大陸戦線の現況 大本営陸軍報道部

支那大陸の戦況

 今春開始された支那大陸に於ける河南作
戦に引続いて長沙の作戦、衡陽の攻略戦
と、それから更に湘桂鉄道に沿うて、現在
大進撃作戦が行はれてゐる。これに呼応し
て九月上旬、南支方面の我が部隊は西江の
両岸地区、および雷州半島方面から重慶
の第七戦区に対して進攻を開始して、目下
丹竹、梧州の線に進出して、なほ進撃中
である。また浙江省の金華附近から行動
を開始した我が部隊は、九月九日に温州を
攻略、さらに他の部隊は十月四日には台
湾の対岸にある要衝福州を攻略した。温
州、福州ともに支那沿岸における重要なる
地点である。
 この地上作戦の勝利に呼応して我が航空
部隊は、敵の航空勢力の撃摧に甚大な戦果
を収めてゐる。その中でも十月七日夜、我
が航空部隊は成都附近に終結してゐた米空
軍を急襲し、判明した戦果だけでも四十四
機以上の敵機を炎上撃破するといふ大打撃
を与へた。
 わが支那大陸の作戦に関して、リスボン
発の電報によれば、米国太平洋艦隊司令長官
ニミッツは九日の新聞記者団との会見で、
支那戦線に於ける日本軍の成功を深刻に憂
慮して、次の通り言明したといはれる。

「東南支戦線における日本軍の進出は極
めて重大な事態を生起せいしめずにおくま
い。もしも日本軍の進出を阻止できなけ
れば、同方面における米軍将来の作戦は
大きな困難に逢着しよう。少くとも日本
軍の新作戦の結果、米軍は支那大陸に基
地を得るに一層の困難を感ずることとな
らう。しかるに米軍は、日本本土に対す
る強力な航空兵力の攻撃を可能とするた
め、支那大陸に是が非でも足場を入手し
なければならないのだ。」
といふふうに言つてゐる。これは我が軍の
大陸作最の成功を裏書きしたものである。
 そこで、この機会に支那邪における敵の有
様を観察してみよう。現在皇軍が支那大陸
で戦つてゐろものは三つある。その第一が
重慶軍、第二が延安軍、第三は米空軍であ
る。この三つのものが持つてゐるところの
特異性、ならびにその関連性を考へると、
支那の作戦といふものが非常に複雑である
といふことが分ると思ふ。

重慶軍

 重慶の正規軍は一口に約三百万三百箇師
といはれてゐる。この三百万が第一戦区から
第九戦区まで分れてゐる。このほかに衛立
煌を長とする雲南遠征軍と鄭洞国を長とす
るインド派遣軍がある。重慶軍は四月以来
の我が作戦で第一戦区、第六戦区、第九戦
区の主力と、引続く今回の作戦で第七戦区
の主力を逐次壊滅されてゐる。
 次ぎに重慶軍の坑戦力をみると、これは
事変勃発以来、逐次低下しつゝあることは確
かであるが、しかし最近見逃すことのでき
ないのは、重慶軍が米式化したといふこと
である。すでにインド派遣軍の数箇師は完
全にアメリカの新鋭武器を以て近代化され
たが、最近は単に装備の近代化といふこと
ばかりでなしに、教育、訓練もまた米式に
なつてをり、これらを従来の重慶軍に比べ
ると、四倍にも五倍にも相当する戦力を持
つてゐる。昨年の末以来、ビルマのフーコ
ン地区に出て来て、ビルマの北方で我が軍
と戦ひ続けてゐる重慶軍は、従来の重慶軍
には見られないところの装備を持ち、教育
を受けてゐるので、従来の重慶軍の四倍、
五倍の戦力を持つてゐる。
 雲南遠征軍もまた米式化されてをり、従
来の重慶軍に倍する戦カを持ち、これが怒
江正面に向つて来てゐる。重慶は米国の援
助を得て、本年末までには更に数十箇師
の米式近代的の整備化はかつてゐる。も
しも藉すに時日を以てするならば、重慶軍
の米式化はアメリカの飽くなき援助の下
に、着々実現するであらうと思はれる。
 実際、一般の重慶軍と雲南遠征軍、イン
ド派遣軍とを比較してみると、そこに相当
の開きがある。例へば迫撃砲にしても、重
慶軍では一箇師で約三十門持つてゐるとい
はれてゐるが、雲南遠征軍は約八十門「イ
ンド派遣軍では杓百五十門は持つてゐると
みられてゐる。また野山地も一般の重慶軍
は持つてゐないが、雲南遠征軍は十二門、
インド派遣軍は四十八門といふふうに装備
されてゐるといふことである。だから、こ
の重慶軍の米式化といふことは非常に大き
な問題になるわけである。

