英雄論
明治廿三年十一月十日静岡劇場若竹座に於て演説草稿
金色人種に、破天荒なる国会は、三百議員を以て、其開会を祝さんとて、今や仕度最中なり、私権を確定し、栄誉、財産、自由に向て担保を与ふべき民法は、漸く完全に歩みつゝあり、交通の女王たる鉄道は何れの津々浦々にも、幾千の旅客を負ふて、殆んど昼夜を休めざる也、日本の文明は真個に世界を驚殺せりと云べし、三十年前、亜米利加のペルリが、数発の砲声を以て、江戸城中を混雑せしめたる当時と今日とを並べ見るの利益を有する人々には我文明の勢、猶飛瀑千丈、直下して障礙なきに似たる者あらんか、東西古今文明の急進勇歩、我国の如きもの何処に在る。
嘗て加藤博士が国会猶早しと呼びたるの時代ありき、嘗て文部省は天下に令して四書五経を村庠市学の間に復活せしめんとせし時代もありき、当代の大才子たる桜痴福地先生が王道論とかいへる漢人にても書きそふなる論文をものせられし時代もありき、ピータア、ゼ、ヘルミット然たる佐田介石師が「ランプ」亡国論や天動説を著して得々乎として我道将さに行はれんとすと唱はれたる時代もありき、丸山作楽君が君主専制の東洋風に随喜の涙を流されし時代もありき,、如此(かくのごとく)に我日本の学者,老人、慷慨家、政治化、宗教家達は、我文明のあまりに疾歩するを憂へて、幾たぴか之を障(さゝ)へんとし、之が堤防を築き、之が柵門を建られつれど、進歩の勢力は之に激して更に勢を増すのみにして、反動の盛なると共に正動も亦盛にして、今や宛然として欧羅巴(ヨーロッパ)ナイズされんとせり、勿論輓近稍我人心が少しく内に向ひ、国粋保存の説が歓迎さるゝの現象は見ゆれど、是唯我人民が小児然たる摸倣時代より進んで批評的の時代に到着したるの吉兆として見るべきものにして、余は之れが為めに我が文明の歩を止むべしとは思はざるなり。論じて此に到れは、吾人は今文明の急流中に棹(さをさ)して、両岸の江山、須臾に面目を改むるが如きを覚ふ、過去の事は歴史となりて、巻を捲かれたり、往事は之れを追諭するも益なし、未来の吉凶禍福こそ半(なかば)は大勢に在り、半は吾人の手に存するなれ、我文明を如何にすべき、是吾人の今日に
於て解釈すべき問題に非ずや、呉越の人たとひ天涯相隔つるとも、一舟の中に乗ぜば安全なる彼岸に達せしむるまでは、共にカを此に致さざるべからず、来れ老人よ、青年よ、仏教家よ、「クリスチアン」よ其相互の感情に於ては冷かなるも、其宗敵たる位置に於ては相争ふも此一事に於ては兄弟であれ、手を携ふるものであれ。
吾人(われら)は今文明急流の中に舟を棹しつゝあり、只順風に帆を挙て、自然に其運行に任すべきか、抑も預じめ向て進むべき標的を一定し置くべきか、若し此儘に盲進するも、前程に於て、渦流、暗礁、危岸、険崖なくんば可なり、柔櫓声中、夢を載せて、淀川を下る旅客を学ぶも差支なしと雖も、若夫れ我文明の中に疾(やまひ)を存し、光れる中に腐敗を蔵するを見ば、焉(いづくん)ぞ大声叱呼して柁師を警醒せざるを得んや。
夫れ物質的の文明は唯物質的の人を生むに足れる而己(のみ)、我三十年間の進歩は実に非常なる進歩に相違なし、欧米人をして後へに瞠若たらしむる程の進歩に相違なし、然れども余を以て之を見るに、詮じ来れば是唯物質的の文明に過ぎず、是を以て其文明の生み出せる健児も、残念ながら亦唯物質的の人なる耳(のみ)、色眼鏡を懸け、「シガレット」を薫(くゆ)らし、「フロック、コート」の威儀堂々たる、敬すべきが如し、然れども是れ銅臭紛々たる人に非ずんば、黄金山を夢むるの児なり、其中に於て高潔の志を有し、慷慨の気を保つもの、即ち晨星も啻ならじ、束髪峨々として緑※1(りょくさん)額をつゝみ、能く外国の人と語り、能く「ピアノ」を弾ず、看来れば宛然たる「レディス」なり、然れども其中に存するものは空の空なるのみ、赤間ケ関の荒村硬星に嘗て野「バラ」の如くに天香を放ちし、烈女阿正(オマサ)の如き、義侠深愛、貞節の如き美徳は之を貴き今日の娘子軍に求むべからず、蓋し吾人が之を求め得ざりしは其眼界の狭きが為ならん、而れども方今の人心は其外界の進歩に殆んど反比例して、その撲茂、忠愛、天心の如き品格を消磨して、唯物質的快楽を遂ぐるに、汲々たるは、掩はんとして掩ひ得べからざるの事実に非ずや、思ふて此に至る吾人は賈生ならざるも、未だ嘗て之が為に長大息せずんばあらず、古来未だ嘗て亡びざるの国あらず、而して其亡ぷるや未だ嘗て某国民が当初の品格を失墜したるに因らずんばあらず噫(あゝ)今に及んで百尺竿頭、更に一歩を転ぜずんば、吾人は恐る、「古(むか)し我先人が文明を買ひし価は国を亡(うしな)ふ程に高直なりき」と白皙人種に駆使せられながら我子孫のツプヤカんことを。
