時局と遵法の精神  司法省

国憲国法の尊重と遵法週間の制定

 今を去ること凡そ二千三百有余年の昔、大聖ソクラテスが其の門弟の一人なるクリトーンに対して与
へたる最後の教訓は、実に国法の重んずべきこと、而して一私人の判断を以て之に違背するは即ち国
家の基礎を覆へさんとするものであると謂ふことであつた。抑も人類が、其の発達の当初から社会
生活を為し、社会生活に伴つて、其の秩序を維持するがため、種々の社会生活の規範が生ずるに至つ
たことは、争ふべからざる自然の現象である。而して社会生活が、漸く拡大し複雑となり且飛躍的
に発達するにつれて、其の最も発達せる形式の国家に於て、法律は最もよく進歩発達したのである。
蓋し、法律の法律たる所以は、社会の要求に基いて社会生活の利益を保護促進せんがために、国家権
力に依りて社会生活を規律するにあるからである。
 帝国臣民が、常に国憲を重んじ国法に遵ふべきことは、明治大帝の教育勅語に明示したまへる
ところであつて、今更縷説を要しないのであるが、此の遵法精神を一層普及徹底せしめると共に、
司法に対する国民の理解と協力を深めしめるために、茲に国民教化運動の一方策として、十月一日よ
り五日間の遵法週間が制定されたのである。顧みれば昭和三年十月一日は、畏くも 今上天皇陛下
が、東京の裁判所に行幸あらせられ、左に掲ぐる優渥なる勅語を下したまへる光栄ある日であつて、
司法部に職を奉ずる者は、皆均しく感激措く能はざるところである。

 司法裁判ハ社会ノ秩序ヲ維持シ国民ノ権義ヲ保全シ国家ノ休戚之ニ繋ル
 今ヤ陪審法施行ノ期ニ会ス一層恪勤奮励セヲ

 爾来司法部に於ては、毎年十月一日を司法記念日と為し、巌粛なる式を挙行して、以て氷く聖旨を
奉体して司法の使命を全うせんことを期して居るのである。

司法の使命と国民の協力

 司法は国家の治安を維持し国民の権利義務を保全することを其の使命としてゐる。帝国拳法第五十
七条に、司法権は天皇の名に於て法律に依り裁判所之を行ふとあるは、畢竟、司法権の行使について
の原則を定められたものである。即ち、民事及刑事の裁判は、独立なる裁判所に依りて行はれること
を要し、之がために、裁判所は他より何等の干渉を受けることなく、一意其の自由公正なる判断に従
つて、裁判を為すことを要する旨を明示されてゐるのである。其のほか司法部に於ては、民事及刑事
の裁判以外の事務を司つてゐる。即ち民事に関する非訴事件、刑事に関する司法警察及刑の執行等
は司法の性質を有するものであるから、原則として裁判所、検事局又は其等の付属機関に依つて行ふ
ことに定められてゐる。又、司法権に付随する行政事務、例へば、会計の経理、竝に職員に対する監
督権の作用は、性質上当然司法部の管掌すべきところに属してゐるのである。
 民事及刑事の裁判は、国民として為すべきこと又は為すべからざることを明らかにし、其の権利義
務の関係を明示して、為すべきことを命じ、為すべからざることを禁じ、或は命令し或は制裁を科す
ることに依りて社会の正義を顕現し、以て社会の秩序を維持し、国民の権利義務を保全することを使
命としてゐるのである。而して、民事の裁判に於ても亦刑事の裁判に於ても、各般の証拠に依りて事
実の判断を為すことを要する。此の証拠は、専ら証人や鑑定人等の証言や鑑定に拠らねばならぬこと
が甚だ多いのである。証人は、自己の見聞したる事実について裁判所に対し事実を有りのまゝ正直に
供述せねばならぬ。若し証人が、事実を歪曲し、黙秘し又は虚偽の事実を述べるならば、裁判所
は之に拠りて誤れる裁判を為すの虞が生ずるであらう。また鑑定人は、自己の特別の知識経験に基い
て誠実に認識若くは判断を為し、其の経過及結果を裁判所に報告せねばならぬのである。例へば、裁
判所の命に依りて鑑定人は証書の文字の真偽を鑑定し、又は死亡の原因が自穀であるか他穀であるか
等を鑑定するのである。
 昭和三年十月一日より実施されてゐる陪審制度は、国民が議会を通じて立法に参与し、地方自治制
に依りて地方行政に参与すると同様に、陪審員と為ることに依つて、司法権行使の一部に参与するこ
とを得るの制度である。即ち陪審員は、一定の刑事事件について事実の判断を為し、之を裁判所に
答申すべきことを定められてゐるのであるが、此の権利を行ふにつき適正を旨とせねばならぬことは
言ふ迄もない。
 斯の如く、国民は直接又は間接に、裁判所の取扱ふ事務について或は証人として、或は鑑定人と
して、或は陪審員として、法律の定むる所に従つて、夫々司法権の行使に協力参与せねばならぬので
あるから、よろしく司法の使命を理解せられ、以て社会の正義を維持し且発揚することに寄与せられ
度いのである。然るに、従来国民の間には、裁判に無関心であり、裁判所は唯恐ろしき所とのみ思ひ
込み、裁判所に出入することを厭ひ、一旦証人として出頭しても成るべく掛り合と為ることを避けん
がために、何事も知らぬ風を装ふが如きことのあるのは、甚だ遺憾とするところである。然しなが
ら、司法部第一線の事務に携はる者の間にも、従来やゝもすれば、証人参考人等に対する其の言動に
於て、丁寧親切を欠くの憾みもあつたので、曩に本年六月開催されたる司法部長官会同に於て第一線
の事務の刷新に関し協議研究の結果、公衆に対する応対は丁寧親切を旨とし、事務の処理は適正敏速
を旨とすべく、其の他公衆に対する便宜等について、種々具体的方法を決定したる上、爾来之を実行
に移して、鋭意第一線の事務の改善を図り、今や全国に亙りて相当の実を拳げつゝある次第である。

