第二四六号(昭一六・六・二五)
  日・蘭印交渉の経過
  再出発の興亜奉公日        大政翼賛会
  鉄道トンネルの話         鉄 道 省
  汪主席の来訪
  夫婦の出産力           人口問題研究所
  工場・鉱山労務者の賃金公定    厚 生 省
  昭和一六年度上半期 週報総目次

日・蘭印交渉の経過

交渉開始以来、使節団の引揚げまでどういふ経過をたどつてき
たか、いまわれ/\はそれをかへりみるとともに、今後蘭印側
の反省を期しわが方の主張完遂をはかる方途に出でねばならぬ





 日・蘭印間経済交渉の打切り、ならびに芳沢使節の引揚
げにつき、帝国政府は、去る十一日の政府最高首脳部会議
で方針を決定し、十四日、芳沢使節あて回訓を発するに至
り、それに基づき芳沢使節は十七日午後五時(日本時間午後
六時半)バタヴィアでチャルダ蘭印総督と会見、まづ芳沢使
節から蘭印側の最後的反省を求めたが、チャルダ総督は
「蘭印側としては六月六日手交の回答について再考の余地
なし」として依然態度を変へないので、芳沢使節は「帝国
政府としては蘭印側回答程度のものでは国際協定となすに
足らずと認め、今次交渉を打切り使節団の引揚げに決した」
旨を伝へ、かくて両国間の経済交渉は遂に不調となり、右
会見後に左の如き共同声明を発表したのである。

日本及び蘭印両代表は、日・蘭印間に継続中であつた経済交渉
が、不幸にも満足なる結果を招来し得なかつたことに対し、深
甚なる遺憾の意を表明するものである。しかし、今次会商の不
調によつて日・蘭印間の正常なる諸関係になんらの変化を及ぼ
さないことは勿論である。

      欧洲戦争の影響南洋に波及す

 これよりさき、帝国政府は、去る昭和十四年十一月、
日・蘭印間経済交渉の開始方についてオランダ政府へ提議
し、それに対する原則的同意を得、とりあへず我が方提案
の要綱を内示すると共に、その具体的交渉の開始につき東
京、ヘーグ及びバタヴィアにおいて、蘭側と折衝を重ね
てゐたが、昭和十五年五月、今次戦争は遂にオランダ本国
へも波及し、従つて蘭印もその影響を蒙むるに至り、東亜
新秩序の建設に邁進する我が国として無関心たり得ぬ情勢
を展開したため、帝国政府はオランダ政府に対し日・蘭印
間経済協力関係確立に関する交渉の至急開始を要求したの
である。
 当時、オランダ政府は首都ヘーグからロンドンへ移転
し、英国と同盟関係に立つて対独戦争の遂行に邁進するこ
とになり、従つて、蘭印の経済組織も戦争目的に動員され
日・蘭印経済関係は重大な悪影響を受ける形勢に直面した
のであつた。それに対し帝国政府としては、東亜諸民族の
緊密な協力による共栄関係の確立を期する立場からして、
欧洲の戦火が南洋方面にまで波及することに無関心たり得
ないのはいふまでもなく、国防国家建設の途上にあつて蘭
印資源に対する期待はます/\加重されつゝあり、よつて
速かにそれら不可欠の資源を確保すると共に、進んで日・蘭
印経済協力関係を確立し以て東亜の安定を図る必要痛切な
ものがあつたため、とりあへずオランダ政府に対し、オラ
ンダの戦争参加前の状態において我が方が蘭印に期待する
重要物資の対日供給の保障を要求したのである。
 それに対しオランダ政府は、オランダが戦禍に捲込まれ
たために生じた国際関係の変化にかゝはらず、蘭印の対日
経済関係は依然として円滑につゞけられるべき旨を確言
し、且つさうすることが蘭印の死活的利益に合致し東亜の
平和安定に資することを認め、積極的に協力実践する意図
を明らかにして来た。