※1・・・
夫れ文武の政(まつりごと)、布(しい)て方策に在りと雖、之を活用するの政治家なくんば空文となりて過ぎんのみ、憲法はスタイン先生をして感服せしむるも、民法は「コード、ナポレオン」に勝ること万々なるも、国会は開設せらるも、鉄道は網の如くに行渡るとも、之を利用するの政治家、実業家にして、依然たる封建時代の御殿様たり、御用商人たらば憲法
も亦た終(つひ)に何の律ぞ、鉄道も亦終に何の具ぞ、昔し蕃山熊沢は曰へり堂宇伽藍の巍々たる今日は即ち是れ仏教衰微の時代也と、宣教師は来りて雲突計(くもつくばか)りの「チョルチ」を打建(うちたつ)るも、洋々たる「オルガン」の音、粛々たる説教の声、如何に殊勝に聴ゆるにもせよ、宣教師にリビングストーン氏的の精神を見ること能はず、説教者にパウルノックスの元気旺せずんば是れ唯規(き)に因て線を画くのみ、焉ぞ活動飛舞の精神的革命を行ふを得ん、さなきだに御祭主義なる日本人を促して教会を建て、「オルガン」を買ひ、「クワイア」を作ることを惟(これ)務むるが如きは是れ荘子の所謂以レ水止レ水以レ火止レ火ものなり、思ふに日本の今日は器械既に足れり、材料既に備れり、唯之を運転するの人に乏しきを患(うれ)ふる耳。
余は信ず、今日に於て我文明をして、有効のものであらしめ、活気あるものであらしめ、永続するものであらしめんとせば、現時の行掛りなる物質的開化の建造と共に更に高尚なる精神的開化の建造に我歩武を向けざるべからずと、更に之を換言すれば、器械備付の業、略々成れるを以て更に之を使用すべき人物養成に向はざるべからずと、蓋し今日の急務実に此一点に存す焉、若し我国をして国会開設の当時に於て慷慨にして而も沈摯なるハンプデンの如きもの一人だにあらしめば吾人は如何に気強からずや、我商業世界に於て独立、独行、良心を事務に発揮する資本家多からしめば、吾人は如何に安心ならずや、我が宗教世界に於て、昔し欧洲に在て震天動地の偉功を奏せし宗教改革諸英雄の如き人傑あらしめば吾人は如何に頼母敷(たのもし)からずや、而して顧みて実際を見るに、政治の世界は壮士を使用する者に蹂躙せられんとし、宗教家は徒らに博識を衒ふところの柔紳士となり了せんとす、我霊界も、我物界も、真俗二諦共に是れ風に吹かるゝ蘆底の人物を以て充されんとす、吾人は之が為に浩歎を発せざるを得ず、吾人は之が為に益々人物養成の必要を感ぜざるを得ず。果して然らは如何にして人物を造り出すべき、是れ吾人が此に至りて論決せざるべからざる問題なりとす(一)世間或は第十九世紀の董仲舒を学んで法律、制度を以て人心の改造を企つる者なきに非ず、然れども法律、制度はたとひ十分其効果を奏するも猶人を駆りて摸型に鋳造するに過ずして、其精神元気を改造するの用を為し能ふ者に非ざるは歴史上の断案なり(二)更に学校教化の作用を借りて人心改造の途となさんとする者あり、是前法に比すれば固より賢しこき方法なるべしと雖、斯る注入的の教育を以て人物を作らんとす、吾人其太だ難きを知る、昔し藤森弘庵、藤田東湖に語りて曰く、水藩に於て学校の制を立てしこと尋常一様の士を作るには足りなん、奇傑の士は此より迹を絶つべしと学校の教育必しも人物製造の好担保たらぎるなり(三)吾人只一策あり是れ天然の法則なり、是れ歴史上の事実なり、何ぞや、英雄を以て英雄を作るに在るのみ。