事変に関する犯罪と其の防止

 支那事変勃発以来、之に関連して種々の犯罪が、全国的に発生してゐるのは洵に憂慮すべきことで
ある。従来司法部としては、共産党其の他矯激なる思想団体の動向及思想犯の潜行運動等について、
常に深甚なる監視と注意を怠らないのであるが、なほ事変に開する犯罪の対策として(一)軍機保護
に於ける軍事上の秘密の探知、収集、漏泄 (ニ)陸海軍刑法に於ける軍事に関する造言飛語 (三)
新聞紙法に於ける軍事に関する禁止事項の掲載 (四)出版法に於ける軍事の機密に関する文書図書
の出版 (五)其の他時局に関する犯罪等について、巌正なる検挙を励行してゐるのである。茲にこれ
等の犯罪予防に関し、此の際特に国民の注意を喚起したいと思ふ。
(一) 国家は国防上、外交上、其の他の必要から、他国に対して秘密を保持せねばならぬ。而して其
 の秘密は、国家の利害に重大なる関係を有し、特に重要なるものは国家の存亡に関するものであ
 るから、国家の秘密は一般商工業上の秘密に較べて、格段の重要さを有つてゐるのである。就中
 事上の秘密
は、平時戦時を問わず、国防上緊要なるものであるから、厳密に之を保護せねばならぬ
 ことは言ふ迄もない。然るに、これ等国家の秘密は、一般商工業上の秘密の如く、・直接個人の利害
 関係が尠いために、国民一般の之に対する関心が十分でなく、従つて全く悪意なくして不用意の間
 に、重要なる秘密が他国に漏泄されるといふが如き事例もあるのである。
  最近の事例を挙げるならば、昭和十一年、某大学学生が外国系自動車会社から自動車一台の提供、
 を受け、夏休みを利用して日本全国の自動車旅行を企てたが、其の道程に於て、道路及天候気象に関
 する事項等をも調査して、之を前記自動車会社に自動車の代償として提供して居つたと謂ふことが
 ある。右の学生は悪意があつたわけではなく、全く国家の機密であることに気付かずに、其の結果
 に於ては、国家総動員に関する秘密を窺知し得る情報を外国に提供したことになつたのである。ま
 た昭和十一年、海軍としては発表してはならない写真が雑誌等に掲載されるので、よく調べて見た
 ところが、所謂海軍ファンが互に連絡し悪意なくして珍らしい海軍に関する写真を撮影し、之を交
 換し合つて居つたと謂ふ様なこともあつた。斯の如く国民が平素国家の国防及外交の問題について
 関心を有ち、正しき認識を深めるといふことは当然のことで、大に奨励すべきではあるが、若し其の
 限度を超えて、単なる好奇心から、国防上又は外交上の秘密を探知収拾し、不注意にも之を新聞雑誌
 等に掲載するが如きことがあうては、国家の蒙るべき迷惑、損失の甚大なるものがあるであらう。
  戦はんとすれば先づ敵情を知るを要することは、古今東西を通じて渝(かは)らざる金言である。そこで
 各国は戦時は固より平時に於ても、凡ゆる手段を尽して外国の情報を探知せんとし、之に対して
 各国は、自国の軍機を秘匿保持するがため、夫々必要なる方法を講じて遺漏なきを期してゐる。斯
