第二四二号(昭一六・五・二八)
   商工奉仕委員制度の設置       商 工 省
   中原の大殲滅戦           大本営陸軍部
   国民映画と国民演劇
   医薬品と衛生材料の生産配給統制   厚生省衛生局
   強化された外国為替管理 (下)    大蔵省為替局
   正しい歩き方とは          厚 生 省
   イラクの情勢

 

---国際時事解説---

       イラクの情勢

 去る五月二日、遂に反英抗戦を展開した極西アジアのイ
ラクは、その後英国側に増援軍到着するや戦況次第に不利
となつたが、最近ドイツ機ならびに伊空軍先遣部隊のイラ
ク赴援実現と共に再びその活発化が伝へられるに至つた。
 一方、抗戦開始と併行してイラク外交は積極的に展開さ
れ、まづ五日、去る一九三九年九月独英開戦と同時に英イ
同盟条約に基づいて断絶した対独外交関係の復活決定を伝
へ、対ソ外交関係の設定を計り、ついで二十日のベルリン
経由バクダッド情報によると、イラク政府は急遽駐独公使
を任命することになり、またイラク蔵相とサウディ・アラ
ビア国王の会談の進捗、さらにイェーメンに出張中のイ
ラク軍事使節団もイェーメン当局者と会談続行中と伝へら
れる等、同国今後の成行きは極めて注目されるに至つた。

油田をめぐる争奪戦 

 イラク国は、ユーフラテス及びチグリス両河流域の古代
文明発祥の地メソポタミアとして知られ、有史以来東西
両文明の交流地点となつてきたところで、一四五三年以後
はトルコに征服され、その治下にあつて圧制に苦んでゐた
が、前大戦中英国の援助の下にトルコの覊絆を脱して独立
し、国号をイラクと定め、国際聯盟の設立に伴ひ委任統治
国として英国の治下に入り、その間一九二二年中月及び一
九三〇年六月に英国と同盟条約を結び、ついで一九三二年
に国際聯盟の加盟国となり委任統治は廃止され、全く独立
国としての態様を整へるに至つた。
 その広さ台湾の八倍近く、人口概数三百五十六万(一
九三五年調査)、シーア派回教徒が約五割七分、スンニ派
回教徒が三割六分、といふやうにその全住民の九割三分ま
でが回教徒で、その他キリスト教徒が四分、猶太教徒が三
分とされてゐる。
 肥沃な土地に恵まれて農牧を主産業としてゐるが、産業
上イラクを世界的にしてゐるものはその豊富な石油資源
で、一九三九年中の産油量約四百四十二万トン、メキシコ
に次ぎ世界第七位の産油国となつてゐる。
 かゝる豊富な石油資源を有するため、イラクは、第一次
大戦勃発以前、いち早く英国を始め列強資本を誘致し、こ
こに猛烈な油田獲得の角逐場となつたが、とにかくも英
国側の勝利に帰し、英国はその産油量の五割二分五厘を占
めることになつた。そして北部イラクのキルクック油田
から総延長一千二百哩に及ぶ送油管を以て、一線はパレ
スタインのハイファ港に至り、一線はシリアのトリポリ港
に至り、列強に給油しつゝあつたことは余りに著名である。
 更に、石油資源とならんで重視されてゐるのがアラブ
人問題と対英関係で、前述の通りイラクは独立国となつた
ものの英国とは同盟条約を結び、その庇護を受け、且つ石
油資源をめぐる英国の投資は経済的・政治的にイラク国民
を全くその支配下に置いてゐたのである。これに対するイ
ラク国民一般の反英的気運は極めて根強く、すでに一九二
〇年、英国の委任統治反対の独立運動に端を発したアラブ
民族の解放運動は、完全独立後なほイラクを覆ふ英国の経
済・政治的圧力に対して向けられて来た。そして一九三七
年から三八年にかけてマッドファイ内閣の親英政策により
一時は沈静化したが、やがてパレスタインにおけるアラブ人
の反英闘争激化と呼応して、イラクの反英気運はます/\
強まり、今次大戦勃発するや一時英国側の意に従つて対独
外交関係を断絶したものの、その後イタリア参戦について
は遂に対伊外交関係を断絶することなく、今日に及んだ。