蓋し観感興起の理、所謂「インスピレーション」の秘奥は深く人心の裏に潜む、吾人今其如何にして英雄の品格が他の英雄を作り能ふかを弁解せんとする者に非ず、而れども生物が生物を生ずることが生物界の原則たるが如く、英雄の好摸範が更に他の英雄を造るの一事は疑ふべからざるの事実なり、国家若し英雄漢あらんか、一波万波を動し、一声四辺に響くが如く、許多の小英雄は恰も大小の環の如く、中心なる大英雄を取巻きて、一団の人色を造るべし、彼等は斯の如くにして革命を催すべし、国の元気を恢復すべし、其土地の塩となるべし、其世の光となるべし、大学に所謂一家仁、一国興仁、もの是也、西郷南洲氏は、是を以て百二都城の健児を結び、維新の盛事を成せり、十年の争乱を惹起せり、新島襄君は是を以て「コングレゲーショナリスツ」の一派を結び、我日本の精神世界に運動を試みたり、孔夫子は嘗て、是を以て、支那の人心を結びたり、今日も猶其残喘を保ちつゝあり、国の進動する所以の者、此に存す、国民若し仰ぎて中心とする英雄微(なか)つせば、其文明は到底唯物的の魔界に陥らざるを得ず。
故に今日に及んで、我文明の進路を一転すべきの策、唯国民をして其理想人たるに適ふべき最大純高の英雄を仰がしめて以て国民の品格を高くするに在る耳、共教訓、其訓誠を論ずるの外、共如何に世を経過せしかの摸範を示して以て向ふ所を知らしむるに在る耳、唯其言語
が訓戒とするに足る耳ならず、併せて其行為を以て訓成とするに足る
†ウカ (タイ
べき者を求めて、之を仰視せしむるに在る耳、孟輯氏日く、伯夷の風
れん だ ▲ たつ 9ウカ ケイ
を聞く者は、頭犬も廉に、博夫も志を立る有り、又日く柳下恵の風を
ひ ふ あつ らい′ヽらくく
開く者は、都犬も寛に、薄未も敦しと、吾人は其生涯の行為、森々落々、
l、」丁
天の如く、神の如く、「シミ」なく、症なく、万世の師範たるに足る
ものを世界の中に求めて之を頂かざるべからず。
お扱い
蓋し大なる国民は大なる英准を奉じ、小なる国民は小なる英堆を奉
ず、此理必しもカライル氏を待ちて後に知る潅の親密に非ず、国民の
理想とするところ低くんば、英国艮も亦低からざるを得ず、国民の理
想とするところ高くんば英国民も亦高からぎるを得ず、故に吾人は英
雄を仰がざるべからず、而して其英鹿は最大至純の者ならざるべから
ず。
われら こゝ
香∧は今愛に印度の公子とナザレの木匠とを比較せんとする者に非
ず、何となれば、斯る議論は「宗教家」として徒らに争論の資々作る
が如絹ものたるのみならず、其生長の年歴さへ、種々の説ありて殆ん
タ 】Fソ
ど神秘時代に属するが如く見ゆる農義氏とヲーガスチン帝の時に生れ、
タイベリアス帝の時に殺されし、純然歴史上の人物たるイヱス、キリ
ストとを比較せんことは少しく不倫の嫌あればなり、雨れども吾人は
●●こと
愛に確乎たる信用を以て、イエス、キリストの人品は僧に世界の師範
として仰ぐに足るべきものなることを敢首せんとす、息ふにゾロアス
ジャカ
タル、釈迦の如き文箱未だ億はらず考証未だ封がらざる、時代に属す
る人は之を置く、歴史以後の人、ソタヲテスL批、プレトlと雖、孔
コ ’
十ウ サケゼソ サケシウ ほなは
丘、老再、荘周と雖、之をイエス、キリストに此すれば、光モ太だ減
ずるを党ふ、是余一人の私言に非ず、。又「クリスチアン」の個現にも
こと′ぐ・
非ず、歴史を縮む者、悉く之を認む、ルーサーも之を認め、ギボンも
いづくん
之を認め、レナンも亦之を認む、我日本の精神的改革を図る者鳶ぞ
こ▲ 【く
目を此に注がざる、吾人は似て非なる者を恵む、更に名を宗教に借り
て実なき者せ恵む、開く郷子の身中に虫ありて猷王だも、猶之が為に
カ いづくん
殺さると、彼の宗教の名を以て、せに行はる1虚礼、空文は突ぞ基督
あちざら
教の獅身虫に非んや、それ藩♯は以て侵薮を防げども之が為に共室内
れいろ’ 書ヘビ
の玲璃を遮るべし、世の所謂神学なるもの、礼式なるはの、或は恐る
之れが為に基督の品格を蔽はんことを、而れども仁を吹ふ者は穀を割
らざるべからず、其永々しき新藤に柄朗し、其抄ドくしき礼拝に辟
易して、其内に存する甘実を味ふ能はずんば、寧ろ智者の事ならんや、
一■ こ と
基督嘗て日へり我は道なり、生命なり、光なりと兵個に基督教を倖め
んとするもの、兵個に基督接陀接撃せんとする者、鳶ぞ其本に返りて▲
基督の品格を研究せざる、庶幾は以て無益の争論を止むべし。
あ ゝ
鳴呼、東府西府して其日英日の風に任する楊柳的の人物は以て今日
タワソタイ
