第一九〇号(昭一五・六・五)
時局と節米 農 林 省
綿製品の切符制度 商 工 省
貯蓄債券と報国債券 預金郡資金課
海鷲、支那奥地を制圧 海軍省海軍軍事普及部
ベルギーの連合軍、独軍に包囲さる 陸軍省情報部
欧州戦争と支那事変
英国の戦時体制強化 外務省情報部
学校給食の実際 文 部 省
特別寄稿 二千六百年史抄(一六) 内閣情報部参与 菊池 寛
勤旦患士と漫長同恩
明滑維新に魂那した勅董の奉士の中でも、その忠誠や志操が」何等報いちれヂして、・息
ち官せいし曹lノ▲廿く
で鮮れた人が、何と多いことで参らう0青田掛陰、久坂朝琴田中河内町兵木和泉、梅田彰、
撃麺二轡有馬新七、松太教野河上掛呼青田稔噂藤田小四轡武田伊賀、入江空、坂
み†
本寵馬、中岡悌太郎、モの他無政で参る。モれら玖人々は、塵き延びてゐ汁衣らば、々の人物に
こ’しんモんしよ′ヽ
於て、々の功菜に於て、伯辞や侯侍を授けられた錐新の功臣達と、何の遜色もなかったで参ら
はんろんモむとしゆくうけんムん‡しんくわん
ぅ。殊に、これ等の人の中でも、藩論に背いて行動した人や、凝手蛮拳で霊した人や、紳官一
しょしほんモ’しせい
ヰ虜士などで大事のため托亦走心た人壌臥、.何の政略味ヰをい純忠至誠の人々で、その悲壮な
舌いごてんちゆ’
最期に卦しイ、最大の敬意を衷せざるを得ないのであ乞五十布飴歳の郁鮮で、いはゆる天泳
t、lかlノ〈
乱に参加し、戦敗れて刺死した圃畢者倒村彪判などの日記を見ると、その秋々たる忠祓が、瀕
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んど報いられてゐなhやうな気が⊥て、気の睾に堪へないので参る。
一てせ‡
しかし、これらの人々乙そ、鼻に明治練新の大鸞の礎石となつた人々で、明治、大正、昭和と
三代の郭に那是云る我宗、決し三草しはならない人々だらうと思ふ0).
くちたうはくふ,げこ
かういふ人達に此べれば、食鼻討幕の大義名分が、仝酔を風廓した後、各藩の方針も定空り、
▲スいたつ
それに依つて行動した人達をどは、仕事も築で頂り、】身の粂遽も息ひのま・だつたのだから「
功臣で参ると同時に成功者で参つたわけだ。
いろともなほrけ
明治錐新の初期を彩った、各地の討幕反幕の行動を拳げをと、井伊直弼の甘を拳げた櫻田事
件、断部安藤驚を害し違けた雫門事件、晋島の同志討で誉が、京都に、虜埠起
っし土入1げ●月さlほうき
を企て托伏見判酢尉鴇件、中川忠光賃和拳拳、渾嘉、平野鮎cの生野垂拳、.そして元治元
さはょしのjいくのけん甘
рもん・はlぐウごもん
年の禁門戦寧(姶御門の襲)などが参る。
きたい
これら渦アソチ幕府雑動の結共、果して彼等の期待したやうに幕府の勢カは地を梯つたで参ら
ちノか。
ほてうせいゐ†ゐせい
成程、虚史の歩みは寸時もその歩調をかへデ、その根本ほ於ては幕腑の牽成は日々に衰勢を見
しんち∧丁)
ゼてゐるが、表南に現はれたこれちの串件の結果は、必デしも勤鼻淫動の伸張を意味するもの
ではをかつた。
ろ・−つ
元治元年の禁門戦拳の頼兵は、いよく乙の反動的な時勢の動きを、露骨に示してゐる0凡そ
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▲‡I▲川▲ツ一】▲【Lr一1一11一▲【▲−一一