 地上軍の米式化とともに、こんどは空軍
の米式化といふことが起つてゐるが、これ
については後で空軍のところで述べること
にしよう。

延安軍

 それから延安軍であるが、これは毛沢東
の指揮下にあつて、延安に本拠を持つてゐ
る。反蒋政権の形態を示して、事実上、重
慶とは全く別個の存在である。正規軍は約
二十五万の兵力を擁してゐるといはれてゐ
る。このほか正規軍でない者が約百万ぐら
ゐはあるといはれてゐる。そして抗日の前
には重慶と合作して狂奔してゐる。しか
し、この重慶と延安軍との相剋は依然とし
て続けられてゐる。
 延安軍が発生したのは昭和二年で、江西
省の瑞金に政府を樹立したが、蒋介石から
数次に亘つて討伐を受け、遂に昭和十年、
ニ万五千支里を落ちのぴて陝西省にはいつ
た。たまたま昭和十一年の末に西安事件が
起き、この時に蒋介石と抗日の目標のため
妥協を遂げ、昭和十二年支那事変勃発とと
もに正式に重慶と合作して、抗日戦に参加
し、今日のやうに大きくなつていつた。
 このやうに延安政権と重慶とは本質的に
相容れないにもかゝはらず、抗日のために
やむをえず妥協してゐる。しかし、延安政
権が次第に大きくなつてくるので、蒋介石
は努めてこれを阻止しようとして十八年の
五月、コミンテルンの大会開催の時にこれ
を強要した。そのためにアメリカ勢力がそ
の中に介入してきたともいはれてゐる。