 くして各国の諜報防諜は、年を追うて愈々活溌となり、外国の軍事上の秘密を諜知偵察するため
 に、厖大なる組織と巧妙なる科学的手段とを以て、一片の秘密を取得するのに数万金を惜まざるが
 如き実情である。殊に最近に於ける国際情勢の険悪化に伴つて其の傾向は益々甚だしくなつて来
 たのである。されば国民は、偶然不用意の間に、外国諜報者の手先に使はれるといふが如き、忌は
 しきことの無きやう十分に注意することが肝要である。然らば、如何なる事項又は如何なる図書物
 件が軍事上の秘密であるか、国民は須らく予め之を心得て置く必要があるのである。然るに、軍事
 上の秘密に関する取締法たる現行軍機保護法は、明治三十二年の制定にかゝり、科学の進歩発達に
 基く所謂近代戦の特質に応ずるには、其の内容に不備欠点があるので、曩に同法の改正を見るに至
 つのである。近く改正軍機保護法の施行と同時に制定せられる陸海軍の省令に於ては、改正法に
 依りて保護さるべき軍事上の秘密の種頼範囲が公示されることになつてゐる。何が軍事上の秘密で
 あるか、其の種頼範囲が明らかになれば、一般に軍機の観念が普及され、従つて警戒を怠らないで
 あらうから、従来のやうに、不知不識の間に重大なる軍事上の秘密が曝露されたり、又軍事上の秘密
 であることを知らずして之を探知牧集して犯罪の嫌疑を受けたりするが如き事例は、漸次無くなる
 であらう。なほ改正法に於て、軍事上の秘密を探知、収拾、漏泄する者に対し、其の動機や情状に
 依りて寛厳宜しきを得るやう、刑の裁量の範囲を拡張したること。大規模の諜報を行ふ所謂スパイ
 団
を厳重に処罰する旨の規定を新に設けたること。正当の業務に依りて軍事上の秘密を知得し又は
 領有したる者が、不注意に因りて、之を紛失し、詐取せられ、他人に之を交付して、秘密を漏泄し
 た場合の処罰規定を新に設けたること。同法中重大なる犯罪については、之を犯さしむるため
 誘惑し又は扇動したる者をも罰する規定を、新に設けたること。軍事上秘密保護の必要ある空域、
 土地又は水面につき区域を指定して、其の区域内の水陸の形状、施設物若は状況の測量、気象観
 測、空中若は高所よりの撮影其の他を禁止制限する規定を新に設けたること。等は注目に値する
 改正点である。蓋し、開戦の直前若は其の瞬間に於て、又は全戦争期間を通じて、航空兵力の大部
 分を挙げて敵国の政治、軍事若は産業の中心地帯を爆撃焼燼し、以て其の戦意と戦闘カとを消滅せ
 しめんとするのが、輓近に於ける各国戦術の趨勢であることは、国民の斉しく熟知せるところであ
 る。仍て、国防上の必要から、秘密保護の徹底を期するために、軍機保護法が改正せられたことは、
 時節柄まことに適切有效なものと思はれる。
(ニ) 平時に於ても亦戦時に於ても、人を不安に陥れ又は人心を惑はすべき虚偽の事実を言ひ触ら
 し、又は根拠なき風説を流布したる者は、警察犯処罰令第二条第十六号に依りて、三十日未満の拘
 留又は二十日未満の科料に処せられるのであるが、戦時又は事変に際し軍事に関して、虚偽の事実