    小林使節の特派

 かくして帝国政府は、日蘭両国間における上記の合意
を基礎とし、バタヴィアにおいて経済交渉を開き、その
円満な妥結に向つて多大の努力を傾注することになつた
のである。
 即ち、先づ小林商相を首班としたわが特派使節団は、
昨年の九月十二日にバタゲイ7へ到着したが、政府は
                            tlけ・′
小林俺節と並んで向井忠噛氏を民間代表に湛定し、群集
研合食事もそれトl・・−使節を沢渡して交渉の賦浦な進行に
瀾へ、これ忙封し蘭印側は、フナy・モータ経済相と
 首席lとしエソナホーフェy法相ならぴにフTy・ホー
 フス†ラーテy粧済省漁商局長の三名を代表に波浪し
 た.
                           小い・▼い
 そして経済交渉は、いよく九計十三日から開催さ
 れ、十月中旬まで斯鎌的忙行はれたが、その聞、泉軍の
    し一ル一■●▲7
 彿印進駐、日狗伊三粥倹約の成立、ルーズヅェルト大
               ●▲▲′くわ
 統領三池による米南の漢英強化等、日南両国忙直凄間者
 に響もつ幾多の重大事件が蟄生したため、深刻な影響
 ▲を■斉るに冨】つたのである.
                    ▲ていし●−
  元蛮印例は、日本の大東亜共紫朗捷唱を日して日本の
                ●▲く小い        一
 致治的宏配困の武力的横鵠と曲解し、その不安忙粧られ
 てゐたものであ少、鼻軍の沸印進駐を以て彼等の像想的中
                        t■
 せりとして−斤替最の眼を注ぎはじめたところへ、日礪伊三
                             ●し一▲’′、▲’
 南條約の成立が侍へられ櫛印朝野は大きな衝動む受吐、
          ▲ていとん
 ▲交渉はたちまち停頓し−般の重来もとみに瞼藤となつた.
 かくて甘印側は打肝宋として耶即今熊の開催と塊案し、
 こ▲忙いはゆるスカボミ合致が十月十四日から十六日忙か
                                 L▼._
 けて、バタゲイア郊外の高原スカポミで開かれ、.その進
  ▲_一く
 捗状況につき十六日次ぎの洩りの日耗共豊明が褒表さ
 れたのである.

             X X X
   日太「甘印南駒代表は、去る十四日から十六日までスカ求ミの
   かテル・サラビゾクオに相曾し、小h杯商相並びにフ丁ソ・キー′
   経済相可甘の下に曾商を行つた.
 これら故珂に亘る曾商と個人的懇談の中に日腐簡明間の一般鵬
   ・音一▼
 係が討残され、最近成立を見た日掲伊三関同兜の簡印に及ぼす
            ろん●一一
 べき影響についても論及された.日東側代表はこの鮎につき、
 正式に左の如き怠見を閲映した.

 三園同盟條約の存在すると杏とにか1はらず、日本は日照
                      も■▼1ウ一lrん
 の友好蝕叩係が維持増進されることを衷心希宅し、三国同盟に

 上りいさ▲かも形態を受けぎるべきことを付ずる.日・本の希
                       け小
 雪するところは、一に瞬薮鈎との共存共共に他ならないので
  ある

 而して瀦印側もこの点塀を諒とした.

 その他の拷問矩の中、最も王要なものは石油伺塩であるが、舟

 印石油の現状につき、珊印代表並びに特に甘談に列席した托
       し●与一rい
 印放箆局長かち拝細な改明があつて、日礪雨前代表はこれらの

 諸岡髄がすべて近い粁来に討流されるとの諒解のもとに、今後
.ハタゲイ丁において折衝姦埠丁ることになつた.なほ、雨戌
                   ,γヽ l点 ●
 代表は、今固の曾商が最も友好的穿幽気の中において班行され
 てゐることを放映とするものである.
 ついで十月二十一日に重り、小林特波使節は紀元二千六

                         汀・一r
官年式典に参列すると共に、傍ら政府に報告協議の必要
もあるので蹄朝することになつた旨が態表され、同使節
         け−ん一ん
は黎二十二日の便船で好尚の途についたが、交渉はその
後も衝藤線領事、太杓首席随員及び向井民間代表に上つ
てつゞけられた.
 なほ、小林使節の挿図に際して蟄した黎明にもあるや
うに、交渉は主として石油問題む中心に討鵠を進められ、
蘭印側は日本に若干真の捉供を認たが、日本側の希望立
上りはなほ相常なへだたりがあり、さらに多尭の嬰求と
魂したま1一段落となつたのであつた.
 一方、英嘗局は十月二十−日、浦印の舵室根用高級ガ
          小ひウ
ゾyyは全部英国が買付けてゐる事箕を確認教義し、そ
れと瀞後して米南側はスタンダード石油甘批の代表むバ
                                一Wん
タゲイ7に流浪するなど、日櫛交渉に封する英米例の孝
 一い
制が倖へられた●
 ついで十l月四日、蘭印政府常局は砺印同氏容貌甘の
質間忙対する回答を敬表、左の如く日常交渉忙倒す匂態
   一ん●い
度を開明した.
         ●ヽいけつ
  倉触阿欝中に▲挿‥楷された日瑞伊≡園同盟に褐し、樹印政府が
  r日本は棚印をもその指導下に僅かんとするむのであるか」と
    ▲計−′
  質したのに封し、日▲本使節山間ほ「三山国同盟は日髄関係に…難化

