第二二二号(昭一六・一・八)
生活必需品の確保と科学技術 企画院科学部
国際政局回顧と展望(下) 外 務 省
邦人の海外進出状況(下) 拓務省拓南局
新支那中央銀行成立 興 亜 院
来年度の中等学校入学試験はどうなるか 文 部 省
米国の汎米経済工作
陸軍の総合戦果(昭和一五年)
現地寄稿 前線から銃後へ 支那派遣軍 千田(恒)部隊軍曹 中村義雄
昭和一五年下半期総目次
官庁編纂国書だより・文部省推薦国書だより
国際政局回顧と展望(下) 外 務 省
欧州戦局、和平の望み絶ゆ
欧州に於ける戦局は、前年から持ち越されたソ芬戦争
が、三月に入るやソ聯軍は攻勢に出でマンネルハイム線を
突破し、その西南端の主要陣地たるウィーブリを占領し首
都へルシンキの危機迫るや、六日リチ芬首相は極秘裡に
モスクワに赴き平和交渉を開始したのであつた。かくて三
月十二日モスクワに於て平和協定が調印され、こゝにソ芬
戦争は終結したのである。
しかるに、一方独英仏の戦線に於ては未だ戦機熟せず、極
めて静穏なる事態を続けてをり、しかも米国を中心として
頻りに和平説が伝へられてゐたが、果然、二月九日、ルー
ズヴェルト大統領はウェルズ国務次官を大統領の特使とし
て独伊英仏の各交戦国政府を訪問せしめる旨を発表した。
かくてウェルズ特使は、二月二十六日ローマに到着し、ム
ソリーニ首相以下伊政府の首脳部と会談し、三十一日には
ベルリンに赴きヒトラー総統以下と会見し、次いで三月七
日パリに入りダラディエ仏首相以下と会談を重ね、十日ロ
ンドンに渡つたチェンバレン首相以下の英国首脳部と会見
し、和平に対する意向を打診し、三月二十八日帰国したの
であつたが、この各国歴訪の結果は、結局和平成立の見込み
なしとの結論に到達した模様で、ルーズヴェルト大統領は
和平の望みなしと言明し、こゝに米国の和平工作は頓挫を
来したのであつた。
かくの如く、和平工作の頓挫を来すや、英仏は俄然対独封
鎖強化を企図し、中立国に対して強硬政策を開始するに至
り、ために各国の間に種々の紛争を生じたが、特に、イタ
リア船に対しては従来地中海に於ては独貨拿捕令の適用をと
緩和してゐたのを、三月一日以来これを実施し、ドイツよ
り石炭を輸送しつゝあつたイタリア船十三隻を抑留したの
で、英伊関係の緊張を来したが、イタリア側の強硬な交渉
により九日抑留船舶を釈放し、英伊間の問題は解決した。
しかし、この英仏の対独封鎖政策の強行は、逆にドイツを
してノールウェー進撃を敢行せしむる原因となつたので
ある。
蘭白進撃と仏の降服
英国政府は四月五日、スウェーデン及びノールウェーの
両国に対してドイツに対する鉄鉱石の供給に関して警告を
発したのであつたが、八日に至り遂にノールウェー国の
領海内に機雷を敷設し、強力を以てドイツへの鉄鋼輸入
を阻止するに至つた。
こゝに於てドイツ軍は九日未明を以てデンマーク及び
ノールウェーに対して進駐を開始したのであつた。このド
イツ軍の進撃に対してデンマークは即時降服したが、ノー
ルウェーは英仏に対して援助を要請し、英仏は援軍を送つ
てノールウェーを抗戦せしめたのであつたが、ドイツ軍の
電撃的進軍を支へること能はず、四月十六日首都オスロは
ドイツ軍の手に帰し、ノールウェー国王ハーコン七世は国
外に逃避し、一度はナルヴィクその他に上陸した英軍も遂
に撃退せられ、四月末を以てノールウェーは完全にドイツ
に屈したのであつた。
次いで五月に入るや、ドイツはノールウェーを征服した
余勢に乗じ、ベルギー及びオヲンダが英仏の作戦を利しつ
つあることを指摘し、その中立を擁護すべく独軍の進駐を
要求し、即時、ベルギー、オランダ及びリュクサンブール
に向つて進撃を開始した。
こゝに於てリュクサンブールは即時屈服したが、ベル
ギー及びオランダ両国は英仏に向つて援助を要請し、英仏
軍も仏白国境に集中して独軍を迎撃した。
こゝに於て今次大戦以来始めての独英仏軍の激戦が展開
