八紘一宇の精神 教学局
八紘一宇の精神とは神武天皇奠都の詔の中の「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)む。」のお言葉に基づくのであるが、この詔は神武天皇日向より御東征の途に上り給ひしより六年の間、幾多の困難と闘ひ給ひ、皇兄五瀬ノ命を失ひ給ふほどの御悲痛にも屈せられず、天ツ神の御子としての御信念と天業恢弘(くわいこう)の御精神とによつて、遂にその大業を成し給ひ、己未の年即ち御即位前二年三月七日都を大和橿原の地に奠(さだ)め給ふに当つて下し給うた詔であつて、皇祖の神勅に基づき我が肇國(てうこく)の大精神を具体的に示し給うたものである。この詔には
我東に征(ゆ)きしより茲に六年(むとせ)になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かかぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。辺土(ほとりのくに)未だ清(しづ)まらず余(のこりの)妖(わざはひ)尚梗(こは)しと雖も、中州之地(なかつくに)復風鏖(さわぎ)なし。誠に宜しく皇都(みやこ)を恢(ひらき)廓(ひろ)め大壮(みあらか)を規(はかりつく)るべし。而(しか)るに今運(とき)屯(わかく)蒙(くらき)に属(あ)ひ、民心(おほみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣(す)に棲(す)み穴に住む習俗(しわざ)惟(こ)れ常(つね)となれり。 夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に隨(したが)ふ。苟(いやし)くも民(おほみたから)に利(くぼさ)あらば何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且(また)当(まさ)に山林(やま)を披払(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭(しづ)むべし。上(かみ)は則(すなは)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまひし心(みこころ)を弘(ひろ)めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。夫(か)の畝傍(うねび)山の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観れば、蓋(けだ)し国の墺区(もなか)か、治(みやこつく)るべし。 |
と仰せられてある。右の詔の聖旨は
神武天皇が東に幸遊ばされて六年になり、大和地方一帯のわるものが天ツ神の御威徳によつて大体平定したのを御覧になつて醇朴な民を導く為に都を建設しようとの御理想を示し給ひ、皇祖の神勅に基づいて天壌無窮の皇位に即き、天下の万民を正しく生成発展せしめんとの愛民の大御心を示し給うたのである。これによつて天皇は上は皇祖天照大神がこの国土を授け給うた御神徳に報い、下は瓊瓊杵ノ尊がこの国に降つて醇朴な民を愛(いつく)しみ育て給うた御精神を弘めようとし給うたのである。さうして国内悉くを都のやうに皇化に浴せしめ、天下を挙げて一家の様に大和(たいわ)し、相倚(よ)り相扶(たす)けて発展せしめようとの大御心と拝察せられるのである。
まことに禍を払ひ、道を布(し)き彌々広く開けゆく我が国の輝かしい発展の道を示し給うたのである。御歴代天皇はこの御精神を御継承遊ばされたのであつて、明治天皇は明治二十六年二月十日「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク」の詔に「皇祖国ヲ肇ムルノ初ニ当リ六合ヲ兼ネ八紘ヲ掩フノ詔アリ」と仰せられた。我々はこの御精神を拝する時、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、国内は勿論各国家・各民族をして夫々その処を得、その志を伸ばさしめ、相倚り相扶けて靄然(あいぜん)たる一家をなして生成発展せしめ、以て万国咸寧(みなやすし)とするの御精神と解し奉ることが出来る。
この八紘一宇の御精神は天祖が万物を愛(いつく)しみ育て給ふ皇威の現れであつて、或は和の御精神と拝察することが出来る。聖徳太子が憲法十七条に「和を以て貴しとなし、忤(さか)ふることなきを宗と為す」と示し給うたのはこの御精神をお説き遊ばされたものである。この大和(たいわ)の精神が万世一系・君臣一体の國體となり、国民生活の下では家族制度となつたのである。仁徳天皇は
百姓貧しきは、則ち朕が貧しきなり。百姓富めるは、則ち朕が富めるなり。
と仰せられ、又雄略天皇は
