畏し戦時下の御精励 宮内省
天皇陛下に於かせられては、玉体(ぎよくたい)益々御健勝(けんしよう)に亙らせられ、時局下に於ける御政務、御軍務に宵衣_食(せういかんしよく)の御精励は誠に畏き極みであります。殊に今次の戦局が長期に亙り、加ふるに、欧洲の戦乱が拡大するに及んで、軍事、外交は申すに及ばず、之に伴ひ萬機愈々輻輳繁劇(ふくそうはんげき)を加へさせらまして、早暁深更(さうげうしんかう)の御厭(いと)ひもなく御親裁(しんさい)あらせられますことは、洵(まこと)に恐懼感激(きようくかんげき)に堪へない次第であります。
かゝる中にも、祭祀に対しましては特に鄭重を極めさせられ、毎月一日、十一日、二十一日の旬祭(しゆんさい)には、畏くも御潔斎の上御直衣(おなほし)に御更衣(かうい)遊ばされ、親しく賢所(かしこどころ)・皇霊殿(くわうれいでん)・神殿に御拝あらせられ、国家国民のため康寧(かうねい)を御祈念(きねん)あらせられ、其の他の日に於ては、侍従をして御代拝せしめられ、曾(かつ)て一日と雖(いへど)も、この三殿の祭祀を欠かし給ふことはあらせられないのであります。
又出征軍人に対しては、特に大御心を注がせ給ひ、苦熱と戦ひ、風土と闘ひつゝ干戈(かんくわ)を交ふる陸兵に対し、また怒濤と戦ひ、熱暑と闘ひつゝ海の護(まもり)を完うする海兵に対し、屡々侍従武官を御差遣あらせられ、将兵の鼓舞激励に努めさせられ、時に清酒、御莨(たばこ)等を下賜あらせられて、其の労を犒はせ給うて居ります。
彼の戦場に馳駆して敵弾に傷(きづつ)き、或ひは不幸にして病を獲(え)たる傷痍車人に対しては、痛(いた)く軫念(しんねん)あらせられ、側近に御下問のことも屡々でありますが、先般は特に東京療養所竝びに失明傷痍軍人寮へ牧野侍従を、愛知療養所へ徳川侍従を、福岡療養所竝び職業補導所へ岡部侍徒を、夫々御差遣あらせられて御慰問せしめ給うたのであります。
銃後に於ける軍人遺族、家族についても御仁愛を垂れさせられ、雨につけ、風につけ、戦病死者の遺族を偲び、出征軍人の家族を思ひやらせ給ふのでありますが、わけてもこれ等英霊に対しましては、畏れ多くも天皇陛下より陸海軍を通じて特に祭粢料を下賜せられて居ります。尚ほこれらの戦病死者は、神として靖国神社に合祀仰出され、四月二十五日には特に御除喪の上、同神社に行幸、護国の英霊に対して親しく御拝あらせられました事は、国民の感銘今尚ほ新たなるところであります。
生きて功を樹て、凱歌を揚げて帰還するは男子の本懐之に過ぐるものはないのでありますが、武運拙(つたな)くして無言の凱旋をなす英霊に対しては、一入御同情を垂れさせ給ひ、宮中奥深きところに、御府顕忠府を御拡張の上、一兵に至るまで、其の写真を永く御手許に留めらるるの思召を以て、先般宮内省をして各々関係官庁に手続を了せしめられました。聖恩枯骨に及ぶ辱けなさ切々として身に泌みるのであります。
陛下には竹田宮昌子内親王殿下の薨去の為め、御叔母に当らせ給ふ御続柄をもつて、九十日間の御服喪に在らせられましたが、去る六月六日御喪明け後、間もなく関西行幸を仰出されたのであります。此の行幸は申すまでもなく、紀元二千六百年を迎へ、伊勢の神宮を始め奉り、肇國の聖地たる大和の地、神武天皇山陵竝びに橿原神宮、京都なる仁孝天皇山陵、孝明天皇・英照皇太后山陵、明治天皇・昭憲皇太后山陵に親しく御参拝、更に還幸の翌日、多摩に鎮まります大正天皇山陵に御参拝の上、皇祖皇宗の御神霊に対し恭しく此の佳年(よきとし)を御親告、以て時艱克服と共に国運の彌栄を御軫念あらせられたのであります。尚ほ御駐輦(ちゆうれん)に於ては、努めて諸事御簡素を旨とし給ひましたが、地方に於ける実情を御聴取遊ばされる思召から特に
京都・奈良・三重の三府県知事を召されて民情を具(つぶ)さに奏上せしめられたのであります。
多摩陵の御参拝を済まさせ給ひし翌日、即ち六月十五日には淳和天皇の千百年式年祭を行はせられ、超えて十七日には陸軍大学校の卒業式に行幸、還幸の御途次大本営陸軍部へ御立寄仰出され、更に十九日には御運動の御序(ついで)を以て近衛師団へ御立寄、親しく諸兵を臠(みそな)はせられ、翌二十日には宮内省主催の紀元二千六百年奉祝武道大会に行幸仰出されたのであります。
天覧武道は弓道・剣道・柔道に亙つて、日本固有の武道精神の発揚に深く大御心を留めさせられ、長時間天覧の光栄を仰ぎましたことは、啻(たゞ)に武道御奨励の思召に止まらずして、実に時局下に於ける日本精神の昂揚に一層の深き思召しの存することと拝察し奉る次第であります。
更に六月二十六日には盟邦満洲国皇帝には長途御来訪の上、我が紀元二千六百年を慶祝し給ふに当り 天皇陛下には此の日、宮城より東京駅に行幸、親しく御出迎遊ばされ、同日再び宮城を御出門、赤坂離宮に行幸、御答訪あらせられ、引続き御滞京中は御会見、御会食、御告別等、洵に恐れ多き御繁多の幾日かを御過し遊ばされたのであります。
時局下益々御多端に亙らせらるゝ折柄、時恰も光輝ある紀元二千六百年を迎へ愈々御行事滋(しげ)く、行幸のことのみにても六月中、実に十日間に渡り十六ケ所に及んで居るのであります。玉体の御健(すこ)やかなるは申上るまでもないことでありますが、一にこれ御精励の大御心に依ることと、尊しとも尊く、畏しとも長き極みであります。
尚ほ茲に、申すも畏き次第でありますが、陛下には戦線にある将兵の生活を思召され、本年正月元日に当つて、朝昼夕の御三度共特に野戦料理を御命じになり、之を御召上り遊ばされたことは、既に国民の恐懼(きようく)申上て居るところでありますが、陛下には夙(つと)に食糧問題についても御意に介せられ、遠く東宮御時代より半搗米(はんつきまい)に大麦を混じて御使用になつて居られましたが、最近に至つて之に外米を混じて御料に充(あ)てさせ給ふて居るのであります。朝(あした)に戦場の勇士を偲び、夕(ゆうべ)に銃後の国民を思ひ、一貫以て民と休戚(きふせき)を共にし給ふ大御心の御発露と拝察し奉るのであります。
今や東亜新秩序の建設の聖業は第四年に入り、上下の忍苦と国民精神の作興(さくこう)とを必要とする時に当り、思ひを神武天皇の創業に馳せ、皇国の宏遠にして雄大なるを念ふの時、国のため、民のため、内外多事の戦時下に於て、此の御精励を拝しますことは、真に一億臣民の只管(ひたすら)恐懼に堪へないところで、感激のいやが上にも昂まるのを禁じ得ないのであります。
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