を支ふるに足ず、天徳を我になせり桓魅乗れ吾を如何と云ふが如き、
智書は智憲の子に義とせらる1なりと云ふが如き、信任なく、独立の
思想なく、唯社会の潮勢につれて浮沈するが如き人物は、日本の」同養
いさゝ
を支ふるに放て何か有ん、心に些かの平和なく、利奔名東、▲汲々とし
増て折衷夢に改萌し、王公に漸佃、鬼神に乱が、人民をアサムタ者何
ぞ言ふに足らん、今日は実に矯々たる勤骨を以て、信仰あり、平和あ
り、独自ある所の男子漢を要す、女丈夫を要す、十年以前までは我「サ
ムヲイ」族は実に英国中等民族の如く世界眼ある者の朗るゝ所たりし
而して今や彼等は消し貴んとす此物質的文明波瀾の中に立ちて精神的
文明の砥地たらんとする者は自ら重ぜざるべからず、我「クリスチァ
’†ま
ン」たる者は深く自ら敬はぎるべからず。
(明治二十四年一月)
信仰個条なかるべからず
旗色分明ならずんば三軍何を以て向ふ所を知らんや。膚条は異論に
対し、他派に対し、同一普通の僧仰を有する一隊が敵と味方と朋友と
せいき なか
を区別せんが為めの族旗なり。是れ徽つせは以て靖神界に出で1統制
な
一致の運動を為す能はず。
故に信条は歴史の産物なり。侶余の生ずるは勢の必至なるものなり。
けふあい
人或は日ふ信条の如き狭院、独断の物を掲げて以て世に示すことは
思想の自由を専ぷ者をして其中に入るを嫌はしむるの媒たりと。異な
かな われら
る哉言や。吾人は思想の自由を尊ぶが故に僧条を掲げて以で去就を明
g獅糾い煎糾bf…州…眼b柑如柏……臥詣M約糾貼
モし−y
JTyスト いへど
しむることは基督と雖綿能はざりしかり0故に信条を掲げて以て誉
かつ
者を歓迎し、往く者は尤めざる也。溝井時鹿氏曾て僧仰を告白し、内
村血琴二氏亦信仰を告白す。是れこ君の信仰なり。ニ君安心立命の地な
ヽ−
り。一一君の放と味方と朋友(清神界の)とは此告白に因りて決すべき
なり。吾人は二君の為めに此挙あるを者ぷ・此に依りて桝二君立脚のョ
地を知り略二君の旗色を博したれば憤り。 きんか
新信条を以て旧信条に代ふべしと計ふは可なり。之を増減舶加すべ
しと日ふは可なり。之を置くの可香を論ずるに至りては事理を解せざ
はなはだ
るの太甚しき者也。
かく
吾人は我教会に斯の如き空論家多きものありと日はす。教師に空論
の説教を為す者ありと日はず・触れども今日の時に加りて何人も自ら
此点に裁て省みるの必要は必ず有りと膚ずる者也。何となれば日本の
地、日本の現時は実に基督教の救済を要するものあり、而して是唯基
粥倹ョ結rg喧l粥f糾=削g報棚g郎舶g肘「
ればなり。
吾人は国家と基督教てふ二個の名詞を粥くこと多し。吾人も亦二者
の関係を解せざる者に非ず。国家の生命と元気とは堅固なる膚仰、満
尚なる道徳に頻りてのみ栄ゆるものなることを膚ずる者なり。吾人は
しは′lヽ
又度々愛国及び基督教てふ声を開き政府及び教会てふ声を叩き、社会
l
問題及び教会てふ声を閃く。若し明治十入九年を以て学術及び基督教
の関係が現かれたる時代なりとせば近き二三年は国家、社会及び基督
*
教の関係が重もに説かるゝの時代なりと日ふ紆`渡来れば卑は必ら・
ず鳴く者なり。時勢の推移、此に至りしこと強ちに尤むべからずと雖
●▲ん
も、吾人にして若し唯基督教の国家社会を利する所以をのみ論じて、
丙して之を実地に応用するは必らず先づ一個人より始めざるべからざ
lモ い【しへ
ることを忘却せんには、是れ天上の星を仰ぎて足を溝に失したる盲の
哲学者に現せざらんや。
吾人は度々諸政会の教師より其の課題を慰めて日本の誇斗は重もに
何を鋭くかを観察せんと欲したりき。吾人未だ之を為すに頓あらざり
しと雖も、其事大抵察すべきのみ。若し我が誘竣をして単に教師が其
と‘
理想、其義論を語るの所たるに止まらしめは、教会は空論の教会とな
り、而して信徒は空論の人となるべき也。
02
ヽ
吾人の必らず記すべきことは、吾人は理想の中に掛くる者に非ず、
実地の世界に立つ者なることなり・所謂、猷髄≠射撃信仰復活の如
きは捻て想考的のものに非ずして、経験的のものたることなり。牧師
は会員に基督教徒たる教育を与ふべき者にして会員に基督教義の学問
