第四〇六号(昭一九・八・二)
   太平洋戦局の実相         大本営海軍報道部
   学童疎開問答(上)

 

学徒疎開問答 (上)

 戦ひの場に一抹の女々しさもあつてはならない。
少年正行(まさつら)は年歯(ねんし)僅か十一にして桜井の駅に父正成(まさしげ)の言葉に従ひ、健気(けなげ)にも恩愛の袂(たもと)をわかちて武士の子の道を歩んだ。
 いま一億ひとしく戦ひの場にのぞみ、楠公父子の尽忠を己れの心として起つ。われらにまた何の女々しさがあらう。時に冷厳として恩愛の袂をわかつて戦ひの道をゆかねばならないのだ。
 全国主要都市に学ぶ幾十万の子等とその父に母に、今それが要請されてゐるのだ。予期せられる空襲への防備態勢を完成するために、さらに皇國を継ぐ若木の生命を、いさゝかなりとも傷つけ失ふことなきを願ふ国家の大愛のしるしとして実施される学童集団疎開である。
 父も母も子も、欣然、昭和の楠公父子となれ。こゝに餞(はなむけ)として疎開問答を贈る。

なぜ疎開せねばならないか

問 まづ順序として、なぜ学童を疎開させるのかといふことからお話願ひたいのですが。

答 学童の疎開は単に、都市民が大都市を防衛して戦力増強に邁進できるために必要とするばかりではなく、実に教育上の見地からもぜひ実施しなければならないのです。いふまでもなく学童は国家の後楯で、国家を興隆させる源泉をなすものですから、学童を安全な場所に保護しながら皇國民錬成の基礎教育をすることは極めて必要なことです。
 現在、国民学校の高等料や中等学校以上の学徒は勤労に挺身し、生産の増強にはげんでゐるのですから、国民学校の初等科の教育こそは決戦下において、出来る限り十分に行つて、立派に次ぎの時代を背負ふに足る基礎を養つておかねばならないのです。そこで政府では多額の経費を費しても学童の疎開を実施し、学童の保護と教育に支障のないやう万全の策を樹てることになつたのです。

集団疎開の意義

問 特にこんどは、ばらばらに縁故先などを頼つてゆく疎開ではなく、集団的に疎開することに力を入れてゐるやうですが、この集団疎開はなぜ行ふのですか。

答 地方に親戚等があります場合は、縁故疎開が出来ますが、縁故先のないものはそれが出来ません。しかし縁故先がないからといつて次代を担ふ国民を放つておくわけにはゆかないので、縁故先がないとか、あつても疎開が出来ない者を学校で集めて、集団疎開をすることとなつたのです。

疎開する学童の範囲

問 国民学校の初等科一、二年生は連れてゆかないといふことですが、むしろ一、
二年生こそ防空上、手足纏ひとなるので疎開させねげならないと思ふのですが・・・。

答 ご尤もなことです。もちろん連れてゆければ連れてゆきたいのは山々なのですが、たゞ一、二年生は、今までやつた林間学校の経験等から考へても、集団生活に適しないことが明らかとなつてゐるので、やむを得ず一応これを除いて、だいたい集団生活ができる三年生以上六年生までといふことにしたのです。

問 三年生以上の者でも体が弱いとか、その他の事情から集団生活に適しない者があるわけですね。さういふ者はどうするのですか。

答 身体が非常に弱い者、或ひはトラホームといふやうな伝染性の病気をもつてゐる者、或ひはひどい夜尿症や偏食の者は、どうしても周りに迷惑をかけることになりますので、除くことになつてゐます。

問 するとさういふ虚弱者等はどうすTればよいのでせうか。

答 適当な縁故先があつたら、そこに疎開し、また伝染性の疾患はなるべく早く治すことが大事です。

問 虚弱児童ばかり集めて期間の長い林間学校式のものをやつたら如何でせうか。

答 別に今そのことについては考へてゐませんが、ゆくゆくは考へられてもよいことでせう。

疎開する学童の数

問 いつたい疎開する学童の数はどれ位あるのですか。

答 京浜、阪神、北九州、名古屋の防空四大地区全部を合せると、三年生から六年生までの学童数は約百万人ですから、虚弱児童等の疎開の出来ない者を除いても、これらの地区から疎開地に出てゆく学童の数は実に大きなものとなりませう。帝都だけについてみても、すでに疎閑してゐる学童を除いて四十七万人ある疎開該当学童のうち、縁故疎開によつて出るものが約十二万、集団疎開の希望は二十六万ですから、残るものは僅か九万といふことになるわけです。

