第四〇三・四〇四合併号(昭一九・七・一九)
   国難撃敵の好機たらしめん
   サイパン島戦闘経過
   緊急なる戦局に臨みて       東条内閣総理大臣談
   サイパン島戦訓          大本営海軍報道部
   電波兵器     技 術 院
   戦時農園問答(五)

サイパン島戦闘経過    --- サイパン島喪失に伴ふ陸海軍報道部長談 ---

大本営発表  昭和十九年七月十八日十七時

一、サイパン島の我が部隊は、七月七日早暁より全力を挙げて最後
の攻撃を敢行、所在の敵を蹂躙し、その一部はタポーチョ山附近
まで突進し、勇戦力敢闘に多大の損害を与へ、十六日までに全員
壮烈なる戦死を遂げたるものと認む。
 同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将斉藤義次、同島の海軍部隊指
揮官は海軍少将辻村武久にして、同方面の最高指揮官官軍中将南
雲忠一また同島において戦死せり。
二、サイパン島における在留邦人は終始軍に協力し、凡そ戦ひ得るものは
敢然戦闘に参加し、概ね将兵と運命を共にせるものの如し。

 サイパン島における戦闘経過は次ぎ
の如きものである。
 六月上旬、敵の有力機動部隊がマリ
アナ諸島東方に現出、サイパン島は十
一日艦載機延百九十機の攻撃を受けた
のを皮切りに、十二日延二百数十機の
来襲、十四日同島西南海岸オレアイ飛
行場附近に艦砲の猛撃を受けた。上陸
地点の海面に現はれた敵の兵力は航空
母艦十数隻、戦艦八隻、大型輸送船七
十隻内外を基幹とする強カなものであ
つた。
 翌十五日未明、敵は猛烈なる砲爆撃
を開始、七時頃その掩護下に三百隻以
上の舟艇を泛べ、一斉に同島西南海岸
オレアイ
附近に向
つて上陸
を企図し
たのであ
る。我が
部隊は直
ちにこれ
を邀撃、
再度に亘
りこれを
撃退、甚大なる損害を与へたが、正午
過ぎ敵の一部はススペ岬附近に地歩を
占むるに至り、爾後逐次これを拡大し
ていつた。我が部隊はこれに遂し、熾
烈な敵の砲爆撃を冒して反撃を続行、
夕刻までに肉薄攻撃により敵戦車のみ
でも十数台を炎上せしめ、我が航空部
隊また敵戦艦一隻、巡洋艦一隻を撃沈
し、巡洋艦二斐を炎上せしめたほか、
陸上よりの砲撃と相俟つて、兵員を満
載した上陸用舟艇多数を撃沈破したの
であるが、量を恃む敵は遮二無二上陸
を強行し、その兵力は一箇師団に達す
るに至つた。
 越えて十六日には、我が猛攻により
敵は殆んど地歩を拡大し得ず、同日夜
我が部隊は東方及び北方から夜襲を決
行し、その一部はススペ岬まで突進
し、敵を南北に分断して極度の混乱に
陥れたが、十七払暁と共に再び敵の
砲爆撃のために後退するのやむなきに
至つたのである。
 爾後、敵の爆撃艦砲による側射背射
等によつて、我が方の損害は逐次増加
し、十九日頃よりガラパン市街ラウラ
ウ湾中央の線に戦線を整理するのやむ
なきに至り、オレアイ飛行場は二十日
より敵の使用するところとなり、同日
頃アスリート飛行場もまた敵手に落つ
るに至つた。一方、敵艦隊撃滅の機を
窺つてゐた我が聯合艦隊の一部は突如
行動を起した。これに対し、南太平洋
方面の米艦隊また北上し来り、十九、
二十日マリアナ西方海面において彼我
機動部隊が戦闘を交ふることとなつた
が、その状況については既に大本営に
おいて発表せられた通りである。
 かくて二十三、二十四日頃に至るや、
サイパン島水源地も公く破壊せられ
た。もともと同島は水に恵まれず井戸
も極めて少い所であつたため、爾後給
水にも頗る難渋するに至つた。
 しかも一方的に制空、制海権を掌握
してゐる敵の艦砲射撃と爆撃とは、日
を逐つてますます熾烈となり、全島に亘
つてその猛威を逞しうするに至つた。
 我が方は敵の上陸以来旬余、不眠不
休、激闘を続けて来たのであるが、損
害も著るしく増大し、しかも夜間にお
ける艦艇からの探照灯の照射及び照明
弾により、夜襲は勿論、部隊の行動も
困難となつて来た。
 二十五日夕刻、その第一線はガラパ
ン市街タボーチョ山南麓を経てドンエ
イを連ぬる線を保持してゐたが、諸所戦
車を伴ふ敵部隊が突進して来るので、
この頃より戦線は漸く犬牙錯綜の状態
を呈し始めた。
 かゝる激闘の中に、我が軍は毫も屈
することなく、爆弾を抱いて挺進攻撃
する等、敵の心胆を寒からしめた。
 ニ十六日夜、遂にタボーチョ山陥つ。
 該高地はサイパン島の最高峰にし
て、敵は直ちに該高地南側に有力なる
砲地を推進して来た。ために戦況は我
にとり頓みに悪化するに至つた。
 二十八日、敵の攻撃いよいよ熾烈化
し、我が方の火砲は破壊せられ、弾薬ま
た殆んど撃ち尽すといふやうな状態にな
つたが、克く勇戦を続け、殊に我が部隊
の一部は敵中にあつて、なほタボーチョ高
地南方及び東南方等の拠点を保持し、
その前面の敵の北進を拒止してゐた。
さらに戦況はいよいよ緊迫するに従
ひ、ますます皇軍の本領を発揮して肉
弾攻撃、挺進攻撃等の壮挙を続行し、
中には飲まざること三日、木の葉を噛
じり蝸牛を食ひ奪戦を続くるものもあ
り、就中、タボーチョ山西南方拠点を
確保してゐた大津中隊の如きは、軽迫
撃砲五、六門、照明班七、八組を急襲
撃滅し、大隊に復帰の命を受くるや、
残員僅か十五名をもつて数線(ママ)の敵を突
破し、敵守兵少くも百五名を撃滅し、
敵指揮所を覆滅し、悠々大隊に復帰し
たのであるが、かくの如き勇敢なる行
動は随所に続出してゐるのである。
 この間、我が航空部隊及び海上部隊
は六月二十一日以降、地上戦闘を我に
有利ならしむべく、連日全力を奮つて
敵の陣地、物資集積所、敵飛行場等の
攻撃爆砕に努め、傍らサイパン周辺海
面を行動中の敵艦艇を攻撃して航空母
艦二隻、輸送船一隻撃沈、巡洋艦一隻、
艦種未詳一隻を撃破し、敵陣地三十数
箇所を炎上せしめた。
 六月十一日、敵機動部隊がマリアナ
群島に来襲して以来、我が航空部隊及
び海上部隊によつて収め得た戦果の累
計は
一、撃沈 航空母艦二隻、戦艦三隻、
巡洋艦四隻、駆逐艦三隻、潜水艦一隻、
艦種未詳二隻、輸送船二隻
二、撃沈破 航空母艦五隻以上、戦艦一隻以上
三、撃破 航空母艦五乃至六、戦艦一隻、
巡洋艦三隻、駆逐艦三隻、艦種未詳一隻、
輸送船七隻
四、撃墜 八六三機以上
に及んだが、敵の企図を放棄せしむる
に至らなかつたことは、返す返すも遺
憾といはねばならぬ。
 作戦部隊は六月十七日 畏くも御嘉
尚の御言葉を拝し、六月三十日再び有
難き御沙汰を賜はるの光栄に浴し、将
兵一同、 皇恩のかたじけなさに感泣、
最後の一兵まで敵撃滅に邁進すること
を誓つた。
 しかし苦闘二旬、我が方の兵力は損耗
甚だしきものあるに反し、軌の火力は
いよいよ熾烈となり、その地上兵力も
また三ケ師団に達し、我が陣地は逐次
その間隙から突破せられるに至つた。
よつて七月四日、戦線をサイパン島
東北部のタナバクー二二一高地タロ
ホホの線に緊縮整理したが、既に敵
戦車を支ふるに一門の火砲もなく、
わづかに肉弾をもつて敵の攻撃を阻
止するといふ最悪の事態に立ち至つ
た。
 翌五日には遂に戦線を最北端マッピ
山周辺地区に収縮せざるを得ぬ状況に
あつた。こゝにおいて、重傷にして起つ
能はざる約三千名の傷兵は魂魄戦友と
共に突入を誓つて自決をみるに至り、
重要書類は悉く焼却し、同日夜、最後の
攻撃命令が下達された。この命令に基
づき、六日夜、選抜せられた約五十組
の挺身隊は敵陣深く潜入し、敵司令部、
幕営地、火砲、飛行機等を索めて爆砕、
敵陣営を攪乱震駭せしめ、翌七日未明

