第三八五号(昭一九・三・八)
   陸軍記念日に当りて       陸軍省報道部
   実施された決戦非常措置
   空襲に備へはよいか
   じゃがいも、かぽちゃの増産へ   農 商 省
   学徒軍事教育の強化       文 部 省
   税務相談所案内         大 蔵 省
   大東亜戦争日誌

 

陸軍記念日に当りて       陸軍省報道部


   日 露 戦 争 の 回 顧

 廻り来る三月十日、第三十九回の陸軍軍記念日を迎へること
になつた。この日は、過ぐる日露戦争において我が軍が奉
天会戦で徹底的勝利を贏ち得た日であり、五月二十七日の日
本海海戦の大勝利と相俟つて、敵軍の死命を制して戦争を終
局に導き、我が威武を中外に宣揚した記念すべき日である。
 想へば、日露戦争は当時における大国難であつた。開戦と
御決定遊ばされたとき、時の重臣伊藤博文公は、次ぎのやうに
述懐されたといふ。「この度の戦さは容易ならぬ戦さであるか
し、いざといふ時は自分も卒伍として立ち、挺身、国土を護
り、家内にも炊出しをさせ、相共に国防に任ずる覚悟を持つ
てゐる」と。この一事によつても、如何にこの戦争が容易な
らぬ国難雑であつたかが分ると思ふ。
 また戦争の状況も、当時の国民にとつては、予想し得な
かつたほど惨烈なものであつた。例へば旅順要塞の攻略戦
は、肉弾に次ぐに肉弾を以てし、屍山血河、多大の犠牲を払
つて漸くこれを奪取し得たのである。また遼陽の激戦に際し
て、某後備歩兵聯隊の命令の一節に、「第一代の聯隊長は戦死
し、第二代の聯隊長は負傷し、第三代の聯隊長も戦死せり。
聯隊は三聯隊長のために弔ひ合戦を決行せんとす。よつて聯
隊は何時何分、某地附近にある軍旗の下に集合すべし」とい
ふ悲壮極まるものもあつた。
 また銃後でも、数十方の壮丁が召されて軍に従つたのであ
るから、その家族の老幼婦女子等にして、家業の経営に困難
を生ずる者が漸次多きを加へたのは、またやむを得ないこと
であつた。畏くも明治天皇の御製「田家翁」に
 こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田もるらむ
と仰せ出されたことを偲び奉るならば、当時における銃後農
村の涙ぐましい模様があり/\と甦つて来るであらう。
 即ち日露戦争は、当時における我が国力の最大限を傾倒し
て漸く贏ち得たところの勝利であつた。しかるに、諺にも
いふやうに、「咽喉元過ぐれば熱さを忘る」で、当時のなみな
みならぬ苦痛といふものは、時の経つと共に次第に忘れ去
られて、日露戦争が如何にも易々と勝つたやうな錯覚に陥つ
てゐるやうな傾向もなしとはしないのである。一般国民は余
りの大勝利に酔つて、その苦痛を忘れ、たゞ勝利の快感にだ
け浮かされたやうな傾きはなかつたらうか。
 しかし当時の実相は、現下われ/\がこの非常の局面に当
つて銃後の総力を挙げてゐるやうに、官民一致協力して終に
漸くにして勝利を得たものであつて 断じて楽勝ではなかつ
たのである。或る一面からこれをみる時は、実に紙一枚の差
で日本が露国に勝つたといつても差支へないのである。もし
如何にも軽々と勝つたもののやうに考へてゐる者があるとす
れば、それは大変な考へ違ひである。

