戸海を横行する者に限らざりしなり。されば貫之が土佐守の重任を帯びながら海賊を制しあたわざりしは、なお他の公卿が国守の尊きをもって大名を倒しあたわざりしがごとし。もし中央政府が権力を失いたる時において、その下に連りたる各種の勢力が自己の存在を主張し、自己の生命を長うせんと競うをもって人事の常態なりとせば、かの海賊のごときもまた人事の常態のみ。進化の歴史より見れば海賊より端厳なる国家を生じたるものもあり。吾人はその名の海賊なるがために、その瀬戸海における日本人民発達史の一現象たるを否むあたわず。この時よりして内海はすでに冒険にして気力ある日本人民が自己の存在を主張する舞台たりしなり。
 内海の沿岸およびこれと航路を接する港湾に任する人民が、ようやく日本歴史の上に額をもたげ来りし事実は左の諸現象によりて、さらに明白なり。

 一 倭寇の起航地が多く内海の湾岸たりしこと。
 二 西の宮、室、須磨、鳴門、卯島、小島、三原、厳島、文字、赤間関等の人民が足利氏の時において朝鮮貿易を営みし痕跡あること。

 かくのごとくにして内海の沿岸およぴこれと航路を接する地方の港汚はその航海に熟練したることによりて、その地理上の便宜を有することによりて、その勇敢冒険なる海人気質によりて徳川政府の成立以前においてすでに恐るべき一個の勢力とはなりぬ。当時泉州境のごときはいわゆる内海の咽喉にして境商人の名は天下に鳴り、松永久秀に知られ、豊臣秀吉に殺されたる呂宋助左衛門のごとき大胆にしてしかも才幹ある人物を生ずるに至れり。不幸にして歴史は助左衛門の詳かなる伝記を遺さざるがゆえに、吾人はわずかに砕麟によりて全竜を想像するに過ぎずといえども、深山大沢にあらずんば何ぞ竜蛇を生ぜん。かくのごとき恐るべき一大市民を生じたる境はこの時よりすでに大名政治をその根底より震わしむべき勢力を包蔵したりしなり。
 文明八年に書かれたる竜統の江亭記は太田道灌時代の江戸を知るべき一個の史料なり。その江戸湾と角田川を通じて、江戸に諸国の人物と物産が集り来る状を記したる文に日く、

  房(房州のこと以下同じ)の米、常の茶、信の銅、越の竹箭、相の旗旄(きぼう)騎卒、泉の珠犀異香。

 と。それ当時の江戸は扇谷氏の一城府たるに過ぎざるのみ。しかして和泉の貨物はすでに販路をここに開けり。吾人はこの一事をもって境がいかに広く当時の商権を握りつつありしかを推測するに足れりと信ず。果然この時において日本はすでに武人の外に市民なる者の存在したることせ表わせり。しかして人権発達の歴史として日本歴史を観察する者にとりては、これ実に最も注目すべき現象にあらずや。
 徳川政府は大体においてこのようやく生長せんとしつつある市民の発達を助けたり。もちろんその鎖国政略を取りしがごとき、そのヤソ教を厳禁したるがごときは、市民権の発達に大害を加えたるものなるや明らかなりといえども、しかもかくのごとき政策は当時において止むを得ぎる理由(少なくとも止むを得ずとの口実を与うべき理由)ありしによるのみ。概してこれを論ずれば徳川政府は大名の横暴より日本人民を済いたる者にして、日本人民の中に武士以外に市民なる者の存在するを確定したるは実にこの時代に在りきといわざるべからず。徳川政府は一面においてその武力をもって大名を削弱し、これをして自己の制裁に服せざるを得ぎらしめ、他の一面において大いに恩恵の羽翼を張りて大都会の市民を保護し、その成長を助けたり。吾人は西鶴近松等のいわゆる元禄文学においてこの事実の特に明白に吾人の眼前に呈露せらるるを覚ゆ。試みに彼らが市民の感情を記したるものを見よ。その京都人の懐抱を記するものに日く、「ここは王城なれば、何をなしたりとて、たれとがむるものもなし」と。その大坂人を記するものに日く、「ここも天下の町人なれば、世間を恐れず、思い思いのことをなし得べし」と。その「王城の地たり」といい、「天下の町人」たりというものは、大名の専横に対して自己の存在を保護したる徳川氏の恩恵を無意識的に感じたるものなり。
 当時市民のようやく頭をもたげ来り」武士の威力次第に衰えつつあるを見て憤慨に堪えず、自然に懐古、恋旧の感情を養い来りし荻生茂卿は下のごとくいいぬ。

