第三九六号(昭一九・五・二四)
増産へ適期の作業
麦刈、田植、甘藷の植付
河南殲滅戦 大本営陸軍報道部
国民創意の総力戦 技 術 院
甘藷栽培なぜなぜ問答 農 商 省
戦時農園問答(三) 回答 農商省
国民創意の戦力化
今や一億桝托ほ、その粂智舶を翠げて、鋳後の生意に一のも
のも十の働きをするやうな創意エ大を生みださねばならない.
そして武力軋ばかりでなく智離職にも我等の底力を数拝して、
敢を徹祓徹怯駆倒し去らねばならない.
接術院ではかういふ俵れた創意蔚恕を旗く閥民一般から求め
るため、昨年十一月院内に創塞課を斬らしく設けたが、蓋しこの
劇望息葡州想ほ、戦力増強に役立つものなら、兵器だらうが、銃後
の生売だらうが、衣食住にふ関するものだらうが何でも結構で、堅
苦しい召式も必要でなく、内容の分る程度に緋へ書き、もし樹傾
があればそれも添へ、これに住所氏名を香いて、ちやぅど友人へ
手紙を省くやうな軽い気持で学術院へ出していたゞけばよい.
接術院でほその内容を捻討した上、鹿程と思ふものがあれ
ば、陸海軍をはじめ関係官鹿「砥ちに適格をとり、出来るだけ
速かに活用の途を講ずるのである.
では、創意受付の窓口にほ、どんな構執仰が溢れてゐるか、次ぎ
に創意申出に添へた手緋の要旨を一部紹介することにしよとT.
一国仙顎たどんの製法
ぢんいいたんくわ
桐生市の某氏から塵芥衆化法
についての提案があつた.
r自分ほもと舟兇碍・豹贅等
の加工販環を潜んでゐました
が、時局に應じて昭和十三年輔
・た.どん
紫し、日下本業としては漠困の
叫哲■行つてゐます.次‥筋に一原
料難となつたので賎芥の脱化を
潰し、研究を続けること三ケ
」lみ小l●
年、やうやく成功して目下切費
や沌芥等を淡化して、茨輿の製
池をやつてゐます`
桐生持といへば機業地として
有名なところ、同氏はそこで兵
見帯・調械裏等の加工撃とい
ふ祀兜侍衆の家業を営んできた
こ・化
のであるが、時局の要請に應へ
●一つぜ⊥
て率先輔業し、全く畠蓬ひの犬
開封治に手を着けたのだ.しか
るに原料難で、従来のあり来り
の方法では池れない。そこで廣
一介の淡化を志し、地県黒くなつて
研究を重ねること二言年、やう
やく伽仰敬・塵芥等の茨化に成功
したのである。
「今日でほ木次を原料とした
モんしJ′ヽ
ものに比べて福色のない程にな
りました.これまでに到注する
にほ何度失敗したかしれません
が、さて考へてみますと、この
戦時下、私一人だけがこの方牲
で常業すべきでほないと思ひま
す.これを一般に公開して多少
とも戦力埼韻に役立つなら、私
の最も事ひとするところですJ●
苦心樺憺の*、成功Lた方
法モ、この時点下ひろく†施L
てお団のお役に立てようとする
最高い動機から、かうして申出
られる創意は相常に多いのであ
つて、優れた創意は迅速に嘉
▲するやう努める決零 さらに
新たにするのである.
い l ち
相熱病混治
‥一・l ▲_
札晩市に泣い某氏は、柄熱病
を駆除する水田法について創意
を申出られた¢同氏は永らく仙脱
芋に従▲零して貌たのであるが、
昭和五年、六年と一一年研けて大
・る
凶作に遭ひ、非常な損害を毅つ
た。農事が天候の轡動といつた
不可抗力の影勢を受けることほ
やむを得ないとしても、減収の
b盟四ともなる稲の病気などは、
科畢の靡用と努力次h第で除くこ
とが山家ハLるはずだと考へた.