英国の工作をめぐつて

 かくて去年の四月以来頑強にイラクの独自性を守り通
さうとしてゐたガイラニ内閣は、近東方面に派遣する英兵
のイラク通過権要求、従来から駐屯してゐた英国陸海空軍
の増強承認要求、イタリアとの外交関係断絶要求などを繞
り、手をかへ品をかへて迫る英国側の圧力の前に一時後退
を余儀なくされ、去る一月末ハシミ内閣の出現となつた。
 しかしながら、ハシミ内閣は成立当初から短命を取沙汰
され、即ち彼等の抱く極端な親英政策がイラクの国民的感
情と背反するものと見られてゐた。ともあれ、英国側はガ
イラニ内閣の更迭に成功すると共に、そのイラク工作を一
層強化するためイラク駐箚大使の刷新を行ひ、かつてイラ
ク内務省顧問として十五年の長期間同国に在住し、イラク
の事情に通じたサー・キナアーン・コーンヲリスを二月中旬
に至り、新任大使とした。
 親英ハシミ内閣の成立、そしてイラク政界に少からぬ聯
関を持つコーンヲリス大使の新任とによつてイラク国民が
当然に予期したことは、イラクの戦争接近といふことであ
つた。しかし近来のイラク人の最大関心事は、辛うじてト
ルコの覊絆を脱してから未だ二十年、漸く独立国として貌
を整へかゝつてゐるイラクとして目下国内建設に専心す
べき時代であり、如何なる代償を払つても今次の大戦に捲
き込まれた
くないと念
願しつゝあ
つた点にあ
る。
 かゝる底
流が遂に四
月三日に爆
発して、ハ
シミ内閣打
倒のクーデ
ターとなつ
た。即ち、
英国側と緊
密に結び、
刻々とイラ
クを参戦へ
と引きずつ
てゆくハシミ内閣を、一刻も早く倒さなければ将来どんな
ことになるかも判らないといふ国民的不安が期せずして
クーデターとなり、それはイラク軍参謀総長のアミン・ザ
キ将軍を中心に行はれたが、事態の収拾にガイラニ前首相
が推されたのであつた。かくしてガイラニ首相の復活によ
つて、英国のイラク工作は全く挫折し、一方バルカン戦線
における全面的敗退に接した英国側は強力手段を以て迅速
に近東防備線を強化すべき必要に迫られ、四月十九日、突
如英軍大兵力のバスラ港上陸となつた。この兵力が単なる
通過だけを目的とするものではなく、イラクの実力抑圧を
も目的としたものであつたことは、当時の情勢から見て一
般に肯定されたところである。
 なほ、これよりさき英国イラク間の関係を規定したもの
は一九三〇年の英イ同盟条約で、「両国の一国が戦争に入
る場合、他の一国は同盟国としてこれを援助する」ことにな
つてをり、また英国の重要交通路保護のため、バスラ近郊
に数ヶ所、ユーフラテス河西岸に一ヶ所を空軍根拠地とし
て英国に使用を許可してゐる。
 英国としては同盟国としての特権から英軍のイラク通過
を要求し、既に一部は実施したが、これに対し、イラクは一
定数以上の英国兵が国内に滞留することを拒み、さきに上
陸した英部隊がイラクを出発した後に次の部隊の上陸を許
可せんと主張し、英イ間に意見の対立を生ずるに至つた。
 且つ、今次大戦の勃発以来、モスール油田地方ならびに
モスールのキルクックとパレスタインのハイファ間の油送
管警備のため、英国は右地域に空軍を大規模に増強し、こ
れが英国のイラクに対する経済的支配と相俟つて、著るしく
イラク国民の不満を強め、加へて英国のバルカン及び北ア
フリカにおける敗退を機に同国の反英傾向に拍車がかけら
れるに至つたものである。