 当時大名ほど大禄高官なる者なく安楽も至極すれども、一家中の世話あり、国中の仕置きあり、上に御奉公の筋ありて左右に同格のつき合い、つめひらきあり、安楽なるようにてまた苦もはなはだし。身貴ければ身持ちも自由ならず、気のつまること勝なり。その大名に優るものはしもうた屋の町人なり、商買のたぐいに列すれども商買の業もなし、金銀を所持すれども世話むつかしければ、金貸もせず。ただおぴただしき町屋を持ち、その店貸にて安楽にふける。上に仕うる君も無ければ恐しきものなし。役儀もなければ心遣いさらになし。下に治むべき民もなく、家来もなく、また武士の作法、義理ということもなく、衣服より食事家声までその奢り大名に等し。付き従い出入りするもの、己れが機嫌を取るばかりなり。遊山のことは傾城町、野郎町を心のままに歩けども、たれ咎むる人もなく、また恐るる人もなし。その外の慰めも心のままにて、たれをはばかることなし。まことに今の世に南面王の楽というはこのことなり。

 ああ千古の奇才、日本唯一の大脳たる徂徠先生の智をもってすといえども、大名武士を土着せしむべしというがごとき、斗を焼き衡を折る的の復古論を主張するの外は滔々として進み来れる市民の発達を防ぐの道なかりしなり。西鶴の好色本、もしくは近松の戯曲のごときは、かくのごとくに発達し来れる市民が、政治上の権利を得ざる代りに身体上の自由を限りなく拡張したる反響に過ぎざるのみ。
 それ銃砲一たび渡来してよりの後は、小さき大名は大なる大名に併せられざるを得ず。この併呑とともに武士はその土地を離れて城下に集らざるを得ず。主権者の大名に対する権力は増加せざるを得ず。しかして大名武士の削弱とともに市民はその頭をもたげざるを得ず。詮じ来れば徳川時代における社会的革命は一に銃砲渡来の効なり。史上の因果は夷の思うところにあらず。たれか知らん、一代男世之助のごとき者を生じたる時代は実に銃砲の作るところならんとは。
 この時よりして一個の警語は日本市民の脳髄となりぬ。いわく、「黄金は町人の系図なり」と。新たに日本歴史の上に表われ出でたる市民はついに自己の立場を発見したり。この時より黄金の所有主は自己が人事を支配すべき最大なる鑰を握れることを自覚し始めたり。これ実に世運一転の機ならざるを得ず。昔の日本は大名の日本にしてその富はただ土地なりき。徳川時代の日本はこれに幕府と富豪とを加えたる日本にして、その富の主なるものは黄金なりき。資本主は早くすでに恐るべき勢力を有し、かつその勢力を自覚するものとなれり。これあに一大世変にあらずして何ぞや。
 見よ、徳川の時代を通じて、いかに武士が富豪に凌辱せられつつありしよ。厳然たる大諸侯といえども往々にして商人の限色を窺うて喜憂を催さざるを得ざりしにあらずや。当時肥後の細川氏はいわゆる国持大名の傑なる者なりき。しかもその藩主宗孝の時に至りて財政窮迫し、ほとんど破産に瀕せんとせしかば、大坂の富豪鴻池氏よりその蔵元たるを拒絶せられたり。宗孝の嗣子重賢、職を襲ぐに及んで、その臣堀勝名をしてひたすら京を鴻池氏に乞わしめたるも、ついに鴻池氏の信用を恢復するあたわず、わずかに長田作兵衛なる者を蔵元として焦眉の急を免れたりしにあらずや。また見よ維新の当時のごとき三井氏の金を待つにあらずんば官軍を京都より大津に出すことすらなお難かりしにあらずや。また見よ、諸藩の財政改革というもの多くは用達と称する市民の参劃に出でしもの多かりしにあらずや。然らばすなわち徳川氏の時代において市民はすでに多くの地歩を占めつつありしなり。
 維新以後の歴史に至りては、吾人これを説くを要せず。総じてこれをいえば日本の歴史は幾たびかその観を改めたりといえども、テニソンが歌いしがごとく、進歩の一線はその間を貫けり。人権は一の時期より他の時期に進むごとに進一歩せり。日本の人民は昔より政府をして自己の趣好に適せしむるの能力を有せり。今に至りてこの権なしという、これ日本人民の歴史を侮辱するものなり。日本の国体を知らざるものなり。日本国民の感情に抗して謀叛せんとするものなり。二千五百年の間、日本人民の心を大御心となしたまいしわが列聖の廟謨を軽侮するものなり。愛すべき同胞たるもの、日本の人民たるもの、よろしく鼓を鳴らして、無識なる歴史家、執迷なる教育家を改めて可なり。 (1897年『国民之友』第330号〜第332号)