義は乃ち君臣、情は父子を兼ぬ。
と仰せられ、又 今上天皇陸下は御即位式の勅語に
皇祖皇宗國ヲ建テ民ニ臨ムヤ國ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民體ヲ一ニス是レ我カ國體ノ精華ニシテ當ニ天地ト竝ヒ存スヘキ所ナリ
と仰せられた。
かやうな八紘一宇の精神が世界に拡充せられて、夫々の民族・国家が各々その分を守り、相提携してその特性を発揮する時、真の世界の平和とその進歩発展とが実現せられるのであつて、古くは光仁天皇が渤海王に書を賜うて、「率土(そつど)の浜(ひん)、化(か)、同軌(どうき)に輯(あつま)るあり、普天(ふてん)の下(もと)、恩(おん)、殊隣(しゆりん)に隔(へだ)てなし。」と仰せられたのは、国中にゆきわたつた皇室の恩徳が海を越えて外国にまでゆきわたるとの御思召であり、近くは明治天皇が五箇条の御誓文御宣示の時の宸翰(しんかん)に
朕茲ニ百官諸侯卜廣ク相誓ヒ 列祖ノ御偉業ヲ繼述シ一身ノ艱難辛苦ヲ問ス親ラ四方ヲ經營シ汝億兆ヲ安撫シ遂二ハ萬里ノ波濤ヲ拓開シ國威ヲ四方ニ宣布シ天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス
と仰せられたのは、国内に洽(あまね)く潤はせられた御稜威(みいつ)を四海に及ぼして世界を平和に保たんとの御思召と拝察せられるのである。
由来我が国の武は万物を生かす為めの所謂神武である。神武天皇が日向を出て東に幸(みゆき)遊ばされたのは、遠隔の地に未だ皇化が及ばず、大小の村々に夫々頭目(かしら)があつて相争ひ相闘つて人皆苦しんでゐたので、これ等の争ひを鎮(しづ)め、民を安きに置くためにまつろはぬ者をまつろはしめ給うたのであつて、先づおだやかに皇道を説いて、帰順すべき旨をお諭(さと)しになり、それでも尚反抗した場合には已むを得ず干戈をお用ゐ遊ばされたのであつた。天皇が天業恢弘の基をひらき給ふに当り、「吾必ず鋒刄(つはもの)の威(いきほひ)を仮らず、坐(ゐ)ながらにして天下を平げむ。」と仰せられたのはこの平和の御精神を示し給うたものと拝察せられるのである。
惟ふに今次の支那事変は支那が排日抗日を事として反省しない為め、已むを得ず兵を出してこれを撃つたのであつて、支那の悪夢を醒まさせ、我が肇國の理想たる八紘一宇の精神を光被(くわうひ)せしめて真に提携の実を挙げ、東亜永遠の平和を確立し、更にこれを世界に及ぼして和気靄々たる一家の如き世界平和を樹立せんがためである。第七十二回帝国議会の開院式の勅語に
帝國ト中華民國トノ提攜協力ニ依リ東亞ノ安定ヲ確保シ以テ共榮ノ實ヲ擧クルハ是レ朕カ夙夜軫念措カサル所ナリ中華民國深ク帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構へ遂ニ今次ノ事變ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾トス今ヤ朕カ軍人ハ百艱ヲ排シテ其ノ忠勇ヲ致シツツアリ是レ一ニ中華民國ノ反省ヲ促シ速ニ東亞ノ平和ヲ確立セムトスルニ外ナラス
と仰せられたのも全く肇國以来の国史を一貫する八紘一宇の大精神を現し給うたものと拝察せられるのである。帝国が若しこの義憤の膺懲を加へなかつたならば、支那は共産主義跳梁の巷(ちまた)となり、東亜の天地は共産思想と複雑なる欧米勢カの葛藤の修羅場(しゆらぢやう)となり、我が国の理想たる東亜竝びに世界永遠の平和を望むことは到底出来ないであらう。
我が国はかやうに膺懲の鋒を向けたが、これは容共・排日の政策を掲げて東亜の平和を攪乱する国民政府を討(う)つたのであつて、決して支那四億の民を敵としたのではなく、反つてその処を得その志を伸ばさしめんが為めである。我が軍が宣撫班を設けて人心を鎮めてゐるのも、又戦地に在る我が将兵が支那の住民に食糧医療を施して戦禍に苦しんでゐる支那住民の救済に努めてゐるのも、更に又治安維持会を援けて治安を回復せしめ、最近樹立された新政府と相提携して東洋平和の確立を図つてゐるのも、何れも大和(たいわ)の精神の現れであつて、これ即ち八紘一宇の大精神の顕現に外ならない。
今や事変は長期持久戦に入つたのである。銃後の護りを固める国民は堅忍持久、愈々奉公の誠を致し、真に国民精神総動員の実を挙げねばならぬ。茲に事変下の神武天皇祭を迎ふるに当り、神武創業の大精神を体して更に国民の覚悟を新にし、一致団結以て皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ即ち八紘一宇の大精神を宣揚すべき銃後国民に課せられたる一大使命である。
(週報第76号 1938.3.30)
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