されたが、オランダは十四日に至つて先づ屈服し、ウィル
ヘルミナ女王竝びに政府はロンドンに逃避するに至り、圧
倒的優勢を維持するドイツ軍は忽ちにしてべルギー軍を撃
破し、英仏軍を仏白国境のフランドル平野に包囲し、未曾
有の殲滅戦を演出したのであつた。
かくて五月二十八日、べルギー王レオポルド二世は突如
ドイツに降服する旨を発表するに及んで、ドイツ軍はマジ
ノ線を突破してフラソスに殺到し、六月十四日、ドイツ軍
はパリに無血入城を行ひ、こゝに全く英仏聯合軍は全面的
に崩壊を来し、米国の援助不可能なることが明らかとな
るや、遂にフランスのレイノー内閣は倒れ、代つて出現せ
るペタン内閣は休戦を提議し、二十二日を以て休戦条約
が、前回大戦に於ける聯合軍勝利の記念たるコンピェー
ニュの列車内に於て主客地位を換へて調印されたのであつ
た。
なほこの間に於て、イタリアはパリ陥落に先だつ三日の
六月十日を以てドイツ側に起ち英仏に対して宣戦を布告し
たのであつた。
独の対英外交攻勢熾烈
フランスが単独休戦を行ふや、ドイツはいよ/\正両の
敵、英国に対し決戦を挑むべく、七月末よりロンドン爆撃を
開始し、爾来連日に亙つて英本土に対する全面的爆撃を行
ひつゝ英本土上陸作戦敢行の機会を窺ひつゝあるのである
が、一方、イタリアも、リビア及びエチオピアを根拠として
エジプトを始め英領及び仏領アフリカ各地に対して作戦を
展開したのであつた。
なほ一方に於て、英国も米国の援助を恃んでこのドイツ
の猛攻撃を耐へ忍んで、頑強な防戦を続けると共に、対
独封鎖を強化して必死の抗戦を試みてゐるが、ドイツ側に
於ても、対英逆対鎖の作戦に出で、得意の潜水艦戦を以て
英国の物資輸送に対して総攻撃を開始し、八月十七日を以
て、英領海内立入船舶に対して無差別撃沈を宣言したので
あるが、このドイツ側の逆封鎖は非常な效果を収め、英国
をして船舶足の悲鳴を挙げさせるに至つた。
しかもなほ、ドイツの攻勢は外交に於て非常なる活躍を
示し、二月十二日の対ソ新通商協定の成立以来、能くソ聯
との提携を保持し、八月二十九日ウィーン会議に於て示せ
るが如く、ルーマニアを繞るハンガリー及びブルガリアの
失地回復問題を解決し、遂にルーマニアを完全にその勢力
下に置き、次いで九月には日独伊三国同盟を締結して欧州
新秩序建設に対する基礎を定め、なほも、ハンガリー、
ルーマニア及びスロヴァキアを同盟に参加せしめて、枢軸
外交の勝利を誇つてゐるのである。
なほ、後述するところのイタリアのギリシャ進撃に対し
て英国側の反撃は猛烈を極め、ために伊希戦線竝びにアフ
リカに於ける戦線に於ける情勢に重大なる事態を生じつゝ
ありと伝へられてゐるが、これに対してドイツは既に十分
にバルカンを抑へて事態の変化に対応すべき準備を整へつ
つある模様であり、従つて、バルカン乃至地中海方面の
事態の変化如何によつては、一挙対英決戦を挑み英本土上
陸作戦敢行の作戦に出づるのではないかとの観測が最近有
力化しつゝあり、英国の危機は依然として重大であり、こ
れに伴つて米国の対英援助はいよ/\強化せられ、情勢は
いよ/\深刻を加へつゝある。
バルカン、東地中海の情勢
三月、ソ芬戦争が終局を告ぐるや、ソ聯邦は着々バルチッ
ク工作の歩を進め、六月十四日にはリトアニアに対して
同国の反ソ的態度を理由として赤軍の進駐を要求する最後
通牒を送つてこれを屈服せしめ、次いで十六日エストニア
及びラトヴィアに対して同様な要求を行ひ、何れもこれを
強要して、この三国をその勢力の下に収めたのであつた。
しかもさらに方向をバルカンに転じ、六月二十六日に
は、ベッサラビア国境のツェナルクに於けるルーマニア兵
のソ聯飛行機撃墜事件を理由としてベッサラビア及びプ
コヴィナの割譲をルーマニア政府に要求し、二十七日を
以て赤軍は右両地に対して進駐を開始し、予ねての失地回
復問題を一挙に解決したのであつた。
このソ聯邦のルーマニア進出はバルカンの情勢に多大の