を教ふるは寧ろ其第二、第三の務に属するなり。
昔しは儒生実地g川なきの空論に妙協ペたりしかは人をして六鐘
は争論の資のみと嘲らしめたりき。願くは基督教会を以て空論の巣と
なして識者をして冷笑せしむる触れ・
予言者は殺されたり、然れども追慕せられたり。清神界の改革は、
らんしや1一
転蔑せられ、迫害せられ、殺されたる少数者の手に因りて濫態せり。
さら
吾人たとひ現時に放て骨を涛中に暴す托も首世の後、我日本の精神罪
道徳界に宗あるの名を普ば亦以怯みなかるべし・
ふしど
柔かき臥床は英鹿の死せんことを希ふ場所に非ず・肝呼野官憲
きんはく たまく
名、書迫は偶以て吾人の徳を成すに足るのみ。見よ清教徒は失意の
時に清くして、得意の時に濁れるに非ずや。不忠、不孝、売国、乱俗−
如何なる汚名も甘受せん。吾人自ら不忠ならず、不孝ならず、国を売
らず、俗を乱らざるを信ず。明かに之を膚ず。波をして荒れしめよ、
杜こ た
凰をして怒らしめよ、三千八百万の同胞をして三千入官万の戟を樹て
1吾人に向はしめよ。吾人は厳乎として我立湯に立つべきのみ。
に帥g針‥baポbりbb帽仙川崩師洲幣絹頂
要の如く群がれる在天の偉人に笑はる1こと勿れ。
手首の造は乗るとも書のかじ
のかは岩はも共に飛ばなん
と云へる如き大盤石の根底を有せざるべからず。是れ即ち信条也。必
しも文学あるを要せず、唯此信認あるを要す。
戦国の武士が意気を重んぜるは彼等の信条也い福等は意気の為めに
山rも上ヽ・
は万戸侯をも辞せし也。意気の為めには死をも庶はざりし也。貌徽が
商謂「人生盛衰泉、功名誰復論」なるものは是れ彼等の血を以て保護
せし僧条なりし也。
か
暫らく其膚ずる所の何たる乎を問ふを止めよ。何にもせよ、若し吾
人の生命を賭しても守るべきものありとせば是れ吾人は信条を有する
也。是なかりせば吾人は度に共立湯を失ひし者也。吾人の品性は失は
れたるもの也。
回教の兵が向ふ所天下に敵なかりしほ何ぞや。彼等は人は天命に非
ずんば死する者に非ずてふ僧操柁有したれば也。有るは無きに勝れり。
■ 1 †
儀庚の空気充満せし文明なる希脱が比較的に野蛮なる偶像信者の藤尾
人に亡ぼされたる者は何ぞや。一は信条を有し一は信条を有せざれは
也。
吾人は重ねて言はんとす、吾人の所謂信条とは、
此に因りて生き、此に因りて死すべきものなり。
即ち吾人の血を以て印すべきものなり。文字に書きたる膚条の謂に
あらぎ アナネ
非る也。ソタラテスは彼れの信条の為めに亜典の萩中に死せり。バウ
ロは彼の信条の為めに羅馬に死せり。許多の殉教者は其信条の為めに
石にて打たれ、火にて好かれたり・鳴呼信条なるかな、之を有するの
あ ゝ
人は以て死生の間に談笑すべし。以て社会の風浪の上に高歩すべし。
1Tベ
人若し此世の洋ての物よりも愛すべく、此世の洋ての物を絶つも猶
絶つ能はざるものを有すれば是れ膚条を有する也。
(明治二十五、六年中)
頼裏を論ず
\
文章即ち事業なり。文士筆を触ふ猶歪剣を撫ふが如し・共に空を
l
撃つが為めに非ず為す所あるが為也。万の弾丸、千の剣モ、著しせを
義せずんば空の空なるのみ。華魔の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天
地間に止るも、人生に概触らずんば是も亦空の空なるのみ0文章は事
らいのぼる かれ
業なるが故に廣むべし、吾人が穎裏を論ずる即ち渠の事業を論ずる也▲
穎春水大阪江戸港に在りて教授を業とす。年三十三にして宝飯岡氏
襲を生む、時に安永九年なり。正i洩れ光希天皇御即位の年、江戸の
将軍徳川家治の在職十九年、田浴意次父子君籠を僻んで威権掛触がる
時となす。
王政復古の預言者、文運改革の指導者たる大詩人は那の如くにして
こ ゝ もと
生れたり。久々乳を索むる声、他年変じて社会を呼醍し、人心を驚異
くわんけ1フ
せしむる一大喚吋と変ずべしとは唯天のみ之を知りたりき。
。あく
明れは天明元年、春水本国広島藩の蹴が応じて藩学の教授となれり▲
いつくし一−
其婦と長子と陀絹へて竹原に帰り父を省し、更に厳島の詞に詣づ、喪
むつさ いも
は禰裸の中に轟前に拝せり。竹原は広島の東十里に在り煙火寿条の一
