第二二一号(昭一六・一・一)
  事変第五年を迎ふ        内閣総理大臣公爵 近衛 文麿
  大政翼賛運動の進路       大政翼賛会
  大政翼賛会事務局各部局の解説
  支那事変の現況
  事変第四年海軍作戦の回顧
  国際政局回顧と展望(上)     外 務 省
  日泰友好和親条約批准交換
  邦人の海外発展状況(上)     拓務省拓南局
  前線から銃後へ         現地軍報道部提供
  お正月の野戦料理        陸軍糧秣本廠


支那事変の現況

    前年の作戦回顧

 光陰矢の如く支那事変第五年を迎へた。顧みれば昨
年に於ける大陸作戦の主なものとしては、南支賓陽方面
敵三十ケ師の殲滅戦、北支山西南部の晋南作戦、蒙疆五
原方面の進撃、中支那に於ける宜昌作戦・浙_(せつかん)線方面の
掃蕩戦、共産軍の掃滅、仏領印度支那への皇軍進駐等が思
ひ出される。勿論このほか現地の将兵は、守備地区の治
安恢復及び維持に日夜連続不断の守備勤務を遂行して、
一方ならぬ陣中の労苦があることを忘れてはならない。
 先づ二月の賓陽殲滅戦から考へて見ると、わが南寧占
領は敵に痛かつただけに、敵の反撃も強かつた。わが
二、三ケ師団の兵力に対して三十ケ師以上も集つて来
た。一時はわが先進部隊は孤立無援全滅したかも知れな
いといつた切迫した戦況も現出したが、結局に於て敵を
包囲してこれを捕へ、わが得意とする運動戦で殲滅する
ことに成功した。 
 次に三月、一望千里、朔北の野にある五原方面にわが
将兵は日章旗を進めた。当時五原にあつたわが同胞の多
数が虐殺された。急報に接した将士の憤激眼前に彷彿と
する。
 次に五、六月の炎熱の候、湖北湖南の野に敢行せられ
た宜昌作戦の效果を考へて見ることとする。蒋介石はそ
の後も依然、軍隊の戦力恢復のために懸命の努力を払
ひ、先づ武漢三鎮奪回のためにこの方面にある第五、第
六戦区に重点を置いて兵備の整備訓練に努めてゐた。宜
昌はその作戦基点であつたのである。如ち宜昌は四川省
への入口であり、一面また重慶から前線への軍需補給路
の出口になつてゐた。敵の抵抗は案外脆かつたのである
が、何しろ漢口平野の炎熱には、参加将兵も相当苦労せ
しめられ、若干の日射病患者も出来たくらゐである。こ
の関門を押へられた敵としては、爾後補給が出来なくな
つた。ために折角集結した軍隊を元の駐屯地へ帰さざる
を得なかつた。
 次には共産軍の討伐である。陝西省を根拠とする共産
軍竝びに江南地区にあつた新四軍は、事変以来わが軍の
ために再三再四討伐せられ、山猿のやうに逃げ廻つてゐ
た。昨年に入つてからでも三、四十回掃蕩が行はれてゐ
る。何しろあの山間僻地に巣窟を設け、攻めれば逃げ、
帰れば又出て来るといふ、まことに始末の悪い奴であ
る。この共産軍が昨年八月北支方面に於て百団攻撃と称
し一斉に我に向つて攻勢に出て来た。ために交通線に若
干の被害があつたが忽ち撃退され、以来わが軍は徹底的
討伐を進めその巣窟を殆んど覆へしてしまつたので、今
後の治安は余程よくなるであらう。この山賊討伐のため
に野に伏し草を枕として月余に亙つて掃匪行を進める将
兵の辛苦は言語に絶する。
 共産軍竝びに共産軍が重慶政権の苦況に乗じて、ます
ます勢力を拡張して来たことは、蒋介石としても頭痛の
種である。殊に第一線各地区に於ては、中央直系軍と共
産系軍隊との摩擦は日にく大きくなつて来てゐること
は事実で、最近重慶は共産軍に対する軍需品の供給停
止、八路軍の河北、察哈爾、新四軍の黄河北岸への移駐
命令を出した模様で、この将来は見物である。将来たと
へ日ソ国交が調整されたとしても、中国共産党の活動が
消滅するものとは考へられない。戦禍に喘ぐ支那民衆が
匪賊と化し、共産党に利用せられゆくことは、日一日と
激しくなるものと考へなければならない。新支那の国内
治安問題として今後も依然わが軍が粛正工作を続行しな
ければならないことにならう。
 昨年秋の皇軍の仏領印度支那への進駐は、対重慶封鎖
作戦としての価値が極めて大きかつた。仏印ルート遮断
によつて援蒋物資の三分の二を押へることが出来た。
外国通信でも、最近は重慶方面の物資がいよ/\窮乏
し、某国大使の如きは「援蒋政策に積極的に乗出さなけ
れば、遠からずして蒋政権は崩壊の已むなかるべし」と
さへ言つてゐると報じてゐる。
 この仏印進駐によつて、一つには南寧方面に於けるわ
が軍の駐留の必要がなくなり、一つには再開したビル
マ・ルートの爆撃を容易ならしめることが出来た。この
仏印進駐は日仏間の交渉成立によつて行はれたもので、
進駐のとき連絡上の錯誤から若干の犠牲を払つたことは
遺憾であつたが、その後仏印側は我に対し概して好意的
態度を示してゐるといへる。
 仏印への皇軍進駐は、勿論英米に対して多大の衝動を
与へたが、わが合法的進駐に対しては如何ともし難い。
仏印にある安南人は初めて皇軍の恩威に接する機会を得
た。今や皇威は南方民族に対しても及ばんとしてゐる。
 以上のほか、飛行隊の奥地爆撃の偉大なる戦果も忘れ
てはならない。
 わが将兵は各守備地域の警備のために日夜努力奮闘し
つゝある。ために治安は漸次良好となり、これを一年前
の状態に比べて見たならば非常な違いであるといへる。
即ち大都市の周辺は殆んど事変前の平和状態に復帰し、
鉄道沿線も亦わが軍の威力の及ぶ区域が著るしく拡大
し、列車通信線に対する被害も漸次減少して来てゐる。
しかし最近上海とか北京とかいふ大都市に於て、帝国軍
人に対する狙撃事件が頻発してゐるが、これは申すまで
もなく重慶側の工作であることは明らかなことである。

