北支派兵に至る経緯 陸軍省新聞班
昭和十二年七月七日夜我が支那駐屯軍に属する豊台駐屯部隊の一部が、蘆溝橋(北平西南約三里)の北方地区で夜間演習実施中、午後十一時四十分頃蘆溝橋の支那兵から突如数十発の射撃を受けたので、同部隊は直ちに演習を中止して部隊を集結すると共に之を監視し、此の旨上司に急報した。
そこで北平部隊では事態を重視し、森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及冀察外交委員会専員林耕雨氏等も亦同中佐と同行した。然るにこれより先豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の支那兵に対し其の不法を難詰し、且同所の支那兵の撤退を要求したが、其の交渉中八日午前四時過、龍王廟附近及永定河西側の長辛店附近の高地から集結中の我軍に対し、迫撃砲及小銃射撃を以て挑戦し来つたので、我軍も已むを得ず自衛上之に応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の支那軍に対し武装解除を要求した。
本戦闘に於て、我軍は死傷十数名を生じたが、支那側の損害は死者二十数名、負傷者少くも六十名を下らぬことは確実である。
午前九時三十分に至り、支那側の停戦懇願により両軍一先づ停戦状態に入り、我方は兵力を集結しつゝ支那軍の行動を監視した。
北平の各城門は八日午後零時二十分閉鎖して内外の交通を遮断し、牛後八時には戒厳を施行し、邵文凱(憲兵司令)が戒厳司令に任ぜられたが、市内には我が歩兵の一部が留つて、居留民保護に任じ比較的平静であつた。
森田中佐は八日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から我が北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかつた。ところが九日午前二時に至り支那側は遂に、午前五時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約したが、事実蘆溝橋附近の支那軍は、午前六時に至るも尚撤退せざるのみならず、逐次其の兵カを増加し、監視中の我軍に対し時々射撃を行ふの暴挙に出たので、我軍は已むを得ず之に応戦して支那側の射撃を沈黙せしめた。
軍は支那側の協定(けふてい)不履行(ふりかう)に対し厳重なる抗議を行つたので、支那側は已むを得ず九日午前七時旅長及参謀を蘆溝橋に派遣し、支那部隊の撒退を更に督促せしむる所あり、其の結果午後零時十分同地の支那兵は一小隊を残し永定河右岸に撒退を完了し、残置した一小隊は保安隊到著後交代せしむることとした。
然るに支那側は永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬其の他の軍需品を補充する等、著々戦備を整へつゝある状況であつた。此の日午後四時、軍参謀長は幕僚(ばくれう)と共に交渉の為天津発北平に向つた。
十日払暁(ふつげう)以来永定河対岸の支那兵は、時々蘆溝橋附近の我が監視部隊に射撃を加ふる等の不法行為があつたが、同夕刻過、衙門口方南から南進せる支那兵は九日午前二時の協定を無視して不法にも龍王廟を占拠し、引続き蘆溝橋附近の我軍を攻撃して来たので牟田口部隊長は敢然逆襲に転じ、之に徹底的打撃を与へ午後九時頃龍王廟を占領した。本戦闘に於て我方は戦死六名、重軽傷十名を生じた。
軍は十一日払暁龍王廟を撤去し、主カは蘆溝橋東北方約二粁五里店附近に集結したが、当時砲を有する七、八百の支那軍は八宝山及其の南方地区にあり、且長辛店及蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及長辛店高地端には陣地を設備し、其の兵力詳(つまびらか)ではないが逐次増加の模様であつた。
一方駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝を努めたが、先方の態度強硬であつて打開の途なく交渉決裂の外無い形勢に陥つたので、十一日午後遂に離平して飛行場に向つた。