い▲ つか
邑にして顧氏の郷里たり。春水の始めて仕ふるや当時藩学新たに建つ
ていし▲ゆ
に会し建白して凝朱の学を以て藩学の正宗となさんと欲す。義者其偏
ペんはく
私を尿ひしかば彼は学統論を作りi其非捲咋牙験せり。
春水の斯の如くに藤朱の一端に葬りし所以のもの、決gて怪しむに
足らず、何となれは渠は選択の時代に生れたればなり。蓋し徳川氏天
は■ノさつ
下を平かにせしより、草木の春陽に向つて萌苫するが如d各種の思
え・フらん
想は泰平の揺藍中に育てられたり。久しく禅僧に因りて有たれたる釈
氏虚無の道は藤原鮮轡林野舶の唱道せる宋僑理気の学に因りて圧倒
とlノ叶しゆ とな
せられ、王陽明の唯心論は近江聖人中江藤樹に因りて唱へられ、古文
辞派と林する利功主義は荻生祖彿に因りて唱へられ、盲学と林する性
謂…約悶純絹帥畑h川小f鮎決シ…鮎凱欠i棚如柑
おのく
沸けり。元禄より享保に至るまで人各、自己独創の見識を立てんこ
とを競へり0斯の如くにして人心中に伏蔵する思想の硬派航山芋射ち
出されたり。支那二十二朝を通じて腐れたる各種の思想は徳川氏の上
半期に於て悉く日本に再現せり。創飴の時代は鹿に過ぐ、今は即ち選
択の時代なり。紛々たる諸説より其最も書きものを択んで之に従はざ
るべからずとは志ある者の郎に唱導する所なりき0粟は斯る空気の中
に捷息し、柴野栗山、尾藤二洲、古賀清里等と共に宋僑を尊信して学
し
統を一にせんとするの党派を形造りたりき。幕閣が兵学の禁を布きた
るは寛政元年にして蓋し此党派の輿論を採用せしに過ぎざる也。
春水の名は英二弟春風杏坪と共に此時鹿に学者間に湘へたりき。彼
は朱子派の儒者として蹴封加鵡か君子として、森に善事の人として、
其交遊の中に敬せられたりき。彼の未だ出で1仕へざるや其朋友等相
共に広言して日く首万石の碑に弼jば応ぜざるべしと・裏が春水より
継承せし血液は此の如く清澄なるものにてありたりき。雨して春水の
室、即ち裏の母も亦尋常の婦人に非らず、裏が幼時の教育は実に彼女
の自ら担当する処なりき。息ふに穎氏二世共に婚姻の幸福を有せり、
春水は学識ある妻を有し、裏は貞節なる妻を有す、穎氏何ぞ艶福に富
めるや。
い ご
烏兎勿々久々の声は呼噂の声に化せり、禄裸中の実は長じて童子と
なれり、教育は始められたり。藩学に通へる一書生は彼が句読の師と
して、学校より帰る寝に彼の家に迎へられたり。而して母氏も亦女紅
しはく _こた
川憎鮎報鵬醐…穴ユ酢戟cM…派相鮎媚難関か相川
ざりしよ1 彼は此時より他の方向に向つて自ら教育することを始め
な一りlノ
たり。彼は論孟を地ちて絵本を熟視せり。義経、弁慶、清正の絵像を
あ ▲
見てあどけなき英碓廣拝の感情を燃せり。鳴呼是れ渠が生渡の方角を
指定すべき羅針に非ずや、彼は童子たる時より既に空文を叔ひて事実
を喜べり。
此頃政治世界の局面は枚平定膚に因りて一変せり。将軍家治の晩年
し■−
は正に是れ天下災害頻りに至るの時なりき。天明三年裏年四歳信州浅
間山火を発し灰関東の野を白くし、次で天下大に飢へ、飢艮蜂起して
すく
官煮を侵椋す。若し英雄ありて時を済はずんば天下の乱近くぞ見へに
ける。長上り先き安倍安田家より出で1白河の公平氏を鹿ぎ、驚名あ
03
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り、年俄ゆるに及んで部内の田租を免じ婦妾を放ち節倹自ら治む。克
政七年元旦慨然として歌ふて日く少小欲′為二天下器→誤将二文字−被こ
こ一フ
人知→春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治乗じ家斉十五歳の
少年を以て将軍職を紆げり0時勢は定膚を起して老中となせり・定僧
た
起て約、先づ従来の弊政を貯め、文武を励まし、節倹を勤め、以て回
復を謀れり。当時枚平鹿州の名児童走卒も亦皆之を知る。裏も亦其小
さき耳の中に趨州なる名詞を挿んで忘る1能はざりしなり。誰れか囲
もと
らん後来此人乃ち宴が著書を求むるの人ならんとは、人間の遭際固上
り夷の息ふ所にあらず。
薪氏は軒軒貯を有せり0袈の学業は批ペとして進めり・寛政三年彼