無分別な長州勢の焚裡に封する敬砲は、今空で動盈運動の紙本山と旦茶ふべき長州藩に郵して、
てうてきちくいんくぎやl書んてうていし
ハヅキyと朝敵の烙印を押しっけた。勤盈側の公卿の参朝停止、これは有名な七脚落ちとなつ
▲苛んhhん
て」惨憺たる急進派の敗北で参る。・
しよしだいくhな
京都の市申は、今や勤皇の志士は仝く郎朗して、朗司代の役人や、禽津桑名の藩士、さては新
くhつば
邁組の浪士陀ちが、屑で風をきつて、閥歩してゐる。
.首こ争んし∧
更に、幕府は胡廷に諦うて、長州征伐の師を起し、藩主毛利父子を糀惧さゼ、その封土から十
けづ
苫石を創らうとしてゐる。
ヱれらのことを大観すると、明らかに幕肘勢カの筏活といふことが云へると息ふ0奪皇弼卦
ふくくわり
こうメュぅ
の代りに、今や公武合餞といふスX−ガソが尤もらしく振り翌はされ、幕肘は朝廷を擁して、天
せき亡つたいせいはんくhい
下の渚侯に普日の成を以て臨空首ノとしてゐる。明らかに、照勢挽出である。
おげたr’せい
これは一恨どうし池のであらう。これでは今空で彩しく流された勤盈志士の犠牲の血は、金
セだ
く無駄ではなからうか。
各洋の志士の中の溺のよい者は、かう云って反省して、今芝でのやり方の失敗に漸次気がつく
者が出イき陀。盲言てん言フ首∧
櫻田串件、専田尾串件、大勅、生野義拳、姶御門の攣、水戸天狗満の碓乱Tlかう泣べて考
へてみると、それらの討幕チ中の企てには、共温した誤りが参つた。
ほ一フき†うらん
つ芝り、彼等は有志として蜂起し、擾乳を企てただけで、その背後に、少くともその成功を確
侶さゼるだけの箕カを持たなかつたことで参る。自分たち同志だけで、先づ事を起ゼば、天下は
トh・’は′ヽ
自然ほ動いて、討幕が出凍ると、簡畢に考へてゐたことで参る。やゼてもかれても、幕府はそん
lろほ▲モわい
なに俄」崩壊しはしない。
た〜はくCつけん●
この誤りを再びくり返さヂ、討幕の大理想を賓現るす方法は、たつた一つしかないので参る。
それは、もつと貸力為る者が一致して、幕僻に骨るこ卓で参る。バラくではダメなので参る。
ゆ,亡んだいど’
っまり志を同じくすj碓藩が、与までの瑞々の行きがかりを水に流して、この際大同節結し、
と}わいさつは人ち中lずん
同盟を綽ぷことで為る。もつと簡畢に云ふならば、礪藩と長藩の同兇で参る。
き’て†せい入い
なるほど、今や儀長は仇敵の間柄と云つてもよい。長州兵の稗銃は、姶御門の戦ひで、種摩軍
‡つかんくhい†く
の銃火にかゝつて、渾山死んでゐる。薩軒曾戯と云ふのは、骨時の志士の都静で参つて、薩摩
‡けくちや−ほんにんl・く・
は禽津と同じく、佐幕の張本人と目され、その許列のわるいこと甚だしい。
′ヽhけ†
確藩はしかし、果して佐幕で参らうか0断じて杏だ。たゾ長州や勤盈急準論者のやうに1過激
か〜フく・Iゆづ
でなかつただけだ。その秋々たる勤鼻梢紳に於ては、一歩も誘るものではなかつたので参る」目
的は同じで参るが、その手段に於て、兵つてゐただけなので参る。それから封建の世だけに、藩
たいりつしっしたいC
と瀞との間の封立嫉祀も参る。彼等は】藩を以て一囲とし、互ひに封崎してゐたので参る。
しんこくにく