問 大したものですね。ところで疎開する手続等はどうすればよいのでせうか。

答 疎開したいときは児童の保護者新から学校に申出ればよいのです。

疎開先は

問 疎開先はどんなふうに決つたのですか。

答 京浜地方の場合は一応、東京都下
の郡部むはじめ、千梨、均玉、茨城、群
馬、朽*、山梨、柑払、官城、山形、
新潟、長野、富山、抑伺の各都頃睨
抑の準沌は大阪、兵椰の郡部はもちろ
ん、奈良、和歌山、滋焚、京鞘捕井、
石川、烏枇、島税、岡山、旗応、香川、
徳島が考へられ、名芯尾の切合は愛知
願の郡部、岐卑、三式が竹…て込まれ、
北九州は柑岡願下の郡仙叩だけで収容で
きる見込となつてゐます。
問韮い地方も暖かい地ガもあるわけで
すね.いつたい魂閉兜の退出几條件として
はどんなことが考へられたのですか、距
離とか、食糟弔情とか、気帖帥係といふ
やうなことが一應は考巾狐に人れられたと
】恩ふのですが==。
答州水るだけは考へてゐますが、何
しろ疎閑者の教が何十〃といふのです
から、みながみな′近肘離で暖かい桝と
いふやうに、好條件が捕ふといふやう
にはゆきません。まあ受入側の牧容力
に・すふ
と、〓す方の救竿む睨合せてきめセ
と考へていたゞけばよいでせう。
問場所ほだいたいどういふ所なので
すか。
答例へば耕榊願などでは、一應、伐
道の騨から一男以内の堵桝で、なるべ
く日瑞生活にも、軌準にも佃利な土地と
いふことで決めてゐるやうです.ご承
知のやうに静阿願は餓道が梅岸線に滑
つて盤つてゐる開係から選定に少し餌
周のやうですが、混泉が多いことと、
冬が咤かな野など、兇舛の伽健上には
紹好の土地といへませう。匂堵女でに
二、三地名を申上げると、勃州粘、伊東、
長岡、修薯寺、土肥等の温泉瀕たはじ
め、沼津、御殿場、許十官、輿津、蒲
原、清水、滞伺、袋非、椒川、漬松市
郊外、雅坂等、及びその附近町柑の放
郎、寺院、別舵、錬械桝等の大きな盈
物といふやうになつてゐまn.
疎開の期同と集圏の畢位
畑\恒Lころによると、疎鞘してゐる
期間は→輯だといふことでナが==.
仙曾そんなことはありません。戦季が
}年で格るものではありませんし、偶
勢が悪ければもつと長くもなりませう
し、逆に疎印してゐる必要がなくなれ
ば一年待たずして糾ることにもなるわ
けです。要は情勢如何です.
悶筍鞠の鰐佗は苫人といふ−」とで†が、
これはどうして苫人ときめhdので†か。
答あつちにこ十人、こつちに三十人
といふのでは第「それについてゆく兜
生が足けません。そこで二腰、兇発滋十
人に兜生が一人といふことにし、宵人
と一同として、つまり光生が二人、兄
茸の身の.祖りのせ詣をする寮母凶人、
発り使ひや炊事やその他いろくな碓
用をする作仙葦貝を三人つけることにし
たのです。
悶一つの挙校で胃人襟まらない均合等
はどうするのですか。
答その堵合は同筒内の二つ或ひは
三つの堺校の兇敦で混成部隊をつくつ
てゆくわけlド一す.これは眈に帝都など
では畢校隣糾といふやうなものが糾氷
てゐて、畢校何士で他瑞を収汁らひ合
ってゐるといふことですから、究外む
づかしくないと思ひます。
お母さん代りになる寮母
問女教員はつけないといふやうなこと
を聞きましたが、これほどうなんでせ
’つ0
答女教貝kろけないといふやうなこ
とはあけ患せん。‥第丁七んなことをし
たら光先がとても足りないはずです。
問「還さん代りになる繁母にほよほど
ヽヽヽヽ
しっかりした人が浩らないと的ると思ふ
のですが。
答もちろん、戎る柁度の敦蕗をもつた
ナ伏の耐倒をみることの〓氷る人が欲
しいわけです。m水れば川人のうち一
人は有護如の仕事ぐらゐ別氷る人をお
きたいと考へてゐます。
閏さういつた揖格斉が求められればよ
いのですが==.
答名ホ軒あたりでは女子♯門畢揆に
いつてゐる如人に協カして貰ふことa
考へ、一般には宰人遁族の未亡人など
−イ榊付してゐます。拳童と疎閑してゆ
く訓坤の犬人争にも適常な人を小」める
ことが川水ませう.
閏碓榊肘†鹿の粒や婦等はどうでせう
か。
答その均人〓は壌塘を世話する上に不
け.乃′し
公やが起けはしないかといふ懸念が一
應あるのですが、しかし、足りない場
合とか、他から適滋の人を求めること
が出氷ないときは仕方がありませんか
ら、さういふ方に両倒をみて貰ふこと
も…mてくるでせう。
どんな析が宿舎になるか
閏碍令はどういふ所になるのですか.
答受人地方の壌舘、集合研、寺院、
教倉、錬成朗、別茫等の建物で、飴裕
のある斯を充てることになつてゐま
す。