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より全力挙げて遠く敵揚陸点チャラ
ンカノア附近に向ひ、壮烈な最後の攻
撃を敢行した。
 かくて皇軍は真に陸海一体となり、
同方面最高指揮官南雲海軍中将、陸軍
部隊指揮官斉藤陸軍中将、海軍部隊指
揮官辻村海軍少将は陣頭に立たれ、突
撃に突撃を重ね、無数の敵将兵を屠り、
爾後洞窟等に拠り、旬日にわたり激闘
を継続し、洋上の孤島サイパンを鮮血
に染め、聖寿の万歳と皇國の彌栄を祈
念しつゝ、十六日頃までに逐次散華して
いつたのである。この壮烈な激戦の状
況は我が飛行機の偵察によつても確認
されたのである。在留邦人に関しては、
大本営から発表された如く、終始軍に
協力し、戦ひ得るものは敢然戦闘に参
加し、将兵と運命を共にせられたこと
に対して衷心より感謝の意を表すると
共に、敬弔の誠を捧ぐる次第である。
 敵側もサイパン島の戦闘を太平洋上
において経験せる戦闘のうち最も困難
にして熾烈なるもので、最大の人的損
害を出したと告白し、七月十日までの
損害一万五千余名と発表してゐる。勿
論、この数字は例により割引されてを
り、その実数は更に大きいものと思は
れる。
 なほ最後の突撃発起に方り、現地
指揮官より左の要旨の報告があ
つた。
 「 陛下の股肱を失ひ而も克く
任務を完うし得ざりしを謹みて
御詫び申上ぐ、大津中隊の奮戦
に比すべき皇軍の真面目を発揮
せるもの枚挙に遑あらず。将兵
一同死処を得たるを悦びあへり。
功績も仔細に申述ぶるを得ずし
て一様に斃れゆく将兵並びにそ
の遺族に対しお詫びの外なし。
最後に 天皇陛下万歳を高らか
に唱へ茲に皇國の必勝を確信
し、完爾として悠久の大義に生
きんとする将兵の声を伝ふ」
と。
 われ等はこゝに皇國の必勝を確信
し、完爾として悠久の大義に殉じた将
兵の声に応へて驕れる敵が更に本土に
迫らんか、皇軍伝統の精華を発揮し、
必ずやこれを殲滅せんことを深く誓ふ
ものである。