れ年十二、立志婿を作りて日く囁男児不y学則己、学当レ超レ群兵、盲
之賢聖豪傑、如二伊停−如二周召一者亦一男児耳、吾雖レ生二千東海千歳之
下→生幸為二男児一矢、又為二億生一夫、安可レ不下奮発立レ志以答二囲恩→
し えき
以廠中父母上哉。翌年春水の砥役して江戸に在るや、袈展モ書を広島よ
り寄せて父の消息を問ふ、書中往々其許を載す。春水が交遊する所の
しゆくさい
譜儒皆舌を巻きて其夙才を欺ぜり。薩州の儒者赤崎元礼、実の詩を柴
野栗山に示す。栗山は儒服せる豪傑なり、事業を以て自ら任ずる者也∧
へ
袈後年之を許して日く奇にして俊と。彼は固より英けを詩文の中に耗
いさ∫F上
らすことを屑しとせざりき。今や友人春水の子俊秀新約切きを見て、
彼は臥へり、千秋子あり之を教へて実オを為さしめず乃ち詞人たらし
か
めんと欲する乎、宜しく先づ史を読んで古今の事を知らしむべし、而
して史は網目より始むべしと。元礼薩に選るとき広島を過ぎ袈に誇る
に此事を以てす。鳴呼是れ天外より落ち来れる「インスビレーシ・
い か ばか
ン」たりし也。当時栗山の名が如何計り文学社会に重かりしかを息へ
ば彼の;Pが電気の如く少年頼袈をして鼓舞自ら禁ずる能はざらしめ
たるや知るべきのみ。大なる動横は与へられたり、大なる僚発は生ぜ
けだ
り、彼が後年史学を以て自ら任ずる者蓋し端を此に発す。
かな
史学なる哉、。史学なるかな、史学は実に当時に於ける思想世界の薬
石なり。禅孝廃して宋学起り宋学盛んにして陽明学興る。一起】倒要
するに性理学の範由を出でず、抽象し又抽象し推拓し又推挿す、到底
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一園を循環するに過ぎず、議論愈高くして食入生に速かる。斯の如
きは当時の儒者が通じて有する所の弊害なり。史学に非んば何ぞ之を
・丁く
ほ如g[配鎚折b…鮎い畑…確醐粥…約貼附健I……
逸を詠じ放浪自悉なるに過ぎず、鹿へて時代の感情を代表し、世道人
心の為めに歌ふものあるなし。斯の如きは当時の待人が通じて有する
所の弊害なり、史学に非んば何ぞ之を済ふに足らん。今や二個の岐路
は実の前に頼はれり、一は小学近息錠の余り多く乾放せる遣なり、一
−叫ん−ワ
は空詩虚文の余り多く湿潤せる遣なり。憐れなる少年よ、両君し右に
行かば南の智憲は化石せん。両君し左に行かば帝の智意は流れ去らん。
只一道の光輝あり、帝をして完全なる線上を歩ましむるに足らん、即
ち史学也。
克政入年袈年十八、叔父頻杏坪に従つては増し郷沢嘗学芸彗
洲の塾に在り。此行一の谷を過ぎて平氏を吊ひ、藻川に至りて柿氏の
墳に謁し、京都を過ぎて帝京を見、東海道を経て江戸に入る。到る処
僻仰感慨、地理に因りて歴史を息ひ、歴史に因りて地理を投じ、而し
て其の吐て詩藻となるもの乃ち宛然たる大家の作也。払強度に雑群に
投ず、彼の才の准なる同学の藷友をして走り且離れしめたるや想見す
た
るに堪へたり。彼が線香一蛙の間を決して四音三十首を作り以て英才
を試みしは実に当時に在りとす。
読者若し欝輔弼洲を詠じたるの誓菅ば知偶に彗の帝神が栗
の青年なる脳中に沸々たるかを見ん。粟をして此処に至らしめたるも
のは何ぞや。鳴呼是れ時勢なるのみ。大の勤王に狂せる上野の勉土井
かつ し ノ
山彦九郎は昔し嘗て春水と相識るものなりき。而して彼が寄二語海内
−一
義傑】好奄而己と遺言して筑後に自殺したるは実に先攻五年にして妾
えん‘
…粥糾川如畑f那l凱柑謂…謂g鵡鮎門h硝
はい一−ん
氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇室下の篭を皇出せ
しめ、或は処士竹内式部をして公卿の耳にさ1やひて射を学び馬を馳
せしめ、或は兵学者山県大弐をして今の朝廷は轟凶の如しと歎息せし
め、或は本居宣長となりて上代朝廷の御稜威を回想せしめ、或は蒲生
いんめつ 一モゝ
君平となトて涙を山陵の荒廃彗滅に瀬がしめ、勤王の一気は江戸政府
は1フはく
の鼎猶隆々たる時に在りて既に日本の全国に碑増したりき。克政四年
あた