  を甘らすものではない」昏Hを宮明した.従つて柵▲印政府は、
                              し ▲叩
  日・榊一印倉♯何が何ら形山野を受けねものと思惟するものであ
   る●

  促し、日東が蛮間壊ドイツのために救ふといふ鮎において、
                  首し
 ・今後の日講係の進展を瀕現せねばならね.しかして萌印政

  府ほ、右の鮎ならぴに一般情勢の遊民に替戒を沸ひつ1、倉荷
  姦放する方針である.
  な性、それと前後してyりトマン蘭印情報部長が次ぎの
 晋を含む放逸を、蘭即金土に向けて行ひ、極めて注目さ
 れたのであつた.

  琴の笈にとつて、最も重大な毒ほ、オラソ〆がドイツと
  交職してゐるといふことである.欝印はそのため、あらゆる必
  葬な物資を英国に繰らなければならゞて飲つたものは他頼に捻
  出せねばならない.日永との交渉も、従つてその句輿内での砥

   である●
    芳澤使節の漉汝とオランダ側の不誠意

                    小コ
  かくして、日本は小林南柏に代つて努渾沌外相を新使節
 として流浪し、≠万山澤使節は十二月二十八日にバタゲイ丁へ
 到着、直ちにr壊された間額の解決に長者むつくす」官の隼
 朋を敬し、墟えて本年一月十五日から愁備的合談虹入,、
 それ忙引つゞき翌十六日、石澤線領事をしてファン・ホー
 フストラーテン経済省漁商局長あて、交渉再開に押する新■
     ▲ていじ
 塊案む捉示せしめた.
  】方、ロンドン忙破るオランダ政府は、二月−日に重
 り、.ハブスト駐日公使に封し、蘭印の東亜新秋坪鶴入に反
 対なる昏を日本政府へ申入れるやう、次ぎの如く訓令を致
 した.
                               ’●l
  撫印を東亜新秩序に絹入する実には、これが如何なる荊の餌
   官
.尊下に行はれるものであらうとも、オラソ〆政府はこれを在籍
   ▲する.
  オラソ〆は自由の行動が新秩序といふが如き考へ方に指導され
                             ■▼くはん
  ろことに反封であケ、粁来それが適用されるのを歎笹すること

   もないのである.
  ついで二月三日、フ丁ソ・ホーフストラーテソ洩商局長
                      I′一丁小−
 は交渉再開にふ関する蘭印例の掟案を手交するに至り、こ1
                  t‥し●}
 に南国代表はこの双方の提案を弘上に幾多の濠備曾談女
 王ね、ワットマソ瀬印情報部長は三月三日、左の如く首明
 した」

   曾商は潤滑に進捗してゐる.併印開放は、日曹商には何の影
              \
  −閃も及ぼさないであらう●最近いろ〈と壌果轟我が行はれ
                    一l′父川レ一
  てゐるがV博印政府は筆二囲の凄働を求めるやうなことをせず、
   依然、血珂自の政策を保持して行く心算であを●
  かくて三月十七日までに、石浄線領事とホーフストラー
 ナy洩商局長との間に十三回の壌備的折衝と三回の細目協
 熟が重ねられ、一方、労澤使節とフ丁ソdモータ経済相も三
 月十五日に倉見し、石澤・ホーフストこフーテy曾談の成果
  に基づいて協議を重ねた.
.しかしながらその後、三月二十入岬における石津・ホー
 フスとJ−テソ、ならぴに四月十九日における背澤・ファy・
 々−クの雨曾敢以後、何ら硯質的に進捗せず、現地におい