しかし、大鰻のコースとして、薩摩と長州とは、それ稗深刻に怜み各はなければなら瓜理由は
ゆ,ちんモつ号んせ人かくしや
ないのだ。西図の雄銀として、共に率先して勤皇の大義を唱へた雨藩の先費者の間に、それはど
てせがいしん
深刻な敵憬心が参るとは思へない。話ゼば分るので参る。
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ナだけ・小
こ′ゝ四五年の間の不率な行きがゝりを鎗ててしまへば、雨藩の妥協は可能だし、蹴批針軋凍
る0
瀬ゾ、碓摩でも長州でも、かう気づいてゐたが、章任参る嘗伺者は、自介で先に言ひ出すわけ
には■ゆかないのだ0
はしhたいとぐち
この時、雨藩の間に椅汝しをして、.その掛携の糸口を閑いてやつた外が、土佐勤壷の鰯琴
しんトh■ヽl
板本驚と中粥懐太郎で参つ托。
ばくhんかつち・_ごろ}
慶噂葦五せハ日、馬鵬へ長洋の宜朗鍾小五郎(木声朝舶)を引つばり出し、耗摩藩の代表、
西」郷隆盛に・曾はした0
は■●
そして、領長が宜ひに批の珠り合ひをして、なかく木戸、西郷の曾見がまとまらないと、彼・
とな.
はか1フ云つて怒鳴つた。
「何がわが渉の曹、賦呼祁料ポ0もうい・如那にしないか。参んた等は、里だ封麹制度の
−,れい甘おゐはいち
幽霧を背負つてゐるか0此の大き夜日本を何故忘れてゐるか0同じ日本の土地の上に1位樺知
rやう−
行を立て合ひ、わが藩、わが主人と、富別を立てて何になる0西郷も牲も1これ我馬鹿とは息
ってゐなかつたよ。」
号†。さ?ヽ1しゆとI。いていけつ
さう言って、西郷に直艶列をして、との薩長秘密攻守同盟を締結さぜたので参る。慶應二年一
せ手一日のことである。
lん†ん・
tかも此の秘密同盟は、七十七萬石と三十六茜石の大藩が、漫然と】緒になつたのではない。
この南藩を代表するに足る、西郷と木戸が、腹心を披涯し参つて、討幕の即郷を飢併ずることを
ハVLれ▲す
決めたのだ。
ういr●−
その他に、土佐藩、越前藩」宇和島等の各藩甘、これを磯に一っに固まらうとしてゐ頂。
あくしゆゐしん
坂本龍馬を仲介とする、西郷音之助、撞小五郎雨人の晴れやかな捏手は、正に維新天業の出額
hうせいしんてんばくしや
勅といつてよい。盈政復古沌動の凝展は、ヱゝに一僚と拍郎をかけら机陀ので参る・。
明袷碑軒と周硬観金
せう汁りんた●●ユy
廃聴三年十二月九日、明治天皇小御所に出御、常卿渚僕を召見し給ひて、皇政復台のことを敵
・−く
館し給是。こゝ打於て、明治維新のことは、一まづ形の上では成ったので参j。
だいがうhいょしのj
この復台の大淡令に先立つこと二ケ月、徳川塵寄は土佐の山内容党の建白により、十月十四日
せい“りんほ・つ′ヽh人
に、政柿奉還の衷を奉ってゐる。
托けくいいい
藩長の攻勢はいよ〈汲しく、この空、では幕肘の克解は免れ粘き情勢となつた。この時塵嘗
d−・}▲rサIい′り∧ん
格軍は土佐派の公武合髄、公流政拍論を採って、大政奉還と先手に出たので参る。これでは如何
いへと
ほ幕肘打倒といきり立つてゐる碗長と維も丈句がつけられないのである心
トhつ′ヽ▲巾ん
しかし、磯長派の西郷、大久保、木戸たちは、たゾに大政奉遭だけでは、ダメだと撞観した。
●でモんしんふ■
