動く大陸新戦局  大本営陸軍報道部

河南作戦の成果

 畏くも 大元帥陛下には、五月二十
七日、参謀総長を召させられ、支那派
遣軍総司令官に対し左の勅語を賜はつ
た。

勅語
河南方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ勇
戦奮闘寡兵克ク衆敵ヲ撃摧シテ神
速ニ作戦目的ヲ達成シ以テ全局ノ
作戦ニ寄与セリ
朕深ク之ヲ嘉尚ス

 洵に畏き極みである。
 河南作戦の成果中、まづ特筆さるべ
きは、蒋軍中屈指の精鋭たる河南省防
衛軍に徹底的打撃を加へ得たことであ
る。
 河南省一帯は、蒋軍の九戦区に区分
せられてゐる防衛陣の第一戦区に含ま
れてゐて、蒋介石はその重要度から最
も信頼する湯恩伯麾下の部隊をもつて、
第一戦区防衛の中核たらしめてゐたの
である。しかるにこの軍は、今次河南作
戦において完膚なきまでに叩きのめ
され、五月末日までに判明してゐる我
が軍の挙げた戦果は、だいたい次ぎの
通りである。

遺棄死体 
約四万  俘虜 約二万
鹵獲兵器 火砲(速射砲、野山砲、重砲
等)約百十門、迫撃砲 約百七十門、銃
器、弾薬、自動車等 大量、地上火器に
よる撃墜機 十八

 しかして、投降者はいまなほ続出し
てゐるし、我が軍が鹵獲した兵器のほ
かに、我が破壊を受け、または自ら破
壊湮滅し去つた兵器も大量に上ると推
測されるので、敵の受けた損害はこの
戦果を遥かに超えてゐる見込である。
 第一戦区中、今回の作戦に直接関係の
あつた方面に配置された兵力は、三十
三ケ師とみられてゐるが、そのうち二
十一ケ師と氾東挺身隊が潰滅、或ひは
殲滅的打撃を受けてゐることは確実で
ある。
 この第一戦区に所在した軍は、蒋が
最も信頼してゐた部隊であつただけに、
その崩壊は啻に蒋自体の自信を動揺せ
しめたばかりでなく、蒋軍全般の防衛
陣に破綻を来さしめ、その抗戦力の低
下に拍車をかけるもので、米英をして
痛く欠望せしめた事実は、敵側新聞雑
誌等の論調にも明瞭に看取れらるゝの
である。
 これに加ふるに、我が航空作戦によ
る在支米空軍の損害も甚大である。
 またこの作戦の結果、京漢線打通と
いふ歴史的偉業が完成された。

 これまで北支と中支との文化・経済
の交流は、陸上においては主として津
浦(しんぽ)線一本だけに依存してゐたのである
が、新たに京漢線といふ大動脈がこの
役割に参加し得ることになつた。この
北中支を緊密に結合する紐帯の強化
は、北支と中支の文化・経済の交流を
いよいよ活溌ならしめ、これにより我
が方が軍事上、政治上享受する利益は
けだし少くない。
 いつものことながら河南作戦全体を
通じて特にみらるゝものは、我が軍が
あくまでも秋毫も犯さざる皇軍たるの
真姿を示し、民衆を敵とせざる精神に
透徹してゐることである。洛陽の陥落
が遅れたことについて現地部隊長は、
次ぎの如き談話を発表してゐるが、以
てその一端を知り得るであらう。
 「河南作戦で洛陽の陥落がなぜ遅れた
か。わが軍は洛陽を過ぎてすでに著るし
く西に進出し、洛陽はぽつんと取残さ
れた形になつてゐた。人々は奇異に感
じたであらう。これについて説明を加
へる必要がある。即ち、我が軍は何時
でも占領できるが、戦禍が史蹟や民衆
に及ぶことを避けんがため、時に投降
勧告の挙に出た。温情的な伝単も撒い
た。敵が投降か、それとも脱出を企て
るのを待つてゐたからである。」
 かくて我が新占拠地域における治安
の回復は極めて迅速であつて、昨日の
戦場は皇軍占領当日から既に安居楽業
の巷と変つてゐる。民衆にも日本軍に
対する憎悪感などはあまりみられず、
むしろ将来これまで重慶側がとり来つ
た強制徴兵や、苛斂誅求から逃れ得る
ことに対する安堵感が漲つている。
 我が強力なる傘下に入ることによ
り、古来、中原と称された豊饒なる河
南の地は、ます/\経済的に重要なる
役割を演ずるであろうし、幾度か中華
の首都となり、貴重なる史蹟をとゞむ
る洛陽は、永久にその文化的価値を保
有し得るであらう。

中支新作戦

 中支方面の我が部隊は五月二十七
日、洞庭湖両側地区から重慶第六戦区
及び第九戦区軍に対し進攻作戦を開始

し、所在の敵を撃破しつゝ進撃中であ
る。
 河南作戦の創痍深刻なる蒋介石に対
し、息もつがせぬ今次我が軍の猛攻は、
蒋にとつて救ひ難い痛手となるであら
う。
 第六戦区は、揚子江を挟んで洞庭湖
西方の湖南省西北部地区と湖北省西南
部地区にまたがる戦区で、陳誠の訓練
した中央直系の四十ヶ師が配されてゐ
る。長官は昨春孫連仲が陳誠に代り、
昨年末の我が常徳殲滅戦で手痛い損害
を受けた。
 第九戦区は、湖南省中南部、江西省
西部地区を防衛する戦区で、薛岳(せつがく)が
その司令である。これまで幾度か我
が進攻を受け、その度に甚大な損害
を受けた。約三十ヶ師が配されてゐ
る。
 我が航空作戦は依然活発に実施さ
れ、五月二十九日衡陽を、三十日に衡
陽と梁山を攻撃し、撃破炎上七十機に
近い大戦果を挙げた。
 かくの如く在支米空軍は、次ぎ/\
に我が荒鷲の好餌となつてゐる。