            ■● ●▲′
ては松岡外相の渡欧ならぴにオランダ本国政府フ’y・ク
 レフェソス外.相専の蘭印訪問などが交渉不進行の理由に牛
げられてゐたのであつた.
                     くり‘く
 これよりさき、オラソダ本国のドイツ屈服甘初は、廿叩印
も新株序に順應しで礪自の立場から、日・軒印相互撃フ森井
押係を合理的に詞亜せんとする態度を示しでゐたが、蘭印
            ●■l一い
を包粛する英米例の攻勢的態度が次集にはつきりして木る
              小▲フくわ
や、衝印の封日態度は再び硬化し、甚だしきに室つては淋
印例がすでに碓約した物資についてもモの供給と亜為する
                 し●,ガl
やの態度にさへな少、わが飼の唱導する大東亜共乗用の
    ●一り小▲′
理念を虞向から香定する音辞さへも弄するに室つたとt
は、すで忙述べた洩りである.
 かゝ頂情勢にもかゝはらて帝国俄府としては大局的見
       いんにん
地からよく隠忍し、労澤使節もまたねばり強い態度と持
                       けい▲_●▲’
ちつゞけて寄ら交渉の級Y成立に金力を傾注し五ケ月
・を過した.しかしながら、すでに倉敷も最後的段階と迎
へたので、五月七計に至り苛準フ丁ソ・モーク曾談忙お
いて我が方の最小限度の想向を蘭印倒に漁達し、櫛印側
            ヽ▲′砂い
 のこれに封する態度表明を期待すること忙なつたのであ
 】る●
 しかしながら、その後に至るもなほ飴り希望むもち柑る
 ゃぅな傾向も見えなかつたので、五月十九日、大横外接次官
                    一1フ ち
 は.ハブスト駈日オラyグ公使を招致して帝駒政府の決窓女
 体へ木組政府の肴虚を要望すると同時に、オラソダ政府の
 ひ ●ヽ
 庇棒的立場にある英堵政府に封しても側面的にクレーギイ
                     付人′〃い
 駐日英闘犬使を洩じて松岡外相からその妨啓耕除に協力方
 を倖へた.

   代表引揚げまで
              ♂
 かくて背浄使節は去る五月七日のフγソ・モータ怒涛相
 との倉見で日本側のこの間額に対する決音を倖ヘハ更に十
 四日の倉見で日本の第二同提案を提示し、わが方としては
 ひたすら蘭印例の回答む待つのみの状勢となつたが、それ
                  々ん・lん
にもか1はらず瀬印例の珂答は壌在に遅延を重ね、最早交
渉と拇捜する必雰なしとして代表引揚げ詮さへ常時すでに
 件へられるに室つた.
 それに封し衡印箇局は、同月末に至り次ぎの如く鮮明し
 たのである.
 一樹印側の回答が増祇してゐるのは金〈竣術的な理由による
                     くわいひ
  ので、蘭印箇局が愈商の湛符を故意に回避してゐるのでは
                                    Lrん■りl▲・’
  ない.最後の回答実は、日下騎印紙督の手許において快丑研
   究中である●
 一、蘭印側としても日本との友好を切要するものであつて、8
                    ▲●
  未の顆度が俄かに硬化したことを怯しみ、かつ薄くトので、
  経済交渉の前途ほ必ずしも悲槻すべきものではない・
一、南印としてはあくまでその基本的見頃むちオラソ〆王女
  は再興ぎれねばならぬ、その再興は一に英駒の聯利によつて
              ・dしつ
  耕されるといふ見解を刷軌するものであろ・
一、蘭印は組団の希鶉を其切ることなく、あらゆる手段姦じ
 て英威を竣功せんとするものでネる.従つて樹印側としては
  ぁくまで物資がドイツに流れ込むことを防止すべ〈、この基
    川“っしん
  本方針に杜つてすべての経済・貿易政熊を進めてゆかぎるを
  得ない●
 っいで六月六日、逢延を重ねてゐた簡印例の封日回答

 は、やうやく我が方に手交されたが、倉見後背澤使節は次
  官の如く言明するに室つたのである.
   今日の倉見で自分と石洋紙領事は蘭印の回答に一應日を通
   し、二三の鮎につき蘭印側代表に質悶したが、更に他の鮎につ
   いても南三日中に笈側の設明を求むべき昏を停達したとこ
            1●,し‘1 .
   ろ「先方もこれを諜承した.
   回答の内容については、まだ官明弘来ないが、文面は大せにお
        ●†●−か}
   いて噸ろ強硬かつ決定的で、・今後の曾談の成行はかなり困難を
   無想せねばならないであらう.自分は今後とも自分に輿へられ
                               一丁▲▲は1y
   た使命に最事をつくす.つもりでちるが、その努力がもt水泡に