08

閏旅柁はよいとして、串揺等の均合に
は和々の詔他州がいると〓心ひますが.
答りでの即に少し難があるわけですが、
例へば傾桝、炊郎場、風R竿で、柁氷
の托僻に秋けてゐる桝は念いで改蚊す
ることになつてゐますぐ
間朽舘の栂捉等は柏元の方で和也的に
やつてをられるのですね.
答それは儒をはじめ、発簑、H如、
盤、水碓舟、池瀬T、敬J防糊、抑故報団
禽、故緒糾A巷、各椰の桝槻が協力し
てゐます。h特に櫛榊肺では休懲溺娼舟H
が封小心で、ある♯院から淡ぎのや一りな
手紙が麻に瑠せら飢てゐま†。
−(前文略)先H那桝純⊥にて鞘丁瀦集幽
疎m川の紀却升見仕む拭。粍代としても
及ぷかぎり多く受入れ、湖く拙雑いたし
たきものに御棚恍0御水知の如く料山は
山巾にて、謂郷不恍にほ條へども呼局椚
これは充分忍ふこととして、一拭甫名拉
の糾引受けは可舵と心什爪枇については何乍
御調加に加川り姥恢(下仙柑)
問同じ料サ校に兄‥那がいつてゐる糊合、
一圃じ繋に人れていたゞけるといふ恍宜
はあるので一すか●
答几弟を拘じ柄令に入れることはお
茶に舶舐いことになるわけですから、
なるべく一締に心£わるやうに枇計らふ
つもりです。
必要な携行品
閏分り寸hした。ところでいょく子眺
をゆかせるとなると、純つてゆくものが
一閃迎になるのですが、いつたいどんなも
のむ【持つてゆけばよいのでせうか。舵ハ及、
カ‥甥H川品など研胡するといふやうな
ことは、とてもむづかしいとM†かのです
●、一。
カ....
答ご心配はご尤もと存じますが、持
つて伊くものは、お稚で規水使つてゐ
る屯のを、そのま1柑つてゆけばよい
のです。ご多猶までに、妃耗にこんな
ものを持たせたらといふ‖…物た駁げて
みませう。
紹那−柑珊州牌山柁、冊榊.糊」杖、
枕一件B、毛布柵V
衣糾州!・巾柁雀、下渋川、シ十ツスオ
ソ、桟又(舛)、ズロースハ女)、靴下、
足袋、伯巻、モソペイ、防察桝巾
.等
日川品−食綿、手拭、ハソカチ、
韓紙、璃刷チ、歯僻粉、水筒、コッ
プ、劫侶川妖、市鹸、布巾、碓
叶、マスク、糸、・打、揃ハ女子)、も
新‖閑紙」等
尾物−下駄、鴻利批等
その他・−敢科苫、塔〓品
かう拳げてみると、大分いろくな
E…物がありますが、しかし、こ飢だけ
!・の
佃…理に調へなければならないといふ
ことはありません。とにかく頂ち物
は川水るだけ有り合せのものとし、ま
たあるからモいつて、他の以端た茨ま
ヽヽヽヽ
しがらせるやうなも山はなるべく持つ
てゆかないやうに‥托怒していたゞきた
いものです。
荷物の強蓬や汽笹第は
拉\βいつた荷物は撃榛で舶彗て迭
つて官ヽ】るので一すか。
◆。
答壌異和朴守は〜人につきこ十杜以内
