第一九二号(昭一五・六・一九)
  欧州戦争の展望
  ドイツ軍に対する観察       陸軍省情報部
  欧州戦争に於ける海上作戦     海軍省海軍軍事普及部
  伊参戦とパリ開場         外務省情報部
  襄西作戦の経過          陸軍省情報部
  現地に軍律施行
  神武天皇聖蹟の調査        文 部 省
  実例に見る貯蓄報国        国民貯蓄奨勅局
  東京下関間新幹線の増設      鉄道省幹線調査課
  友好和親条約と日泰関係      外務省情報部
  ノモンハン国境確定の申合せ成立

 

友好和親像約と日泰絢係
                     外 務 省 情 報 朝
  六月十l一日レT前十時外秒大臣官邸において、有田外彷大
      tい               ■ウlいい・,小−わしん
 持と鹿京黎明公使ビヤ・か1セナ氏との間に、日泰友好和親
     ていけり
 慄約が綿棒雀れた.本條約は日審問の侍溌的友好帥係むま
                          こ,止¶ん
 すます強固忙し、東亜の安党及び平和忙青験する目的を以.
                           パン 】′
 て締結されたものであつて、本交渉は主として轟盤谷村井
 公使がとれ.忙普.つた.
     ふ かしん        、,●い
  最初不可俊條約緒縛の希望も表明されたが、日泰従来の
       小ん小
 額姦係忙鑑み、叉不可侵偉約は最近の前例によつてみ
  ても、今Bの日泰関係忙必ずしも通常でない鮎があるので、
 前鞄の如き友好和親條約を碕符することとなつたもので
                                 け▲
  あつて、.・竜の一円容は不可侵催約よりも一歩進んだ相互協
  ’一‘−                             ▲ひ
  カに東新をおいたものである.帥ち、本條約は迫つて批

 什レ■一}し▲−
 准音交換の日を以て致カを教生することとなつてをり、
             小ヽ
 現在は倫ほその條文を掲げる時期でないが、その内容の罫
 鮎は、
    ▲てい●Jl亡く
  l、締約閲相互の領土食寛政びに平和及び友好帥係の確
   認
 ニ、南開非池の利審問題灯関する情報交換及び協執
 三、締約固の一方が第三図より改革せらる1場合におけけ
   る韓粛三園不援助残務
 む約したものであつて、有数期間は五年である.
  これにょり、日参雨晴は今律氷るべき世界の新情勢に山野
       いl小,   ばんい}▼く
 しても、その友好醐係を弊石の堅きにおき、相共に寵蒐故
            uんlい ■ヽ}けん
 ぴに世界の安定及び紫粂に軍赦し得るものと侍ぜられる.

 そ.もく日露係は、紀元→五二六年(西魅入六大年)高
膚親王が印度妊
            ■’
赴かれる簸中級
 ●−つ
越(鶉在の泰拘の
           ●ヽl
一部を含む)に煮
     い托し、
ぜられた盲に
 ‡小の灯
 遡ることがで
   てんし●▲’
き、天正から
 h打い一▼●,
慶長にかけて
邦人は洩商貿易
のため、多く泰
固に渡米し、日
▲本町む形成して
    ●●−ガ オーが●●▲,
ゐた.山田長政
がアユチヤの日
本町に王づたの
も、この度長年
山間のことであ