米空軍

 アメリカは戦略上、支那の人的資源と地
理的資源との活用を狙つてゐる。その最も
端的な現はれが米空軍である。
 独ソ開戦によつて、ソ連の勢力が西欧に
向ふや、好機逸すべからずといふわけで、
昭和十六年の六月末に戦闘機数十機、隊
員百二十名を擁する米英義勇志願兵を設
置した。次いで昭和十七年六月にこれを正
規空軍部隊として、第二十三追撃隊といふ
ものに改変、在印空軍に隷属せしめて戦力
の増強を図つた。これが昭和十八年の三月
には、独立して第十四航空隊といふもの
になつた。さうしてコンソリデーテッド
B24、つまりリペレーター重爆撃機の入手
を契機として、戦力は頓に増強し、逐次重
慶軍を指導して反攻も活発化し、その攻撃
区域は台湾にまで伸びてきた。特に敵は潜
水艦作戦と連繋して支那近海、ならぴに揚
子江において交通遮断を行つたのである。
 最近アメリカはますます重慶空軍を掌握し
ながら、航空基地の整備、燃料の補給、兵
力の増強を行つて、支那を基地とする反攻
に狂奔してゐる。
 この在支米空軍の兵力は、どんなものか
といふと、十月の上旬において、純粋の米
空軍が三百機余、米支聯合のものが百五十
機くらゐ、重慶軍は約百二十機であるとい
はれてゐる。このうち米空軍と米支聯合空
軍で米第十四航空隊を編成してシェノート
が指揮してをり、そのほかに最近本国から
派遣されたラメイを長とする第二十爆撃隊
といふのがある。これは大型飛行機B29が
百五十機内外で、支那大陸に活躍する敵空
軍は合計七百機以上になろであらう。
 太平洋方面の戦局に呼応しての空中反攻
と、日本本土空襲に対しては、依然楽観を
許されないが、しかし、我が空軍連日の痛撃
による損耗、殊にこんどの大陸の進攻作戦
による痛手によつて、その活動が非常に制
約されてゐる。
 こんどの作戦のもたらす影響で最も大き
なものは、敵空軍に与へた影響で、わが強
力かつ迅速な進撃によつて、敵の東南支那
航空基地群は、その必死の抵抗にもかゝは
らず相次いで崩壊したことである。
 すでにわが軍に占領されたものでは、長
沙、湘潭、衡陽、耒陽、醴陵、同県、全県、
悟州、宝県、丹竹の基地があり、なかでも
対日総反攻基地として鋭意努力してきた航
空要塞化の完成する前に、その中枢である
桂林基地を九月中旬に放棄するやうになつ
たことは、非常な痛手であると思ふ。さら
にまた孜々営々、粒々辛苦してきた粤漢線
以東の敵の飛行場基地群は無力化するにい
たつた。これによつて敵の対日反攻航空態
勢は非常な痛手をうけた。敵が現在実施し
てゐる航空進撃作戦に対する態度は、決し
て軽視を詐さぬものがあるが、その使用基
地の大部分を失つた現状では、非常な不利
になつたわけである。
 航空作戦の複雑さは、一口にはいへない
が、たゞ飛行場だけでほ駄目で、この飛行機
の前方に情報の網を持つてゐなければいけ
ないのである。この情報を入手する地点を
失ふといふことは、飛行場の活躍を妨げる
といふことになる。わが進撃によつてだい
たい主要な飛行場や情報基地の大半は抑へ
られたわけでこれらの影響は東南支那空
軍の必然的、また全面的の敗退といふこと
となる。このやうに敵米重慶軍をして決定
的の敗戦させることになつた東南支
那戦は、まことにその意義重大である。
 要するに支那においては、敵在支米空軍
の勢力拡張、支那正規軍の米国式教練の徹
底による重慶軍の戦力増強、支那における
日本軍の作戦行動の飛行機による妨害、惹
いては支那を足場とする日本本土空襲の野
望達成のため、支那の各所に飛行場を設け
て一大航空要塞を形成し、これを利用して
日本に対し、あらゆる企図を以て反攻せん
としためであるが、わが勇猛果敢な先制攻
撃は克くこれを制してゐるわけである。
 なほこゝに附加へたいことは、初めに述
べたやうに十月七日の夜、敵の成都飛行場に
対し先制奇襲攻撃を行つて多大の戦果を収
めたことである。従来、敵はインド方面を
基地にB29が出撃、成都を中継基地として
日本本土にやつてきた。それを今までは、
九州八幡とか、満洲鞍山上空とかで撃墜
し、またその帰路においてこれを叩くとい
ふ戦法を採つてゐたけれども、こんどはま
さにB29が我が本士に向つて空襲しようと
して成都飛行場に待機してゐた出鼻を叩
き、これを大量に屠つたといふことで、特
筆に値ひするものである。
 このやうに支那大陸では、引続き敵空軍
に打撃を与へてはゐるが、依然として敵空
軍は優勢で、こちらは常に少い飛行機で、
あれだけの大きな戦果を挙げてゐる。
 古来わが国は寡を以て衆を制すといふ皇
軍独特の戦法で、常に圧倒的優勢な敵に対
し勝を占めてゐる。成都の先制空襲の如き
その現はれである。しかし、これがために第
一線の将兵、航空部隊の粒々辛苦をを積
んでゐるのである。われわれは一層優秀な
る飛行機の増産をはからねばならない。

ビルマ方面の戦況

 次ぎにビルマ方面の戦況であるが、敵は
ビルマ奪還、ビルマ・ルートの再開をめざし
て反攻し来り、われはこれに先制攻撃を加
へ、インパール地区では正にインパール陥
落近しと見えたのであるが、現在この方面
は戦線を整理し、時期作戦を準備中であ
る。
 なほ、皇軍は北部ピルマ、怒江正面でも
勇戦敢闘中であつて、その壮烈なる戦闘
の状況は、さき頃大本営で発表されたミイ
トキーナ、拉孟、騰越各守備隊の鬼神を哭
かしむる戦闘によつても分るのである。
 本年中には是非ビルマ公路を奪回するの
だといつてゐた敵をして、今日に至るまで
未だこの目的を達成せしめず、むしろ最近
はアンダマン、ニコバル方面からマライに
出た方がよいなどといはせるに至つた。ビ
ルマ作戦の意義、価値は高く評価せらるべ
きである。また敵のビルマ公路啓開が遅れ
てゐることは、わが支那大陸作戦の遂行を
容易ならしめてゐるといへよう。
 なほビルマの各戦場で敵が失つた人的損
害は特に多大で、英印軍だけでも二十数万
の損害を出したと構してゐる。

敵機、防衛要線に来襲

 十月十日約四百機の敵機は南西諸島中の
沖縄島、宮古島、奄美大島などに来襲し、
引続き十二、十三の両日には台湾に優勢
なる敵機が来襲した。わが所在部隊の敢闘
により、それぞれ敵に多大なる損傷を与へ
たが、敵の将来の企図に対しては、厳戒を
要するものがある。