ビルマ作戦の現況

 インパール攻略作戦は四月中旬頃、
我が軍がコヒマ→インパール道とイン
パール→シレチア道を遮断したことに
より、マニプール盆地にある英印第四
軍団を全く袋の中の鼠たらしめたので
あるが、爾後戦況は必ずしも迅速な進
捗をみせてゐない。しかし我が軍は歩
一歩確実に敵に近迫し、刻々敵を圧縮
してゐる。
 包囲
網内の
敵は、
今やそ
の唯一
の補給
手段た
る空中
補給
も、天
候の悪
化と共に意の如くならず、まさに釜
中の魚たらんとし、その窮状は各方面
に顕著である。これがため、敵はわが
包囲環の突破を企図し、しば/\コ
ヒマ方面に強烈なる逆襲を実施してゐ
るが、我が第一線部隊は、敵機の跳梁
下、よく不自由な生活を忍んで常にこ
れを撃退してゐる。
 また敵はパレル、ビシェンブール周
辺に半永久陣地を構築し、戦車、装甲
車、重砲等をくり出し、必死の防禦を
してゐるが、これに対しても我が軍は
連日猛攻を加、ジリ/\と敵の堅陣
地帯に滲透してゐる。この方面も我が
軍の補給容易ならず、敵機また優勢で
あるが、かくの如く敵を圧倒してゐる
所以のものは、実に我が第一線将兵が
精鋭であるからだ。
 カーサ周辺地区に降下し、我が後方
の攪乱を図つた敵の空挺部隊は、その
兵力相当量に上つたにもかゝはらず、
我が果敢な攻撃とマラリア患者続出の
ためその戦力著るしく低下し、有力な
るその根拠地マウルも放棄してインダ
ウギ湖東方地区に敗退し、引続き我が
猛追を受けてゐる。
 さらに五月中旬、ミイトキーナ方面
に敵地上部隊と米支空挺部隊が降下侵
入して来たので、同地周辺地区の我が
部隊はこれを包囲攻撃中である。
 怒江正面重慶軍も近時やうやく蠢動
を開始し、一部は怒江を渡河、ミイト
キーナ方面と連絡を企図したが、我が
軍はこれを高黎貢山系以東の地区にお
いて捕捉撃破中である。
 かくの如き的のミイトキーナ方面へ
の関心は、一にレド公路啓開の熱望に
基因するのである。即ち、我が強力な
る布陣のためレド、モガウン、ミイト
キーナ、バーモ、旧ビルマルート道の
啓開が不可能なる今日、最小限モガウ
ン、ミイトキーナ地区をその手中に収
め、以てモガウン、ミイトキーナ、セ
ニク(ミイトキーナ東北方約五十キロ)、
ピモー、保山道を啓開し、重慶に輸血
せんとするのであらう。
 この輸血路啓開の執拗なる敵の意図
には、今やたゞ単なる重慶戦力の維持
培養のみならず、実に在支米空軍の強
化により、我が本土空襲を敢へてせん
とする不逞なる野望が潜んでゐるとみ
られる。
 従つてこの補給路啓開に関する執着
は、米蒋側が英側にくらべて遙に大な
るものがあり、この結果はビルマ作戦に
対するスチルウェルの代表する米将軍
の態度と、マウントバッテンの代表す
る英軍の遣り方とに根本的に差異を来
すに至つた。即ち英側にとつてビルマ
作戦は、あくまでインド防衛が主体で
あり、レド公路啓開に関しては必ずし
も米蒋側が考へてゐるやうに第一義の
ものとはしてゐないやうである。
 ミイトキーナ所在の重慶軍に対し、
英空軍が天候不良を口実に空中補給を
躊躇してゐるなどのことが報ぜられて
ゐるのは、この辺の事情をよく物語つ
てゐるものである。しかしながら、例
の米軍追随の英側のやり方からみて、
結局のところマウントバッテンは、ス
チルウェルのレド公路啓開を主眼とす
る作戦方針に従はざるを得ないだらう
とみられてゐる。
 ビルマ作戦が実施されてゐる地方
は、各地区によつて多少の差異はある
が、だいた五、六月頃から漸く雨季
に入り、十一月頃まで続く。雨季のた
め受ける作戦上の制約は、彼我ともに同
様と思はれるが、今年度雨季の始まるま
でに何とかしてレド公路を啓開したい
との彼等の熱願は、我が軍の常に機を制
する神籌鬼略の前にまたもや泡沫の如
く消え去つた。
 なほこの方面の我が作戦においては、
インド義勇軍が常に第一線にあつて我
が軍に密接に協力してゐるだけではな
く、ビルマ大衆もまた戦禍による多大
の犠牲にもかゝはらず献身的助力を行
つてゐる。
 かくて大東民族十億の黎明は近い
のである。

第三九八号(昭一九・六・七)