    重慶の政治、軍事、経済情況

 今回わが国が独伊と三国条約を締結したことは、支那事
変に於ける援蒋国、即ち英米に対し断乎たる決意を示せる
ものであつて、重慶が驚いたのも無理はない。しかるにそ
の後英米から対蒋援助強化論が放送せられるや稍々元気
を取り戻し、英米を対日戦争に引き入れようと策動を始
め、英米との同盟締結を熱心に欲してゐる。しかし如何に
認識不足の英米と雖も、亡びゆく蒋介石と今さら同盟を
結んでも大した価値はないことは知つてゐるであらう。
 帝国政府の国民政府承認に対しては表面冷静であるが、
その将来の発展性竝びに列国の承認問題に対しては非常
な悩みを持つてゐることは蓋ふべからぎる事実である。
 わが陸、海飛行隊の寧日なき爆撃、援蒋路遮断による
物資の欠乏等は、重慶方面住民の上下を通じて厭戦和平
の気運を醸(うんじやう)してゐる実情であつて、蒋介石はこれに対
し苛酷なる弾圧政策を以て臨み、辛うじて抗戦意識を保
続してゐる。汪牙ハ政権の承認は重慶に更に和平気運を
進め、厳重なる監視の眼をのがれ漢口方面に帰来するも
のも漸次増加してきてゐる。
 武漢会戦後専ら軍隊の戦力恢復訓練に努めてゐた重慶
支那軍当局は、今なほ盛んに整備訓練に努力してゐる模
様である。しかし彼等の予定計画である昨年秋季の大攻
勢も実施し得ず、わが南寧撤退に対する支那軍の行動の
極めて緩慢なる点、わが各地に於ける討伐戦に於ける敵
の抵抗が脆くなつたことなどの実証からみて、支那軍は
今や戦意が著るしく欠乏してゐるといへる。
 重慶側の財政、経済が既に行詰つてしまつてゐること
は今さら喋(てふ)々を要しないことである。伝へられるところ
によれば、米国より一億ドルの借款も得たとのことであ
るが、これが代償たる物資の輸送実施は容易なことでは
ない。悪性インフレによる奥地経済の混乱は英米よりの
借款によるも救済不可能の程度にまで進んでゐる模様で
ある。また南洋華僑に窮状を訴へて義金の募集に努めつ
つあるが、僅かに百四、五十万元を得た程度であつて、
華僑も今日では既に蒋政権の大勢非なるを悟つて来てゐ
る実状である。
 これを要するに、蒋政権の抗戦力は年一年と減耗(げんまう)を来
し、近い将来には必ずやわが軍門に降伏する時が到来す
ることを信じて疑はないのである。

