テニヤン、大宮島の血戦記   大本営海軍報道部

 サイパン島全員戦死の悲報未だ一億国民の耳底に万雷の轟音を喚びつゝある
時、今また我々は大宮、テニヤン両島全員戦死の発表に慟哭せねばならなかつ
たのだ。さきにアッツ島あり、ギルバート島あり、マーシャル島あり、サイパン島
あり、そしていま更に大宮島、テニヤン島あり、かくて我々は六たび全員戦死
の報道を聞かねばならぬとは、何たる悲憤、何たる痛恨ぞ。我々は大宮、テニ
ヤン両島において壮烈なる戦死を遂げた皇軍将兵、ならびに一万五千の在住
同胞の英魂に対し、こゝに襟を正して心から冥福を祈るとともに、その激しか
つた戦闘の足跡を国民諸君とともに凝視し、断乎報仇の決意を新たにしたい。

テニヤン島の奮戦

七月二十四日 午前五時頃、敵は多数の艦
艇掩護の下にテニヤン港正面から約四十
隻、西北岸から百四十余隻の上陸用舟艇を
もつて一斉上陸を企図してきた。これに対
し、テニヤン港方面においては敵戦艦一
隻、駆逐艦二隻を炎上、巡洋艦一隻を撃
破、上陸用舟挺多数を撃沈破して的を完全
に撃退した。しかし西北岸西砲台附近では
再度敵を撃退はしたが、敵は海岸一帯に亘
る大規模な煙幕を展張し、熾烈なる砲爆
撃の支援の下に、遂に正午頃には敵の一部
が上陸するに至つた。そして同方面の我が
守備部隊は、隊長以下殆んど殪れ、同日夕
刻までには第一、第四飛行場からさらにハ
ゴイケに進出してきた。その頃までに揚陸
した敵兵力は歩兵三箇大隊、戦車約三十輌、
砲兵一箇聯隊に達した。同島守備の我が主
力部隊は、同日夜半にいたり、全カを挙げ
て壮烈なる夜襲を敢行、慾払暁まで肉弾戦
を展開し敵陣地を一部奪取したが、敵を完
全撃攘するまでには至らなかつた。
二十五日 敵は依然として猛烈な砲爆撃を
続行し、さらにサイパン島から続々と増援部
隊を上陸させ、遂にその兵力は一箇師団に
も達した。そして同日夕刻にいたるや、戦
車を伴ふ敵は飛行場西側の断崖を越えて日
出神社附近にまで進出してきた。これに対
し我が軍は、前夜に引続き再び凄惨なる夜
襲を強行したが、敵の照明弾に妨げられて
所期の目的を果すことができなかつた。
二十六日 払暁までに我が部隊は、サバネ
タバスよりマルボ北方に亘る線において敵
を邀撃すべき態勢を整へたが、敵の前進す
こぶる遅々たるにも拘はらず、敵の砲爆撃
の物凄い鉄量のため、我が方の損害はます
ます増加するのみであつた。このため
二十七日 夜さらにカロリナス高地周辺地
区に戦線を再整理し、最後の攻撃を敢行す
べくその時機到るを待つた。越えて
三十日  敵は第三飛行場附近に進出し来
り、敵機は常時三十機以上が在空し、また
サイパン島よりする砲撃もいよいよ熾烈を
極めるに至つた。
三十一日  早暁、我が部隊は敢然攻撃に
転じ、マルボイドー第三飛行場南側で激戦
を展開、血戦死闘の白兵戦は夕刻まで続け
られ、敵に多大の損害を与へたが、我が方
の死傷もまた続出した。かくて将兵の命数
既に定まりたるをもつて、傷重くして立つ
能はざる者は悉く自決し、生存将兵一団と
なり敵陣へ最後の突撃を敢行したが、
九月二十七日 頃までに全員壮烈なる戦死
を遂げたるものと認められる。八月三十一
日夕刻最後の総突撃敢行の前に、同島最高
指揮官より齎らされたる報告の実に平静且
つ謙虚にして奥床しきことか。

「将兵の勇戦にも拘はらず遂にテニヤン
 守備の重任を果し得ず、光輝ある軍旗と
 共に最後を飾らんとす。茲に謹みて御詫
 申上ぐると共に長期に亘る懇切なる御指
 導と激励とに対し深甚なる謝意を表す。
 最後に遙かに御皇室の彌栄と帝国の隆昌
 とを切に祈念す。」