            こ●・▲、い          ●ん▲り
る.長政はソaタム主の紀衛兵の隊長となり、瀕徒む銀盤
               lんくもく
して大功々奏し、つぴに畏持参章する重妥地位将士で登
          山ん・と         たさ
つたのであつたが、軒徒のため寄鞍されて契れ、その後是
  ‡こく丸い.し            ● と一つ
には銀図令が布かれたため、日黍閑係も一時牡鹿したが、
徳川時代にもオランダ般、支那般と共に、或る程度の漁帝
は許されてゐたものの如く、明治に入つて日露係は再び
 みつ一り               →一←l
密凍となつた.卸ち、明治三十年芸理公使として相宜
      ◆粧ん.
満次郎氏が赴償商学進め、明治三十−年二月日漣(シ†▲
は泰囲の前名)池商舵浄傭的が調印され、明治一こん十二年東京
           一つ一▼
にシ†ム囲公使館が設置された.
     ひ 山      パンマ′
 その後彼我の閑係は、盤谷叔路の開紋ハ大正七年∀新洩商
條約の紡績(大正十三年十二月二十二日聾交換)、少年囲の
五訪、黍国王族の御氷朝、洩商交易の教展等でいよく密
凍となつた.
 拳固は、その後国道の教展と共に完全平等條約の締結に
                一でんと・’
努力しつ1あつたが、帝国は侍戟的友好帥係に鑑み、列固
に先んじてこれに感じ、昭和十二年千尋の立場において、
日泰通商舵海倣約む締結した.

 

  その後、日審問の.舵婁聯絡の必要を認め、交渉を進めた′
 掛凝、.昭和十四年十一月二十七日には、盤谷において村井
  公使とルアソ・ヒプンdソンクラム泰外相との間に、日泰定
  期舵察協定が終結でれた.そして本傭約に基づき日奉定期
  舵察の典健化が進められ、俳領潮度支那常局がその上姦通
  過を許可せぬため、沸印の海上経由にルートを改め、本年六
  月十日から東事−婁北1麟東−盤谷の定期舵峯が開始づれ
         ●,り小一
  九.第一番増給風溌は同日東京を出教、六千飴粁竪l古口間
    一1」Vいし●I
 .に憶翔してロ泰友好和親條約調印日たる同月十二日、泰
  珂骨府北谷に到着した.
    .rい
  泰靖収印度支那や鳥の中央に位し、東に沸儲印度支那あ
                       つr▲
  りへ′西にビルマ、印度穆町、南は属釆、海峡植民地に連
             llし一一丁
 寸」西南アジアの委衝に常る.総面積五〓ニ、四七千方粁
  (一九ヘニ申七平方哩)、わが珂而積の七割五分ぜ昔り、人
  口は一四、周六四、四八九人ハ一九三七年五月熊勢調査)であ
  を.北は山嶽胡簡の.ハーヤグプ州、・東は・コーラートの大平
                 点灯
 荘となる.大横瀾度支那牛島の谷に位し、卦候灯黙帝に属
         ペい1・く
  し、姦米作の渉を知り、また住民の入割五分は併教徒で
 あるなど、甘木と紫泡する鮎も種々ある.従来英件の東洋
                    く■秒んし▲●lこく
 」犀略政策の間にあつて、.むしろ勢力壊衝固として、濁立
                   ■_●
 の地位を保つてきたが、最近頓に同属主義勃興し、新興ア
            九
 ジ7民族として起つに室つた.




                     タ
憫鮎・…帥
  昭和七年六月二十四日、ビヤ・.ハホン大佐の卒ゐる人民
    ,つけん
 丼が北恵卑命を起し、泰固は君主耳制から立憲君主珂とな
 つた.革命常初人民耗は臨時憲法を捉出し、】同年六月二十
 七日公布されたが、.これは民主義をとり入れ、王稚を壇
        ′ヽ.わJい●
 度に制限した過激なものであつ∴たため、改めて」同年十二月
                     わ・,■ん
 十日現行憲法が公布された.これは王稚む強化すると井
 に、人泉北の政綱む原則として譲合中松義を凍用してゐ
 る.十二月十日は現金憲添記念日となつてゐる.
 奉軒は、もとa†ムと呼ばれてゐたが、シ†ムは外呼人
 し上手こ             ●
 の秒呼であつて通常でないとあつて、昭和十四年六月二
 十四日の革命記念日を期して、団塊む「自由」を意味するク
 イ(泰)と改めた.
 革命以来、先づ囲防の充‡に努め、海軍適役につき我が
   はん
 斡を範とするところがあつた.
       ‘つ■●
 泰固は現凄飾磨を用ひてゐる.併盾は太陽膚の四月丁日
 に始まり、翌年三月に終る.彿席二四∧ニ年は、昨年四月
 に初生り本年三月に払つてゐる.目下虻俳膚二四人三年に
曹るわけであキ沸層と野暦の帥係は、沸磨から五四三年
 を引いた年(西暦)の四月から、次の西席の年の三月にかけ
 て俳膚−年があるわけである.
                       バー’   ql
 泰固の貨幣単位は鉄(.ハーヱで一むつて、首鉄は大健邦
 く▲ウ
 貸官五十五凧忙止首る.
 春宵と日本との通商帥係は、日本は泰囲の猿人貿易にお
 いて永年首位を占めてゐたが、伽庭二四人l年(昭和十三年