二宵甘飴年の嘗習に汚払した人心を振起する咋めにも、幕肘にはどうしても武カを以て一撃を加
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へ、天下の人心を一新しなければ」新時代は凍ないと見てとつ托のだ。
と.つ1ノけん
板垣退助などは「馬上でとつた椎川の天下だから、馬上でなければ奪れ瓜」と痛言してゐ化我で
参る。
て,せんてきか−と,9●
そして彼等は、さ芝∧・・・・・・の桃戦的行動をとつて、幕府側を怒らゼようとした。江戸薩摩邸の焼
lちおとろきんしん
打なとそれだ。こゝに於て、衷へ托りと輝も、幕粁は依然として幕府だ。大阪に遇いて抜悌し
よしのjけきか−ほく仕つ
てゐる廃事をめぐつて」幕臣の激昂は渦を萱き、伏見鳥羽の一戦となつて爆教、こ・に一ケ年飴
一ほしんモんさ・’
に五る戊辰戦率の幕は切って落されたわけで参る。
▲▼けん
この薩長主戦浜のやりガは、十分に理由は参つたけれと、しかし考へてみれば、ヂゐ分危険を
けんだ’
樺遭だつたと沌云へよちノ。
はち▲丁さし
若し慶書が本骨に此を据ゑて、佐幕浜の各藩士を集めて、反薩長の旗峨を璃げて起っ陀ならば
どキノで参つたであらちノか。
●ヽ′
骨時ク一a¥スは、ナポレオ≦直の命を承けた公使−セスが、積極的に幕噺竣助に轟り出して
ぐんじごl・ん‘けん
ゐるので参る。金も六官瀾弛貸さう。耳事顧門も汲辻すると言つたハサ切り方である。
あき
だか壷骨が、突如として大政奉遭の畢に出ると、公使−セス収すりかり呆れ、aた驚いてし
血iつ托。
臭ちかんたん
「三官年も天下太牢を蘭し托徳川家が、戴知も交へヂして、こんなに簡埠に政樺をなげ出すと
耳I■クパかつ
は、不息議千笛で参る。欧凝巴には、こんなバカくしい政埠は嘗てをい。しと、痛韓漁青に語つた
といふβ
声∧じ▲きよすつけつ寺払ヤねぶ
が、慶沓は、フラソスの授助を舶絶したし、血気に逸る胱本の肺士を慰憮し、参く芝でも絶封
ほんきヽ−
無抵杭主義をとつて、盛臆川年(切治元年)凹月十∵日には、本墟江戸城をも官軍に引渡叱、郷
し。ぞたいいん
固水声に琴いて〕粥那魂の二軍に迎櫻してゐるので参る0
な。あきh●)せいふくこ
慶沓は烈公番昭の子で、水戸畢の梢紳で、幼時から脊て上げられてきた人だ。盈政復台は盈
くhんせんしもと
固本水の姦で、これは雁ぬの必然だと軌じてゐたのだ。篠長の寄窓は、固より好むところではな
かつたが、わが盈喜が申心となつて、これからの日本は低界に爽り出してゆかねばなら瓜と信じ
きんhう
てゐたことは、決して勤皇の材志と速ふものではなかつた。咋ゾ格軍といふ立場が、今まで歴史
rやくか・,にな
を逆行さゼる役日を桁はゼてゐたので参る。水声に退いて、はじめて、賓は、一日本人とし
じせい
ての由分と、そしてその立場を得て、辞かに時勢を眺め得るに室つたといへよう。
かんくわいかか●)
攻められる塵事に此の戚懐が参つたとずれば、攻める薩長側にも、椀那さるべき佳行が参つ
た。
ひみつ
フラソヌが幕貯にカを貸したのと伺じやり方で、英図の篠長授助は公然の秘密で参つた。英拘
きくわいだた●フ
公使パトクスは、磯禽参る薇に、碗摩に説いて、幕府及びその背後に参るフラyスを打倒すべ