あゝ大宮島の最期

七月二十一日 早暁、大宮島上陸を試みた
敵兵力は、明石湾に航空母艦数隻、戦鑑、
巡洋艦、駆逐艦等約三十隻、輸送船六十隻
以上であるが、まづ空、海面よりする熾烈
な砲爆撃の掩護の下に、水陸両用戦車約百
五十輌と上陸用舟艇約二百隻を浮かべて一
斉に接岸し来つた。これに対して同方面の
我が守備部隊は本田山砲兵陣地からの砲撃
と相呼応し、敵上陸軍に莫大な損害を与へ
珊瑚礁の線に釘付けにしたのであるが、敵
は多量の兵力を後続せしめ、遂に正午頃に
は上陣を強行したのである。
 また昭和湾方面においては、同日朝八時
頃に水陸両用戦車五十輌と上陸用舟艇二百
隻以上をもつて上陸を開始してきた。これ
を邀撃した我が部隊は、敵戦車三十輌を
擱坐炎上せしめるとともに舟艇多数を撃沈
破したが、午後には敵は半くも海岸線から
二キロの地点にまで進出してきた。
 かくて同日夕刻までに上陸した敵兵力は
明石湾、昭和湾両地区を合せて二箇師団以
上とみられる。我が部隊は夜に入るや、両
地区、時を同じうして果敢なる夜襲を決行。
一時は見晴岬附近の海岸まで突進したが、
敵の猛烈な艦砲射撃に妨げられて遺憾なが
ら敵を敢然撃攘するには至らなかつた。
二十二日  にも敵の上陸は続行し、敵機は
常時五、六十機をもつていよいよ猛威を逞
うした。
二十四日 敵はさらに黒浜附近に上陸せん
としたが、須磨附近守備の我が部隊は、ま
づ第一回は上陸用輸送船二隻、水陸両用戦
車二十輌以上をもつて突進し来つた敵輸送
船一隻、戦車十一輌を撃沈し、第二回は上
陸用輸送船二隻中の一隻を炎上せしめて、
敵を完全に撃退し、さらに湾内に碇泊中の
一万トン級輸送船に砲弾二十七発を命中、
火災を起さしめこれを遁走せしめた。
 ところが昭和湾方面の敵は、二十四日夕
刻までに有羽山、天上山の線に進出し、敵戦
車は有羽山の我が陣地を突破して、さらに
その東方にまで進出してきた。須磨地区の
守備隊は半島狭隘部の飛行場を確保して
また明石湾方面の我が軍は奮戦よく敵の進
出を阻止したが、敵機の跳梁いよいよ激
しくなり、六月十一日以来二十四日までの
卒襲艇機数、実に七千機以上におよぴ、我
が部隊の行動は非常に困難となつた。
二十五日  夜に至り我が軍は総力を結集し、
陸、海軍一体となり、敵上陸部隊の主力を有
する明石湾方面の敵を蹂躙し、明石湾西方
およぴ明石湾附近まで突進したが、敵の砲
爆撃物凄く、有羽山附近から転進した我が
部隊は、太郎港から本田山附近までの僅か
十五キロを前進するのに二昼夜半も費した
ほどである。そして敵上陸以来、本田山地方
高地を死守してゐた石井中隊は、敵軍怒濤
の来攻を防ぐ楯となり、敵兵約一千名を殪
し、中隊長以下僅か十数名となるもよく任
務を完うして赫々たる大戦果を挙げた。
 また表半島基部にあつた我が部隊は、こ
の攻勢に相呼応して、天上山附近を経て茶
屋川附近の我が部隊主力の位置に向ひ、敵
中を突破して進撃したが、この激戦におい
て我が方戦力もまた著しく低下するに至
つた。しかしこの敵中突破に当つては、オ
ロテ飛行場方面にあつて我が航空部隊と設
営隊の勇士達が爆弾を背負つて敵中に突
入、自らの肉体を爆砕して漸く敵大軍突破
の血路を開くことが出来たのである。
二十六日 敵は我が兵力寡少なるを知り、一
戦車を先頭に全線総攻撃に出で来りバラサ
オ、リリカントソ及び同南方高地に突入し
来ると同時に、トコヘリ高地にも逐次侵入
してきた。
二十八日 には本田山南方高地までも敵戦
車が現はれるに至り、戦況は頓(とみ)に酷烈とな
り、我が部隊の火砲は僅かに六門を残すの
みとなつた。よつて我が部隊は同島北部の森
林地帯を利用して持久戦を策するに決し、
二十九日 夜に入るを待つて転進を開始
し、三十一日夕刻までには春田山南地の線
に我が戦線を整理したのであるが、敵上陸
以来マンガン山にあつて奮戦、、敵の進出を
喰止めてゐた加藤砲兵部隊は、この転進に
あたり最後まで要点を拠守して我が部隊の
行動を容易ならしめた後、火砲と運命をと
もにして悲壮なる最後を遂げたのである。
八月三日 には戦車約三十輌を伴ふ敵部隊
が我が陣地に肉迫し来り、この頃から我が
部隊の指揮、連絡、補給は全く困難とな
り、遂にイパパオ(?)以西の地域に戦線を整理
するのやむなきに至り、越えて五日には、
既こ戦線錯綜、紛戦状態となつた。
七日 又木山の我が部隊司令部附近に集
結し得た戦ひ得る将兵は、陸海軍合せて僅
か二百名に過ぎず、しかも既に一門の火砲
とてもなかつた。同夜重傷にして立つ能は
ざるものは、天皇陛下万歳を奉唱しつゝ
潔く自決した。
八日 夜半に入るや、最高指揮官自ら白
刃を翳(かざ)して陣頭に立ち、又木山南方三叉路
附近の敵群中に最後の突撃を敢行した模様
で、爾後生存者は五旬の長きに亘り各局地
に遊撃戦を敢行したが、
九月二十七日 頃までに陸海軍全員壮烈な
る戦死を遂げたものと認められる。