に荷過りしていたゞけば、仙轡校で蚊鍾
めて疎閑先まで迭ります。その他身の
姐晶はyュックサック一掛と風吊敷」箇
粗虔にまとめて、兇瀦に持たせて箕ふ
ことになつてゐ・ます。
閏荷池りと準棟まで‥持つてゆ〈ことほ
鬼尭の佗誠演がヤるのですね。
答さうです.なほ持つてゆく‖州物には
一つ′1に必ず名舶をつけておくや
ぅ、これだけは絶封忘れないやうにし
て下さい。
怖畢尭が疎仰地に川料ける時はみな
一描にゆくのだと思ひますが、その増合
の列帯や蓮債ハほどうなるのですか。
答特別列申を川すか、或ひは革輌の
埼結をし、鎚貨は都村願で負梅し、一
部を拘が袖助することになります.つ
まり、輿溌は解椚で疎粥地にゆけるわ
けです.
貪墟は大丈夫か
閏疎師先の企緯やその他、生満必常物
資はどうなるのでせうか.
答求、昧檜その他、配給舵制と受け
てゐる物は疎朋計・軍の進行に跡應し
て、堆拒a開拳丑川として指妃し、徒
米都肘漑で受けてゐたものをそのまゝ
受入教に剤常てることを一應原別とし
てゐま†が、櫛伺願答では発食につい
ては懸の兇瑞なみの櫻維・にして、その
代り親許を離かてきてゐるといふ鮎や
何かをL堵へて、副食物や榊食尊で〓水
るだけのこととするといふことになつ
てゐます。もちろん、刹肪仰等のやうに
一筒桝で七寸名もの大菜の人嬰鹿を受人
れる⊥、背後に生鹿地のない桝や、そ
の他伊音牛島の方巾のやうに、線迭が
不挫な朗もあるのですから、悩りに
も、地方へゆけば食べものは農寓にあ
るだらう等といふ甘い範持をもつこと
は林桝物です.
同さうすると、疎閑した壌丁尭にも、湛
んで姦の椅煎にはげんで貰ほなければ
ならないわけですわ。
答もちろん畏磯兵尊の絢係で、大が
かりなことは竺めないでせうが、地元
の繍托山轡佼の山苛川の賓磐を使つて、
茶つ来一枚でも多くとるやうに努カし
て督ハはねばなりません。
地漆農村は、いま瑠隊ヤ碑絨エ英方
桝にたくさんの努力を〓し、手不足を
かこつてゐる時ですから、使ひやう忙
ょつては、疎J閑轡瀬の力は裸想外に人
きいものになるのではないかと思ひ−謀
す。六年生にもなかは、粕常の髄力も
あり、また紫糊の力を偶りれば、案外
の什番ができるものです。
‖の盤丁取り、山H紛肥料む山作る、花めの
澱刈など、拳頚の子を待つてむる仕事
はいくらでもあります。
J一
間地方によつて穀分川凸ほできるわけ
で†ね●
筆主婆食鵜については、球糊紳に配
給してゐたものをそ山ま〜舶耕へるの
で†から、さう凹凸はできないと思つて
ゐますが、たゞ、触や野楽については
地方によつて耗分異ふことでせう。と
にかく、食鳩については仝く心配はい
らないわけです.