    新国民政府の承認

 昨年三月和平救国の熱情に固められた同志達が汪牙ハ
氏を首班に南京に還都、新国民政府を樹立して以来八ケ
月、重慶側竝びに援蒋諸国のあらゆる攪乱工作を排除し
つゝ政府の基礎確立に努力してゐた甲斐あつて、昨年十一
月三十日、わが国が率先国民政府を承認することとなつ
た。嘗て南京占領後帝国政府が宣明した「蒋政権を相手
とせず、我と提携するに足る新興支那政権を樹立して、
これと共に新秩序建設に向つて努力せんとす」との方針は
終始一貫今日誠実に実現せられた訳である。重慶の謀略
工作もデマ宣伝も、公明正大なわが事変処理に対しては何
等の效を奏さなかつた。蒋介石としては今では恐るべき
敵は日本よりも、寧ろ眼前の汪牙ハそのものとなつた。
 かくて支那事変は、今日の段階に於ては、抗戦建国に
立脚する蒋介石、これを支援する英、米及び共産党、こ
れに対し和平建国を主唱する新国民政府、これを支援す
る皇國日本及び盟邦といふやうな世界的規模のものとな
つて来たのである。蒋介石や中国共産党のいふやうな、
日、支の民族戦争といふやうな考へ方では解釈し得ない
性質のものである。如ち世世界新秩序建設の一翼をなす
ものであることがはつきりして来た。
 国民政府成立以来その行政管下は日一日と明朗化して
来た。新武備として軍隊の建設、幹部養成に努力し既に
数万の兵力を擁するに至つてゐる。また新年早々開設せ
られる資本金一億元の新中央発券銀行は旧法幣との通貨
戦のため今後の活躍が期待されてゐる。世には往々新国
民政府の実力貧弱なることを憂へるものがあるが、これ
には相当の時日も必要であることは勿論、わが全国民の
新政府に対する支持力如何によるものであることを反省
する必要がある。

     結び

 支那事変は武力的には支那大陸大自然との戦ひであ
り、経済的にはポンド、ドルとの戦ひであり、文化的に
は東亜の革新思想戦である。二千六百年歴史は永しとは
いへ未だ曾つてなき大業である。既に十万の人柱と百数
十億の國帑とを払つた。この大業達成に[ママ]ためには前途な
ほ遼遠で真に長期戦の覚悟を要する。皇國としては支那
事変の目的達成のため今後更に蒋抗日政権圧迫の態勢を
強化すると共に援蒋第三国に対しても有效なる対策を講
ずるを要する。国内新体制の実現も、南方経済圏の獲得
も皆この事変解決に向つて集中せられねばならない。こ
こに事変第五年の新年を迎ふるにあたつて決意を新たに
し更に活躍することを期する次第である。