変化を与へたものであつたが、ドイツは巧みにソ伊竝びに
バルカン各国の間を調和してその平和を維持しつゝしか
もその勢力を着々と拡大しつゝあつた。
しかるに、イタリア参戦以来、英国の勢力下にあるギリ
シャとの関係が悪化し、十月二十五日、アルバニアのエッタ
港の爆弾事件を始めとして同国境地方に於て反伊的テロ
事件が頻発するに至り、途にイタリアは十月二十八日を以
てギリシャに対して最後通牒を送り、こゝに伊希戦争の勃
発を見るに至つたのである。
この伊希戦争の勃発により俄然、トルコ及びブルガリア
等の動向が重大視されるに至り、また、ギリシャに対する
英国の援助竝びにイタリア軍が牽制するためのアフリカに
於ける英軍の対伊反撃等によつて、バルカン及び東地中海
に於ける事態は極めて重大化しつゝあり、延いてこれが全
欧州の戦局にも影響を与へるものとして、その推移が重大
視されてゐる。
米大統領の三選と対英援助強化
かくの如き東亜及び欧州の情勢の発展に対して、最も重
大な役割を有するのは米国であるが、ルーズヴェルト政府
は、ドイツの猛攻撃により英国の危機切迫するに伴ひ、ま
すます英国に対する援助を強化しつゝあり、また一方、支
那事変処理の進行、大東亜共栄圏の確立への発足等に対し
ても積極的反日政策を示し、こゝに東亜及び欧州方面に於
ける同時作戦の必要に直面するに至つたのである。こゝに
於ていよ/\軍備拡張に拍車をかけることとなり、途に四
月十五日、ウォルシュ上院海軍委員長は、太平、大西両洋艦
隊建設の必要を示唆したのであつた。
而して、この対英援助及び援蒋政策の強化を確定的なら
しめたものは、実に十一月に行はれたルーズヴェルト大統
領の三選であつた。
かくて十一月五日行はれた選挙人選挙の結果は、ルー
ズヴェルト氏の圧倒的勝利によつてこゝに米国憲政上の
伝統を破つてルーズヴェルト氏の三選が行はれたのであ
つた。
これより先き、英国援助に対しては、既に八月十七日、カ
ナダ国境に於けるルーズヴェルト米大統領とキングカナダ
首相との会見に於て米加共同防衛の諒解が成立し、共同委
員会の設置を見たのであつたが、次いで八月二十日、チャー
チル英首相は下院に於て、米国の駆逐艦貸与を条件とし
て、西半球に於ける英国領土を軍事基地として租借せし
めることに決定した旨を発表して、世界を驚かした。
米国の対英援助は飛行機を始め各種武器の供給等に於て
相当な数量を示してゐるが、さらにドイツの逆封鎖が強化
されるに及んで英国は船舶の欠乏に悩み、十一月末以来、
頻りに米国に対して船舶の供給譲渡を要請してゐたのであ
るが、次いでかくの如き大量な物資の購入に対して在米資
金の涸渇が重大問題となるに至り、英政府にフィリップ大
蔵次官を渡米せしめて米政府とこれ等の重大問題について
協議せしめることとなり、フィリップ次官は十二月四日ワシ
ントンに到着し、直ちにモーゲンソー大蔵長官その他と会
議を行つたが、その結果は各方面から注目された。
しかるに、英国の危機の真相が判明するに従つて米国内
に於ける対英援助熱は昂まり、ルーズヴェルト大統領は、
大統領当選確定の直後、米国生産軍需品の五十パーセント
を英国に供給すべしと言明したが、さらに、十二月十七
日、新対英援助案を発表して、各方面に大衝動を起さし
めた。
なほ、ルーズヴェルト大統領は、東亜及び欧州に於ける
新秩序建設を阻止すると共に、一方、全米州に対して汎米
政策の強化を企図し、七月二十一日より三十日に亙つてハ
ヴァナに、汎米外相会議を招集し、西半球に於ける欧州諸国
に所属する領土の共同管理竝びに汎米経済提携の強化案等
を討議せしめたのであつたが、さらにその後、中南米各国
に対して借款乃至経済的援助を交換条件として軍事基地
の提供乃至軍事的協力を慫慂しつゝありと伝へられてを
り、汎米政策の今後の発展が注目されてゐるのである。
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