   ■挿するにおいてほ断乎引揚げのほかはないであら・1.
   かくして、日常交渉の仙蘭印側珂答忙封書我が方の事捗
  的検討は、十日の外抄省幹部甘ならぴに外捗・陸軍・海軍三
    人ん●●く.
  省連絡合流で完了し、整十一日の政府最高首脳部倉講にお
  いて最後的決定を見たのである」

    大局的見地からわが方の轟完迭へ 卜
                       くわくとく
   以上の洩り日・蘭印交渉は、♀に物資獲得周魔のみなら

ず−般流商牌係の増進、邦人の山蘭印入駒ならぴに蘭印にお
                                エ巧 ●
 ける稚糞・企糞投資・海運・舵室・通信連絡等、かなり多岐に
 亘るものであり、これらの内、舵杢連絡の如きは既にふ蘭印と
                 ●イU▲
粛三周との聞に箸施中で、また企糞投資忙しても石油事糞
 の如く英米資本の活細目度しいものさへあり、瀬印側とし
                 く▲甘ん♪へい
 ていづれも第三鱗に封し墟めて五大に許可されてゐる状
 態にある.
                                 一■▲′
 徒つて、わが方からの要望も棲めて合理的なもので、点
 ▲
甘な甘印資源の粥故にh夢加ナることと、これに件ふ邦人¢
                 ● tl
甘印渡叔・社業・粥食物箕の輪蓮のための邦船の甘印不開港
地寄港及び−郡沿岸琉路の粥放、ならびに現地邦人漁業め
                              ●Iく●レん
 発展に脚ナること彗いづれも日・甘印樫済協力紳係低地
     ▲yつ●●く
 の基礎荘立脚しさへナれば容易に解決され縛るのであ
 せ9.
 これ忙封し蘭印政府は、その政柴の基調が血蘭印佳良の池
     小いはl
・歩・紫琴解放檻あるととを強調して計るものの、わが方¢
捷案がそれらと相反せねこaはいふまでもなく、むしろ材
 印としては臼・蘭印経済協力帥係と確立し、】果亜の平和安兄


     ● 一
 に香典することに上つて、一斤その住民の堆歩・紫集・解放
  を促進できるものと首はねばならない.
                       」汀▲▼くb
  それ忙もか1はらず、長敗の経済戦激化と非忙漸印をめ
                         川“■
 ぐる均際情勢は、交渉の凰浦進捗を阻むに室旦、去る六月
 六日の搬印側回答は、甚だ不満足なるのみならず、こきに
 我が方の乗組する必解物資獲得の間穎については晰印例の
           ▲▼▲・】・一、′′
 都合次第でその供給赦鼻息減少出水るものとすることむ
 主張してをり、この間侮については既忙碓氷しばくオラ
 yダ政府及び瀾印常局の約束ならぴに音明があることで
 もあり、今次の瀦印倒珂答の程度の内容ではこの際とくに
 開陳協定とするに足らねものと認め、こ1に帝駒政府は含
 商を打切り代表部を引揚げることに決定し、弊澤使節に封
  して蹄朝命令が教せられたのである.
                                  ノーにん
  但し我が方としては、これによつて蘭印側の態度麦是認
               ■−一フ九い
 し東重共巣国の主張孟後退させるやうな考へは毛頭なく、
 ぉも心ろに蘭印側の反省定期し、真に大局的見地から我が
                   “h▲フ と−
 方の主張完遂をはかる方途に出るべ卓ものである.
  支那事襲第四周年特輯(音=是)





       粛物は前線の兵陳さふだより
    なは七月九日折もな行L空言くケ上けて婁訂〓特¢な舟行し
    l†から#期待下書い


    大月二十五B枕R次

 ☆同氏政府琵持株主席来訪
 ☆行けよ銀山一男の椴牡 − 何遍帝士が坑海頓士になろl
 ☆金光厚生大臣日光鉄山む丸訝閉
 ☆妨一回巾央協力合議開く
 ☆轟教耗政四十七年 ☆塞北の勲蒋狩野研究所
      − 絆物ベーヂ1
 ☆協同で立てよ生括の新稚制
 ☆籍農家の礎を漁く !内問捜理大臣官舎の甘酸含からl
 ☆恍つて育てよ代梢品(常曾のペーヂ)