即ち彦九が死せし前年に方りて柴野栗山大和に遊び神武天皇の御陵を
訪ひ慨然として歌ふて日く速陵銀向二里良一求、半死孤枚数畝丘、非
′有三聖神野l帝統→誰教三晶庶脱二夷流∵鹿王像設孝一金閣→藤相墳隼
膚二玉楼→古代本支度不レ億、鶏人乗レ此一回頭。而して自ら陪臣邦彦
むべ
と著す。袈や実に斯の如き時勢に生れたり。宜なるかな彼が勤王の待
た
人として起ちしや。乗れ英雄衰傑は先づ時勢に造られて、更に時勢を
造るもの也。実の幼き耳は勤王の声に党されたり、而して彼は更に大
声之を叫んで以て他の未だ覚めざるものを党さんとせり。
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鼓なる儒者尾藤二洲は春水の妻の姉妹を妻として春水と兄弟の交あ
りき。喪後年彼を評して日く雅凍簡速と。彼の人と為り実に斯の如く
托うLT,
なりき。彼は今春水より其鳳雛を托せられたり、彼は喜んで国史を談
じたりき、而して是実に套の開くを喜ぶ所なりき。夕日西に沈んで盤
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を呼ぷ時、一個の老人年五十二、一個の少年と相対して頻りに戦国の
英雄を論ず。一上一下口角沫を飛ばして大声壮語す。二丈、三更にし
とy し†ぜん
て猶且頼めざるなり、往々にして五更に至る。時に洒然たる一老婦人
あり室に入り来り少年を叱して去らしむ。老人顧みて笑ふ。当時会話
の光景蓋し斯の如し。
套亦柴野栗山を訪へり。裏が栗山に放ける因縁誠に浅からざるなり。
”今にして相遇ふ多少の感慨なからんや。栗山間ふて日く、粥目を読み
ことJ〃ヽ
¶ しや香や、答へて日く未だ尽く読む能はずと雖も只共大意を萌せりと。
▲フなづl■
州鳴呼唯大意を萌せりの∵句即ち袈が終身の読‡法也・栗山穎て日く
可也。
裏江戸に在る一年にして去れり0而して彼は終に再び江戸の地を尉
むことを碍ざりし也。破の遜るや時正に初夏東山遁を躾て滞れり。爽
山層帯革挿′天、濠々山脈雨為レ煙、蓋し当時の光景也。
父は光れり、子は曇れり。久太郎義近年兎角放縦に有之浪速に耽り
侯故、親戚朋友切誠森諭も仕侯得共不相改、当月五日竹原大叔父靖死
仕侯に付為弔礼家来添差遣仕侯処途中より逐電仕儀と悲しむべき報知
の顆香坪より九月十九日付にて其友篠田剛裁に達したるときは正に是
れ春水が赤崎元礼と共に特典を以て昌平共に経を説きし年なりき。宿
昔青宰の志今や漸く伸げて声名海内に揚れる時に方りて、共愛子は、
特に竜駒鳳雛として、皇を交友より属せられたる愛子は、新野となむ
んとせり。一栄、一辱、一事、一憂、世態大概斯くの如し。然れども
顆家も日本も瀕裏が一たび血気の誘惑に遇ひしが為めに多く損ずる所
あらざりし也。当時大坂の中井履軒は裏を責めて不孝の子なりとなし
券普♀沒\弊謂…派ほ=幣媚g那…鮎…門
実の志を知るものなりき。彼が篠田に与へたる同じ書簡の一節は裏の
為めに好個の弁護者たるに足れり。日く「然し狂妾なりとも宿志も有
之事と相見侯へば」と実の挙動は如何にも狂妾に見へしなるべし。然
れども叔父は其中に一片の志あるを看取せり。叔父鹿に之を看取す。
後入何ぞ紛々をする。
頼裏の誘惑が如何笹強きものでありしか、而して彼の為せし通は如
何程大なるものでありしか、而して彼が此過失の為めに陥りし(或は
好んで進み入りし)境洩は如何瀬るものでありしか、彼の伝を青くも
のは皆彼の為めに之を諌めり・之を簿みしが為めに終に酎批に陥れり・
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瀬裏の生涯は猶一抹の演享に其中腹を淑附せられたる山の如くなれり・
只之が結果として知るべきは長子元協を生みし新婦御囲氏の瀬別と京
坂間をさまよひ歩きしこと1数年間家に溢居せしこと1仕籍を脱し叔
父春風の千代りて元鼎春水の嗣となりしことのみ。而して彼自らは当
時境遇を写すに寮愁の二字を以てせり。彼は実に此間に於て人生無数
の憂患を味ひし也、人間の生涯が如何計り辛酸なるものであるかを味
いつくし‡
ひし也。之を朋く広島より鹿島に至る途上に一個の焼芋屋ハ↑)あり、