然るに冀察側は我が朝野一致強硬なる決意あるを看取するや急遽態度を飜し、当時残つてゐた交渉委員松井特務機関長に対し、午後八時、支那側は責任者を処分し、将来再び斯の如き事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以て治安維持に充てる事及抗日各種団体取締を為す事等に関する我方の提議を容れ、二十九軍代表たる張自忠、張允栄の名を以て署名の上我方に手交した。
そこで我軍は事件不拡大の方針を持して支那側の実行を監視中であるが、其の後に於ても我が警戒部隊に対する射撃竝蘆溝橋部落に対する侵入其の他の挑戦的行為の頻発を見つゝある次第で、又八宝山附近の支那軍は依然陣地を占領し、其の警戒部隊は従来より梢々前進した模様で、永定河西岸には更に平漢鉄道により軍隊及軍需品を輸送し著々戦備を整へて居る。
然るに十三日に至ると、午前十一時頃、我が駐屯軍に属する一小部隊が馬村(北平南方約三粁)を自動車にて通過中、支那兵(第三十七帥に属するもの)は不法にも機関銃を以て我方に射撃を加へたので、已むなく直ちに応戦して撃退したが、此のために我方は死傷者数名を出した。
一方支那側に於ては、八宝山から平漢線に亙る間に三線の陣地を構築中であつて、其の南翼は西辺門より衙門口に亙り、逐次堅固になりつゝある。又、長辛店及永定河両岸には保定から北上した万福麟軍の一部が到著したものゝ如く、又良郷(平漢線上宛平西南方約十五粁)附近にも、南方から騎兵部隊が到著した模様である。
北平城内に於ては支那側軍隊及官憲の反日感情意外に熾烈であつて、我が憲兵二名が検束せられ、其の他邦人に対し支那兵等の家宅侵入、婦女子への迫害等相次ぎ、人心は極度に悪化し、西城から東城に或は天津に避難するもの続出する有様である。
以上は主として現地方面に於ける状況であるが、南京政府は事件発生直後飛行部隊に対し動員令準備を下し、且四ケ師を北上せしむるから断乎抗日せよと冀察側を激励する等武力抗日の意向極めて露骨なるのみならず、事変発生の責は日本側にありと誣言(ぶげん)し、或は条約に基く当然の権利たる我が演習を以て領土侵略の準備行動なりと公言し、之を各国に宣伝し、或は日本軍の砲撃により生じた死傷者竝破壊建物の写真を至急提出すべきを現地に要求する等、宣伝戦に大童の体(てい)である。
飜つて南京政府の対日方針を観察するに、表面は国交打開、提携促進に努めつゝある如く装ふも、裏面では却て之が実現阻止に狂奔し、特に最近「ソ」支近接の風潮竝に抗日作戦準備の進展に伴ひ、益々官民の抗日気運を熾烈ならしめ、或は帝国々内の諸問題中、多少の議論があると一々之を取り上げて針小棒大に曲解し、或は日本の国論が不統一であり到底断乎たる態度に出で得ずと見くびり、延いては支那国民一般が日本与(くみ)し易しとの錯覚を起しつゝある有様であつて、昨年八月以来邦人殺害事件相次いで頻発するの情勢であつて中央側は更に北支に於て治安の任に当つてゐる冀察軍隊の中堅幹部や大学生等に働きかけて、執拗に抗日反満意識を煽り、反日は抗日となり、今や侮日挑戦的と化しつゝある有様で、今次事変は実に支那側の上下一致せる対日行動である事は最早疑の余地のない所である。
帝国政府は事変発生以来、不拡大の方針を堅持し、局地的解決に鋭意努力し来つたのであるが、支那側の態度前述の如く何等誠意の認むべきものなく、在支邦人の生命財産の安全は極度に脅かされつゝある状態なるに鑑み、之を擁護するは勿論支那側の不法行為及排日侮日行為に対する将来の確実なる保障を得ることは絶対に必要であり、これが東洋の平和を維持する所以なりと信じ、十一日北支派兵に関する閣議一決し、近衛首相は直ちに葉山に赴き上奏御裁を仰ぐに至つた。然し乍ら東洋平和の維持は帝国の切に顧念する所であるから、今後共局面不拡大の為平和的折衝の望を捨てず、支那側が其の容共抗日反満の迷夢より速かに覚醒し事態が円滑なる解決を見るに至るべきを切望しつゝあるは固よりであつて、列国権益の擁護保全に関し万遺漏無きを期する次第であり、此の件に関しては十一日政府の声明により明瞭である。
尚七月十五日、北支の現勢に鑑み内地より一部の部隊を派遣することに決せられ、此の旨陸軍省から公表した。