人骨弄ぶ敵の本性
        かゝる民族こそ抹殺さるべきである

 チューリヒ八月二日発の同盟電は、二つの驚くべき事実を我々に伝へてきた。
 一つは、最近敵米国内において
 「太平洋戦線に出動中の米国兵から「記念品」として戦死した日本兵の頭蓋骨が送られ、子供がこれをおもちやにしてゐる」
といふことであり、もう一つは、ペンシルベニア州選出下院議員フランシス・ウォルターが、同じく「太平洋戦線で戦死した日本兵の前膊骨で作つたペーパーナイフ(紙刀)を「甚だ小さい部分で申訳ないが……」といつてルーズベルトに贈呈したといふ事実である。
 この二つの事実から推しても、かういふことが米国内で恐らく相当行はれてゐることは疑ひない。
 流石に敵米国内でもこれは問題となつた。ミズリー州のカトリック教司教管区の機関紙レヂスターが、米国民一般の背徳心を非難して
 「死体の冒涜を禁ずるのは教会の掟である。死後人間の身体に対する礼儀として、頭蓋骨は適当に埋葬されねばならない。敵国人の身体の一部であるか、どうかによつて区別されるべき問題ではない」
と述べ、そのためにこの事実が明るみに出たのである。
 一体、敵米国人は人間といふものをどう考へてゐるのであらうか。人骨を弄ぶ、かういふことは、我々日本人の常識では考へられないことである。
 我々はどの戦線においても、敵の死体は手厚く葬つて来た。墓標を建て、花を供へ、供養もする。昭南にも、マニラにも、戦死した敵兵の墓標があり、慰霊祭さへ行はれてゐる。
 これは教会の捉にあるから、さうするのでもなければ、赤十字条約で「死者が敬意を以て埋葬せられ、その墳墓が尊敬せらるべきこと」を約束し合つてゐるからやるといふのでもない。万物の霊長たる人間の人間に対する礼儀であり、道義である。
 人骨を以て紙刀を作るに至つては論外である。水牛の骨か鹿の角で紙刀を作る位にしか考へてゐないのであらう。恐るべき人間の人間に対する冒涜である。
 成程、米国人は、立派な機械や優れた物質を産んだかもしれないが、人間の道義といふものを持つてゐない。人間の尊厳といふことを自ら放棄してゐるのであらう。
 口に人道を称へ、博愛を称へ、白人を世界至高至善の民族と思ひ込んでゐるかもしれないが、彼アングロサクソン民族の本性はこゝにあることが分つた。彼等のなすところ、行ふところは、かくの如くである。彼等は黒人を動物といふ。日本人を猿と好んでよぶのは、自らが畜生であり、畜生道を以て人間を律してゐる証左でもある。
 この敵米国人の獣的人間観と野獣的行動は、決して今に始つたものではない。建国以来の彼等の正体である。彼等の建国の歴史も、原住民鏖殺の残虐の血によつて彩られ、東亜侵略の歴史も彼等の獣性の発揮で築き上げられたのであつて、大東亜戦争以来も、珍らしいことではなかつた。
 あのガダルカナル戦線において、我が将兵は彼等のためにどんな冒涜を受けたことか。重傷で倒れた戦友は戦車で押しつぶされ、素つ裸にして逆さに生き埋めにされた者もあつた。しかも彼等は、これらをスポーツの如く、また日常茶飯事の如く平然とやつてのけ得るのである。
 彼等はその獣性をいよいよ発揮し、こゝに及んだのである。そしてわが前線将兵並びに在外邦人に襲ひかゝり、神州を抹殺せんとしてゐるのである。
 かゝる民族を世界にのさばらしておいたのではどういふことになるか、思ひ半ばに過ぎるものがある。
 敵は「日本民族を地球から抹殺すべし」と呼号してゐるが、世界人類のために、神意により、抹殺されるべきはかゝるアングロサクソンの畜生どもである。
 我々は敵の野獣性をよく肚に入れて、この聖戦を戦ひ抜き、世界人類のために断じて勝たねばならない。                           (「週報」第407号 1944.8.9)