くすゝめ、その為めにはどんな按助でもずるからと、もちかけてゐる。
−ツ?うし・)
これに封して、薩長の領袖、汚郷音之助は何と答へてゐるか。
せいたい
「戦寧のことはとに角、日本の政憫埠準のことは、われく日本人だけで考へるべき間頓で参
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●ヽ▲一−■】r
る。外固の挽跡を受けるは南日ない。しとキヅバブと断ってゐるので参る0
。やl曾よくたん
塵音といひ、丙郷といひ、わが固健といふ鮎にいたつて、その粥極瑞の立鎗にも拘は皐ノ、
こくせい
期ぜヂして一敦したわけである。外圃をある繋首で利用しょうと考へたで参らうが、その開政
かんせ・が
干渉は一歩托りとも許さなかつたし、滋プけもしをかつた。そこに雑新史を流れる、日本人狗禅
いいせいいし▲せんけいたう
のカ強い信念の流れを見るので為る。以東制夷なく朗漁、日本人には出衆をい拳常なので参ら
ちノ0
け†ハん,づとくい1かわ
ぁ札ほどに激瀦渦を捲いた、.錐新の政治史に於て、われくは此の日本歴史ほ特有な莫艶佳話
を耗さうとするならば、他にもいくつも畢げられるだらう。
触郎易の勒票d葺竺鰯耶離といふ時、大阪城ほ卒る賓のもとへ、岩倉卿から一使者
っかけん−ん†ようく
が速はされね。孝明天盈御】年忌に際し、慶喜に封して献金のことを申出でたので参る0恐憎
した蜜骨は、那ポ軒朽猛じて、菅宝常を豊纂っ云るので誉0想へ、窟号
ゃ薗長の慧によつで充満し、髪→痢といきり立つてゐる時で誉。大阪城は、汀声から上つ
レレゆlフlん
た竹中睦軍奉行れ大軍によつて守られ、京都に封して、一勒に及ばんと、陣察を整へてゐる最中
γりん▲‘▲フ
で参る。これらの物々しい峯気の中に参つて、大阪城と凍都御朗を紡んで、一弼郁抑の来の相
つもな
迎つてゐるのを見る、われく日本人は如何に事顧であらうか。
て,て●をわいしよだん
伏見鳥羽の一勒に朝敵の汚名を肴た、徳川慶寄に封する彪斯は、骨時靴粥批祁で、初めの中は
しけいろん垂ツた,て●ちゆ1〜くけい
死刺論が庸例的に多かつ陀。薩長の渚肺は慶事を恰むこと甚だし(ぜひこれを殊戦して1刑
「▲‥
典を正さぬばなら瓜と主張ずる者が多かつたので参る。
きねとみう,く∧し▲ち
この時に於て、明治天皇は三條賓英を召されて、徳川家の沓勅を矢はざるやうに慮置せょ、
しんか人
との有難や虐翰を爛うてゐる。.
†いお人わいぢゐし人
これらの聖思が、托ゾに徳川氏をしてその家祀を仝うゼしめたばかりでなく明治錐新の大菜
じや・)じ一ゆ
をして容易に成就ゼしめ陀所以なので参る。
はし人しよだんへいしふ
戊辰奥羽諸藩の虜断に於ても、詔して今日の乳は九官年本の弊習の結果で参ると、大いに藩主
じ▲とくわ
等の罪を恕し、今後親しく数位を固内に布き、徳威を海外に坪かさんことを欲する旨を、督げた
lすヽ一lノ′ヽ
慧よ1ノた。恐憎の限りで参る。
・−うだいむへんちんてい
この洪大無遽の蟄恩が参つたればこそ、錐新の戦乳も容易に銀定されたので参る。慶喜、西郷
おほふごころ
などの立汲な固贈軌などもさることながら「一たび、明治天盈の御跳大なる大御心に息ひ及
ぶ時、明治維新史の花を軌る心持がずるので参る。
(この「ニ千大首年史抄」に隈り無斯持朝孟妹ず)