尊き「時」に応へよ

 敵の圧倒的な物量攻撃に対し、我が将兵
は寡兵くこれに対抗しつゝ、しかも常に
冷節を失はず、火と燃え熾る闘魂を抱き
「月余に亘る砲爆撃下、惨烈の極所に立つ
も、なほ朝夕軍人勅諭を奉誦する将兵の声
は凛々として樹間に木霊して神霊に触るゝ
感あり」と打電された最高指揮官の報告
の如何に崇高にして力強きことか。また
「 大元帥陛下の我等将兵に垂れさせ給ふ
大御心に対し奉りては只々感泣の外なし。
皇國の必勝を確信し、最後の一兵に至るまで
敢闘を続行せんことを期す」との報告こそは
我が軍人精神を遺憾なく発揮せるものであ
り、同時に銃後一億国民の反覆熟読すべき
言葉である。
 かくて大宮島における二箇月の奮戦が作
戦全局に重大なる貢献をなしたことはもと
より、銃後生産部隊に対し二箇月といふ貴
重な「時」を与へたことは我々の銘記すべき
ところである。「当部隊の苦闘が作戦全局
に大なる寄与をなしつゝあるを聞き、光栄
これに過ぎず、死所を得たるを悦ぶ」と最
高指揮官は報告してゐる。
 前線将兵がかくの如く常に喜んで戦死さ
れてゐるとき、もし万一にも銃後の職域にお
いて一人でも戦争怠業者があつたならば、
その罪まさに万死に値ひするのだ。
 最後に我々の瞠目すべきことは、テニヤ
ン島における一万五千名、大宮島における
五百名の我が在住同胞もまた悉く皇軍と運
命を共ににして全員悲痛なる最後を遂げたこ
とである。テニヤン島においては、老幼婦
女子に至るまで皇軍に協力し、特に十六歳
から四十五歳までの青壮年男子約三千五百
名は進んで義勇軍を組織し、数箇部隊に分
れ皇軍に配属され、皇軍と渾然一体となり
勇戦奮闘戦死を遂げたのである。

決戦刻々に肉迫す

 アンガウル島ならぴにベリリュー島に上
陸したニミッツ機動部隊は、今やパラオ、
ヤップの西カロリン諸島を制圧して比島へ
の物量攻勢を企図してをり、さらにまたビ
アク島占領をもつてニューギニア西進作戦
の終止符を打つたと豪語するマックアー
サーは、今や既にモロタイ島に上陸し、ア
ラフラ海を越えて比島への帰り道を急がん
としてをり、かくて我が南方作戦の拠点で
あり生命線である比島は、今や日米決戦の
劃期的戦場として選ばれるに至つたのだ。
 皇紀二千六百年の歴史と伝統に輝く我が
国家、我が民族がいよいよ驕敵を撃滅する
か、或ひは地球上から抹消されるかといふ
危急存亡の最後の関頭に直面したこの際
に大宮島、テニヤン両島における全員戦
死の尊き血と肉の犠牲において、一分一秒
をも渇求する銃後生産人に対し、二箇月有
余といふ莫大な「時」を齎らしたことは全く
特筆大書すべき赫々たる戦果であらう。
 決戦は満を持する皇軍の不気味な沈黙の
裡に、今や眼前に刻々と肉迫しつゝある
秋、我等はマリアナ諸島を鮮血に染めて散
つた幾多皇軍将兵と在住同胞に対し、深甚
なる感謝を捧げるとともに、それら幾万の
英霊に応へるためにも、今こそ一億国民最
後の死力を結集せねばならぬ。