 悽 愴 苛 烈 な る 現 戦 局

 翻つて思に、現在の戦局は、しば/\いはれてゐるやう
に悽愴苛烈を極めてゐる。敵は既に対岸に迫り来つてゐる。
眼前数尺のところにゐる。否、もう我々の中に戦ひは喰ひ込
んでゐるのだ。トラック、マリアナ諸島に敵襲があり、我が
海域に敵潜水艦が出没してゐることに想到し、また何時わが
本土が空襲を受けるかも知れないやうな現況をみるならば、
我が国土、我が本土が既に戦場になつてゐることを、国民は
ひし/\と実感するであらう。
 そこで国民に特に要望されることは、我々が現在闘つてゐ
る戦争を冷静に凝視し、これに対應する策を樹立することで
ある。近代戦の実体に対する検討は既に研究済みであると
いふやうに一般に思はれてゐるかもしれない。成る程、専門
家や学者などがいろ/\と戦争論、戦争観なるものを並べて
ゐる。さうして一応戦争といふものの実体について探求して
ゐるやうではあるが、しかしまだ国民の大多数は、現代戦に対
してはつきりした認識をもつてゐないのではあるまいか。近
代戦が真に総力戦であり、昔日の日露戦争の如きものではな
いといふことを認識してゐないのではあるまいか。次ぎのや
うな例話によつても、果してその実体を把握してゐるかどう
かは甚だ疑はしいものがあるのである。或る老人が、「自分は
日清戦争も、日露戦争も知つてゐる。実に挙国一致して国難
を打破した大戦争であつた。決して楽な戦さではなかつた
が、しかし食べ物は減らされなかつた」といつてゐる。これ
は一般大多数の人の戦争観を示すよい一例ではなからうかと
考へられる。
 さきに、日露戦争は官民総力を挙げて漸く戦ひ取つた勝利
であるといつたが、明治天皇の御軫念は拝察するだに畏き極
みであるが、その衝に当つた重臣、要路の人達の苦労、特に
作戦を指導した統帥部、第一線の将兵、また銃後にあつて、そ
の子、或ひはその夫を戦域に失つた人達、これ等の人達は確か
に身に沁みて日露戦争といふものを感じ取つてゐたに違ひな
いが、しかしながら国民の大多数は、我々がよく耳にしたや
うに、戦争景気 ― 戦争があれば景気が好くなるとか、戦さ
があつて景気が持ち直したとか、金を儲けたとかいふやう
に、戦争の苦痛を嘗めずに終つた者が相当あつたのではない
かと思ふ。
 しかし、今や戦争は決してそんた生易しいものではないの
である。我々の日々の生活にも戦争は喰ひ人つてゐる。とい
ふよりも我々の日常生活即ち戦争である。これを具体的にい
へば、食糧の問題、ガス、電力の節約、公債の購入、防空訓練
等々、皆それである。かく冷静に戦争を見つめるならば、現
在われ/\の闘つてゐる戦争とは如何なるものであるかがは
つきりするであらうと思ふ。

  必 勝 の 信 念 に 徹 せ よ

 いまや戦ひは真に喰ふか喰はれるかの決戦である。この我
我の闘ひつゝあるところの大東亜戦争の実体を真に把握した
ならば、これに対応する途は自ら明らかである。即ちたゞ冷
静に、大綱の如き、牛蒡の如き太い神経を持ち、如何なる事
態にも泰然として悠揚迫らず、大国民の度量を持し、最後の
勝利を確信すべきである。
 だいたいこの大東亜戦争は、勝利以外には全然考へられな
い戦争である。こゝが従来の史上に現はれてゐる戦さとは異
ふところである。日本の隆替、東亜の興廃の分れるところで
ある。どんなことがあつても勝たねばならないし、勝利以外
には考へられない戦さである。従つて国民は最後の勝利を確
信し、敵が近づけば近づく程、ます/\勇を鼓して、何等
動揺することなく、各々その職域に向つて邁進しなければ
ならない。「神経を失ふものはすべてを失ふ」。困難が来れば
来る程、ます/\太く逞しい神経を持つて、戦局の波瀾に一
喜一憂することなく、勝利への大道を闊歩しなければならな
い。
 畏き極みながら、次ぎのやうな御逸話を拝承し、われ/\
国民の頂門の一針としたい。それは日露戦争の当時、我が
主力艦初潮、八島が相踵いで沈没するといふ大惨事があつた
時のことである。当路の者にとつては正に青天の霹靂、愕然
色を失はしめるに足る大事件であつた。
 そこで、このことについて海軍大臣山本権兵衛伯が恐懼上
奏申上げたところ、これを聞召された明治天皇におかせられ
ては、御神色自若、いさゝかも御動揺の御気色が拝せられな
かつたといふことである。
 次いで明治三十八年五月二十七日の日本海大海戦の大勝利
を、山本海軍大臣が欣喜雀躍、直ちに上奏申上げたところ、
天皇におかせられては、軍艦初瀬、八島の沈没を聞召された
時と同じやうに、極めて御悠揚な御態度を以て、お聞き遊ば
されたといふことである。
 大国民たる者は戦局の僅かの好転、悪転に一喜一憂すべき
ではない。我々は今や十億のアジア民族のため、さらに我々
一億国民のために闘つてゐるのである。この一億の民の全力
を結集すれば、世界無比の國體を有する我が国に何で敗北な
どといふものがあり得ようか。
 第一線に次ぎのやうな話がある。約○○名の部隊を指輝し
て或る島嶼の守備に任ぜられた若年の部隊長を上級部隊長が
心配し、「どうだ、そこは大丈夫か」といふ意味の電報を送つ
たところが、その若い部隊長の返電に、「こゝに○○名の楠公
あり。乞ふ意を安んぜよ」とあつた。
 われ/\国民は今こそ「一億の楠公あり。何ぞ恐るゝに足
らむ」の覚悟を以て、決して動揺することなく、己が職域に
向つて邁進し、特に現下戦力の増強の第一たる増産に力を致
し、少しでも多くの飛行機、艦船を第一線に送り、さらにま
た少しでも多くの食糧を増産することによつて、当然勝つべき
この戦さを、さらに必勝の素地を固めるやう力を尽すべきで
ある。勝利は常に勝利を確信する者の頭上にのみ輝くので
ある。