つひに反英戦端開く

 かくて、英兵通過問題をめぐり、英イ関係は次第に険悪
となり、五月一日、ガイラニ・イラク首相は、国民の対英
開戦決意を促す布告を発し、英側もイラクとの緊迫した国
交関係の事実を確認し、翌二日、バクダッド西方六十哩の
ハバニアにある英空軍基地で英イ両軍は遂に衝突し激戦
を展開するに至り、これにより英国は貴重な石油の供給を
絶たれ、且つ欧亞を結ぶ重要空軍基地を脅かされ、今後の
エジプト作戦において後方防備にも脅威を感ずることにな
つたのである。
 一方、エジプト政府は五日、イラク政府に対し、英国と
和平解決を行ふやうに要請し、またトルコ政府も同日、英
イ両国に対し調停方申入れを行つた。これに対し、英当局は
同日右申入れを拒絶せざるを得ない旨を言明したが、イラ
ク当局も英軍がイラク全土より退去せざる限りトルコ政府
の申入れは拒絶するより致し方なしと強硬態度を表明し、
商議解決は見込のないことが明らかとなつた。
 なほ同五日、イラク政府は、一昨年九月独英開戦と同時
に英イ同盟条約に基づき断絶してきた対独外交関係の再開
を決し、ついで八日、シャウカット陸相をトルコに派遣し
て長時間トルコ当局者と重要会談せしめた。
 また、十一日に至り、ソ聯とイラクとの外交関係成立が
次の通りソ聯当局から発表され、英イ激戦中の折柄とて甚
だ注視されたのであつた。
 「一九四〇年末、イラク政府は駐土イラク公使を介して再三
ソ聯政府に対し、イラク政府はソ聯政府と外交関係の設定を欲
し、併せてソ聯政府がイラクを含むアラブ諸国の独立承認乃至
は承認宣言を行ふように申入れて来た。
 これに対しソ聯政府は、熟議の上、未だその機に達せずとイ
ラク政府に回答した。本年五月三日、イラク政府はトルコ駐箚
のソ連大使を通じ再度、ソ聯イラク間の外交関係確立を提議し
て来た。この提案の中には前回の如きアラブ諸国の独立を承認
する条項は含まれてゐなかつた。よつてソ聯政府は、ソ聯イラ
ク間の外交関係設定に関するイラク政府の要求を容れることに
決した。」
 これと前後してイラク政府は、対英紛争の経過に関し次
の要旨を含む政府報告書を発表する手順を進めた。
 「四月一日クーデターの最中、イラク摂政アブドウラ・イラー
殿下はハバニアの英軍兵英に避難した後、英軍用機でバスラへ
逃避した。
 四月十四日、英大使は八万人の英軍隊の通過を要求、毎回八
千人づゝ十回で通過する取極めが成立した。そして同十八日、
最初の部隊がバスラ港に到着したが、英当局はその軍隊を気候
に馴れさせるためと称し、十日間のイラク国内滞留を申出た。
しかるに十日を経るも英軍はイラクより移動する模様なきの
みか、却つて新らしい部隊が続々バスラに上陸した。
 よつてイラク軍は、ハバニア兵営の英軍が新到着の部隊と合
体するのを防ぐために急遽手配したが、それに対し五月二日、英
軍側はイラク軍に挑戦し来たり遂に戦端開始となつたものであ
る。」
 かくて五月十五日に至り、英当局は、ガイラニ・イラク
首相の要請によりドイツ機数台がイラクに飛来した旨を発
表し、一方、英空軍はドイツ機のシリア到着の情報に接す
るや直ちに行動を起し、シリア各飛行場の爆撃を開始した
が、これについてフランス通信社は次のやうに報じたので
あつた。
 「最近多数のドイツ機がシリア上空を通過、イラク方面に飛
び去つたが、その中十六機がシリアの飛行場に不時着した。仏
当局は独仏休戦協定の規定に基づき、これら独機が出来るだけ
早くシリアを離れることを要求した。」

イタリアの救援と戦火の拡大

 なほ、十七日にはイタリア空軍先遣部隊がドイツ空軍と
協同作戦のためイラクに到着した旨、伊軍司令部から発表
され、さしも優勢な英軍の攻撃の前に潰滅に瀕してゐた
かに見えたイラク軍は果然バスラその他各地で英軍に反撃
を加へ始めた。
 かくしてシリアにおける英空軍の爆撃に対しフランス軍
の反撃も開始され、それら地方の戦火は好むと好まざると
に拘はらずます/\拡大の形勢にあり、英国の威信失墜と
ともにアラブ諸国の反英抗争はいよ/\重大化せんとし、
これとともにトルコ及びエジプトの態度も微妙な動きを見
せつゝあることが注目されるのである。

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      訂    正

 週報二三九号所載「出版新体制運動のその後」の中三四頁上段六行目「尚員総
数は二五二一四名」となつてゐる分もありますが、それは「三〇一七名」と訂正
願ひます。