 四月よわ昭和十凸年三月に至る)紅玉里「.日本は粛二位に落ち、
 かγガポーかが・虜−−位を占めることと.なつた.草二位は
                     ′−▲丁ン
 琴昇四位は香鞄、次いで彼博(海映植民地)ドイツ、印度、
 米地「蘭卑支那の噸となつてゐる.日本は彿膚二拐∧0
                     バー’
 年には、職人額ニニ「〇九七、000鉄で、橡入組額の一九・
 七六%と占めてゐたが、ニ四八】年には棒入瀦一九、〓−
 七、0・00鉄で、前年粧此し三宮萌鉄減、首分比は−四・七
 六に落ちた.事塘箭の昭和十】年度に比すれば‡忙九千苫
 鉄の.蔑やある・泰固貿易や、yyガボトル、青海及び砂
 ナヤ                     ●■
 甫が、このやうに多額を占めてゐるのは、モの大部分が仲
 ウr・             けん†ん●.
 稚貿易であ・つて、.なかんづく箕郷と原産地とするものが多
 い.・これ町次ぐものは英、米、日である..
  貴蟄妻以後「可本からの故人が右のやうに減少したの
              ′▼い●い
 は、轟泰甲の割.弼が日貨低唱帥ち日、菅顎イヨ,−をや
 つたこと、及け日本側で京宰軍帝資材の膏舵制とやつた
 ためであつて、甘木商品町代つては支那、ドイツ、印度、
 琴米の商品の泰固市場への進出が目立つた.なかんづく
               〆−’
 東郷は稔入組頻約千六首耳鉄で、前年度に此し約六育苗鉄
 を坤加したが、これは大概香海溝由の上海製品でありて、
   ♯い一● 】■▲、い●ナ
 日貨排斥と法簡安に乗じて進出したものであつた.本邦晶
 は綿織物、絹織物、域械顆及びセルロイド製品に若干の増
 加を見た外は各品目とも激少した.
  女に泰飼の玲出貿易は、故人と同棲にシソガポール、香
      ′−LTシ
 穐及び彼南等の英領諸弛に封する放出が仝輸出額ハニハ割む
 占めてゐる.これまた仲繊貿易のためである.米、チーク
                         ●一■1
 等はシソガポール、香港渾由、またゴム、錫等は弛苛経由
                         ひ小く
 で鞄出される..ところが米、チーク、ゴム及び皮革の日本
 向橡出が減少したため、二四入−年においては、封日穐出
 穎ニ、三入七、000鉄、穐出組頻に対する首介卒は一こ
                        ′−ナ▲y
 七となり、yソガポールの三〇雀、彼甫の二四%に此し、
 はるかに少い.かくの如く、対日稔出が減少したのは、拳、
 木材、ゴムその他原料品の放出減に基づくものである.そ
 の後日本から泰均米の買付等も多く行はれ、.また帝政碓の
 衰朗忙従つて華僑の耕日も少くな少、日泰貿易は菜故事
 増進を期待点れて町る.新友好和親傭約によつて、日泰励
 の文化的、潅済的協力ベレよく増進されるであらう.