 を言ひ触らし又は真偽の程も分らぬ所謂根なしごとを言ひ触らした場合には、軍人たると常人たる
 とを問わず、陸軍刑法第九十九条又は海軍刑法第百条に依りて、三年以下の禁錮に処せられる。蓋し、
 戦時又は事変に際し軍事に関して、虚偽の情報を伝へ、又は無根の風説を流布するときは、聞く者
 をして不安に陥れ又は恐怖の念を起さしめるのみならず、士気を阻喪せしめ又は軍をして不必要な
 る警戒を為さしめ、時には作戦の計画を誤らしめる虞が生ずるからである。若し斯る造言飛語
 為す者に於て、敵国に軍事上の利益を伝へ又は帝国の軍事上の利益を害する目的を有するならば、
 刑法の外患に関する罪の規定の適用を受けて重く処罰されるであらう。這般の事変の当初に於て、
 最も箸しい造言飛語は、応召忌避が憲兵のために銃殺されたと謂ふこと、徴発された軍馬数百頭
 が支那人のスバイの為に毒殺されたと謂ふこと等であるが、これ等は孰れも全然事実無根の風説で
 あるに拘らず、全国に亙りて流布されたる事実に徴するも、戦時事変に際しての造言飛語は、其の
 伝播力が如何に大なるものであるかを立証してゐる。
(三) 這般の事変に際し、軍の行動に関する事項を新聞紙に掲載することは、陸軍省令及海軍省令に
 依つて制限禁止を受けてゐるから、若しこれ等の命令に違反して軍の行動に関する事項を新聞紙に
 掲載するならば、新聞紙法第二十三条に依り、内務大臣から其の発売頒布の禁止及差押の処分を受
 けるのみならず、更に同法第四十条に依り、其の発行人及編輯人は、二年以下の禁錮又は三百円以
 下の罰金に処せられるであらう。現に動員応召者の所属聯隊名其の他軍の行動を推知せしめるやう
 な記事を新聞紙に掲載したために、処分を受けたる者の数は相当多い。
 要するに右の如き犯罪を防止せんが為には、軍事上の機秘密を秘匿せんとする国民の愛国的精神
昂揚することの必要を強調せんとするものである。
(四) 軍事の機密に関する文書図書を出版するには、行政官庁の許可を受けることを要し、若し許可
 を得ないで出版するならば、前同様其の発売頒布の禁止及差押の処分を受けるのみならず、出版法
 第二十八条に依り、其の著作者及発行者は、一年以下の禁錮又は二百円以下の罰金に処せられるで
 あらう。
(五) 這般の事変勃発以来、所謂時局を喰ふ者、即ち事変を利用して悪事を働く者の犯罪が相当数発生
 してゐる。例へば、応召せられたと詐りて無銭飲食を為し又は餞別や帰郷の旅費を騙取する。国
 防献金又は出征将兵慰問の美名を藉りて寄付金を騙取する。出征将兵の家族を装うて慰問金を騙取
 する。支那からの避難者なりと詐りて金品を騙取する。国防献金を横領する。其の他諸種の事例が
 沢山ある。殊に出征者留守宅に忍込んで窃盗を為し、又は出征者の遺族から金員を騙取するが如き
 に至つては、実に言語道断である。斯る犯罪を予防し、以て出征将士をして後顧の憂を無からし
 むることは、銃後の国民としての責務であらふと思ふ。
 終に、国民が普く遵法週間の趣旨をよく理解し、且司法部に対する認識を深めて、能く協カを致さ
れんことを切に希望する次第である。