そこで大凶作のあつた翌年か
ら椚執〜柄退治の研究をはじめ、
いろくの飽熊を…川ひては、そ
たんねん
の輝扱成繊を丹念に書きとめ、
県番粥教場のl革門披師の指導を
仰ダJながら、まる七年の努力を
緯けた.その指梨、一昨年明か
ら特殊箋の應川に確信を指、
収硬革もめきノ\⊥つたので、
轟増産の賓唱商い今日、これ
が方図の徐に立ては何よりと、
創窓申出となつ人」のである。
子供の室怨
も戦力化 へ
愛知粍知多糾の一塞村て、閉
民畢校の訓著してをられる某
氏からの創意である。
「私は毎日可愛い子供達を柏
手に訓育といふ大切た代務を犬
椚と心得て糊んでゐます。学校
では‥特に瑚科方抑を作柵…してを
りますが、とき∧\チ伏接が詣
合つたり私に質川する那柄の中
には、大人でさへ成排さういふ
ものがあつたらばと感心した
り、その・方法なら山川来るかもし
れない、と思ふものがあるので
す。かうした純農な子供速の・描
く壌想のなかにほ、大人が為
になつて研究してほしい紬仰が溜
山あると信じます。私は赦塘円に
h忙しいし、仙難しい研究をやる
設鰍烽りませんから、どうぞ
等、に述べる仙川案をそれぐ‥称
門衆に和んで、子供達の一珊瑚を
山々
叶へてやつて下さい。」
一億糊代の竹髄む魯只して、
敢米英撃滅の洲爪戦に遭粒する。
そこに仙川怠小川の木滞の・思慮が
あるのだ。子供も大人もl鵡に
なり、協力Lて専蒋天外の抄粂
げ.ん
モ‡行に移す、これこそ昭利元
窺に幻他る神風であらう0
創意は.職場
と経験から
⊥八陀巾の業咋ほ一身の糊兆杓
上を発明に見〓し、私財のすべ
てを投じて或る槻械の完成にし努
めたが、・事態と蓬ひ、費帥のどん
摩に落ちて、逸には浄水の希
琴ナノら失ふに至つた。しかしな
くぢ
が.ら、こ1で挫けるやぅでは男
として生れた甲斐がないと感
じ、花魁一番、某禽牝に蒋兼敏
士として勤め、今では軽口石次
作業に従・耕してゐる。
ところがこの作業では石次が
Lこうつう
ょく両眼に入り、その疹瞞は甚
だしいもので、角投がやられニ
′ヽ
週間ほども失明状態のま1で昔
】▼、ん
吟したことさへある.そこでこ
の鯉韓から開成は某機械の設計
に前想を持たので、今川創意中
州をやり、専門家の手で更に研
究山北成のほどを希望することと
なつたのである●
またh机都市の某氏は名著の好
一槻で部数中、残念にも柄を持
て八人′は与宅に辞養中である.
しかしながら筋一槻の戦友の努
山雷を僻ふとき、漂にあつても
報駒の誠を轟さんと車を執り、
「綜合的魅力の立場からみた梅
速戦略の瞼討」と顕する論文を
綴ることにしたが、如何せん現
存の病状からみて、常分の問、こ
れを小北成する見込がない.同氏
の豹新はこの開樽についてほ
素人であるが、これまでに綴ら
れた論文を讃むと、瀬切と思
ほれる鮎が多々あるので、これ
ほ一刻も早くお役に立てねばと
思ひ、前者が兄の代りに抜き書
を作り、創意として申出られた
のである0
この▲赤瀬この納付意、かくてこ
そ一億執民の智傑は米共撃滅の
ため、鹿の動員が行ほれ、兵に
昭和の紳風となるものと.信じて
疑ほないのである.
(按 術 妖)
し刑・懲の中山円は
「東東都掬町区三年町 技術院総務部創意課」に